久々に練習も仕事もなく、ヴィクトルはマッカチンを連れてピーテルを散策していた。
大通りを歩くと無駄に注目を集めるため、何気ない小道や裏路地を探検するのが乙だ。
こんな些細な日常にも昔は心踊らせていたっけな、と懐かしむ。これが年を取るということだろうか。
シーズンに入れば世界中を飛び回り、オフシーズンにはアイスショーや撮影。息つく暇もなく一年が過ぎて、また過ぎて、とうとうフィギュアスケーター最年長になってしまった。
そろそろ転身を考えるべき時期だ。だが、踏ん切りがつかない。不完全燃焼なのだ。このままプロに転向したとして、果たして喜びを得られるだろうか。与えられるだろうか。
(本当に年をとったなあ)
スケート以外のことなど考えてもみなかった。二十年以上もラブとライフを放置して、スケート靴を脱いだ後の人生が見えて来ない。
いつかはこの時が来ると分かりきっていたはずなのに。
―――――と。
ヴィクトルの耳にピアノの音が届いた。曲はキャラバンの到着。軽快で高音、ジャズにしても独特のリズム。
思わず振り返った先にあったのは、隠れ家のような外装の暗いジャズバー。ネオンの看板に天使の止まり木、とある。
(ピアノってこんな音が出るんだ……)
ヴィクトルが知らないタイプの、特殊なピアノかとすら疑った。
だが、そんなはずもなく。
クセの強い奏者だ。的確に人間の胸の「いいところ」を突いてくる。欲しいと思ったところに音がくる。
ぶる、と寒気に似た震えが走った。
音楽を聞いて体が歓喜したのも久々だ。思わず窓に寄り、中を見る。
店内は薄暗く、よく見えないが雰囲気はよさそうだ。奥のピアノの前にいるのが奏者だろうと分かるが、ちょうど影になっている。
マッカチンがいるので酒を出す店に長々といるわけにはいかないが………
「ちょっと待っててね」
少しだけ、ほんのすこしだけ。
あのピアニストの手元が見たい。
ヴィクトルが店に入ると、バーテンが少し目を上げたが、構わずにいてくれた。ヴィクトルと気付かなかったのか、気付いてそっとしてくれたのか。
「カツキ! 踊りたいから景気いいの頼むよ」
酔った客がフロアに出て、ピアニストが了解とばかりにカデンツァを流す。
えらく多彩な音色でスピード感のあるマック・ザ・ナイフが流れ始めた。ヴィクトルはまたも度肝を抜かれる。
鮮やかで強い演奏もだが、ピアノに隠れて見えないだろうに、踊る客のステップに合わせてハメている。もともとのシンプルな曲をこれだけアレンジして、指が回る回る。
本来なら酒を注文すべきだろうが、ヴィクトルは吸い寄せられるようにピアノの傍に寄った。
激しく鍵盤を叩きつけているのは若い東洋人。オールバックにしてジャズスーツに身を包んでいるが、やけに幼く見える。
それより気になったのは、彼が目を瞑って演奏していることだった。
曲が終えてひと息ついた彼は、やはり目を閉じたまま此方に首を向ける。ただし、本当にただ横を向いただけで、顔を見上げる素振りすらなかった。
「えっと、リクエストですか?」
演奏と違い、気弱そうな声。ヴィクトルは返答せず、鍵盤をひとつぽんと鳴らす。
やっぱり普通のピアノだ。なぜあんな音が出る?
「お客さん。冷やかしは困るよ」
ようやくバーテンから注意され、ヴィクトルは苦笑した。
「今日はたまたま通りがかって、犬連れなんだ。また改めてくるよ。これで彼に何かサービスしてほしい」
紙幣をピアノの上に置き、立ち去ろうとするが、ピアニストが「えっあっ」と慌てたような声を上げる。
「その声……もしかしてヴィクトル・ニキフォロフ!?」
彼が叫ぶと店内から苦笑が漏れる。せっかく言わないでおいたのに……とでも言いたげだ。
それで、ああ、と理解する。
(見えないのか……)
目が不自由な身の上で、あれだけ演奏出来ることも驚愕だが、初対面のヴィクトルを声で判別するのにも驚きだ。
「君はいつこの店にいるの?」
「えっと、いつも……います?」
「他の奏者がいる時も、大体カツキはここにいる」
他の客が教えてくれた。そう、とヴィクトルは微笑んだ。
「また来るよ」
そう言って次にこの店のことを思い出したのは、更に一年後になる。
***
忘れた、というよりは多忙だった。
自宅やスポーツクラブから少し遠いここに立ち寄るだけの時間がなく、また息つく暇もない一年で、あのジャズバーでの出会いが昨日のことのように思えた。
久方ぶりに現れたヴィクトルに「アンタ酷い奴だな」とカウンター席の客に詰られた。
「カツキはずっとアンタを待ってたよ。この一年、可哀想で見てられなかった。店に入るたびヴィクトルじゃない…ってガッカリされるこっちの身にもなってみろ」
「カツキ……ってあのピアニストの少年」
「ああ見えても二十四だぜ」
驚いた。ここに来ると驚きの連続だ。いくら東洋人が若く見えると言っても、あれは幼い。
ともあれカウンターに腰かけると、バーテンとは別の従業員らしき人物が奥へ引っ込んだ。
おすすめのを、と頼んだところで誰かが慌ただしく出てきた。バーテンが眉を顰め、ひょいと腕を伸ばしてそれを受け止める。
「カツキ。杖はどうした」
「えぇえと、あの、だってヴィクトル来たって」
「すぐそこの席にいるよ」
「えええええ」
ぱか、と少年……改めカツキ青年は目を開いた。チョコレート色したきらきら輝く大きな瞳。目が見えると余計に幼く感じる。
見えていないと分かっていても、彼に手をあげて笑顔を向けた。
「はあい。ヴィクトル・ニキフォロフです」
「ふぁあああ」
耳まで真っ赤に染めてのけぞろうとするもので、バーテンがまた嘆息しながら彼を支えている。
「まあ、このとおりアンタのファンで、そそっかしい所のある奴でして」
「ボックス! ボックス席来てください! 演奏するから……!」
「カツキ、落ち着け」
宥められても聞いていない。えと、えと、とカウンターを出ようとして手をわたわたさせている。奥から出てきた従業員が苦笑まじりに彼の肩を抱いて、ピアノまで誘導してやった。
ボックス席にと言われたのでヴィクトルも出された酒を持ってついてゆく。
「ああああの、リクエスト…ありますか?」
「君の好きな曲が聞きたいな」
「…………!」
暗い店内でもわかるほど、ボンッと真っ赤に膨れてしまった。あんなにガチゴチで演奏できるんだろうかと見守っていたところ、案の定でだしが調律しそこねたピアノのように酷い。
ブラインドタッチで弾いているため、指の位置を間違うと惨事になるようだ。
「~~~~~~!!」
顔を覆い、暫くピアノの前で悶えてから。
すぅ、ふぅ、と何度か大きく息をつく。
柔らかなタッチからゆったりした音が流れ出し、メロディが乗ってヴィクトルは目を瞬く。
離れずにそばにいて――――今シーズンのヴィクトルのプロだ。
この曲をピアノでやるのか。できるものなのか。
緩やかで叙情的な音律が店内を満たす。
美しい。掛け値なしに美しい。原曲とはテンポもリズムも微妙に違うアレンジ。だというのに、アリアが聞こえてくる。
酒を口に運ぶのも忘れ、ヴィクトルは呆けたように吐息を漏らす。
演奏を終えてピアノから手を離し、余韻に浸ってから……彼は両手で顔を覆ってしまった。例によって耳まで真っ赤だ。
「カツキ。今日は他の奏者がくるから引っ込め」
「え、もう!?」
「他に仕事がないなら、こっちにおいでよ」
誘ってみると、カツキはうさぎのように飛び上がって椅子から転げ落ちた。もう笑うしかない。
歩み寄って彼の手をとり、優しくエスコートして席へ導いた。他の客が口笛を吹き、カツキは不思議そうに首を傾げている。
彼は知らないのだ。男がレディをエスコートする姿など。
彼にも飲み物を、と注文し、改めて盲目のピアニストに向き直る。
「カツキ……だっけ?」
「ユウリです。ユウリ・カツキ」
「珍しいね。東洋人がロシアでピアニストをやってるなんて」
「あ、えと、親の仕事の関係で子供の頃にロシアにきたんですけど、みんな死んじゃって」
悪いことを聞いてしまったかな、と酒を煽る。だが、ユウリの顔に暗さはない。
「物心付く前からオモチャのピアノいじって育ったので……雇ってくれそうなお店さがして頑張りました」
「十五の東洋人の子供が演奏を聞いてくれと頼み込んでくるから、何事かと思ったさ」
気難しそうなバーテンだが、思い出話をする彼の口調は柔らかい。あえて口に出さなかったが、十五の、それも目の見えない子供が、必死に食い扶持を探す姿は痛ましいものだったろう。
「オモチャのピアノって……レッスンは受けたことないの?」
「あ、六歳の時にキーボードは買って貰ったんですけど。イヤホンつけられるやつ。でもまともな勉強はしたことないんです」
「こいつ、ここの他にもリサイタルとかで呼ばれるんだぜ。一度なんかは有名なマエストロに惚れ込まれてオーケストラとやらないかって誘われたんだが……」
「楽譜の読み方も専門用語も知らないのに、オーケストラなんて無理だよ!」
そのマエストロも、それだけユウリのピアノに惚れ込んだのだろう。それほどの魅力はある。
「……すこし失礼な質問になるかもしれないけど。どうして俺のファンなの? というか、ファン……でいいんだよね」
「あ、はい! 小さい頃にアイスショーにつれていって貰って、そのときから………」
「えぇと、その。スケート、わかるの、かな。うまく言えないけど」
「はい! 氷を切る音が優雅で………」
「カツキは足音やスケート靴の音を聞けば頭の中で立体が浮かぶらしい」
それは凄い特技だ。それでピアノに隠れていても、踊る客にあわせて演奏できたのか。いや、そもそもステップにあわせて音をつくるスキルも信じがたいほどだ。
「テレビだと氷を切る音が聞こえないんで……生で見ないと分からないんですけど。それでもずっと憧れてて」
「ヴィクトルが滑った曲は全部演奏できるんだよな」
「バラさないで!!」
ソファに倒れて蹲ってしまった。あんまり勢いよく動くものだから、見ているこっちがハラハラする。テーブルに頭を打ったらどうするつもりだ。
「ユウリ」
向かいの席のソファに突っ伏してしまったピアニストの名を甘くささやき、覗き込む。
「今まで色んなファンに好きだ、応援してるって言われてきたけど―――こんなに感激したのは初めてだ。ありがとう」
音や気配で物を立体的に捉えられるとしても、彼は色を知らない。ヴィクトルとは生きている世界が違う。それでもヴィクトルのスケートが彼には「わかる」と言う。
彼の中にだけある世界は、きっと美しい。その世界の住人になれたことが心から嬉しかった。
「君の演奏をもっと聞きたいんだ。でも、俺は滅多にこの店には来れなくてね。どうしたらいい? もちろん店には仲介料を払うし、君にも演奏料を払うよ」
「え? えと……どうしたら、って………」
「じゃあ、アンタが望む時にカツキを貸し出してやるよ」
バーテンから鶴の一声。ええ、とユウリは起き上がろうとして、テーブルに頭を打ち付けた。本当にそそっかしい子だ。
「その代わり、送迎はちゃんとやれよ。そんなんでもウチの看板だからな」
「そんなんでもって………」
ユウリは落ち込んでいるが、バーテンの言葉を意訳するなら「怪我させたら承知しねえぞ」というところだろう。
ヴィクトルはユウリのレンタル料などの話を詰め、浮かれ気分で帰宅した。
***
ユウリを呼び出せたのは、幸いにも次の週だった。
事情を話してハイヤーに足を頼み、チムピオーンスポーツクラブの前で待っていたヴィクトルは、現れたユウリの姿に意表を突かれた。
「あ、あの。私服で……って言われたので。ちゃんとスーツ持ってきてるんですけど」
前髪を下ろし、やぼったいコートにマフラー。
幼く見えるとはいえ、艶っぽい黒のジャズスーツで演奏する姿はなかなか凛と麗しかった。人はこんなに化けるものかと感心するほどだ。
だが、これはこれで愛嬌があっていい。
「今日はそのほうがいいんだ。おいで」
腕をとって彼の歩幅に合わせながら、ゆっくりとスポーツクラブに入る。
ユウリは冷やりとした空気と、スケーターたちが削る氷の音に「え、え?」と驚いていた。
「あの、演奏……」
「残念ながらピアノは持ち込めなかったんだけどねー」
ユウリの手を導いてリンクサイドに設置したシンセサイザーにそっと触れさせる。
「三年前のプロ、ピアノ協奏曲だったけどソロでいける?」
そもそも連弾でなければ不可能な曲だが、彼はヴィクトルの滑った曲を全て弾けると聞いた。ユウリならできる、という確信もある。
「できます、けど……」
また縮こまってしまった。
「も、もしかして僕の演奏で滑ってくれるんですか?」
「うん」
「…………………!!」
「ユウリ。危ないからここで悶絶するのはやめようね」
顔を覆ってへたりこんでしまったユウリ。いわゆる女の子座りだ。放っておくとそのまま転げ回りそうだったので、腕をとって立ち上がらせる。
「ヴィクトル。そいつ誰だ?」
休憩で上がったらしいユーリがキーボードの前に立つ東洋人を睨みつけている。が、睨んだところで意味がない。ユウリには見えていないのだから。
「この子はユウリ・カツキ。ユーリとは同じ名前で、ピアニストだよ」
「あ? ピアニストって……」
目を閉じた状態の東洋人をじろじろ見、ユーリはそれ以上を語らなかった。ユーリは口の悪い子だが、根は優しい子だ。
そして何を思ったか知れないが、ユウリはキーボードに向き直って指をキーに軽く滑らせた。
ジャン、と激しい和音の後、凄まじい指捌きでアレグロ・アパッショナートを演奏し始めた。ユーリがの口が顎が外れたように開く。
