2018年4月7日土曜日
ヴィク勇:電影レジェンド
初のGPF出場で最下位。全日本での大失態を経て、僕は地元ハセツに帰ってきた。
家族や地元の皆の優しさはありがたかったけど、スケートを続けるかは決めてなかった。コーチとも契約解消しちゃったしね。
部屋中に囲まれた各年代別ヴィクトルポスターを眺めながら、深々ため息つく。
なんかもう駄目。このままじゃ腐る。
滑りに行くのも悪くないけど、気分転換をしたかったんでランニングがてらハセツを回った。
昔はそれなりに華やかだったアーケードは半分シャッター街になってる。あったはずの店がなかったり、見慣れない店があったり。
五年って、長いなあ。
赤ちゃんだった三つ子がスケート靴履いてスイスイ滑るくらいには長いんだ。
「ふあぁ……」
ちょっと走りすぎた。
とある店舗の前に設置された自販機でスポーツドリンクを買って一気に半分煽り、ぷはっと口を離してから店の看板がやっと目についた。
「ビデオショップGOKURAKU………?」
あからさまに田舎の片隅にありがちな、いかがわしいAVの店だ。
ただ、そっと覗いてみると割と普通のコーナーもあるみたいで、僕はそっちに向かった。
珍しい。フィギュアスケートのコーナーがあるよ。日本人選手のものも多かったし、有名どころの選手は殆ど押さえてある。ぼ……僕のもある、ね。怖くて手に取れなかったけど。
ただ、あんな仕事を受けた記憶はない。何処かの業者が勝手に出したとか? 世の中には物好きがいるんだね。
ということは、もしかして………
僕はソワッソワしながら外国人選手の棚に並んだパッケージに指を流しながら調べた。
探すまでもなくあったよね! 見たことないヴィクトルのDVD!!
え、でもこれやっぱ違法もの? スケ連ちゃんと通してる? 借りて大丈夫なやつ?
タイトルは単純に「ヴィクトル・ニキフォロフ」。シャンパンゴールドの上品な装丁にノーブルなスーツ姿のヴィクトルが優雅に微笑んでいる。
制作会社なんかの情報は一切ないな……これ、ホントに大丈夫なのかな。
「ようこそ、GOKURAKUへ」
急に背後から声をかけられて「へぁっひ!」と妙な声を上げて飛び上がった。
振り返った先にいたのは、こんな辺鄙な場所に店を構えているとは思えない黒髪の紳士。ヴィクトルとは違うタイプの美形だ。
彼は優美に微笑み、一礼した。
「歓迎します、勝生選手。ご来店をお待ちしておりました」
「へ、あ…え?」
「当店は神に愛された方をおもてなしするために存在します。勝生選手は今、人生の転機を迎えているとか。
ぜひ当店をご利用ください。きっとご満足頂けるでしょう」
はあ。
神に愛された……っていうのは、それこそヴィクトルに相応しい表現じゃない? よくこのフィギュアスケーターとしてあるまじき太り方をした豚っ腹を見てそんなこと言えるなこの人。営業文句だろうけど。
「当店が扱う商品は、再生してから一年間、その人物のコピーを現実へ呼び出すことが可能です。
初恋の人、憧れの人物……誰でも一人、選ぶことが出来ます」
僕の初恋の人、人妻のうえに一般人なんですけど。
ユウちゃんのDVDがアダルコトーナーにありそうで青ざめた。そんなところにユウちゃんのパッケージを見つけたら立ち直れない。
この人の言うことがどこまで本当か分からないけれど、僕はヴィクトルのDVDを借りることにした。
何かを期待したわけじゃない。見たことないヴィクトルのDVDがどんなものか気になっただけだった。
ノートパソコンにディスクをセットして、ファイルをダブルクリック。
再生ソフトに映ったヴィクトルが「やあ」とウインクした。
ヴィクトルか……そういえばGPFの帰りに「記念写真?」と聞かれたのが初コンタクトだった。
スケートを辞めるならあれが最初で最後のチャンスだったんだから、撮っておけばよかったかなあ。あの時は、精神的にそれどころじゃなかったけど。
『悲しそうな顔をしているね。不安かな?』
まるでこっちの様子が分かってるみたいな台詞。
僕は椅子の上で膝を抱えながら、眉を下げて画面の中のヴィクトルを見つめていた。
ずっと、彼と同じ舞台で戦うことを夢見てた。認められたかった。彼の視界に入りたかった。
だけど、ヴィクトルは僕をスケーターとしてすら認識してなかったんだ。
涙が浮かんで眼鏡を外した。もう画面の中のヴィクトルの顔すらぼんやりとしか見えない。
なんか、かえってダメージ大きいな……消そうかな。
タッチパッドに触れた瞬間「まって」と画面の中のヴィクトルが言った。え、最近のDVDは途中で閉じようとするとそんなこと言うプログラムでも組み込まれてるの?
液晶の中から、ヴィクトルがカメラに向かって手を伸ばす。その指先が、にゅる、と画面から質感を伴って現れた。
ファ――――――!!!! サダコ! サダフォロフ!!!?
ついにはビカッと画面がフラッシュして椅子ごとひっくり返った。
めっちゃ痛い。けど、不安定な姿勢で倒れた割にはそれほどでもない……?
「大丈夫?」
そっと頬を撫でられて、至近距離にあるアイスブルーの瞳に目を見開いた。
びくとる、と囁くと目の前の人物が笑って小首を傾げた。
どうやら頭を支えてくれたみたいで、思ったより衝撃がなかったのはそのせいらしい。
だけど、感謝より先に恐怖が先だった。
「だ、だれ……ど…どこから………?」
どう見ても目の前にいるのはヴィクトル・ニキフォロフその人だけど、こんなところにいるはずないし、第一ここ僕の部屋だし。さっきまで誰もいなかったし!!
ヴィクトルらしき人物がふっと笑うと銀色の前髪が浮かぶ。
「説明聞いてなかったの? あのDVDを再生するとパッケージの人物が一年間そばにいるって」
「え、え」
「つまり、オレはヴィクトル・ニキフォロフのコピーだよ! 性格も行動も容姿も記憶まで完備! ゆうりだけのヴィクトルさ!」
夢でしょうか。
むい、ともっちもちのほっぺたを自分で捻ってみた。痛い。
そもそもくっついてるヴィクトルのあったかさが……ていうかいい匂い………いやそうじゃなくて、ですね。
現実を受け止めきれない僕の顎をとって、ヴィクトル(偽)は目を覗き込んできた。
「ゆうりはオレに何を望む? 恋人? それとも恋人?」
恋人しか選択肢がないのは仕様ですか!?
性格も完コピしてるんだよね!? ねえ! ヴィクトルそんなこと言わないよね!?
僕の中のヴィクトルは「望みはなに? 記念写真?」って言う人なんだけども!!
「望んでくれないと、俺としても困っちゃうんだけどな。一年間どうやって過ごせばいいの?」
「あう、あうあうああ……」
「すっごいねえ、この部屋。俺のポスターとか雑誌だらけ。ゆうりはよっぽど俺のファ」
「もうやめてぇええええええ!!!!」
女の子みたいに叫んで顔を両手で覆った。
ところで、椅子から転げ落ちてヴィクトルにのしかかられた姿勢なので、大股開きでヴィクトルの胴体挟んでる状態なんだ。
し に た い
「そんなに怖がらないで」
顔を隠す指先にちゅっと唇の感触とリップ音。夢にしても何なの? 僕こういう願望でもあったの?
「俺はゆうりだけのヴィクトルだから、何を望むのも何をさせるのも勇利の自由さ。まあ、前提条件が心が綺麗で神様に選ばれた人間だから、あんまり酷いことすると資格を失っちゃうけど、そもそも神様に選ばれた人間がそういうことするケース今までないから」
「その神様に選ばれた……ってなんですか」
殆ど涙声で尋ねる。選ばれたんなら才能ください。自力でヴィクトルに会いに行くから!!
偽フォロフは「んー」と人差し指を口に当てて、少し考えこんでる。
「ええとね、あの店は……神様のお気に入りの中でも挫けそうになったり人生の転機にあったりする人の前に現れるんだ。
神様はまだ君にスケートをやめてほしくないんだね。
要約するとヴィクトルやるから頑張れ! ってとこかな」
ぜんっぜん現実は受け止め切れてないけど。
おそるおそるヴィクトルの顔や髪にぺたぺた触れてみると、やっぱり感触があるし、幻じゃない。
逆に、逆にさ。これがリアルな夢ならさ。
それこそ何でもお願いできるんじゃない……!?
「あ、あの。ほんとにヴィクトルの完全なコピーなの」
「そうだよ! ヴィクトルしか知らないこともなーんでも知ってるよ」
「それって、来シーズンのプロの構想とかも?」
「うん」
「す、滑ってって言ったら、滑ってくれる……!?」
「もちろん!!」
マジですか?
感激しすぎて涙出てきた。ふおぉお、夢でも神様に感謝したい。
ただ、いちおう変装してもらった。マスクつけて、昔使ってた黒縁メガネのレンズ抜いて、ニット帽被らせて。うん、これなら誰だか分かんないね。
一階に降りるとマリ姉ちゃんに「誰ソイツ」と見咎められた。
ほ、ほんとにリアルな夢ですね神様。変装させといてよかった。
「ハァイ、ヴィクトル・ニキ………」
「ビッキー! スケート仲間のビッキーっていうんだ! ハセツに遊びに来てくれたんだよ」
「ふーん………?」
「ちょっとスケートリンク行ってくるね」
偽フォロフの手を引いて慌ただしく家を出………
しまったヴィクトルの靴ない。どころかスケート靴もない。
玄関先で呆然とする僕に、偽フォロフが黒縁メガネの奥でばちこんとウインク。
「心配しないでゆうり! オプションが一つまで選べるよ!」
「じゃあスケート靴で」
「オーケー!」
次の瞬間、ヴィクトルはスケート靴を履いた状態だった。やめて! 廊下削れる!!
靴はしょうがないのでフリーサイズのゴムサンダルを履かせたよ……何処かで靴入手しなくちゃ。
とにかく目が覚める前にヴィクトルが滑ってる姿が見たくて、一生懸命ヴィクトルの手を引いた。
「ゆうりぃー、サンダルだと走りにくいよー」
「あ、ごめん! そうだいいものがあるよ」
ちょっと家に戻って自転車引いてきた。これならサンダルでも問題ない。ついでに僕はダイエットがてら走る。
行き先を口頭でナビゲートしながらアイスキャッスルまで向かった。ゆうちゃんと会うのはこの前のヴィクトル完コピ以来。
スケオタ三姉妹に録画されてたから即データ削除させたっけ。そんなに経ってないのに凄く前の気がする。
「あ、ゆうりく………あれ、その人、まさかヴィクトル?」
なんでいきなりバレたの!?
と思ったらヴィクトル、ニット帽脱いでた。
「自転車漕いだら暑くて被ってられないよー。頭皮にも悪いし」
た、確かに僕のせいでヴィクトルがてっぺんハゲになるのだけは嫌だ。もっと別の帽子を選ぶべきだった……
「え、えぇとね、ゆうちゃん。この人はロシア人のスケート仲間でビッキーって言うんだ。ハセツに遊びに来てくれたんだよ」
「ハァイ」
「どう聞いてもヴィクトルの声じゃなかと!?」
「ロシア人だから同じように聞こえるんだよ!! 大体、ヴィクトルは今、ロシアでアイスショー出てるから!!!!」
「あ、そうか。そうよね。ヴィクトルがいるはずないよね」
数分前のヴィクトル(本物)のインスタを見てゆうちゃんは納得してくれた。夢なのにヘンなところばっかリアル。
夢フォロフはしっかりアップしてから氷上に降りる。
「ゆうりは駄目だよ。そんな体型で滑ったら怪我するからね、子豚ちゃん」
あ、はい。ほんとありえない体重ですよね。子豚どころか出荷直前くらいに肥えてる自覚はある。
で、夢フォロフは僕の希望通り来シーズン用のプロを見せてくれた。構想ってかほとんど出来てるじゃないですか……!
どこからダウンロードしたやら、僕のスマホをちょいちょい弄って曲を流し始める。
ラテンギターからのキメ顔でゆうちゃんが死んだ。黒ぶちメガネにマスクしてるのに!! そして男の僕でも妊娠しそうなエロス! ブヒィイイイ神様ありがとぉおおおお!! この夢だけで来シーズン頑張れそうです!!!!!!!