「ユーリの曲も弾けるんだねえ」
「一回聞いたら大体覚えます。原曲とは違うものになるし、同じ演奏は二度と出来ないんですけど……」
半端なところで演奏をやめ、ユウリは苦笑する。
ヴィクトルは銀盤に降り立ち、中央まで緩やかな軌跡を描いて「いいよ」と合図する。
すぅはぁ、と何度も深呼吸を繰り返すユウリを、ユーリがじろじろと見ている。気になって仕方がないらしい。
やがてユウリは珍しく目を開いた。きっと鋭く鍵盤を睨み、腕を伸ばして黒盤を端からスライドさせ、ハープのようなグリッサンドから入った。
音階を上げながらディレイをかけ、音で尾を引かせるように深みを持たせながら演奏を始める。
えらくキラキラしい曲にアレンジされたものだ。だが、これは気持ちいい。音にハメるのではなく、音が追ってくる。まるでこちらの呼吸まで捉えるかのような演奏だった。
ところが、ここからが佳境、と漕ぎ出したところで、音が止んでしまう。
ヴィクトルだけでなく、いつの間にか見入っていた周囲も突然とまった音楽に拍子抜けし、ユーリが「おい!」と叫んでいる。
「むり……しあわせすぎて………もぅむり…………」
気づくとユウリは鼻水垂らしてぼろぼろ泣いていた。慌てて滑り寄ると、どうもかなり冷えているようで、指先も赤い。
「ユーリ、ティッシュ!」
「ねえよ」
「じゃあタオル!」
「俺のタオルでコイツの鼻水拭く気か!」
兄弟弟子がコントしている間に、本人がポケットからティッシュを出して顔を拭っていた。
泣かれるのは苦手だ。名を呼びながら肩を抱くと、また大きな瞳から大粒の涙が大量に溢れる。
「こんなの僕のほうがお金払わなきゃいけないじゃないですか……」
「君の演奏を聞きたくて無理に呼び出したのは俺だから。思ったとおり素晴らしかったよ」
まともな教育を受けていないとは思えない、高度なテクニックまで習得していた。子供の頃からピアノばかり弾いて育ったといっても、あの独特のセンスは一流のピアニストにひけをとらない。
ピアノは最もポピュラーで最も残酷な楽器だ。巧拙に関わらず、奏者のセンス次第で全く別の楽器に変貌する。どれほど技巧に優れていても、ピアノの音しか引き出せない奏者は人の心を打たない。
「次シーズンの曲の演奏をユウリにお願いしたいんだ。それと、エキシの生演奏も……無理かな?」
ユウリとはイマジネーションが死にかけて迷走していた頃に出会えた。窓越しに聞いたキャラバンの到着で横殴りにされ、アリアの演奏を聞いた瞬間、彼のピアノに惚れ込んだ。
しかし、この調子だと無理そう……だな! 無理だな! ぼろ泣きのユウリをハグして懸命にあやす。
同時に愛しくも思う。こんなファンがいるヴィクトルは幸せ者だ。
「や、やりたい…です。やります!」
乱暴に目をこすりながら、それでもユウリはしっかり強い目でヴィクトルを見返す。見えていないはずの瞳に、ヴィクトルの顔がしっかり映り込んでいた。
***
作曲家に原曲を受け取ってから、スタジオを借りて幾度か勇利に弾いてもらったところ、本当に勇利は同じ曲を二度弾けないらしい。
時々は遊び心が起きるのか、がらっと雰囲気を変えてアレンジしてしまう。
そのすべてを録音して、どれをプロに使うべきか吟味した。
ところが、どの録音で滑っても、あまりに独特なクセある演奏のため、うまくリズムを合わせることができない。
一番いいのはヴィクトルが滑っている音を聞いて貰いながら演奏してもらい、録音することだが……それではノイズが混じってしまう。
やはり無理な注文だったろうか。諦めかけもしたが、それを彼にどう伝えていいか分からない。あれほど「弾きたい」と熱望し、ヴィクトルも彼の演奏で滑りたいと強く願っている。
しかし、現実は厳しい。
何度も繰り返される録音の最中、ふうっと勇利が顔を上げた。
「ヴィクトル。誰もいない静かな環境で滑ることはできる?」
「ん? そうだね、夜に貸し切れば可能だよ」
「なら、イヤホンで原曲を聞きながら滑って、氷を切る音を録音してください」
なるほど妙案だ。音から立体が動く様を脳内に浮かべることのできる勇利なら、ダンスのステップ音に演奏を合わせることのできる勇利なら、闇雲に原曲をアレンジするよりそのほうがいい。
数日後に誰もいないアイスリンクでプロの滑走音を録音したヴィクトルは、改めて勇利を呼び出し、収録したMP3とイヤホンを勇利の手に握らせる。
勇利は音楽に聞き惚れるように少し俯いて集中していた。何度も繰り返し再生し、時には同じ箇所ばかりリピートする。
こんなに長くかかるとは思わなかった。いっそ勇利をいったん帰らせるべきかと悩んだほどだ。勇利は三時間もたっぷり聞いた後でほー……と長いため息をつく。
「いつもノイズや歓声や拍手が交じるから……こんなに間近でヴィクトルのスケートを聞いたのは初めて」
まるで僕のためだけのアイスショーみたい、と頬を染めて語る勇利の姿がヴィクトルも嬉しく、時間を見つけて過去のプロの「特等席」も用意しようと心に決める。
暫く余韻に浸っていた勇利は、ぱちっと瞼を開いてMP3の再生ボタンを押した。
「行きます」
指を弾ませて力強く軽妙なトリルの導入。原曲とまるで違う……というか、
(ディキシーランドジャズ……!?)
古きよきアメリカを彷彿とさせるクラシックジャズアレンジ。いまにもジュークボックスから流れてきそうな曲調だ。
だが、アンサンブルやビッグバンドが主流だったディキシーランドジャズとは違い、ピアノソロで賑やかで華やかに、かつ丁寧に積み上げてゆく。どこか怪しげで愉快で……
まるで童心に帰って悪戯を企む大人の悪ふざけを思わせる。
そして、恐らくそれは――――今のヴィクトルが一番やりたいと思っていることだ。
この曲のテーマは「リボーン」。
今までの己を殺し、新しく生まれ、初心に還る。
原曲はそれを厳格かつ荘厳に演出しているが、勇利はそれを面白おかしく、古めかしいジャズで見事に表現しきった。
新しく生まれるという演目を、わざわざ古い手法で。
これも一種のリバイバルと呼べるだろうか。斬新で新鮮だった。
この子は音楽理論など知らない。存在すら知らないかもしれない。
だが、物語の起承転結を紡ぐようにメロディを組む。天性のバランス感覚と呼ぶべきか……
弾き終わり、音の尾が空間に霧散する。
ふいーと息をついた勇利が額の汗を拭って一息ついてから、はっとしたようにわたわたし始める。
「あ、ごめ、ごめんなさい! なんか貴方のスケートを聞いていたら、こういうふうにしたくなって、それで、あの」
ヴィクトルが黙っているので怒られると思ったのだろうか。
勇利の言い訳の声がどんどんしぼんでゆく。
ヴィクトルは録音室の扉を開け、思い切り勇利に抱きついた。
「ひ、うひゃ」
「いいんだ。これでいいんだよ!!」
少し硬い丈夫な髪に頬ずりし、ヴィクトルは喜びを声とハグとで勇利に伝えた。
どうして俺の心の奥底の声が聞こえたの?
君にだけ聞こえる特別な音があるの?
ゆうり。ゆうり。
この感情をどう表現していいか、分からないくらいだ。
[newpage]
完成した曲を流してご機嫌のヴィクトルを、ユーリがちらちら見ている。ヤコフに怒鳴られながら。
休憩時間になってから、狙ったようにそそっと寄ってきた。
「さっきの、あいつのか」
「あいつって?」
分かっていながら満面の笑顔で首を傾げた。ユーリが口をひんまげる。
「だ、だだ、だから……あいつ、その、ヘンテコなピアノ弾くやつ!」
あの一件でよっぽど気に入ったらしい。ヴィクトルとユーリは琴線が近いのかもしれない。
「実は今日、彼の店に行くつもりなんだけど」
「!」
「でも、ユーリは未成年だしなー。ヤコフとリリアに聞いておいで」
言うと、ユーリは何も返事せずぴゅっと小魚のように氷上を滑っていってしまう。
早めに切り上げることと、酒を飲まないこと、ヴィクトルがきちんと監督することを条件にユーリの外出が許可された。
タクシーの後部座席で運ばれる間、ユーリはずっと落ち着かなかった。ジャズバーに行くのも初めてなら、あの時の彼に会いに行くのが嬉し恥ずかしい年頃なのだろう。微笑ましさの塊のような子だ。
乱暴にジャズバーの扉を開き、来てやったぞとばかりふんぞり返る。
バーテンも常連客も、突然現れた未成年―――それもヴィクトルに次ぐロシアのスケーターが現れたもので、背後のヴィクトルに「何をつれてきてんだ」という目を向ける。
勇利は演奏中だった。本日のナンバーはイングリッシュマン・イン・ニューヨークのジャズアレンジ。ジャンルとしてはポップに入るが、ジャズとの相性は抜群だった。勇利のドラマチックな演奏によく栄える。
慣れない内装の店に落ち着かないユーリをボックス席に座らせ、酒とミルクを注文した。
その声で分かったのだろう。急にピアノが不協和音を喚かせた。
「え、あ、もしかしてヴィクトル来てます!?」
「来てる。が、仕事をしろ。干すぞ」
「すみませ……あれ、どこまで弾いたっけ」
「マヌケ」
ユーリがニヤニヤしながら呟いた。
ユーリが来ていることも、今ので分かったのだろう。勇利は先程の曲を諦めて、アガペーを弾きはじめた。不意打ちを食らったユーリの耳が赤く染まる。
一曲終わらせてから、勇利はもじもじしながらヴィクトルが「いるであろう方向」を気にしている。バーテンがため息つき、店内に録音された過去の演奏が流れ始めた。
お許し頂けたようなので、ヴィクトルは以前と同じように勇利を優しくエスコートし、ボックス席に連れてきた。わざわざユーリの隣に座らせ、自分は向かいに腰かける。
「えぇと、プリセツキー…さん。来てくれたんですか」
「べつに。深い意味はねーよ」
「深い意味でこの店に来る人なんかいませんよ」
笑う勇利に、ユーリのほうは不機嫌そうだ。今この店の中で一番「深い意味で」来店しているのは彼だ。ヴィクトルとてただ勇利の顔が見たかったのと、演奏を聞いて軽く呑みたいという気楽な理由できた。
「もう少ししたら、ちょっと有名なサックス奏者の方がきますよ」
「どうでもいいし。ジャズとか興味ねえし」
「ジャズ嫌い?」
「ききききらいではねーし! 眠たいのは嫌いだけど」
ユーリのことだ。ジャズなんて退屈なジジイの音楽、とでも考えていたのだろう。彼の演奏を知るまでは。
「あの、ヴィクトル。完成した曲どうでしたか?」
「最高だったよ。その報告に来たんだ。もうあのプロはあの曲しか考えられない」
「はー……よかった」
ふにゃん、と輪郭が溶けるほど緩みきる勇利。ああ、可愛い。可愛いったらない。
「僕の演奏が全世界に流れるなんて信じられないなあ。テレビで流れるんだよね?」
「当たり前だろ。ヴィクトルのプロだぞ」
「ヴィクトルのファンに怒られたりしないかな? 大丈夫かな」
「プロの曲演奏してる奴に興味持つ奴なんかいねーよ」
「そう? ならよかった」
でも恥ずかしくてテレビつけらんないかも……と縮こまっている。本当に緊張しぃだ。リサイタルを開くこともあるらしいが、ちゃんと演奏出来ているのだろうか。
頬杖をついて二人のユーリを眺めていたヴィクトルを、勇利が急に目を開けて見つめた。
「どうかした?」
「あ、あの……厚かましいかもしれないけど。ほ、報酬のことでちょっと……えと、お金いらないので、代わりにお願いがあるっていうか」
「なに?」
お金の代わりにおねだりなど、いじらしいこと言う。
それも、その内容が「顔に触れさせてもらいたい」というものだった。
「あ、僕、目がこうだから、直接触らないと人の顔もわからなくて……ヴィクトルってよくテレビで凄くカッコいいって聞くから、どんな顔してるのかなって」
指を弄りながら一生懸命主張するのが可愛くて可愛くて、ヴィクトルは向かいの席に移動した。奥へ追いやられたユーリが「せめーよ」と文句を言っている。
「はい、どうぞ」
勇利の手を自分の顔に導き、目を閉じる。少し緊張して震える指が、遠慮がちにヴィクトルの輪郭をなぞった。そんなに恐る恐る触れられては、かえってくすぐたい。
「うわぁ、なんか、凄い。磨いた彫刻みたい。あ、おでこ広い?」
「………そんなに危険か」
「あ、いやそんなじゃなくて!! えと、えと、あと……あ、鼻が高い。目も彫りが深くて……きれい」
目を細めてうっとり微笑む勇利の顔。抱きしめてキスしてやりたいほど愛しい。
そう考えてから、ヴィクトルはずいぶん彼のことを気に入っている、というより惹かれてやまないことに今更気づく。
もとより興味はあった。彼というピアニストに。
だが、今の感情はもう、彼個人に―――恋をしている。
「ありがとうございました」
手を離し、照れに照れ、満足そうな顔。
だが、ヴィクトルは再び彼の手をとって、笑う唇に触れさせた。
「ここ、まだだよ?」
「………!」
あえて唇には触れないようにしていたのだろう。暗い店内でも分かるほど顔を真っ赤に染め、きつく目を瞑ってしまう。その様子が思いの外ブサイクだ。だが、そこも可愛い。
「おいヴィクトル、もう時間だ」
「あれ、早いな。ゆうり、また来るよ」
「あ、はい!」
勇利を引き起こし、ユーリを席の外に出してから、二人は店を後にした。
「ピアノ買おうかなあ。俺の家に置きたい」
「あ? まさか呼ぶ気か」
「うん。俺の家でケータリングと美味しいお酒用意して、勇利に演奏してもらう」
「手ぇ出すなよ」
釘を刺されたが、それは雰囲気と流れ次第だなーと口には出さず返事もしない。
だってこんな気持ちは初めてなんだ。