ラストのポーズで昇天しかける僕らに、ヴィクトルは「うーん」と言ってる。
「なんかしっくり来ないと思わない?」
「へぁひ?」
「エロスって言ったらクリスの専売特許だしー、今更オレがエロエロダンスしても誰も驚かないよね。もうひとつアレンジ違いのもあるけど、ああいう透明感ある奴は若い頃にさんざんやったし」
急にダメ出し始めちゃった。
ものすっごい高難易度のすんばらしいプロだと思うけど、何が不服なんでしょうか。
「まあ、本物は来シーズン、エロスやると思うよ。フリーのほうはまだ決めてないけど……たぶん、また飢えて乾いたような曲を選ぶんだろうね」
自嘲するように目を伏せるヴィクトルに、僕もゆうちゃんもなんて言ったらいいか分からない。
ただ、すぐにぱっと表情を輝かせて顔を上げた。
「それで、次は何を望むの?」
「へ、ふえ?」
「一年間は消えたくても消えらんないんだよ? 何か望んで貰わないと。恋人? それともやっぱり恋人?」
だからなんで恋人の選択肢しかないんですか。
「ね、ねえ勇利くん………」
ゆうちゃんが不安そうにひそ、と耳打ちしてきた。
「あの人がヴィクトルじゃないのは分かったけど、どう見ても世界選手権五連覇はできそうなほど凄くない?」
あっ、ハイ。たぶん出来るというか達成済だと思います。
「ヴィクトルじゃないにしても有名な選手だよね?」
「えーと、訳あってビッキーは競技者ではないので……」
「プロの人?」
「そ、そんなところ」
プロであれだけ滑れる人がいたら、均衡が崩壊するレベルだけども。
シャッとリンクサイドに戻ってきたヴィクトル・夢フォロフがじっと僕を見つめてる。何かと思って戸惑ってたけど―――そうか、答えを待ってるのか。
顔を近づけられて真っ赤になりながらオタオタして。
「じゃ、じゃあえっとあの、一年、僕のコーチ………なんてどうですか」
「えっ」
「駄目………ですか。ですよね!? ぼぼぼぼ僕なんかがその」
「というか、俺でいいの?」
俺でいいのというか貴方がいいですっていうか!!
何でも願いを言えっていうから、ものすっごく勇気を振り絞ったのに、夢フォロフはすっごく不思議そうにしてる。
「まあ……ゆうりがそう言うなら」
なんで妙にがっかりしてるんだろ。
ただ、僕と違って切り替えが早い。うん、と頷いて笑う。
「そういうことなら、いっそ俺をビックリさせてやらない?」
「えっと?」
「俺のモットーは世界を驚かせること! だけど、俺自身を驚かせてくれる人ってあんまりいないんだ。だから、ゆうりが俺をビックリさせてくれたら、きっと本物もゆうりにめろめろだよ!」
めろめろ………ですか!
本物のヴィクトルを驚かせたら、せめてスケーターとして認識してもらえますかね!
「やります!」
「オーケー、そうこなくっちゃ!」
かくして夢フォロフと僕のコーチ契約が交わされた訳ですが。
まあ、どうせ夢だし目が覚めたらもう………
そう思っていた時期が、僕にもありました。
[newpage]
家族にコーチになってくれたビッキーさんですと紹介して。
カツ丼をご機嫌でたいらげて温泉に入ってビール飲んで。
朝になったらなぜか僕のベッドで絡み合うようにして一緒に寝てた。
夢なのに……夢じゃなかったフォロフ!!
「び、び、びくとる、さん?」
裸の腕に抱かれて裸の胸に顔押し付けてる状態で目覚めて、パニック状態。
なんで裸なの? なんで僕のベッドで僕を抱きしめて寝てんの? そしてなんでまだいるの?
動く範囲で何とかぺしぺし起こすと、鼻から抜けるような色っぽい呻き声をあげてゆっくり銀色の睫毛に縁取られた目を開ける。
「おはよー、ゆうり」
躊躇いも迷いもなく唇にむっちゅりキスされた。
子豚ちゃん唇もぷりぷりー、と笑いながら、裸フォロフさんはベッドから出て体を伸ばしている。
「朝風呂いってこようかな!」
「服着てください!!」
フリーダムすぎるでしょう! 本物のヴィクトルもこうなの? ねえほんとに?
天真爛漫な人だってのは知ってたけど、いくらなんでもここまでとは思わなかった。さすが公式スケートの妖精……人間界の常識が一切通用しない。
朝風呂の後、朝ごはんにアジの開きを食べながら、
「ショートのプロどうしようかー。たぶん来シーズンはエロス大会になると思うんだよね」
「ええ……」
「クリスは確定でエロに走るでしょ。そこに俺が乱入するでしょ。そしたら毎年ひとりふたりは男の色気で挑む選手って出てくるから……」
なるほど、お色気のインフレだ。
「その中にあえてエロスで飛び込むのはどう?」
「意外性なくて驚かれないんじゃない? クリスに勝てる気しないし」
「わかってないな、ゆうりは。いいかい、みんなエロスはエロスでも男の色気をぶっこんでくるんだ。
そんな中で一人だけ透明感のあるエロスをやれば、まるでドレスコードが黒タキシードのパーティに現れた華やかなドレスの姫君みたいに際立つんだよ」
エロスがゲシュタルト崩壊しそうだし、中性的なエロスとか言われても僕、豚です。顔もフツメンです。あと姫は流石に気持ち悪いので辞退します。
「ショートは俺が俺をびっくりさせたいから、プロデュース任せてくれる?」
「むしろ大歓迎です」
「で、フリーは俺を驚かせるためにゆうりが頑張って」
「ふぇ……えええ!!!」
「大丈夫、ゆうりは俺を驚かせる天才だから!」
どういう意味!?
そもそもヴィクトルに声をかけられた最初で最後の言葉は「記念写真とる?」ですよ。どこに何の驚きがあると?
「ちょっとネタバレしちゃうと、あれっだけスキルあるのに今までファイナルに残ってなかったのも最下位に沈み込んだのにもかなり驚かされた!」
「え、ヴィクトルって僕のこと知ってるの?」
「世界大会に出て来られる選手なんて限られてるからね。まあ、その数少ないトップスケーターでも興味ない選手のことはぜんっぜん覚えてないけど」
ちょっとは記憶に残ってた……と自惚れていいんでしょうか。
「コレオについては心配しなくていいよ。一緒にやろう。ただし、曲はゆうりが輝く最高のものを選んでね」
むり。。。まぢむり。。。
輝く僕ってなんだ? 電飾巻きつけて滑ればいいの?
とにかく僕が痩せるまでスケートは一切禁止だったので、その間に二人で選曲することになった。
「俺が全面プロデュースと言っても、ゆうりが嫌いな曲でやりたくはないから、いくつか候補を選んだよ」
仕事早いなぁ。
「来シーズンでオリジナルの俺が選ぶのは多分エロスのほうだけど、アレンジ違いのほうで来る可能性もある。
ゆうりに滑ってもらいたい曲の第一候補がややアレンジ違いのほうと被る曲調なんだよね」
エロスの対になるアガペーという曲を聞かせてもらった。魂が浄化されそうな神曲……これ、ヴィクトルが滑るの? っていうか後で滑って貰おう。あーもう神様、本当にありがとう!!
で、僕のほうの曲。
アガペーの女性ボーカルが成熟した女性の賛美歌であるのに対し、透明感のある妖精かセイレーンのような可憐で清楚なウィスパーボイスの女性ボーカル。ケルティックな曲調だ。
神聖なアガペーとは違って、求めるような誘うような、胸を締め付けられるような不思議なエロスがある。
ただフェミニンというだけでなく、女性が歌う男性視点の歌詞で、英語だから一人称に差異はないけど和訳するなら「ぼく」がしっくりくる。
「それでね、ゆうりはこの曲の一人称になってる人物が追い求める『何か』を演じるんだ。それはエルフかもしれないし、死んだ恋人の霊かもしれない。
曲のタイトルはガラテアだ」
なるほど意味深な……
ガラテアというと理想の女性(アニマ)を人形として作ったピグマリオンのほうが有名だけど、美しい女性から神の力で性転換した娘の名前もガラテアだ。
そして今回のテーマは「ヴィクトル・ニキフォロフびっくり大作戦」なので、ヴィクトルのガラテアを演じることになる。
「え……ヴィクトルのアニマってどんなんですか」
「アニマと決まってない。女性とも男性ともつかない、ヴィクトルを魅了するガラテアだ」
「だから、それどんなの? 僕、本物のヴィクトルに会ったことないし……インタビューなんかでも好みのタイプとかごまかして答えるし」
「俺が胸きゅんしたらヴィクトルの好みだよ!」
だからそれを教えてくださいと言ってるんでしょうが!!
僕の中で浮かぶガラテア像はゆうちゃん。彼女だって僕が思うより色んな一面があるはずだけど(三つ子を叱ったりする時はけっこうガミガミして怖い顔してる)、僕にとってのゆうちゃんはそれこそ妖精みたいな存在だ。
それからいつまでも若くて綺麗なミナコ先生。お母さんも……実の母親を女性として見るのは何とも言えないけど、可愛らしい性格だと思う。
女性じゃないけど、ピチットくんも人として本当に魅力的だと思うし……
そして、ヴィクトル。
僕がこの世で最も魅力的だと思う、男性でも女性でもない存在。
僕はたぶん、彼のことを人とも思っていない。別次元の、それこそ神様側の世界の何か。
何となくガラテア像をつかめてきたところで、夢フォロフと話を詰めながら振り付けを決めていく。
紆余曲折を経てフリーの曲もなんとかなりました。
それにしても、今ここにいる彼が本当のヴィクトルじゃなくてよかったと思ってたりする。多分、本物にはもっと遠慮したり敬遠したりしちゃう。
だってヴィクトルは世界のヴィクトルだけど、彼は僕だけのヴィクトルだから。
[newpage]
オフシーズン、練習してたというより海やスケートリンクでヴィクトルと遊び倒した記憶しかない。本当に夢のような夏でした。神様ありがとう。
とはいえ、まさかGPSの中国大会でいきなりヴィクトルとぶち当たるとは思わなかったよね。
ピチットくんがいるのは救いだけど……ヴィクトルとクリスいますよ……? いきなりのエロス大会じゃないですか。
最悪ファイナルに残れないとしても、ヴィクトルと当たるからサプライズ作戦も決行できるからラッキーと思っておこうかな。
夢フォロフの変装には力を入れた。まず髪はオフシーズン中に伸ばして貰ってたので項で軽く括って、色は金に染めて貰って……ロンゲ金髪フォロフはそれはそれでカッコよかったので激写しました。
そしてサングラスにマスク。
どっかのエージェントみたい。
何よりも、ここまで僕に付き合ってくれた夢フォロフに応えたい。
ちょっと意気込みが強すぎてカチコチになってたところ、急にお尻をなで上げられた。
「ひぃっ、クリス!!」
「やあ勇利。相変わらずいいお尻してる」
クリスにお尻揉まれたの初めてだと思うけど!?
「―――ゆうりぃっ」
お花とお星様とハートをちらしたような、聞き慣れた声がして思わず横にいる夢フォロフを見上げたんだけど。
なぜか正面から抱きつかれて目を白黒させた。
ん……ヴィクトルだ。でも夢フォロフは変装してて隣にいるし。え、これ、誰? 第三のフォロフ?
ヴィクトル……? らしき人物は僕に頬ずりしてから少し離れた。ご機嫌から一転、むすんと膨れている。
「なんで世界選手権にいない? 引退したのかと思ってショックだった。
あの夜、あんなに激しく俺を求めたのに、音沙汰もなくて……ワンナイトラブ? 俺のことは遊びだったの?」
なんかすっごく詰られてる。
夢フォロフと数ヶ月暮らしてたんでお馴染みのノリだけど、えぇとこれ、本物のヴィクトルでいいんだよね? コーチを見上げたらコクン、と頷いてる。
ていうかあの夜っていつの夜? 激しく求めた? どゆこと?
なぜかヴィクトルにぎゅうぎゅう抱きつかれるし、めっちゃクリスにお尻揉みしだかれるし、その図をピチットくんに激写されるし地獄絵図。
何がなんだか分からないけど、チャンスだと思ってぐっと顔を上げた。
「あ、あ、あの。今日、ヴィクトルのためにプロ、作ってきたので………見てください」
ヴィクトル(本物)はそれは大きく目を見開いて―――
瞳を揺らして乙女みたいに拳を握った。な、なんか凄く嬉しそうだ。
「いいね! そういうの大好きだよ!! すっごく楽しみにしてる!」
「ヴィーチャ!! いい加減にせんかぁ!」
「あ、ヤコフ。それじゃあ、勇利もクリスもまた後でね」
すっごく笑顔で手を振って、ヴィクトルはヤコフコーチのところへ戻っていった。
クリスとも別れてから、夢フォロフにこそっと話かける。
「あの……ヴィクトルあれどうしたの? あの夜とか激しく求めたとか。最後に会ったの記念写真の時だったような」
「むしろ記念撮影なんてしたっけ? 俺はゆうりを一杯撮ったけど、ゆうりは踊りっぱなしだったろ」
…………?
あ、ピチットくんの滑走始まってる。前からやりたかったって言ってた曲だ!
すっごいカッコいい……衣装もスケーティングも。王子様だ。王子様がいる。
そしてヴィクトルのエロス! やっぱりエロスで来た!