あの子はたぶん、ヤコフ以上にヴィクトルのスケートを深く見てくれる、世界で一番の理解者だ。
[newpage]
まだ心臓がどきどきと煩い。
あの人が来ると、いつもこうだ。いや、来ていない時もか。いつ来るか、また来てくれるかと、一年前から期待が絶えない。
人の顔に触ってまで形を確認することは、滅多にない。不躾だし、相手だって顔をべたべた触られるのは嫌だろう。
せいぜい勇利が触れるのは、人形や彫刻、あるいは自分の顔くらいだ。人間というのはこういう顔をしている、と把握するために行う作業で、深い意味はない。あとは店員やバーテンなど、長い付き合いの人だけだ。
それにしても整った顔立ちだった。ふつう、生の人間はどこかデコボコしていたり、曲がっていたりするのに、どこもなだらかで完璧な造形をしていた。睫毛が長くて、すっと切れ長の目をしていたのが瞼から分かった。
「ユウリ、気が済んだならもう一曲弾け」
「あ、はい」
サボってばかりでは給料が減る。慌ててピアノに戻り、鍵盤に指を置いた。
――――と。
誰かが近寄ってきた。リクエストだろうか。
「お客さん、なんでアンタ、酒瓶なんか持って………」
バーテンが訝しんだ声を上げる。
彼が質問しきる前に、強い衝撃がこめかみを襲う。
なに、と思う前にピアノと、次いで床に頭が叩きつけられ、痛みにうめき声を上げた―――と思う。
「――――、――――」
叫ぶ。何も聞こえない。
痛みに苦しみながら耳に触れる。ぬっとりとした液体の感触。
「―――――!?」
なんで。なんで。
何も聞こえない? 自分の声も、周囲の音も。
なんで。
[newpage]
勇利が暴漢に襲われて入院した、という知らせをヤコフから聞かされた。
あの店のバーテンがこのスポーツクラブのアドレスを調べて連絡を入れてくれたらしい。
練習を放り捨てて教えられた病院に駆けつけ、ナースに注意を受けながら病室に飛び込んだ。
そこには、背中を丸くした私服姿のバーテンと、頭に包帯を巻きベッドで上体を起こす勇利の姿があった。
とりあえず勇利の意識があることにほっとする。
「………アンタか」
振り返ったバーテンに頷き、勇利に歩み寄る。
「勇利。俺だ。ヴィクトルだよ。怪我は大丈夫?」
「…………」
下を向いたままの勇利。反応もしない。いつもヴィクトルの声を聞くと、子犬のように喜んで笑うのに。
暴漢に襲われたことで心に傷を負ったのだろうか。様子がおかしい。不安になり、声をかけながら勇利の手に触れようとするが……
バーテンがハッと顔を上げた。
「だめだ、さわるな!」
警告を聞き入れる前に、ヴィクトルは勇利の手を握ってしまった。
それまで大人しかった勇利が、びくっと過剰に震えて身を捩る。
「なに!!!!! だれ!!!!! だれかいるの!!!!」
「ゆ………」
「だれ!!!!!!」
病室の外まで響き渡るほどの大声を張り上げる勇利。気圧され、手を離した。
「耳をやられたんだ」
バーテンが消沈した声で言う。
「この前アンタが店に来て帰った後、酔っ払った客が勇利の耳のあたりを酒瓶で思い切りぶん殴った。理由はアンタにべたべた触るとこがゲイみたいで気持ち悪かったから、だとよ。
一見の客で、勇利の目が見えないことすら知らなかった」
バーテンも、常連客も、暴漢を取り押さえて勇利を介抱しようとした。
勇利は搬送される間もずっと叫び続けていたらしい。自分の声も、なにも聞こえないことに恐怖して。
聞こえないから過剰に叫ぶ。人は、自分の耳にちょうどいいボリュームで話すのだ。耳が遠くなったベートベンが、大声で話していたという逸話が残っているように。
ヴィクトルは呆然と、怯える勇利を見下ろしていた。
(この子は、音の世界で生きていて………)
生まれつき光に見放され。
音の世界で生きて、ピアノを愛し、スケートを耳で感じていた。
「なんだってこんな事に………十五でコイツを雇ってから、ずっと息子みたいに面倒見てきたんだ。常連客の殆どだってそうさ。
どうして神はあんなヤツに、コイツのピアノを奪う権利を与えたんだ」
いまになって気づいたが、バーテンは泣いていた。悔しさに泣いていた。ヴィクトルが来るずっと前から。
ヴィクトルはそのシーズン、勇利の演奏を録音したプロで優勝し、競技生活を終えた。
***
鼓膜が破れただけならよかった。鼓膜はすぐに再生してくれる。
だが、勇利の場合、高次脳機能障害による聴力の喪失らしい。骨振動による音も拾えないとのことだ。
医者が掌に文字を書いて意思疎通した為、現在は自分の状態を把握し、なるべく声を出さないよう息を潜めて生きている。
何度めかの見舞いに来たヴィクトルは、勇利がついた手の傍のシーツをトントン、と指で叩く。
そうすると勇利は手探りでヴィクトルの手を探し当て、きゅうと握る。勇利とヴィクトルだけの合図だ。
『お は よ』
掌に文字を書く。勇利はこっくんと頷いた。
『た い ち ょ う』
再び勇利が頷く。
勇利はもう殆ど回復している。身体的には―――
だが、もう彼はピアノを弾くことはできない。唯一の特技を失い、生きる糧を稼ぐ手段がなかった。
本来なら施設に行くべきなのだろう。
『お れ の い え』
勇利が首を傾げた。
ヴィクトルは続けて文字を描く。
『 ぼ う お ん に し た 。
ぴ あ の 、 あ る 。
う ち に お い で 』
勇利が眉を寄せ、首を傾げ、頭を振る。
ヴィクトルはプロの演奏を依頼されたことがある程度で、そう親しい仲ではなかった。こんなことをする義理も理由もない。
それでも。
『 お れ の こ え 、 お ぼ え て る ? 』
勇利はすぐに頷いた。力強く、速く。
だが、それだけにもう聞こえないことが悲しいと、そう言いたげに涙を零す。
ヴィクトルはその頬にキスをした。急に感じた柔らかな感触に、勇利がびくっと身を竦ませる。
『 ぴ あ の 、 ま た ひ け る
お れ は し ん じ て る 』
「なんで」
思わず声を上げた勇利が、口を覆う。自分の声が煩くて、他の患者の迷惑になっているのを散々注意されたからだ。
『 お れ は プ ロ に な る
ゆ う り の え ん そ う で す べ り た い
う ち に お い で 』
勇利の喉から嗚咽が漏れた。
ぽん、ぽん、とその身を覆うように肩を抱きながら、勇利が泣き止むのを待つ。
いいの、と勇利が潰れそうに囁いた。
勇利にはヴィクトルの顔は見えない。
勇利にはもうヴィクトルの声も聞こえない。
それでも彼の手を両手で包み、一番の笑顔で、声に出して言った。
「いいんだよ!」
大通りを歩くと無駄に注目を集めるため、何気ない小道や裏路地を探検するのが乙だ。
こんな些細な日常にも昔は心踊らせていたっけな、と懐かしむ。これが年を取るということだろうか。
シーズンに入れば世界中を飛び回り、オフシーズンにはアイスショーや撮影。息つく暇もなく一年が過ぎて、また過ぎて、とうとうフィギュアスケーター最年長になってしまった。
そろそろ転身を考えるべき時期だ。だが、踏ん切りがつかない。不完全燃焼なのだ。このままプロに転向したとして、果たして喜びを得られるだろうか。与えられるだろうか。
(本当に年をとったなあ)
スケート以外のことなど考えてもみなかった。二十年以上もラブとライフを放置して、スケート靴を脱いだ後の人生が見えて来ない。
いつかはこの時が来ると分かりきっていたはずなのに。
―――――と。
ヴィクトルの耳にピアノの音が届いた。曲はキャラバンの到着。軽快で高音、ジャズにしても独特のリズム。
思わず振り返った先にあったのは、隠れ家のような外装の暗いジャズバー。ネオンの看板に天使の止まり木、とある。
(ピアノってこんな音が出るんだ……)
ヴィクトルが知らないタイプの、特殊なピアノかとすら疑った。
だが、そんなはずもなく。
クセの強い奏者だ。的確に人間の胸の「いいところ」を突いてくる。欲しいと思ったところに音がくる。
ぶる、と寒気に似た震えが走った。
音楽を聞いて体が歓喜したのも久々だ。思わず窓に寄り、中を見る。
店内は薄暗く、よく見えないが雰囲気はよさそうだ。奥のピアノの前にいるのが奏者だろうと分かるが、ちょうど影になっている。
マッカチンがいるので酒を出す店に長々といるわけにはいかないが………
「ちょっと待っててね」
少しだけ、ほんのすこしだけ。
あのピアニストの手元が見たい。
ヴィクトルが店に入ると、バーテンが少し目を上げたが、構わずにいてくれた。ヴィクトルと気付かなかったのか、気付いてそっとしてくれたのか。
「カツキ! 踊りたいから景気いいの頼むよ」
酔った客がフロアに出て、ピアニストが了解とばかりにカデンツァを流す。
えらく多彩な音色でスピード感のあるマック・ザ・ナイフが流れ始めた。ヴィクトルはまたも度肝を抜かれる。
鮮やかで強い演奏もだが、ピアノに隠れて見えないだろうに、踊る客のステップに合わせてハメている。もともとのシンプルな曲をこれだけアレンジして、指が回る回る。
本来なら酒を注文すべきだろうが、ヴィクトルは吸い寄せられるようにピアノの傍に寄った。
激しく鍵盤を叩きつけているのは若い東洋人。オールバックにしてジャズスーツに身を包んでいるが、やけに幼く見える。
それより気になったのは、彼が目を瞑って演奏していることだった。
曲が終えてひと息ついた彼は、やはり目を閉じたまま此方に首を向ける。ただし、本当にただ横を向いただけで、顔を見上げる素振りすらなかった。
「えっと、リクエストですか?」
演奏と違い、気弱そうな声。ヴィクトルは返答せず、鍵盤をひとつぽんと鳴らす。
やっぱり普通のピアノだ。なぜあんな音が出る?
「お客さん。冷やかしは困るよ」
ようやくバーテンから注意され、ヴィクトルは苦笑した。
「今日はたまたま通りがかって、犬連れなんだ。また改めてくるよ。これで彼に何かサービスしてほしい」
紙幣をピアノの上に置き、立ち去ろうとするが、ピアニストが「えっあっ」と慌てたような声を上げる。
「その声……もしかしてヴィクトル・ニキフォロフ!?」
彼が叫ぶと店内から苦笑が漏れる。せっかく言わないでおいたのに……とでも言いたげだ。
それで、ああ、と理解する。
(見えないのか……)
目が不自由な身の上で、あれだけ演奏出来ることも驚愕だが、初対面のヴィクトルを声で判別するのにも驚きだ。
「君はいつこの店にいるの?」
「えっと、いつも……います?」
「他の奏者がいる時も、大体カツキはここにいる」
他の客が教えてくれた。そう、とヴィクトルは微笑んだ。
「また来るよ」
そう言って次にこの店のことを思い出したのは、更に一年後になる。
***
忘れた、というよりは多忙だった。
自宅やスポーツクラブから少し遠いここに立ち寄るだけの時間がなく、また息つく暇もない一年で、あのジャズバーでの出会いが昨日のことのように思えた。
久方ぶりに現れたヴィクトルに「アンタ酷い奴だな」とカウンター席の客に詰られた。
「カツキはずっとアンタを待ってたよ。この一年、可哀想で見てられなかった。店に入るたびヴィクトルじゃない…ってガッカリされるこっちの身にもなってみろ」
「カツキ……ってあのピアニストの少年」
「ああ見えても二十四だぜ」
驚いた。ここに来ると驚きの連続だ。いくら東洋人が若く見えると言っても、あれは幼い。
ともあれカウンターに腰かけると、バーテンとは別の従業員らしき人物が奥へ引っ込んだ。
おすすめのを、と頼んだところで誰かが慌ただしく出てきた。バーテンが眉を顰め、ひょいと腕を伸ばしてそれを受け止める。
「カツキ。杖はどうした」
「えぇえと、あの、だってヴィクトル来たって」
「すぐそこの席にいるよ」
「えええええ」
ぱか、と少年……改めカツキ青年は目を開いた。チョコレート色したきらきら輝く大きな瞳。目が見えると余計に幼く感じる。
見えていないと分かっていても、彼に手をあげて笑顔を向けた。
「はあい。ヴィクトル・ニキフォロフです」
「ふぁあああ」
耳まで真っ赤に染めてのけぞろうとするもので、バーテンがまた嘆息しながら彼を支えている。
「まあ、このとおりアンタのファンで、そそっかしい所のある奴でして」
「ボックス! ボックス席来てください! 演奏するから……!」
「カツキ、落ち着け」
宥められても聞いていない。えと、えと、とカウンターを出ようとして手をわたわたさせている。奥から出てきた従業員が苦笑まじりに彼の肩を抱いて、ピアノまで誘導してやった。
ボックス席にと言われたのでヴィクトルも出された酒を持ってついてゆく。
「ああああの、リクエスト…ありますか?」
「君の好きな曲が聞きたいな」
「…………!」
暗い店内でもわかるほど、ボンッと真っ赤に膨れてしまった。あんなにガチゴチで演奏できるんだろうかと見守っていたところ、案の定でだしが調律しそこねたピアノのように酷い。
ブラインドタッチで弾いているため、指の位置を間違うと惨事になるようだ。
「~~~~~~!!」
顔を覆い、暫くピアノの前で悶えてから。
すぅ、ふぅ、と何度か大きく息をつく。
柔らかなタッチからゆったりした音が流れ出し、メロディが乗ってヴィクトルは目を瞬く。
離れずにそばにいて――――今シーズンのヴィクトルのプロだ。
この曲をピアノでやるのか。できるものなのか。
緩やかで叙情的な音律が店内を満たす。
美しい。掛け値なしに美しい。原曲とはテンポもリズムも微妙に違うアレンジ。だというのに、アリアが聞こえてくる。