はわわわブラックに赤の刺繍の入ったボレロ衣装……練習着の夢フォロフが滑ったのを何度か見たけど、構想時より洗練されてる。これはやばい。
クリスとは違う、情熱的だけどノーブルで優雅な色気。
「あー、やっぱり微妙に失敗してるねー」
夢フォロフに抱き込まれながら観戦してたけど、何言ってるのかわかんないよ。
「インパクト弱いー」
「そう? エロス過ぎて僕しにそうですけど」
「いつものニキフォロフって感じじゃない?」
ヴィクオタからすればいつまでもヴィクトルでいてほしいと思うけど、本人的には色々思うところあるのかな。
続いてクリスのむせ返るようなドエロス。
これから僕はアップだけど、エロス三連続で最後とかキツい……ヴィクトルに大口叩いた直後だし。
ナーバスってほどじゃないけどぷるぷるしてたら夢フォロフにきゅっと手を握られた。
よくわかんないけど、夢フォロフの傍にいると安心する。ベ◯マックス……そう、ベイ◯ックス的な安心感がある。
本物の前に立つとあんなに緊張するのにね。
「行ってきます」
[newpage]
(けっきょく、新しいコーチと契約しちゃったんだなあ)
二階の観客席の手すりに頬杖ついて、ヴィクトルは拍手とともにリンクへ出る勝生勇利を見守った。
GPSに彼以外の日本人が参戦していないことや、世界選手権で日本の代表選手が下位だったことから、現在彼が日本のエースであることは間違いないのに、世界選手権で会えなかった。
あのバンケットで連絡先を交換しておかなかったのは手落ちだった。このネット社会、SNSですぐ連絡はつくと思ったのに、勇利ときたらアカウントがどこにあるかさえ分からない。今どきそんなスケーターがいるなんて驚きだ。
だが、同時に胸が高鳴っていた。
あの子のリズム感とステップは世界最高峰だ。ヴィクトルと並んで遜色なく、ヴィクトルにも真似できない唯一無二のもの。
もし今シーズン、彼のコーチを引き受けていたら、この高揚感は味わえなかっただろう。
衣装は、ガーリーなボレロを思わせるショート丈のジャケットと、腰の両側から下方に切り込むような花柄の刺繍が入るシャツをマニッシュに纏めており、男性が男装の麗人に扮しているという倒錯的な美を感じさせる着こなし。
ボトムに下着やドレスを彷彿とさせる黒レースのラインが入っているのも心憎い。
これは男臭いタイプがすれば滑稽だし、逆にユーリのような正統派美少年では単なる女装になってしまう。勇利でなければ鼻につく、難しいコーディネートだ。
あの金髪コーチ、やりよる。
同時に胸の奥にもやもやした黒い感情が湧き上がった。
ヴィクトルは嫉妬を知らない。する必要がない恵まれた環境にあった。
だが、彼はロシア人の男で、本来ならコーチを引き受けるつもりでいたほど勇利を気にいっていた。
目を付けた好みの子を好みで着飾らせるのはロシア男のサガだというのに、あれほどヴィクトル好みのコーディネイトを他の男に見せつけられ、面白くないのに惹きつけられるという悔しさを覚えていた。
ヴィクトルが拗ねているうち、会場に弾くようなケルティッシュなアコースティックギターから可憐なウィスパーボイスが響く。曲名はガラテア。
ユーリにあげたプロとちょっと被ったかな、と感じたのはほんの一瞬。
神聖で禁欲的なアガペーとは何もかも違う。
水たまりで遊ぶようなステップ、秘密めいた清楚な色香。
それは香る乙女のようであり、アシェンバッハが魅入られた少年のようでもあった。
ピグマリオンが愛した人形。
女性から男性になった神の娘。
玉虫色のアニムとアニムス。
無色透明のガラテア―――――
ヴィクトル、クリスと続いた強烈なエロスの後であるがゆえに、初恋のときめきを思い出させる叙情的な魅力が際立った。
むきだしの情欲よりも、秘めた情事は胸をくすぐる。
何よりも、あの清潔な色気ときたら……
(狡い………)
ずるずるとその場にへたりこむ。
その気にさせるだけさせて、この俺をフッて、俺の為に滑ると嘯き、誰のものでもない偶像を踊ってかき乱された。
ヴィクトルはもう、完成してしまったがゆえにあんなものにはなれない。ヴィクトル・ニキフォロフ以外の何者にもなれない。
きっと誰もが自分だけの綺麗な何かを抱いてあのガラテアに恋をする。
ヴィクトルのためと言いながら、誰のものにでもなるのだ。
***
出来栄えは上々。
苦手なサルコウを取り入れながら、勇利はノーミスで滑りきった。
どこで見ているかは知らないが、今頃ヴィクトル・ニキフォロフのオリジナルは悶絶している頃だろう。
(バンケットでコーチになってって言われたとき、もう既に半分落ちていたようなものなんだ。
他ならぬ俺自身が俺好みのスケーティングをする俺好みの子に俺好みの衣装で俺好みのプロを見せつけられたらたまったもんじゃないよねえ)
手に届くようで届かないもの。
何もかもを容易く手に入れてきた男が、月に手を伸ばして空振った。
ちょっとだけ、いい気味だ。
「ヴィ……コーチ! 僕、よかったでしょ?」
帰ってきた勇利をぱふんと抱きとめ、マスクの下で微笑んだ。
「ヴィクトル、気に入ってくれたかな」
「もちろん! 勇利は最高の生徒だよ」
「へへ……」
滑走後の興奮で上気し、滑りきった満足感で緩みきったこの顔。
役割を果たすために出現した偽物に過ぎないけれど。
あと数ヶ月で消えてしまうこの身だけれど。
今だけ、この瞬間だけは、この輝く笑顔は自分のものだ。
このような感情を抱く自分が、コピーとして欠陥品であると知りながら。
[newpage]
ショートの試合が終わって、コーチと歩いてたら誰かが僕の隣に滑り込んできた。
ピチットくんかな、と振り返ったらめっちゃ近くにヴィクトルの顔があって、思わず顔を正面に戻した。
「ゆうり?」
「は、はひ………」
「今日の試合、とてもよかった」
耳元でやめてさぁあああああ!!!
身を竦めてビクンビクン震える。
こういうのコーチフォロフもするけど、ある意味慣 れてるけど、本物だと思うと辛い。嬉しいとか通り越して辛い。
肩越しにちらっと見ると、やっぱり顔めっちゃ近……もう僕の肩に顎乗せる勢い!! うっかり振り返るとキスできる。
近眼の僕でも睫毛の一本一本が見える至近距離で、ヴィクトルは微笑んだ。
「今晩、食事に行こう」
しょ………
しょくじ!?
ていうかあの、なんでヴィクトルこんなグイグイくるの? 去年会ったときこんなんじゃなかったよね。
コーチフォロフなんかした? って思わず見たけど、グラサンマスクの金髪からは何の表情も読み取れない……読み取れるはずもない。
ただ、彼は親指をグッと立てた。行け、ということだろう。
***
「というわけで、おめかしだよ勇利!」
部屋に戻ってグラサンとマスクを剥いだコーチフォロフがニコパーっと笑う。
おめかしって言われても、僕ジャージとかモサい服しか持ってきてな……
コーチフォロフのスーツケースから色んな服が出てきたよ!?
「通販で買っておいたんだー。試着できないし実際のイメージと違うことあるから、通販で服買うの嫌いなんだけどね。
あ、お金は気にしなくていーよ。お店の経費だから」
なんでお店の経費で僕の服が落ちるの。どういう仕組なのホント。
あれやこれや出してベッドの上で組み合わせてるコーチフォロフ。
「あの……聞きそびれたんだけど、一年したら貴方はどうなるの?」
「ん? そりゃ元の場所に戻るよ」
当たり前じゃない、みたいな顔で振り返るコーチフォロフ。
「元いた場所って、どんなところ?」
「どんなも何もないなー。俺はデータ上の存在だから」
「一年したらデータに戻っちゃうってこと?」
「そうだね」
あえなくなるんだ……
そりゃ最初から一年って聞かされてたけど。夢だと思ってたけど。
今こうして触れると温かいし、確かにここにいるのに、いなくなって二度と会えないんだ。
「ゆうり」
笑うような声で、コーチフォロフは僕の名前を呼ぶ。
「本物のヴィクトルがいれば、俺はいらないんだよ」
「い……いらなくなんてない!!」
「そりゃ、俺はゆうりに都合のいい存在だから、寂しいかもしれない。現実のヴィクトルとうまくいかないことだってあるかもしれない。
でも、ずっと俺がいたら、ゆうりはダメになっちゃう」
そうかもしれない。
彼には物凄く助けられてる。それは、僕のためだけに存在してるからって何度も説明された。
だけど、そうじゃなくて……たとえ僕のためじゃなくても、世界の何処かにはいてほしいよ。彼がこの世から消えちゃうなんて寂しい。そんなの、死んじゃうのと何が違うの?
そんな僕を振り返って抱きしめてくれた。
「ありがとう、ゆうり。ヴィクトルは幸せものだねえ」
ちがうよ。
こんなのちがう。
コーチフォロフは僕のメガネを外して、そっと指先で涙を拭ってくれた。
神様
僕が望んだのは、こんなことじゃない
[newpage]
コーチフォロフが選んでくれたのは、腿まで隠れるニットセーターとジャケット。ボトムはスリムに見える黒のスキニーだった。
眼鏡は没収されて、前髪を軽くワックスで整えられた。
よく見えないけどたぶん人生で一番オシャレしてる。
「んー、かわいい。食べちゃいたい」
ほっぺたぷにぷにされながら。
彼が選んだってことは、ヴィクトルも気に入ってくれるんだろう。
ほんと対ヴィクトル最強兵器だよね。
「あの、ぜんっぜん見えないんだけど。そりゃ試合中も眼鏡は外すけど……」
「かえって見えないほうがいいよ。ヴィクトルと向かい合ったらどうせ緊張するだろ?」
ああはい、まあそうですね。あの超絶美貌は多少ぼやけてるほうがいいのかもしれない。
コーチフォロフと別れて、約束のロビーでそわそわしながらヴィクトルを待ってた。
口約束だし忘れてすっぽかされるとか、実はからかわれただけ、なんてないよね?
「―――勝生選手?」
中国だけど英語で話しかけられて思わず顔を上げた。よくわかんないけど白人。スケーターじゃないな。関係者かも。
「はい。勝生勇利ですけど」
「本物! へえぇ、普段はこんなに可愛いんだね」
言われたことないですけど……モサ眼鏡の豚野郎ですので。スケ連HPではバナー詐欺師と名高いです。
大体、男子スケーターにキュートってさ。コーチフォロフも言ってたけど。どうせならクールファッションにしてほしかった。たぶん童顔が際立ってる。
「どう? 食事でも。奢るよ」
たぶん、自分の容姿に自信があるんだろうな。よく見えないけど。
自分イケメンなんですーって言いたげな、たぶん笑顔。馴れ馴れしく肩を抱かれてびくっと震えた。え、え、なんで?
忍ばなくても気づかれない程度にモブ顔だから、スケーターとバレてもこんなの初めてだった。せいぜいサインくださいーとか記念写真ーとかさ。
デトロイド時代でもこんなの無かった。
あ、ヤクの売人とか?
豆腐メンタルなのは有名だから、いい薬あるよー的な? スケーターが試合前にそんな人と関わったって噂になるだけで大問題だよ!
「こ…困ります」
「何もしないよ。食事だけ。ね」
歯を見せて笑ってるけど、何もしないって何? 何かあるって前提で何もしないって言ってるの? 内臓売られちゃうとか? ちゅうごくこわいある……!!
女の人が絡まれてるならロビーだし誰か助けてくれるだろうけど、男が男に絡まれてても気にされない。
あうあう言ってビビりまくってたら、横からぐいっと強い力で腕を引かれた。ばふんと何かにぶちあたる。
「ごめんねえ。先約なんだ。またにしてくれるかな?」
あーヴィクトル! いいところに来てくれた、内臓ほじくりかえされるところだった!!
さすがの内臓バイヤーもロシアの皇帝を前にそそくさ立ち去っていった。はー、助かった。僕の腎臓が。
「ありがとうございます。危うく売られるところでした」
「あはは、ゆうりは面白いなー。いくら中国だってそんなこと……え、そういう話だったの? 俺はてっきりナンパされてるだけかと」
男は男にナンパされません。
あーでもグァンホンくんとかされそうだな……ピチットくんと仲良くてインスタでたまに見かけるけど、やたら可愛いよね、あの子。まあ未成年だから夜は大人の人がちゃんとついてるだろう(※一人で出歩いて買い食いする子)。
ヴィクトルは僕の手首をとって歩き出した。
「さて、どこいこうか! 食べたいものはある? 火鍋いく?」
「あ、えと。試合前に生物はちょっと……あと減量中です」
「そんなに太ってる?」
「太りやすくて」
そう言うと納得してくれたみたい。スケーターとウェイトコントロールは切って離せない。ヴィクトルはよく食べるみたいだけどね。食事の写メよくアップされるし。
ヴィクトルが連れていってくれたのは、落ち着いた雰囲気で野菜中心、油少なめのお店だった。中国の野菜怖いアルが大丈夫アルか……そんなこと言い出すと中国で何も食べられなくなるけどさ。
そして、ヴィクトルって思ったより子供みたいにはぐはぐ食べるなあ。コーチフォロフがそうだから、予想はついてた。
「昨日のプロはよかったよ。本当に俺のために?」
「き、気に入ってもらえたなら、えと、その……コーチと一緒にヴィクトルをびっくりさせようって」
「ふーん?」
頬杖ついて、僕の顔を覗き込んでいるらしいヴィクトル。笑ってる、と思うけどその機微までは窺えない。
「あのコーチは誰? ずいぶん俺に似たプロを作るね。いや、俺と似た発想のプロ……かな」
そりゃヴィクトルのコピーでおすしね?