酒を口に運ぶのも忘れ、ヴィクトルは呆けたように吐息を漏らす。
演奏を終えてピアノから手を離し、余韻に浸ってから……彼は両手で顔を覆ってしまった。例によって耳まで真っ赤だ。
「カツキ。今日は他の奏者がくるから引っ込め」
「え、もう!?」
「他に仕事がないなら、こっちにおいでよ」
誘ってみると、カツキはうさぎのように飛び上がって椅子から転げ落ちた。もう笑うしかない。
歩み寄って彼の手をとり、優しくエスコートして席へ導いた。他の客が口笛を吹き、カツキは不思議そうに首を傾げている。
彼は知らないのだ。男がレディをエスコートする姿など。
彼にも飲み物を、と注文し、改めて盲目のピアニストに向き直る。
「カツキ……だっけ?」
「ユウリです。ユウリ・カツキ」
「珍しいね。東洋人がロシアでピアニストをやってるなんて」
「あ、えと、親の仕事の関係で子供の頃にロシアにきたんですけど、みんな死んじゃって」
悪いことを聞いてしまったかな、と酒を煽る。だが、ユウリの顔に暗さはない。
「物心付く前からオモチャのピアノいじって育ったので……雇ってくれそうなお店さがして頑張りました」
「十五の東洋人の子供が演奏を聞いてくれと頼み込んでくるから、何事かと思ったさ」
気難しそうなバーテンだが、思い出話をする彼の口調は柔らかい。あえて口に出さなかったが、十五の、それも目の見えない子供が、必死に食い扶持を探す姿は痛ましいものだったろう。
「オモチャのピアノって……レッスンは受けたことないの?」
「あ、六歳の時にキーボードは買って貰ったんですけど。イヤホンつけられるやつ。でもまともな勉強はしたことないんです」
「こいつ、ここの他にもリサイタルとかで呼ばれるんだぜ。一度なんかは有名なマエストロに惚れ込まれてオーケストラとやらないかって誘われたんだが……」
「楽譜の読み方も専門用語も知らないのに、オーケストラなんて無理だよ!」
そのマエストロも、それだけユウリのピアノに惚れ込んだのだろう。それほどの魅力はある。
「……すこし失礼な質問になるかもしれないけど。どうして俺のファンなの? というか、ファン……でいいんだよね」
「あ、はい! 小さい頃にアイスショーにつれていって貰って、そのときから………」
「えぇと、その。スケート、わかるの、かな。うまく言えないけど」
「はい! 氷を切る音が優雅で………」
「カツキは足音やスケート靴の音を聞けば頭の中で立体が浮かぶらしい」
それは凄い特技だ。それでピアノに隠れていても、踊る客にあわせて演奏できたのか。いや、そもそもステップにあわせて音をつくるスキルも信じがたいほどだ。
「テレビだと氷を切る音が聞こえないんで……生で見ないと分からないんですけど。それでもずっと憧れてて」
「ヴィクトルが滑った曲は全部演奏できるんだよな」
「バラさないで!!」
ソファに倒れて蹲ってしまった。あんまり勢いよく動くものだから、見ているこっちがハラハラする。テーブルに頭を打ったらどうするつもりだ。
「ユウリ」
向かいの席のソファに突っ伏してしまったピアニストの名を甘くささやき、覗き込む。
「今まで色んなファンに好きだ、応援してるって言われてきたけど―――こんなに感激したのは初めてだ。ありがとう」
音や気配で物を立体的に捉えられるとしても、彼は色を知らない。ヴィクトルとは生きている世界が違う。それでもヴィクトルのスケートが彼には「わかる」と言う。
彼の中にだけある世界は、きっと美しい。その世界の住人になれたことが心から嬉しかった。
「君の演奏をもっと聞きたいんだ。でも、俺は滅多にこの店には来れなくてね。どうしたらいい? もちろん店には仲介料を払うし、君にも演奏料を払うよ」
「え? えと……どうしたら、って………」
「じゃあ、アンタが望む時にカツキを貸し出してやるよ」
バーテンから鶴の一声。ええ、とユウリは起き上がろうとして、テーブルに頭を打ち付けた。本当にそそっかしい子だ。
「その代わり、送迎はちゃんとやれよ。そんなんでもウチの看板だからな」
「そんなんでもって………」
ユウリは落ち込んでいるが、バーテンの言葉を意訳するなら「怪我させたら承知しねえぞ」というところだろう。
ヴィクトルはユウリのレンタル料などの話を詰め、浮かれ気分で帰宅した。
***
ユウリを呼び出せたのは、幸いにも次の週だった。
事情を話してハイヤーに足を頼み、チムピオーンスポーツクラブの前で待っていたヴィクトルは、現れたユウリの姿に意表を突かれた。
「あ、あの。私服で……って言われたので。ちゃんとスーツ持ってきてるんですけど」
前髪を下ろし、やぼったいコートにマフラー。
幼く見えるとはいえ、艶っぽい黒のジャズスーツで演奏する姿はなかなか凛と麗しかった。人はこんなに化けるものかと感心するほどだ。
だが、これはこれで愛嬌があっていい。
「今日はそのほうがいいんだ。おいで」
腕をとって彼の歩幅に合わせながら、ゆっくりとスポーツクラブに入る。
ユウリは冷やりとした空気と、スケーターたちが削る氷の音に「え、え?」と驚いていた。
「あの、演奏……」
「残念ながらピアノは持ち込めなかったんだけどねー」
ユウリの手を導いてリンクサイドに設置したシンセサイザーにそっと触れさせる。
「三年前のプロ、ピアノ協奏曲だったけどソロでいける?」
そもそも連弾でなければ不可能な曲だが、彼はヴィクトルの滑った曲を全て弾けると聞いた。ユウリならできる、という確信もある。
「できます、けど……」
また縮こまってしまった。
「も、もしかして僕の演奏で滑ってくれるんですか?」
「うん」
「…………………!!」
「ユウリ。危ないからここで悶絶するのはやめようね」
顔を覆ってへたりこんでしまったユウリ。いわゆる女の子座りだ。放っておくとそのまま転げ回りそうだったので、腕をとって立ち上がらせる。
「ヴィクトル。そいつ誰だ?」
休憩で上がったらしいユーリがキーボードの前に立つ東洋人を睨みつけている。が、睨んだところで意味がない。ユウリには見えていないのだから。
「この子はユウリ・カツキ。ユーリとは同じ名前で、ピアニストだよ」
「あ? ピアニストって……」
目を閉じた状態の東洋人をじろじろ見、ユーリはそれ以上を語らなかった。ユーリは口の悪い子だが、根は優しい子だ。
そして何を思ったか知れないが、ユウリはキーボードに向き直って指をキーに軽く滑らせた。
ジャン、と激しい和音の後、凄まじい指捌きでアレグロ・アパッショナートを演奏し始めた。ユーリがの口が顎が外れたように開く。
「ユーリの曲も弾けるんだねえ」
「一回聞いたら大体覚えます。原曲とは違うものになるし、同じ演奏は二度と出来ないんですけど……」
半端なところで演奏をやめ、ユウリは苦笑する。
ヴィクトルは銀盤に降り立ち、中央まで緩やかな軌跡を描いて「いいよ」と合図する。
すぅはぁ、と何度も深呼吸を繰り返すユウリを、ユーリがじろじろと見ている。気になって仕方がないらしい。
やがてユウリは珍しく目を開いた。きっと鋭く鍵盤を睨み、腕を伸ばして黒盤を端からスライドさせ、ハープのようなグリッサンドから入った。
音階を上げながらディレイをかけ、音で尾を引かせるように深みを持たせながら演奏を始める。
えらくキラキラしい曲にアレンジされたものだ。だが、これは気持ちいい。音にハメるのではなく、音が追ってくる。まるでこちらの呼吸まで捉えるかのような演奏だった。
ところが、ここからが佳境、と漕ぎ出したところで、音が止んでしまう。
ヴィクトルだけでなく、いつの間にか見入っていた周囲も突然とまった音楽に拍子抜けし、ユーリが「おい!」と叫んでいる。
「むり……しあわせすぎて………もぅむり…………」
気づくとユウリは鼻水垂らしてぼろぼろ泣いていた。慌てて滑り寄ると、どうもかなり冷えているようで、指先も赤い。
「ユーリ、ティッシュ!」
「ねえよ」
「じゃあタオル!」
「俺のタオルでコイツの鼻水拭く気か!」
兄弟弟子がコントしている間に、本人がポケットからティッシュを出して顔を拭っていた。
泣かれるのは苦手だ。名を呼びながら肩を抱くと、また大きな瞳から大粒の涙が大量に溢れる。
「こんなの僕のほうがお金払わなきゃいけないじゃないですか……」
「君の演奏を聞きたくて無理に呼び出したのは俺だから。思ったとおり素晴らしかったよ」
まともな教育を受けていないとは思えない、高度なテクニックまで習得していた。子供の頃からピアノばかり弾いて育ったといっても、あの独特のセンスは一流のピアニストにひけをとらない。
ピアノは最もポピュラーで最も残酷な楽器だ。巧拙に関わらず、奏者のセンス次第で全く別の楽器に変貌する。どれほど技巧に優れていても、ピアノの音しか引き出せない奏者は人の心を打たない。
「次シーズンの曲の演奏をユウリにお願いしたいんだ。それと、エキシの生演奏も……無理かな?」
ユウリとはイマジネーションが死にかけて迷走していた頃に出会えた。窓越しに聞いたキャラバンの到着で横殴りにされ、アリアの演奏を聞いた瞬間、彼のピアノに惚れ込んだ。
しかし、この調子だと無理そう……だな! 無理だな! ぼろ泣きのユウリをハグして懸命にあやす。
同時に愛しくも思う。こんなファンがいるヴィクトルは幸せ者だ。
「や、やりたい…です。やります!」
乱暴に目をこすりながら、それでもユウリはしっかり強い目でヴィクトルを見返す。見えていないはずの瞳に、ヴィクトルの顔がしっかり映り込んでいた。
***
作曲家に原曲を受け取ってから、スタジオを借りて幾度か勇利に弾いてもらったところ、本当に勇利は同じ曲を二度弾けないらしい。
時々は遊び心が起きるのか、がらっと雰囲気を変えてアレンジしてしまう。
そのすべてを録音して、どれをプロに使うべきか吟味した。
ところが、どの録音で滑っても、あまりに独特なクセある演奏のため、うまくリズムを合わせることができない。
一番いいのはヴィクトルが滑っている音を聞いて貰いながら演奏してもらい、録音することだが……それではノイズが混じってしまう。
やはり無理な注文だったろうか。諦めかけもしたが、それを彼にどう伝えていいか分からない。あれほど「弾きたい」と熱望し、ヴィクトルも彼の演奏で滑りたいと強く願っている。
しかし、現実は厳しい。
何度も繰り返される録音の最中、ふうっと勇利が顔を上げた。
「ヴィクトル。誰もいない静かな環境で滑ることはできる?」
「ん? そうだね、夜に貸し切れば可能だよ」
「なら、イヤホンで原曲を聞きながら滑って、氷を切る音を録音してください」
なるほど妙案だ。音から立体が動く様を脳内に浮かべることのできる勇利なら、ダンスのステップ音に演奏を合わせることのできる勇利なら、闇雲に原曲をアレンジするよりそのほうがいい。
数日後に誰もいないアイスリンクでプロの滑走音を録音したヴィクトルは、改めて勇利を呼び出し、収録したMP3とイヤホンを勇利の手に握らせる。
勇利は音楽に聞き惚れるように少し俯いて集中していた。何度も繰り返し再生し、時には同じ箇所ばかりリピートする。
こんなに長くかかるとは思わなかった。いっそ勇利をいったん帰らせるべきかと悩んだほどだ。勇利は三時間もたっぷり聞いた後でほー……と長いため息をつく。
「いつもノイズや歓声や拍手が交じるから……こんなに間近でヴィクトルのスケートを聞いたのは初めて」
まるで僕のためだけのアイスショーみたい、と頬を染めて語る勇利の姿がヴィクトルも嬉しく、時間を見つけて過去のプロの「特等席」も用意しようと心に決める。
暫く余韻に浸っていた勇利は、ぱちっと瞼を開いてMP3の再生ボタンを押した。
「行きます」
指を弾ませて力強く軽妙なトリルの導入。原曲とまるで違う……というか、
(ディキシーランドジャズ……!?)
古きよきアメリカを彷彿とさせるクラシックジャズアレンジ。いまにもジュークボックスから流れてきそうな曲調だ。
だが、アンサンブルやビッグバンドが主流だったディキシーランドジャズとは違い、ピアノソロで賑やかで華やかに、かつ丁寧に積み上げてゆく。どこか怪しげで愉快で……
まるで童心に帰って悪戯を企む大人の悪ふざけを思わせる。
そして、恐らくそれは――――今のヴィクトルが一番やりたいと思っていることだ。
この曲のテーマは「リボーン」。
今までの己を殺し、新しく生まれ、初心に還る。
原曲はそれを厳格かつ荘厳に演出しているが、勇利はそれを面白おかしく、古めかしいジャズで見事に表現しきった。
新しく生まれるという演目を、わざわざ古い手法で。
これも一種のリバイバルと呼べるだろうか。斬新で新鮮だった。
この子は音楽理論など知らない。存在すら知らないかもしれない。
だが、物語の起承転結を紡ぐようにメロディを組む。天性のバランス感覚と呼ぶべきか……
弾き終わり、音の尾が空間に霧散する。
ふいーと息をついた勇利が額の汗を拭って一息ついてから、はっとしたようにわたわたし始める。
「あ、ごめ、ごめんなさい! なんか貴方のスケートを聞いていたら、こういうふうにしたくなって、それで、あの」
ヴィクトルが黙っているので怒られると思ったのだろうか。
勇利の言い訳の声がどんどんしぼんでゆく。
ヴィクトルは録音室の扉を開け、思い切り勇利に抱きついた。
「ひ、うひゃ」
「いいんだ。これでいいんだよ!!」
少し硬い丈夫な髪に頬ずりし、ヴィクトルは喜びを声とハグとで勇利に伝えた。
どうして俺の心の奥底の声が聞こえたの?
君にだけ聞こえる特別な音があるの?
ゆうり。ゆうり。
この感情をどう表現していいか、分からないくらいだ。
[newpage]
完成した曲を流してご機嫌のヴィクトルを、ユーリがちらちら見ている。ヤコフに怒鳴られながら。
休憩時間になってから、狙ったようにそそっと寄ってきた。
「さっきの、あいつのか」
「あいつって?」
分かっていながら満面の笑顔で首を傾げた。ユーリが口をひんまげる。
「だ、だだ、だから……あいつ、その、ヘンテコなピアノ弾くやつ!」
あの一件でよっぽど気に入ったらしい。ヴィクトルとユーリは琴線が近いのかもしれない。
「実は今日、彼の店に行くつもりなんだけど」
「!」
「でも、ユーリは未成年だしなー。ヤコフとリリアに聞いておいで」
言うと、ユーリは何も返事せずぴゅっと小魚のように氷上を滑っていってしまう。
早めに切り上げることと、酒を飲まないこと、ヴィクトルがきちんと監督することを条件にユーリの外出が許可された。
タクシーの後部座席で運ばれる間、ユーリはずっと落ち着かなかった。ジャズバーに行くのも初めてなら、あの時の彼に会いに行くのが嬉し恥ずかしい年頃なのだろう。微笑ましさの塊のような子だ。
乱暴にジャズバーの扉を開き、来てやったぞとばかりふんぞり返る。
バーテンも常連客も、突然現れた未成年―――それもヴィクトルに次ぐロシアのスケーターが現れたもので、背後のヴィクトルに「何をつれてきてんだ」という目を向ける。
勇利は演奏中だった。本日のナンバーはイングリッシュマン・イン・ニューヨークのジャズアレンジ。ジャンルとしてはポップに入るが、ジャズとの相性は抜群だった。勇利のドラマチックな演奏によく栄える。
慣れない内装の店に落ち着かないユーリをボックス席に座らせ、酒とミルクを注文した。
その声で分かったのだろう。急にピアノが不協和音を喚かせた。
「え、あ、もしかしてヴィクトル来てます!?」
「来てる。が、仕事をしろ。干すぞ」
「すみませ……あれ、どこまで弾いたっけ」
「マヌケ」
ユーリがニヤニヤしながら呟いた。
ユーリが来ていることも、今ので分かったのだろう。勇利は先程の曲を諦めて、アガペーを弾きはじめた。不意打ちを食らったユーリの耳が赤く染まる。
一曲終わらせてから、勇利はもじもじしながらヴィクトルが「いるであろう方向」を気にしている。バーテンがため息つき、店内に録音された過去の演奏が流れ始めた。
お許し頂けたようなので、ヴィクトルは以前と同じように勇利を優しくエスコートし、ボックス席に連れてきた。わざわざユーリの隣に座らせ、自分は向かいに腰かける。
「えぇと、プリセツキー…さん。来てくれたんですか」
「べつに。深い意味はねーよ」
「深い意味でこの店に来る人なんかいませんよ」
笑う勇利に、ユーリのほうは不機嫌そうだ。今この店の中で一番「深い意味で」来店しているのは彼だ。ヴィクトルとてただ勇利の顔が見たかったのと、演奏を聞いて軽く呑みたいという気楽な理由できた。
「もう少ししたら、ちょっと有名なサックス奏者の方がきますよ」
「どうでもいいし。ジャズとか興味ねえし」
「ジャズ嫌い?」
「ききききらいではねーし! 眠たいのは嫌いだけど」
ユーリのことだ。ジャズなんて退屈なジジイの音楽、とでも考えていたのだろう。彼の演奏を知るまでは。
「あの、ヴィクトル。完成した曲どうでしたか?」
「最高だったよ。その報告に来たんだ。もうあのプロはあの曲しか考えられない」
「はー……よかった」
ふにゃん、と輪郭が溶けるほど緩みきる勇利。ああ、可愛い。可愛いったらない。
「僕の演奏が全世界に流れるなんて信じられないなあ。テレビで流れるんだよね?」
「当たり前だろ。ヴィクトルのプロだぞ」
「ヴィクトルのファンに怒られたりしないかな? 大丈夫かな」
「プロの曲演奏してる奴に興味持つ奴なんかいねーよ」
「そう? ならよかった」
でも恥ずかしくてテレビつけらんないかも……と縮こまっている。本当に緊張しぃだ。リサイタルを開くこともあるらしいが、ちゃんと演奏出来ているのだろうか。
頬杖をついて二人のユーリを眺めていたヴィクトルを、勇利が急に目を開けて見つめた。
「どうかした?」
「あ、あの……厚かましいかもしれないけど。ほ、報酬のことでちょっと……えと、お金いらないので、代わりにお願いがあるっていうか」
「なに?」
お金の代わりにおねだりなど、いじらしいこと言う。
それも、その内容が「顔に触れさせてもらいたい」というものだった。
「あ、僕、目がこうだから、直接触らないと人の顔もわからなくて……ヴィクトルってよくテレビで凄くカッコいいって聞くから、どんな顔してるのかなって」
指を弄りながら一生懸命主張するのが可愛くて可愛くて、ヴィクトルは向かいの席に移動した。奥へ追いやられたユーリが「せめーよ」と文句を言っている。
「はい、どうぞ」
勇利の手を自分の顔に導き、目を閉じる。少し緊張して震える指が、遠慮がちにヴィクトルの輪郭をなぞった。そんなに恐る恐る触れられては、かえってくすぐたい。
「うわぁ、なんか、凄い。磨いた彫刻みたい。あ、おでこ広い?」
「………そんなに危険か」
「あ、いやそんなじゃなくて!! えと、えと、あと……あ、鼻が高い。目も彫りが深くて……きれい」
目を細めてうっとり微笑む勇利の顔。抱きしめてキスしてやりたいほど愛しい。
そう考えてから、ヴィクトルはずいぶん彼のことを気に入っている、というより惹かれてやまないことに今更気づく。
もとより興味はあった。彼というピアニストに。
だが、今の感情はもう、彼個人に―――恋をしている。
「ありがとうございました」
手を離し、照れに照れ、満足そうな顔。
だが、ヴィクトルは再び彼の手をとって、笑う唇に触れさせた。
「ここ、まだだよ?」
「………!」
あえて唇には触れないようにしていたのだろう。暗い店内でも分かるほど顔を真っ赤に染め、きつく目を瞑ってしまう。その様子が思いの外ブサイクだ。だが、そこも可愛い。
「おいヴィクトル、もう時間だ」
「あれ、早いな。ゆうり、また来るよ」
「あ、はい!」
勇利を引き起こし、ユーリを席の外に出してから、二人は店を後にした。
「ピアノ買おうかなあ。俺の家に置きたい」
「あ? まさか呼ぶ気か」
「うん。俺の家でケータリングと美味しいお酒用意して、勇利に演奏してもらう」
「手ぇ出すなよ」
釘を刺されたが、それは雰囲気と流れ次第だなーと口には出さず返事もしない。
だってこんな気持ちは初めてなんだ。
あの子はたぶん、ヤコフ以上にヴィクトルのスケートを深く見てくれる、世界で一番の理解者だ。
[newpage]
まだ心臓がどきどきと煩い。
あの人が来ると、いつもこうだ。いや、来ていない時もか。いつ来るか、また来てくれるかと、一年前から期待が絶えない。
人の顔に触ってまで形を確認することは、滅多にない。不躾だし、相手だって顔をべたべた触られるのは嫌だろう。
せいぜい勇利が触れるのは、人形や彫刻、あるいは自分の顔くらいだ。人間というのはこういう顔をしている、と把握するために行う作業で、深い意味はない。あとは店員やバーテンなど、長い付き合いの人だけだ。
それにしても整った顔立ちだった。ふつう、生の人間はどこかデコボコしていたり、曲がっていたりするのに、どこもなだらかで完璧な造形をしていた。睫毛が長くて、すっと切れ長の目をしていたのが瞼から分かった。
「ユウリ、気が済んだならもう一曲弾け」
「あ、はい」
サボってばかりでは給料が減る。慌ててピアノに戻り、鍵盤に指を置いた。
――――と。
誰かが近寄ってきた。リクエストだろうか。
「お客さん、なんでアンタ、酒瓶なんか持って………」
バーテンが訝しんだ声を上げる。
彼が質問しきる前に、強い衝撃がこめかみを襲う。
なに、と思う前にピアノと、次いで床に頭が叩きつけられ、痛みにうめき声を上げた―――と思う。
「――――、――――」
叫ぶ。何も聞こえない。
痛みに苦しみながら耳に触れる。ぬっとりとした液体の感触。
「―――――!?」
なんで。なんで。
何も聞こえない? 自分の声も、周囲の音も。
なんで。
[newpage]
勇利が暴漢に襲われて入院した、という知らせをヤコフから聞かされた。
あの店のバーテンがこのスポーツクラブのアドレスを調べて連絡を入れてくれたらしい。
練習を放り捨てて教えられた病院に駆けつけ、ナースに注意を受けながら病室に飛び込んだ。
そこには、背中を丸くした私服姿のバーテンと、頭に包帯を巻きベッドで上体を起こす勇利の姿があった。
とりあえず勇利の意識があることにほっとする。
「………アンタか」
振り返ったバーテンに頷き、勇利に歩み寄る。
「勇利。俺だ。ヴィクトルだよ。怪我は大丈夫?」
「…………」
下を向いたままの勇利。反応もしない。いつもヴィクトルの声を聞くと、子犬のように喜んで笑うのに。
暴漢に襲われたことで心に傷を負ったのだろうか。様子がおかしい。不安になり、声をかけながら勇利の手に触れようとするが……
バーテンがハッと顔を上げた。
「だめだ、さわるな!」
警告を聞き入れる前に、ヴィクトルは勇利の手を握ってしまった。
それまで大人しかった勇利が、びくっと過剰に震えて身を捩る。
「なに!!!!! だれ!!!!! だれかいるの!!!!」
「ゆ………」
「だれ!!!!!!」
病室の外まで響き渡るほどの大声を張り上げる勇利。気圧され、手を離した。
「耳をやられたんだ」
バーテンが消沈した声で言う。
「この前アンタが店に来て帰った後、酔っ払った客が勇利の耳のあたりを酒瓶で思い切りぶん殴った。理由はアンタにべたべた触るとこがゲイみたいで気持ち悪かったから、だとよ。
一見の客で、勇利の目が見えないことすら知らなかった」
バーテンも、常連客も、暴漢を取り押さえて勇利を介抱しようとした。
勇利は搬送される間もずっと叫び続けていたらしい。自分の声も、なにも聞こえないことに恐怖して。
聞こえないから過剰に叫ぶ。人は、自分の耳にちょうどいいボリュームで話すのだ。耳が遠くなったベートベンが、大声で話していたという逸話が残っているように。
ヴィクトルは呆然と、怯える勇利を見下ろしていた。
(この子は、音の世界で生きていて………)
生まれつき光に見放され。
音の世界で生きて、ピアノを愛し、スケートを耳で感じていた。
「なんだってこんな事に………十五でコイツを雇ってから、ずっと息子みたいに面倒見てきたんだ。常連客の殆どだってそうさ。
どうして神はあんなヤツに、コイツのピアノを奪う権利を与えたんだ」
いまになって気づいたが、バーテンは泣いていた。悔しさに泣いていた。ヴィクトルが来るずっと前から。
ヴィクトルはそのシーズン、勇利の演奏を録音したプロで優勝し、競技生活を終えた。
***
鼓膜が破れただけならよかった。鼓膜はすぐに再生してくれる。
だが、勇利の場合、高次脳機能障害による聴力の喪失らしい。骨振動による音も拾えないとのことだ。
医者が掌に文字を書いて意思疎通した為、現在は自分の状態を把握し、なるべく声を出さないよう息を潜めて生きている。
何度めかの見舞いに来たヴィクトルは、勇利がついた手の傍のシーツをトントン、と指で叩く。
そうすると勇利は手探りでヴィクトルの手を探し当て、きゅうと握る。勇利とヴィクトルだけの合図だ。
『お は よ』
掌に文字を書く。勇利はこっくんと頷いた。
『た い ち ょ う』
再び勇利が頷く。
勇利はもう殆ど回復している。身体的には―――
だが、もう彼はピアノを弾くことはできない。唯一の特技を失い、生きる糧を稼ぐ手段がなかった。
本来なら施設に行くべきなのだろう。
『お れ の い え』
勇利が首を傾げた。
ヴィクトルは続けて文字を描く。
『 ぼ う お ん に し た 。
ぴ あ の 、 あ る 。
う ち に お い で 』
勇利が眉を寄せ、首を傾げ、頭を振る。
ヴィクトルはプロの演奏を依頼されたことがある程度で、そう親しい仲ではなかった。こんなことをする義理も理由もない。
それでも。
『 お れ の こ え 、 お ぼ え て る ? 』
勇利はすぐに頷いた。力強く、速く。
だが、それだけにもう聞こえないことが悲しいと、そう言いたげに涙を零す。
ヴィクトルはその頬にキスをした。急に感じた柔らかな感触に、勇利がびくっと身を竦ませる。
『 ぴ あ の 、 ま た ひ け る
お れ は し ん じ て る 』
「なんで」
思わず声を上げた勇利が、口を覆う。自分の声が煩くて、他の患者の迷惑になっているのを散々注意されたからだ。
『 お れ は プ ロ に な る
ゆ う り の え ん そ う で す べ り た い
う ち に お い で 』
勇利の喉から嗚咽が漏れた。
ぽん、ぽん、とその身を覆うように肩を抱きながら、勇利が泣き止むのを待つ。
いいの、と勇利が潰れそうに囁いた。
勇利にはヴィクトルの顔は見えない。
勇利にはもうヴィクトルの声も聞こえない。
それでも彼の手を両手で包み、一番の笑顔で、声に出して言った。
「いいんだよ!」
【書き直す予定の後編】
目が見えないことで不自由じゃないか、不便じゃないかと聞かれたことが何度かあった。
しかし、勇利にとっては当たり前のこと。自分が何かをする時に踏む余計な手順を省いて動けることについては羨ましく思うが、それだけでもあった。
視覚という概念自体が人とズレていた。勇利は空間把握能力に優れており、頭の中で座標地図を作って、気配や音で大体の物の位置を察することが出来たので、余計にだ。
あるとき、家族に観光地へ連れていって貰ったとき、近場にいた観光客らしき誰かが言った。
「見えないのにこんな所に来ても意味ないんじゃない?」
確かにその宮殿に行った時は、あまり意味がなかったかもしれない。金色で丸い屋根があって~と説明されたもピンとこない。
けれど、もし「どうせ見えないから意味がない」という理由でアイスショーにつれていって貰えなかったら、勇利がヴィクトルに出会うことはなかった。
ロシアに来てから、何度かスケートをしたことはある。細い鉄の板みたいなもので支えられた靴で氷の上を滑るなんて、手を引かれてても怖くて怖くて出来なかった。
だというのに、スケーターはあんな靴を履いて凄まじい勢いで硬い氷の上を走る。
とりわけヴィクトルは凄かった。いろんなスケーターが登場したが、ヴィクトルが一番きれいな音で氷を切った。
間近でシュゴッと音を立てて「消え」、着地の音も優雅で。
浮いてる時間が長くてびっくりしたけど、回転しながら跳んでいると教えられてもっと驚いた。
なによりも、勇利が大好きな音楽でこんなに全身と氷で「奏でる」ことに心を奪われた。
アイスショーも前の方の、よく音が聞こえる席でないと聴覚に頼って観戦する勇利には意味がなく、めったには行けなかった。
テレビで放送されていると知ったとき、初めて見えないことが寂しいと思った。勇利には、音楽プレイヤーとテレビの区別がつかない。映像がどんなものかも想像がつかない。勇利の頭の中にある位置関係と、感触から想像した立体以上の何かがあるらしい。色とはどんなものだろう。空と海は青いとか、木の幹は茶色とか、知識でしか知らない。
だが、ヴィクトルは雲色の髪と空色の瞳をしているという。
それを聞いて初めて「色って凄い!」と思った。
ヴィクトルはロシアで有名人ゆえに、何かと耳にすることが多かったのも憧れの一因。
彼が選ぶ音楽はいつも素晴らしかった。ヴィクトルが滑っているつもりで何度も彼の演目を演奏した。
勇利がピアノで食べていけるようになったのは、ヴィクトルのおかげもある。
家族が勇利を遺していなくなってしまった時、悲しみより先に「これからどうしよう」という不安のほうが先だった。
いつも助けてくれた家族の手、声がなくなってしまったことへの寂しさはあっても、死という概念は実感から遠い存在だったのだ。
施設に、と言われたものの、勇利は一人で生きていきたいと飛び出した。
ロシアに来ることになったとき、言葉が通じないことへの恐怖はあったが、音楽に国境はなかった。ピアノさえあればきっと何とかなると信じていた。
人に話しかけることは苦手だったけれど、音楽で食べていける場所を探して、運良くジャズバーに拾われた。
最初は優しくなどされなかった。うちも余裕はないから、客にウケなかったら雇えないと言われ、必死で演奏し続けた。
少しずつ、勇利の演奏を聞きに来るお客さんが増えて。
リサイタルをやらないか、と誘われるようになって。
マスターがあれこれ面倒見てくれるようになって。
そうして生活が落ち着いたころ、勇利はやっと家族を失って一人になったということを思い出し、初めて泣いた。
その時もラジオではヴィクトルのインタビューが流れていた。
『貴方は挫折を感じたことなんてきっとないんでしょうね』
『そうかもしれない。上手く跳べない時期や、怪我をしたことはあったし、経済的に苦しい時期もあった。
ただ、俺はそれらを気に病んだことがないんだ』
彼の言葉は勇利を励ましてくれた。
助けてくれる手がない生活は、不便なんてものではなかった。家から店は遠くて、マスターの好意で近くのアパートに引っ越すまで、毎日何時間も歩いた。
火を使うのは難しいから、自宅ではそのままで食べられる食料ばかり食べて。これは今もそうだだが。
どこかが極端に汚れても、匂いが酷くなるまで気づかなかったりする。
「なぜ施設に入らず、一人で生きていこうと思ったんだ?」
マスターに問われて初めて気がついた。なんでだろう?