困った、ヴィクトルはスケーターだから下手な言い訳が通じないぞ。あれはバレエダンサーのコレオじゃないし、あのレベルのコレオが作れる振付師だと調べがつかないと却って不自然かも。
「え、と……たまたま僕のバレエの先生に紹介されて。ヴィクトルのファンなんだそうです。僕も……そうなので。じゃあ今シーズンだけ一緒にやろうかって」
「へえ。今シーズンだけの契約なの?」
「はい。たぶん僕、今年がラストシーズンになると思いますから」
「………?」
ヴィクトルの顔から笑顔が消えた、気がする。
「引退、するの」
「え、はい。そのつもり……です。コーチとも一年だけ、という約束なので」
あ、あれ………?
なんかヴィクトル、もしかして怒ってる?
「あ、もしかして彼に依頼したかったんですか?」
「うん?」
「彼のコレオが気になるのかなって。でも、たぶん無理です。すみません。彼も今年だけとのことで。ちょっと事情のある人なんです」
「いや。俺は自分の振り付けは自分でやるから」
「ですよね! 毎年凄いです。いつかヴィクトルみたいにできたらって、思ってるうちに引退………」
言ってるうちに悲しくなってきた。
そういえば、いつかヴィクトルみたいに自分で曲を選んで振り付けもやってみたいって思ってたっけ。なのに、まともな成績も残せないまま夢も叶えず崖っぷちにいる。
ショートも、二位だった……クリスに初めて勝てたけど。でも、シーズン序盤だから難易度下げてただけだし。
ヴィクトルには全然敵わなくて。ショート114点だよ。ほんとむり。コーチフォロフがオニチク構成で作ってくれたプロでも基礎点で全く敵わない。
「―――どうして引退するの? 怪我?」
「あー……まあ、ピークきてますし。潮時ですね。いい成績残せるスケーターなら話は別だけど」
「彼、いい振付師だね。君の良さをよく理解して、とても趣向を凝らしてる。フリーも期待できそうだ。
彼のコレオを滑るスキルがあるなら、故障でもない限りこれからもっといいスケートができるんじゃない?
俺をびっくりさせたいだけじゃないよ。君というスケーターをよく見てる。愛がなければ作れない」
愛………
何か、むずっとした。神様の使いだもん、愛だよねえ。
「彼が引き出した魅力を、そのまま終わらせてしまうのは勿体ないと俺は思うな」
「そう……かな」
「少なくとも彼はそう望んでないと、俺は思うよ」
………そっか。
聞いてみようかな、帰ったら。
僕、彼に願い事を聞いてもらうばかりで、彼に何かしてあげるってなかった。何をしてあげていいか分からなかったし。
ええ、いいやでも、彼の望みってヴィクトルの望みだよね。僕ごときが叶えてあげられるかな。
「ゆうり」
本日何度目か、歌うように名前を呼ぶ声。
「去年のバンケットでコーチになってって言われた時、俺すごく嬉しかったんだ」
「ふぁ………ふげあ!?」
「まあ、酒の席の話だしねえ。でも、だから彼にコーチとられてショックだった。俺をびっくりさせてくれたから、プラマイゼロだけど。
ゆうりにコーチになってって言われてからね、もし勇利のコーチになったらどんなプロにしようってあれこれ考えた。ぽろぽろ、断片的にゆうりに関するインスピレーションが湧いて、でもゆうりのことよくしらないから途切れ途切れでね。
でも、消えないし終わらないんだ。瞬く光みたいにアイデアが浮かんで弾ける。
だから、フリーはそれを繋げてみた。ゆうりのことを想って作ったプロだよ」
…………………。
まって。情報処理追いつかない。酒ぐび。
実は食前酒からけっこう呑んでる。ほんのすこしのつもりだったけど、緊張してていつの間にかくぴくぴと……
バンケットでコーチ? 何のこと? え、去年……チェレスティーノにつれてかれて。えーと、すごいシャンパン呑んだ。
まさかその時? 嘘。記念写真? とか聞いてきたヴィクトルにコーチになれって。嘘だと言って。
しかも僕のためって……僕の。
酒でも呑んでないと持たない。
いつもならそろそろ暴れ始める頃合いだけど、試合で疲れてたのと緊張でぐったりしてきた。
明らかに飲み過ぎだ。
[newpage]
ロシア人のヴィクトルにとって酒はよき友である。ここはそう寒くないので深酒まではしないが、それでも他人種よりはよく呑む。
一方で様々な国の人間と呑むことが多く、他国はロシア人ほど呑まないのも知っていた。
勇利がヴィクトルと同じペースで酒を口にする姿と、去年の大暴れを知るだけに、大丈夫かな、と見守っていると案の定、頭をフラフラさせ始めた。
「ゆうり。そろそろ帰ろうか」
「やだ……」
「嫌なの?」
「びくとるといたい」
「………」
苦笑した。困った子だ。デートに誘われて口説かれて、酒に酔ってそんなことを言う。
会うたび違う顔を見せてくれる。はじめはジュニアの選手かと思った。ヴィクトルに声をかけられて無視する選手は初めてで、かと思えば次に会ったら型破りの大胆な姿。
翌年に会ったと思えばやけにシャイで控えめ、その直後にあのガラテア。酒を飲めば今度も暴れるかと思えば、この調子だ。
「じゃあ、俺の部屋にくる?」
誘ってみると、コックンと頷く。
困った子を通り越していけない子だ。ナンパされていた時、いかにも慣れていません、というウブな顔をしていたくせに。
手を引くと、おぼつかないながら自分の足で歩く。どこにいるのかも分かっていなさそうだ。
部屋までお持ち帰りすると、自分でよたよたベッドに転がってしまった。酒に染まった顔でくったりしている。
(むぅー)
何だか全てを段取り良くお膳立てされているような。
もちろん、勇利にその気は一切ないのだろうが、問題はあのコーチ。
これがいいんだろ? これが好みだろ? こういうふうにしたいんだろ? という声が聞こえてくるようだ。
まあ、頂けるものは頂く。
ゆるく開かれた指に指を絡め、柔らかそうな唇を合わせる。軽く吸って離れると、勇利がキャラメル色の瞳をうっすら覗かせて、不思議そうにヴィクトルを見返した。