「だって、ヴィクトルはそうしていたし」
ロシアではスケート支援でそうやって家計を支えている子供は沢山いる。なら自分だって出来るはずだと信じていた。
大変といえば大変な人生だったけれど、勇利は恵まれていた。
勇利には音楽とピアノがあった。
そのおかげで仕事も出来たし、ヴィクトルに出会うこともできた。
音が、あったから。
[newpage]
目が見えないのって不自由じゃないの?
そう聞く人たちの意図が、やっとわかった。
見えている人たちが急に見えなくなったら、きっとこんなふうに感じる。
見えない。音も聞こえない。
自分しかいない世界の檻に閉じ込められた絶望感。
触れてくる相手が誰かも分からない。もしかしたら、またあの酔っ払いみたいに暴力を振るうために触れてきたのかもしれない。そう思うと怖くて怖くてたまらなかった。
もう、ピアノを弾けない。
スケートの音を聞くこともできない。
ヴィクトルの澄んだ声も聞こえない。
虚ろに寝込む日々の中、マスターやお店の常連さん、ヴィクトルが何度か御見舞に来てくれた。
こんな状況になっても、手に文字を書いてくれれば意思の疎通ができることが、なんだか泣けるほど嬉しくて、悲しかった。嬉しいと思えることが悲しかった。
生きる気力を失いかけていた時、ヴィクトルが言った。
「うちにおいで」
ヴィクトルは勇利がまたピアノを弾けようになると信じているという。
勇利自身が諦めていたのに、ヴィクトルは勇利を信じてくれた。
なぜ僕を、と聞くと、ヴィクトルはこう書いた。
「奇跡はね、起こるんじゃなくて起こすんだ。俺はいつもそうしてきたよ!」
[newpage]
ヴィクトルはもともと引退したら一年は休養するつもりだったらしい。
「今まで目が回るくらい忙しく生きてきた。ゆっくり暮らしてみたい」
ゆっくり休みたいのに、勇利がいては意味ないんじゃないかな、とは言えなかったけれど。
ヴィクトルは自分の家をどんどんバリアフリーに改造していった。
勇利が動きやすいように家具を移動させて、時には家具自体を入れ替えて。
迷惑じゃないか、そんなにお金を使って大丈夫かと不安を覚えたが。
「新しい家に住むとき、食器や家具、必要なものをそろえるのにワクワクしなかった? 俺はいま、そのときと同じくらいワクワクしてる」
どの壁にもある手すり、角という角にあるクッション。
棚という棚に点字のラベルがつけられて、いたれりつくせり。
あんまり凝るので、この人は本当に楽しくてやっているんだろうな、と伝わってきた。
勇利のために空けたというピアノ部屋の扉には「宝箱」というプレートがつけられて、点字だけではなく普通の文字も刻まれていることに驚いた。なんでここが宝箱なんだろう?
ヴィクトルはローマ字式指文字を覚えてくれて、意思疎通はかなり楽になった。
勇利とヴィクトルの距離はいつの間にか近くなって、よくヴィクトルに後ろから抱っこされる形でお互いの指を握りながら色んな話をした。
何も聞こえない状態でピアノに触れることすら怖くて、部屋を作って貰ったのに何ヶ月も入らなかったが、ある日とつぜん弾いてみよう、と思い立ってピアノの前に座った。
―――すると誰もいないピアノが、ひとりでに鍵盤を下ろしていることに気づく。
驚いて指を鍵盤に這わせる。ピアノは自分で演奏を続けていた。
数分ほど理解が追いつかず、まさか幽霊、とまで思い詰めてから、もっと現実的な理由に気がついた。
ピアノ周辺を探ってみると、やはりある。
そのピアノは自動演奏装置がついていた。
いつかマスターが導入を検討していたのを覚えている。あのときは「僕の仕事とる気?」と怒ったものだけれど。
自動演奏、それも勇利の演奏だった。
無我夢中で演奏を追いかける。
鍵盤を押しても、やはり感触しかない。音を返してはくれない。勇利の外の世界では鳴っているのかもしれないが、実は鳴らないピアノだったり、調律してないピアノでも、勇利にはもう分からない。
幸い、記憶障害や運動障害は起こさず、鍵盤の位置やリズム、どう押してどこを叩けばどう音が響くのかは体が覚えていたが、記憶とズレが起きれば矯正する手段はなかった。
少なくとも今まではそう思い込んでいた。
『俺はね、挫折を気に病んだことがないんだ』
堂々と言ってのけたヴィクトルを凄いと感心しつつも、心のどこかで「天才さまは言うことが違う」と遠く考えていた。
(こういうことか………)
鍵盤に置いた指にぽつぽつ、涙の雨が降る。
あの人は、ヴィクトルは、本当に凄い人だ。
自動演奏で感覚のズレを直しながらキーを打つうち、脳裏に鮮やかな音が蘇ってきて、本当に弾いているように錯覚した。
錯覚だけでなく、聞こえていないのが嘘のように綺麗に弾けているらしい。
もう一度ピアノを弾くことができた。
ヴィクトルの言うとおりだった。
***
あるとき、勇利と同じ名前のプリセツキーが現れて「次のプロの曲を弾け!」と依頼しに来たときは驚いた。
点字の楽譜を渡されて。だから楽譜読めないってば、と文句を言ったら「じゃあ覚えろ」とのこと。
そういえば、もう耳で音楽を聞いて覚えることが出来ないから、点字楽譜がないと新しい曲は弾けないことにその時に気づいた。
少し前の自分なら、そのことを気に病んだろう。
だが今は「来シーズンまでに間に合うかな?」という焦りのほうが強い。なんとしてでも間に合わせねば。
プリセツキー(面倒くさいのであだ名はユリオ)はそれからしょっちゅうやって来て、ああでもないこれでもない、ああしろこうしろと勇利の掌に注文つけていく。
ついでにピロシキや美味しいと評判のお菓子をお土産に持ってきたり、人使いと言葉使いは荒いが妙に優しい。
隣にユリオの体温を感じながらお菓子を食べると、そういえば僕にはまだ味覚もあった、なんてことを思い出す。これまでだって食事はしていたのに、なぜ気づかなかったのだろう?
あって当たり前のものほど忘れてしまう。
その頃の勇利にとって、いつの間にかヴィクトルは居てくれるのが当たり前の存在になりつつあった。
憧れの遠い人だったヴィクトル。
縁も所縁もない勇利を引き取って、全面的に世話してくれる奇特な人だ。
その晩、ベッドで向かい合いながら手を握り合い、いつものように寝る前のおしゃべりをしている時、改めて伝えた。
「ありがとう、ヴィクトル」
どのことをどう感謝していいかすら悩むくらい、ヴィクトルによくして貰っている。
ヴィクトルは返事の代わりに、きゅうっと抱きしめてくれた。
勇利は彼以外と一緒に同じベッドで眠ったことはない。
最初は戸惑ったが、このほうが補助しやすいからと言われて納得した……というよりせざるをえなかった。一方的に負担をかけているのは此方だ。
今ではすっかり慣れて、寧ろヴィクトルの帰りが遅い夜はマッカチンがいてくれないと寂しくて眠れない。
「アイツにヘンなことされてねーか?」
ある日、ヴィクトルの留守中に遊びにきた……もしかしたらヴィクトルに頼まれて留守番に来たのかもしれないユリオが、勇利の手にそう書いた。
「ヘンって、なに?」
「服の下に触られたり、舐められたりしてねーか?」
「それって変なことなの?」
最初はくすぐたくて、じゃれて遊んでるのかと思っていた。
そういえば途中から何とも言えない気分や感覚に変わっていったかもしれない。あれを「変」というなら、そうなんだろう。
ユリオは隣に座ったまま、もぞもぞ動いてる。何をしてるんだろうと腕を触ってみると、スマホで電話をかけてるようで。
「けっきょく手ぇ出したのか、このスケベジジイ!!」
[newpage]
勇利と暮らすようになってから半年も経つ。
ヤコフにこの話をした時、当然のように反対された。
「お前は盲ろう者についての専門的な知識を持っているのか? 赤の他人を支え続けることがどれほど大変なのかを分かっているのか?」
引退宣言した直後にも関わらず、親のように叱ってくれたことが嬉しくて、思わず抱きついてしまった。ヤコフは余計に怒ったけれど。
「分からないからダメだムリだって諦めてたら、スケーターはジャンプなんか跳べないよ!」
何事も最初は思い切りが一番。
その後のことはその時考えればいい。そのせいで大ケガして死ぬかもしれなくとも、それでもスケーターは勢いをつけて高く跳ぶ。
勇利は退院前後、うつ状態にあると医者に聞かされた。
唯一の生きがいであり、生きる糧であるピアノを失ったことで、勇利は気力を失っていた。
気持ちはわかる。ヴィクトルもこの足を失ったとすれば、二度と氷の上に立てないことをきっと嘆く。
それでも自分のスケートを伝える術がなくなる訳ではない。そのことを勇利にも分かって欲しい。
ヴィクトルはまず、自宅を完全バリアフリー化計画を進め、点字ラベルプリンターを購入。部屋中にべたべたとメモやメッセージを貼り付けてゆく。
場所によっては勇利が気付かずに終わるかもしれない。でも、いつか何かの拍子に気がついて、クスっと笑ってくれればいい。
「こういうの、不思議の国のアリスであったよね」
マッカチンを撫でながら、ラベルまみれの部屋に満悦。
次に―――というより、同時進行でジャズバーのマスターから受け取った勇利の演奏を録音したCDを受け取り、専門家にMIDI化してもらった。
これを自動演奏できるよう業者に依頼し、たところ、大変食いつきがよかった。
「もしや、これはユウリ・カツキの演奏では?」
まさか言い当てられるとは思わず驚いた。
勇利はピーテルを中心に知る人ぞ知る人気のピアニストだったらしい。そういえばリサイタルもやっていたし、何処ぞのマエストロに気に入られたとか、結婚式やパーティーに呼ばれてピアノを弾くことも多かったそうな。
加えてヴィクトルの最後のシーズンのフリーを飾った曲を演奏し、業界人からすれば垂涎ものの一品だったようで、ぜひ商品化を、とせがまれた。
「自動演奏だけでなく、音源があるならCD化を。かのマエストロが愛したピアニスト、ヴィクトル・ニキフォロフの最後を飾った演奏者とあれば、世界中に売り出せます」
鼻息荒く口説かれ、ヴィクトルは苦笑した。
ひとまず勇利の状況を説明する。暴漢に襲われて聴力を失ったこと、今はそれを受け入れることに精一杯だということ。
まさかこのピアニストがそのような目に遭っているとは知らず、彼はショックを受けていた。ただでさえブラインドピアニストであった勇利が、過失事故などではなく悪意によってあの素晴らしい音楽を奪われたことに心を痛めていた。
「そういうことだから、勇利に許可を求める為にもう少し時間が欲しい。
それと、売り出すのにマエストロの名前が必要なのは分かるけど、キャッチコピーにはヴィクトル・ニキフォロフが愛したと入れてほしいな」
そのマエストロとて勇利を口説いてフラレただけで、勇利の音楽に惚れ込んでここまでしているのはヴィクトルだ。そこだけは譲れない。
とにかくその日は自動演奏化だけを頼み、自宅に戻ったところ、扉を開けて「ヴィクトル!」と勇利の嬉しそうな声に出迎えられた。
(なぜ?)
勇利には扉を開ける音など聞こえないはず。
だというのに、勇利は点字の本を投げ出してソファから立ち上がり、真っ直ぐにヴィクトルに向かってやってきた。
そんなバカな!?
視覚も聴覚もなく、ヴィクトルが帰ったのに気づき、方向を誤らず躊躇もなく部屋の中を歩く。そんなことが可能なのか?
ヴィクトルの腕の中にぱふんとおさまる勇利を抱きとめて、彼の手をとった。
「ゆうり、俺が帰ったの分かったの」
「空気が変わったし、気配があったし、マッカチンが反応したから」
ヴィクトルは指文字、勇利は普通に口で発言している。
「ユリオが来ることもあるけど、マッカチン反応しないから」
マッカチンは新しい住人である勇利を家族として迎え入れ、よく彼の足元にいる。
まるで勇利の状況が分かっているかのような動作をする。当然ながら盲導犬の訓練など受けさせていない。賢い犬だとは思っていたが、これほどまでとは知らなかったと感心する次第だ。
自動演奏のことは、伏せておいた。
勇利はまだピアノ部屋に近づこうともしない。彼が受けた傷は、脳以上に心に深く痕が残っている。
彼にはまず新しい世界での生活に慣れてもらうことと、ピアノがなくとも生きていることは楽しいと知ってもらうことが先決だった。
ピアノが生き甲斐なのはいい。だが、ピアノだけが生きる意味になっては駄目だ。
勇利は、ヴィクトルが引き取らなければ、おそらく預けられた施設で命を断っていたと思われる。それほど最初のころは酷かった。
自動演奏のCDが完成した日、勇利がいつものソファにおらず、部屋を見て回るとクローゼットで服をひっくり返している現場で。それも夢中になっていてヴィクトルの気配にも気づいていない。
「わー、凄い。色々ついてる。ひだがある。ふりふり」
どうも現役時代の衣装をほじくっているらしい。一人はしゃいで衣装をぺたぺた触れていた。
その姿が可愛らしかったので、思わずカメラに収めてから、とんとん、と肩を叩いた。
「ひえっ!? ヴィクトル帰ってる!?」
まるで悪戯が見つかった子供のように(実際、悪戯の現行犯)勇利は慌てて手をわたわたさせた。
「ごめんなさい、つい出来心で! 最初はただ、僕の持ち物どうなったかなって確認しに来ただけなんだけど………ヴィクトルのものかなって思ったら」
尻すぼみになっていく言い訳に「怒ってないよ」と後ろから抱き込んで手をにぎにぎしながら伝えた。
「ほんとに?」
「楽しんで頂けたなら何よりだ」
「ねえ、これなに? ふつうの服とは違うよね。ヴィクトルが着るの? スケーターってみんなこういう服で歩いてるの」
思わず笑ってしまった。震えが伝わって笑われたことが分かるのか、勇利は小さくなって赤面している。
「大会やアイスショーで着る衣装だよ」
「そうなんだ。アイスショーでも何着てるかまでは分かんないから、知らなかった。こういうの着るんだ……
ぼく、スケーターはみんなこういう近未来的っていうか前衛的なファッションなのかなって思った」
これで外を歩いたら完全にコスプレだ。
勇利は慌ててぐちゃぐちゃになった衣装の山から手探りで一着を取り出し「これ着て!」と叫んだ。聞こえていない分、熱が入ると声が大きくなる。
リクエストに応えてファッションショー。着替えると、勇利が大興奮でまふんと抱きついて立体を頭の中で描く為にあちこちをペタペタ触る。
「すごいすごい、カッコいい! これはいつの?」
「離れずに傍にいて、をやった時のだね」
「あー、あのヴィクトルと会ってから一年目のー………」
そう言って勇利は目の前で手を揃え、指を動かすような素振りを見せたが、少し眉を寄せて手を下ろしてしまった。
(そろそろ、かな?)
ピアノから離れて数ヶ月、恋しくなってくる頃だろう。
彼が音を失くしてから暫く経っているので、音の記憶が曖昧になってはいないかと不安もある。こればかりはヴィクトルも助けてやれない。
ヴィクトルはその日から毎日、こっそりピアノに勇利の曲を自動演奏させることにした。
さて、勇利がいつ気づくことやら?
***
実際のところ、そうかからなかった。
買い物から帰ると、それまであの部屋の付近にすら寄らなかった勇利が、扉を開けたまま熱心にピアノに触れており、自分の演奏を指で追いかけていた。
自動演奏が切れると、勇利は背筋を伸ばして鍵盤の位置を確かめ、そして――――
鮮やかな音色が鳴り始めた。
(アメイジング)
勇利に抱きつきたい衝動をこらえ、瞳を揺らす。
思った通りだ。勇利は音そのものよりも、リズムで演奏する。体が覚えているならきっとまた弾ける、と踏んではいたものの、予想以上の演奏だ。自分の音を聞けていないとは思えないほどの。
しかし、ピアノの位置が惜しい。配置を間違えた。
いや、勇利のためにはこのほうがいいのだが……ピアノを壁につけたせいで、彼の顔が見えない。
ジャズバーで演奏する勇利の姿はそれは麗しく、音楽をより魅力的にするスパイスになっていた。
一曲弾き終えて放心する勇利の肩を指で叩き、彼の手をとる。
「素晴らしい演奏だったよ!」
「ぼく、ちゃんと弾けてた?」
「パーフェクトさ。勇利は最高のピアニストだよ」
「褒めすぎ」
照れてそっぽ向かれてしまった。最近、こういう素っ気ない態度もとる。ヴィクトルとの生活に慣れてきた証拠だろう。
今までは、遠慮や憧れが強く良い顔ばかり見てきたが、これからは軽口も言い合いたいし、喧嘩だってしたい。
喧嘩しても離れることができない存在だと、勇利に知ってほしかった。
勇利がピアノを弾けるようになると知って、ちゃっかりユリオが演奏依頼をした。勇利は生まれて初めて、楽譜から新しい曲を弾くべく勉強している。
ピアノには音階の点字ラベルを張ることにした。
CD発売と復帰祝いでリサイタルを開くと、予想以上の予約が殺到したらしい。ジャズバーの関係者や常連、ピーテルのファン、そして業界人が押し寄せて、ついには例のマエストロが最前列でおいおい泣きながら勇利の演奏を聞いていた。他の連中も似たようなものだった。
「ヴィクトル・ニキフォロフ。彼にピアノを取り戻してくれてありがとう」
口々に感謝を述べられたが、全く身に覚えがない。
ヴィクトルは環境を整えて彼を支えただけ。
ピアノを再び弾きはじめたのは、勇利の力だ。
[newpage]
ヴィクトルが引退して初めてのアイスショーが開催された。
題してピアノ・オン・アイス。
全ての楽曲を勇利が担当している。
引退したシーズンで演じた「リボーン」からの開幕。
これは、生ける伝説ではなく、ロシアの皇帝などという大層な存在でもなく、ただのサプライズ好きでいたずら者のヴィクトルに戻してくれる原点回帰の曲。
プロ転向第一回目としてこれほど相応しい演目はない。
次に氷上のピアノに勇利をエスコートし、勇利を残してヴィクトルは退場する。
曲はYURI ON ICE。初めてヴィクトルが勇利をスケートに誘った日、勇利が即興で弾いた曲をプロの作曲家に頼んでブラッシュアップしてもらったもの。
この曲を滑るのは、もう一人のユーリが相応しい。二人のユーリが奏でる氷の上の愛。
だが、実は勇利はこの曲を演奏していない。自動演奏だ。
何しろスケート靴を履いているので、ペダルを踏めないのだ。
曲が終了してから、再びヴィクトルが現れ、勇利の手をとり中央まで移動する。
自動演奏のピアノから流れる「離れずに傍にいて」。素人ながらリズム感のある勇利は、教えれば案外とすんなり氷上を走るようになった。
もちろん、プロのスケーター並の鮮やかさはない。
彼をエスコートしながらのアイスダンス。
二人の薬指に嵌った指輪がライトに照らされて星のように瞬いた。
曲が終わってから、ヴィクトルは勇利をピアノへ誘導し、今度はスケートシューズを脱がせる。
何曲か招待したスケーターたちの曲をメドレーで演奏し、そして最後にもう一度、アレンジ違いの「リボーン」を。
生まれ変わって、生まれ変わって、また、始まる。
勇利には、スケーターたちがどのような演技をしているか、観客の反応がどうかも分からない。
音のしないピアノをリズムだけで演奏している。
冷えた氷の上でひたすら鍵盤を叩く。
それでも今は閉じられた檻のような世界だとは思わない。勇利は広い世界にいる。ヴィクトルと一緒に。
僕は、勝生勇利。
どこにでもいる、ふつうのピアニストです。
end.
しかし、勇利にとっては当たり前のこと。自分が何かをする時に踏む余計な手順を省いて動けることについては羨ましく思うが、それだけでもあった。
視覚という概念自体が人とズレていた。勇利は空間把握能力に優れており、頭の中で座標地図を作って、気配や音で大体の物の位置を察することが出来たので、余計にだ。
あるとき、家族に観光地へ連れていって貰ったとき、近場にいた観光客らしき誰かが言った。
「見えないのにこんな所に来ても意味ないんじゃない?」
確かにその宮殿に行った時は、あまり意味がなかったかもしれない。金色で丸い屋根があって~と説明されたもピンとこない。
けれど、もし「どうせ見えないから意味がない」という理由でアイスショーにつれていって貰えなかったら、勇利がヴィクトルに出会うことはなかった。
ロシアに来てから、何度かスケートをしたことはある。細い鉄の板みたいなもので支えられた靴で氷の上を滑るなんて、手を引かれてても怖くて怖くて出来なかった。
だというのに、スケーターはあんな靴を履いて凄まじい勢いで硬い氷の上を走る。
とりわけヴィクトルは凄かった。いろんなスケーターが登場したが、ヴィクトルが一番きれいな音で氷を切った。
間近でシュゴッと音を立てて「消え」、着地の音も優雅で。
浮いてる時間が長くてびっくりしたけど、回転しながら跳んでいると教えられてもっと驚いた。
なによりも、勇利が大好きな音楽でこんなに全身と氷で「奏でる」ことに心を奪われた。
アイスショーも前の方の、よく音が聞こえる席でないと聴覚に頼って観戦する勇利には意味がなく、めったには行けなかった。
テレビで放送されていると知ったとき、初めて見えないことが寂しいと思った。勇利には、音楽プレイヤーとテレビの区別がつかない。映像がどんなものかも想像がつかない。勇利の頭の中にある位置関係と、感触から想像した立体以上の何かがあるらしい。色とはどんなものだろう。空と海は青いとか、木の幹は茶色とか、知識でしか知らない。
だが、ヴィクトルは雲色の髪と空色の瞳をしているという。
それを聞いて初めて「色って凄い!」と思った。
ヴィクトルはロシアで有名人ゆえに、何かと耳にすることが多かったのも憧れの一因。
彼が選ぶ音楽はいつも素晴らしかった。ヴィクトルが滑っているつもりで何度も彼の演目を演奏した。
勇利がピアノで食べていけるようになったのは、ヴィクトルのおかげもある。
家族が勇利を遺していなくなってしまった時、悲しみより先に「これからどうしよう」という不安のほうが先だった。
いつも助けてくれた家族の手、声がなくなってしまったことへの寂しさはあっても、死という概念は実感から遠い存在だったのだ。
施設に、と言われたものの、勇利は一人で生きていきたいと飛び出した。
ロシアに来ることになったとき、言葉が通じないことへの恐怖はあったが、音楽に国境はなかった。ピアノさえあればきっと何とかなると信じていた。
人に話しかけることは苦手だったけれど、音楽で食べていける場所を探して、運良くジャズバーに拾われた。
最初は優しくなどされなかった。うちも余裕はないから、客にウケなかったら雇えないと言われ、必死で演奏し続けた。
少しずつ、勇利の演奏を聞きに来るお客さんが増えて。
リサイタルをやらないか、と誘われるようになって。
マスターがあれこれ面倒見てくれるようになって。
そうして生活が落ち着いたころ、勇利はやっと家族を失って一人になったということを思い出し、初めて泣いた。
その時もラジオではヴィクトルのインタビューが流れていた。
『貴方は挫折を感じたことなんてきっとないんでしょうね』
『そうかもしれない。上手く跳べない時期や、怪我をしたことはあったし、経済的に苦しい時期もあった。
ただ、俺はそれらを気に病んだことがないんだ』
彼の言葉は勇利を励ましてくれた。
助けてくれる手がない生活は、不便なんてものではなかった。家から店は遠くて、マスターの好意で近くのアパートに引っ越すまで、毎日何時間も歩いた。
火を使うのは難しいから、自宅ではそのままで食べられる食料ばかり食べて。これは今もそうだだが。
どこかが極端に汚れても、匂いが酷くなるまで気づかなかったりする。
「なぜ施設に入らず、一人で生きていこうと思ったんだ?」
マスターに問われて初めて気がついた。なんでだろう?
「だって、ヴィクトルはそうしていたし」
ロシアではスケート支援でそうやって家計を支えている子供は沢山いる。なら自分だって出来るはずだと信じていた。
大変といえば大変な人生だったけれど、勇利は恵まれていた。
勇利には音楽とピアノがあった。
そのおかげで仕事も出来たし、ヴィクトルに出会うこともできた。
音が、あったから。
[newpage]
目が見えないのって不自由じゃないの?
そう聞く人たちの意図が、やっとわかった。
見えている人たちが急に見えなくなったら、きっとこんなふうに感じる。
見えない。音も聞こえない。
自分しかいない世界の檻に閉じ込められた絶望感。
触れてくる相手が誰かも分からない。もしかしたら、またあの酔っ払いみたいに暴力を振るうために触れてきたのかもしれない。そう思うと怖くて怖くてたまらなかった。
もう、ピアノを弾けない。
スケートの音を聞くこともできない。
ヴィクトルの澄んだ声も聞こえない。
虚ろに寝込む日々の中、マスターやお店の常連さん、ヴィクトルが何度か御見舞に来てくれた。
こんな状況になっても、手に文字を書いてくれれば意思の疎通ができることが、なんだか泣けるほど嬉しくて、悲しかった。嬉しいと思えることが悲しかった。
生きる気力を失いかけていた時、ヴィクトルが言った。
「うちにおいで」
ヴィクトルは勇利がまたピアノを弾けようになると信じているという。
勇利自身が諦めていたのに、ヴィクトルは勇利を信じてくれた。
なぜ僕を、と聞くと、ヴィクトルはこう書いた。
「奇跡はね、起こるんじゃなくて起こすんだ。俺はいつもそうしてきたよ!」
[newpage]
ヴィクトルはもともと引退したら一年は休養するつもりだったらしい。
「今まで目が回るくらい忙しく生きてきた。ゆっくり暮らしてみたい」
ゆっくり休みたいのに、勇利がいては意味ないんじゃないかな、とは言えなかったけれど。
ヴィクトルは自分の家をどんどんバリアフリーに改造していった。
勇利が動きやすいように家具を移動させて、時には家具自体を入れ替えて。
迷惑じゃないか、そんなにお金を使って大丈夫かと不安を覚えたが。
「新しい家に住むとき、食器や家具、必要なものをそろえるのにワクワクしなかった? 俺はいま、そのときと同じくらいワクワクしてる」
どの壁にもある手すり、角という角にあるクッション。
棚という棚に点字のラベルがつけられて、いたれりつくせり。
あんまり凝るので、この人は本当に楽しくてやっているんだろうな、と伝わってきた。
勇利のために空けたというピアノ部屋の扉には「宝箱」というプレートがつけられて、点字だけではなく普通の文字も刻まれていることに驚いた。なんでここが宝箱なんだろう?
ヴィクトルはローマ字式指文字を覚えてくれて、意思疎通はかなり楽になった。
勇利とヴィクトルの距離はいつの間にか近くなって、よくヴィクトルに後ろから抱っこされる形でお互いの指を握りながら色んな話をした。
何も聞こえない状態でピアノに触れることすら怖くて、部屋を作って貰ったのに何ヶ月も入らなかったが、ある日とつぜん弾いてみよう、と思い立ってピアノの前に座った。
―――すると誰もいないピアノが、ひとりでに鍵盤を下ろしていることに気づく。
驚いて指を鍵盤に這わせる。ピアノは自分で演奏を続けていた。
数分ほど理解が追いつかず、まさか幽霊、とまで思い詰めてから、もっと現実的な理由に気がついた。
ピアノ周辺を探ってみると、やはりある。
そのピアノは自動演奏装置がついていた。
いつかマスターが導入を検討していたのを覚えている。あのときは「僕の仕事とる気?」と怒ったものだけれど。
自動演奏、それも勇利の演奏だった。
無我夢中で演奏を追いかける。
鍵盤を押しても、やはり感触しかない。音を返してはくれない。勇利の外の世界では鳴っているのかもしれないが、実は鳴らないピアノだったり、調律してないピアノでも、勇利にはもう分からない。
幸い、記憶障害や運動障害は起こさず、鍵盤の位置やリズム、どう押してどこを叩けばどう音が響くのかは体が覚えていたが、記憶とズレが起きれば矯正する手段はなかった。
少なくとも今まではそう思い込んでいた。
『俺はね、挫折を気に病んだことがないんだ』
堂々と言ってのけたヴィクトルを凄いと感心しつつも、心のどこかで「天才さまは言うことが違う」と遠く考えていた。
(こういうことか………)
鍵盤に置いた指にぽつぽつ、涙の雨が降る。
あの人は、ヴィクトルは、本当に凄い人だ。
自動演奏で感覚のズレを直しながらキーを打つうち、脳裏に鮮やかな音が蘇ってきて、本当に弾いているように錯覚した。
錯覚だけでなく、聞こえていないのが嘘のように綺麗に弾けているらしい。
もう一度ピアノを弾くことができた。
ヴィクトルの言うとおりだった。
***
あるとき、勇利と同じ名前のプリセツキーが現れて「次のプロの曲を弾け!」と依頼しに来たときは驚いた。
点字の楽譜を渡されて。だから楽譜読めないってば、と文句を言ったら「じゃあ覚えろ」とのこと。
そういえば、もう耳で音楽を聞いて覚えることが出来ないから、点字楽譜がないと新しい曲は弾けないことにその時に気づいた。
少し前の自分なら、そのことを気に病んだろう。
だが今は「来シーズンまでに間に合うかな?」という焦りのほうが強い。なんとしてでも間に合わせねば。
プリセツキー(面倒くさいのであだ名はユリオ)はそれからしょっちゅうやって来て、ああでもないこれでもない、ああしろこうしろと勇利の掌に注文つけていく。
ついでにピロシキや美味しいと評判のお菓子をお土産に持ってきたり、人使いと言葉使いは荒いが妙に優しい。
隣にユリオの体温を感じながらお菓子を食べると、そういえば僕にはまだ味覚もあった、なんてことを思い出す。これまでだって食事はしていたのに、なぜ気づかなかったのだろう?