何も知らないんだな、と感じた。酔っているからだけではない。人肌を知らないのだ。
瞼はまたとろとろと落ちている。ニットの中に手を差し込んだ。ひくっと反応する体。
大きく開いた首元に唇を寄せ、そして――――
ノック。
(なんとなく、予想はしていたよ)
ひとまず首筋を啄んで、離れた。
来客は案の定、勇利のコーチだ。扉を開けたらなぜかダブルピースで迎えられた。
「来ると思ってたよ。あの子を俺に渡す気なんてさらさらないんだろ」
無視して続けることも出来た。だが、この男は何らかの方法で扉をこじあけるか、勇利の気を引いて起こせるだろう。
男は何も言わず、部屋の中へ入っていく。
すれ違いざまの足運び、姿勢。そして体型。ダンサーじゃない。やはりスケーターだ。それも現役。
決して軽くはない勇利を抱え、苦もなく立ち上がる。
道を空けたヴィクトルは、彼が立ち去る前に「ねえ」と声をかけた。
「君、眉毛が銀色だね」
不自然にきつい金髪。
眉だけが銀色。たぶん、睫毛や他の体毛も。
男は一言も口を利かずに立ち去った。
(耳は聞こえてるみたいだ。音に反応する。喉に異常がある可能性はあるが―――意図的に喋らない、というほうが正確かな)
嫌悪や敵意は感じない。関心もないが、かといって無関心でもない。
勇利は彼をヴィクトルのファンと言った。そうでもなければ説明のつかない振り付けだ。少なくとも彼はヴィクトルのスケートを深く理解している。あるいはヤコフよりもずっと。
だが、彼にあるのは勇利への愛だけだ。
あの師弟をどう捉えてよいか分からず、ヴィクトルは珍しく困惑していた。
今シーズンで引退するという勇利。
今シーズンだけコーチを引き受けたというあの男。
ヴィクトルのためのプロ。お膳立てするだけして横から掻っ攫う。
明日のフリーを見れば答えは出るだろうか。
***
割と、順当。
スケーターの寿命は短く、若くして様々な理由で諦めざるをえない選手は多い。入れ替わりが激しい中、ヴィクトルはこんな試合を幾度も目にしてきた。
クリスの調子は割といいらしい。まあ、いつだって大きく崩れることのないスケーターだが。
対して勇利だが、どうも眠れていないらしく、会場で見かけた時にコーチに肩をゆさゆさされていた。昨日の公開練習でも緊張気味、今日に至ってはジャンプを失敗して目が死んでいた。
ただ、出番の前には持ち直したらしい。
美しく始まるピアノの螺旋。
ショートと違って何かを演じるつもりはないらしい。演目は彼自身。衣装も彼を最も美しく見せるものだ。
誰のものでもない理想を演じた後に、これが僕ですと、強く主張するようなプロだった。
だからこそもったいないミスも多かったが、相変わらずステップシークエンスの美麗さは頭ひとつ抜けている。あのコーチが手がけただけはあり、息をするのも忘れる。
まずあのステップを踏めるスケーターが世界にもそういない。ヴィクトルならやろうと思えばやれるかもしれないが、クリスにもおそらく無理だ。
やはりあのコーチ、やりよる。
会場に歓声が響き渡った。
転倒はしたものの、クワドフリップ。ヴィクトルは目を見開いた。
今まで自分以外が成功させたことのないジャンプ。
なぜ、この演目の最後に……? 自分自身を精一杯に氷の上で描いたその最後に。
飢えと乾きを感じる。
窒息しそうだ。
なぜこんなに掻き乱される?
確かに勇利を気に入ってはいた。コーチをしてやりたいとも思っていた―――「してやってもいい」と思っていた、というほうが正しいか。
今は、なぜ全てを出し切ったあの子を迎えるあの場所に自分がいないのか、そんな思いで胸を焼かれていた。
[newpage]
ヴィクトルのフリーの前ということで、勇利はかなり緊張していた。眠れなかったらしい。
どうしたものか悩んだ末に、本物のヴィクトルならこの時点で飽きてコーチを辞めるかもしれない、と発破かけるつもりで言ったところ、大泣きされた。
それが功を奏したらしく、とりあえず立ち直り、予定にないフリップを跳ぶ気構えまで見せてくれた。
(コーチをやるつもりだったくせに、全く知識も気構えもないんだよね。俺の身にもなってよ)
思わずヴィクトルに文句をつける始末。
そしてキスクラでは自分の点数もそっちのけでヴィクトルを真剣に見つめている。このまま観戦するつもりらしい。
(さて、沈没寸前の皇帝。今年はどうするのかな?)
データから現実に構成された時点で、ヴィクトルとは分離し、記憶は別々になっている。
ヴィクトルのコピーにも、今年のプロは予測できなかった。大方、自分自身も飽きたようなアイデアを捻り出してくるのだろう、と思われたが―――
(ボサノヴァ?)
まさかの選曲。何パターンかある愛についてのアレンジよりも意表を突かれた。
『 カラメルの星の尾 深海の宇宙服 オールトの虚
割れる水面 溺れる魚 波の泡
瞬く棘 逆さまの楕円 卵の息吹 』
意味もない単語の羅列をなぞって滑る。
水遊びをする子供のように。
決して構成上の大きな盛り上がりはない。ストーリー性もない。心浮き立つ暖かなボサノバの曲調でヴィクトル・ニキフォロフが楽しげに滑っているだけ。
たったそれだけのことが、これほどまでに人の心を打つのか。
額をおさえた。少なくとも今までのヴィクトルでは考えつかない表現。染み付いたイメージを捨て去っている。
(俺と分離した後に、何か心境の変化でも………?)
訝しんだが、隣の勇利の様子ですぐに分かった。
おにぎりのぬいぐるみに半分顔を埋めて、甘そうな色の目から涙を零して震えている。
それはまるで、カラメルで出来た星のようだった。
そう。そうか。
思わずキスクラで脱力。
(神様も意地悪だなあ)
嘆かずにいられようか。
勝生勇利の為に作られたヴィクトルの模造品。
そんなものの居場所なんて最初から何処にもなかったろうに。
続こうかな、どうしようかな、でやめてしまったシリーズ
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