あって当たり前のものほど忘れてしまう。
その頃の勇利にとって、いつの間にかヴィクトルは居てくれるのが当たり前の存在になりつつあった。
憧れの遠い人だったヴィクトル。
縁も所縁もない勇利を引き取って、全面的に世話してくれる奇特な人だ。
その晩、ベッドで向かい合いながら手を握り合い、いつものように寝る前のおしゃべりをしている時、改めて伝えた。
「ありがとう、ヴィクトル」
どのことをどう感謝していいかすら悩むくらい、ヴィクトルによくして貰っている。
ヴィクトルは返事の代わりに、きゅうっと抱きしめてくれた。
勇利は彼以外と一緒に同じベッドで眠ったことはない。
最初は戸惑ったが、このほうが補助しやすいからと言われて納得した……というよりせざるをえなかった。一方的に負担をかけているのは此方だ。
今ではすっかり慣れて、寧ろヴィクトルの帰りが遅い夜はマッカチンがいてくれないと寂しくて眠れない。
「アイツにヘンなことされてねーか?」
ある日、ヴィクトルの留守中に遊びにきた……もしかしたらヴィクトルに頼まれて留守番に来たのかもしれないユリオが、勇利の手にそう書いた。
「ヘンって、なに?」
「服の下に触られたり、舐められたりしてねーか?」
「それって変なことなの?」
最初はくすぐたくて、じゃれて遊んでるのかと思っていた。
そういえば途中から何とも言えない気分や感覚に変わっていったかもしれない。あれを「変」というなら、そうなんだろう。
ユリオは隣に座ったまま、もぞもぞ動いてる。何をしてるんだろうと腕を触ってみると、スマホで電話をかけてるようで。
「けっきょく手ぇ出したのか、このスケベジジイ!!」
[newpage]
勇利と暮らすようになってから半年も経つ。
ヤコフにこの話をした時、当然のように反対された。
「お前は盲ろう者についての専門的な知識を持っているのか? 赤の他人を支え続けることがどれほど大変なのかを分かっているのか?」
引退宣言した直後にも関わらず、親のように叱ってくれたことが嬉しくて、思わず抱きついてしまった。ヤコフは余計に怒ったけれど。
「分からないからダメだムリだって諦めてたら、スケーターはジャンプなんか跳べないよ!」
何事も最初は思い切りが一番。
その後のことはその時考えればいい。そのせいで大ケガして死ぬかもしれなくとも、それでもスケーターは勢いをつけて高く跳ぶ。
勇利は退院前後、うつ状態にあると医者に聞かされた。
唯一の生きがいであり、生きる糧であるピアノを失ったことで、勇利は気力を失っていた。
気持ちはわかる。ヴィクトルもこの足を失ったとすれば、二度と氷の上に立てないことをきっと嘆く。
それでも自分のスケートを伝える術がなくなる訳ではない。そのことを勇利にも分かって欲しい。
ヴィクトルはまず、自宅を完全バリアフリー化計画を進め、点字ラベルプリンターを購入。部屋中にべたべたとメモやメッセージを貼り付けてゆく。
場所によっては勇利が気付かずに終わるかもしれない。でも、いつか何かの拍子に気がついて、クスっと笑ってくれればいい。
「こういうの、不思議の国のアリスであったよね」
マッカチンを撫でながら、ラベルまみれの部屋に満悦。
次に―――というより、同時進行でジャズバーのマスターから受け取った勇利の演奏を録音したCDを受け取り、専門家にMIDI化してもらった。
これを自動演奏できるよう業者に依頼し、たところ、大変食いつきがよかった。
「もしや、これはユウリ・カツキの演奏では?」
まさか言い当てられるとは思わず驚いた。
勇利はピーテルを中心に知る人ぞ知る人気のピアニストだったらしい。そういえばリサイタルもやっていたし、何処ぞのマエストロに気に入られたとか、結婚式やパーティーに呼ばれてピアノを弾くことも多かったそうな。
加えてヴィクトルの最後のシーズンのフリーを飾った曲を演奏し、業界人からすれば垂涎ものの一品だったようで、ぜひ商品化を、とせがまれた。
「自動演奏だけでなく、音源があるならCD化を。かのマエストロが愛したピアニスト、ヴィクトル・ニキフォロフの最後を飾った演奏者とあれば、世界中に売り出せます」
鼻息荒く口説かれ、ヴィクトルは苦笑した。
ひとまず勇利の状況を説明する。暴漢に襲われて聴力を失ったこと、今はそれを受け入れることに精一杯だということ。
まさかこのピアニストがそのような目に遭っているとは知らず、彼はショックを受けていた。ただでさえブラインドピアニストであった勇利が、過失事故などではなく悪意によってあの素晴らしい音楽を奪われたことに心を痛めていた。
「そういうことだから、勇利に許可を求める為にもう少し時間が欲しい。
それと、売り出すのにマエストロの名前が必要なのは分かるけど、キャッチコピーにはヴィクトル・ニキフォロフが愛したと入れてほしいな」
そのマエストロとて勇利を口説いてフラレただけで、勇利の音楽に惚れ込んでここまでしているのはヴィクトルだ。そこだけは譲れない。
とにかくその日は自動演奏化だけを頼み、自宅に戻ったところ、扉を開けて「ヴィクトル!」と勇利の嬉しそうな声に出迎えられた。
(なぜ?)
勇利には扉を開ける音など聞こえないはず。
だというのに、勇利は点字の本を投げ出してソファから立ち上がり、真っ直ぐにヴィクトルに向かってやってきた。
そんなバカな!?
視覚も聴覚もなく、ヴィクトルが帰ったのに気づき、方向を誤らず躊躇もなく部屋の中を歩く。そんなことが可能なのか?
ヴィクトルの腕の中にぱふんとおさまる勇利を抱きとめて、彼の手をとった。
「ゆうり、俺が帰ったの分かったの」
「空気が変わったし、気配があったし、マッカチンが反応したから」
ヴィクトルは指文字、勇利は普通に口で発言している。
「ユリオが来ることもあるけど、マッカチン反応しないから」
マッカチンは新しい住人である勇利を家族として迎え入れ、よく彼の足元にいる。
まるで勇利の状況が分かっているかのような動作をする。当然ながら盲導犬の訓練など受けさせていない。賢い犬だとは思っていたが、これほどまでとは知らなかったと感心する次第だ。
自動演奏のことは、伏せておいた。
勇利はまだピアノ部屋に近づこうともしない。彼が受けた傷は、脳以上に心に深く痕が残っている。
彼にはまず新しい世界での生活に慣れてもらうことと、ピアノがなくとも生きていることは楽しいと知ってもらうことが先決だった。
ピアノが生き甲斐なのはいい。だが、ピアノだけが生きる意味になっては駄目だ。
勇利は、ヴィクトルが引き取らなければ、おそらく預けられた施設で命を断っていたと思われる。それほど最初のころは酷かった。
自動演奏のCDが完成した日、勇利がいつものソファにおらず、部屋を見て回るとクローゼットで服をひっくり返している現場で。それも夢中になっていてヴィクトルの気配にも気づいていない。
「わー、凄い。色々ついてる。ひだがある。ふりふり」
どうも現役時代の衣装をほじくっているらしい。一人はしゃいで衣装をぺたぺた触れていた。
その姿が可愛らしかったので、思わずカメラに収めてから、とんとん、と肩を叩いた。
「ひえっ!? ヴィクトル帰ってる!?」
まるで悪戯が見つかった子供のように(実際、悪戯の現行犯)勇利は慌てて手をわたわたさせた。
「ごめんなさい、つい出来心で! 最初はただ、僕の持ち物どうなったかなって確認しに来ただけなんだけど………ヴィクトルのものかなって思ったら」
尻すぼみになっていく言い訳に「怒ってないよ」と後ろから抱き込んで手をにぎにぎしながら伝えた。
「ほんとに?」
「楽しんで頂けたなら何よりだ」
「ねえ、これなに? ふつうの服とは違うよね。ヴィクトルが着るの? スケーターってみんなこういう服で歩いてるの」
思わず笑ってしまった。震えが伝わって笑われたことが分かるのか、勇利は小さくなって赤面している。
「大会やアイスショーで着る衣装だよ」
「そうなんだ。アイスショーでも何着てるかまでは分かんないから、知らなかった。こういうの着るんだ……
ぼく、スケーターはみんなこういう近未来的っていうか前衛的なファッションなのかなって思った」
これで外を歩いたら完全にコスプレだ。
勇利は慌ててぐちゃぐちゃになった衣装の山から手探りで一着を取り出し「これ着て!」と叫んだ。聞こえていない分、熱が入ると声が大きくなる。
リクエストに応えてファッションショー。着替えると、勇利が大興奮でまふんと抱きついて立体を頭の中で描く為にあちこちをペタペタ触る。
「すごいすごい、カッコいい! これはいつの?」
「離れずに傍にいて、をやった時のだね」
「あー、あのヴィクトルと会ってから一年目のー………」
そう言って勇利は目の前で手を揃え、指を動かすような素振りを見せたが、少し眉を寄せて手を下ろしてしまった。
(そろそろ、かな?)
ピアノから離れて数ヶ月、恋しくなってくる頃だろう。
彼が音を失くしてから暫く経っているので、音の記憶が曖昧になってはいないかと不安もある。こればかりはヴィクトルも助けてやれない。
ヴィクトルはその日から毎日、こっそりピアノに勇利の曲を自動演奏させることにした。
さて、勇利がいつ気づくことやら?
***
実際のところ、そうかからなかった。
買い物から帰ると、それまであの部屋の付近にすら寄らなかった勇利が、扉を開けたまま熱心にピアノに触れており、自分の演奏を指で追いかけていた。
自動演奏が切れると、勇利は背筋を伸ばして鍵盤の位置を確かめ、そして――――
鮮やかな音色が鳴り始めた。
(アメイジング)
勇利に抱きつきたい衝動をこらえ、瞳を揺らす。
思った通りだ。勇利は音そのものよりも、リズムで演奏する。体が覚えているならきっとまた弾ける、と踏んではいたものの、予想以上の演奏だ。自分の音を聞けていないとは思えないほどの。
しかし、ピアノの位置が惜しい。配置を間違えた。
いや、勇利のためにはこのほうがいいのだが……ピアノを壁につけたせいで、彼の顔が見えない。
ジャズバーで演奏する勇利の姿はそれは麗しく、音楽をより魅力的にするスパイスになっていた。
一曲弾き終えて放心する勇利の肩を指で叩き、彼の手をとる。
「素晴らしい演奏だったよ!」
「ぼく、ちゃんと弾けてた?」
「パーフェクトさ。勇利は最高のピアニストだよ」
「褒めすぎ」
照れてそっぽ向かれてしまった。最近、こういう素っ気ない態度もとる。ヴィクトルとの生活に慣れてきた証拠だろう。
今までは、遠慮や憧れが強く良い顔ばかり見てきたが、これからは軽口も言い合いたいし、喧嘩だってしたい。
喧嘩しても離れることができない存在だと、勇利に知ってほしかった。
勇利がピアノを弾けるようになると知って、ちゃっかりユリオが演奏依頼をした。勇利は生まれて初めて、楽譜から新しい曲を弾くべく勉強している。
ピアノには音階の点字ラベルを張ることにした。
CD発売と復帰祝いでリサイタルを開くと、予想以上の予約が殺到したらしい。ジャズバーの関係者や常連、ピーテルのファン、そして業界人が押し寄せて、ついには例のマエストロが最前列でおいおい泣きながら勇利の演奏を聞いていた。他の連中も似たようなものだった。
「ヴィクトル・ニキフォロフ。彼にピアノを取り戻してくれてありがとう」
口々に感謝を述べられたが、全く身に覚えがない。
ヴィクトルは環境を整えて彼を支えただけ。
ピアノを再び弾きはじめたのは、勇利の力だ。
[newpage]
ヴィクトルが引退して初めてのアイスショーが開催された。
題してピアノ・オン・アイス。
全ての楽曲を勇利が担当している。
引退したシーズンで演じた「リボーン」からの開幕。
これは、生ける伝説ではなく、ロシアの皇帝などという大層な存在でもなく、ただのサプライズ好きでいたずら者のヴィクトルに戻してくれる原点回帰の曲。
プロ転向第一回目としてこれほど相応しい演目はない。
次に氷上のピアノに勇利をエスコートし、勇利を残してヴィクトルは退場する。
曲はYURI ON ICE。初めてヴィクトルが勇利をスケートに誘った日、勇利が即興で弾いた曲をプロの作曲家に頼んでブラッシュアップしてもらったもの。
この曲を滑るのは、もう一人のユーリが相応しい。二人のユーリが奏でる氷の上の愛。
だが、実は勇利はこの曲を演奏していない。自動演奏だ。
何しろスケート靴を履いているので、ペダルを踏めないのだ。
曲が終了してから、再びヴィクトルが現れ、勇利の手をとり中央まで移動する。
自動演奏のピアノから流れる「離れずに傍にいて」。素人ながらリズム感のある勇利は、教えれば案外とすんなり氷上を走るようになった。
もちろん、プロのスケーター並の鮮やかさはない。
彼をエスコートしながらのアイスダンス。
二人の薬指に嵌った指輪がライトに照らされて星のように瞬いた。
曲が終わってから、ヴィクトルは勇利をピアノへ誘導し、今度はスケートシューズを脱がせる。
何曲か招待したスケーターたちの曲をメドレーで演奏し、そして最後にもう一度、アレンジ違いの「リボーン」を。
生まれ変わって、生まれ変わって、また、始まる。
勇利には、スケーターたちがどのような演技をしているか、観客の反応がどうかも分からない。
音のしないピアノをリズムだけで演奏している。
冷えた氷の上でひたすら鍵盤を叩く。
それでも今は閉じられた檻のような世界だとは思わない。勇利は広い世界にいる。ヴィクトルと一緒に。
僕は、勝生勇利。
どこにでもいる、ふつうのピアニストです。
end.
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