2018年10月4日木曜日

YOI ライトなあの子とカツキチの私

 まあちょっと聞いてくれよ。
 うちの会社は通販もやってる老舗で、私は事務、あの子は通販処理。
 これが吃驚するほど仕事ができない。遅い、ミスは多い、物覚えが悪いの三重苦。通販処理が滞るとこっちに仕事回ってくるのも遅れるんで、彼女のせいで残業した数知れず。
 おかげで今年のGPF、勝生くんのライスト見損ねちまった。ほんとは有給とってバルセロナまで行きたかったのに。
 引退するか否かの瀬戸際で今年ヴィクトル・ニキフォロフがコーチについたんだよ? 日本のスケオタお祭り騒ぎ。なのにバルセロナどころかリアタイまで逃して、銀メダルとった結果から知った。犯人知ってから推理小説読む心境だった。いや、録画した神演技に泣いたけど。

 話戻すけど、だから彼女にムカついてるって話じゃないよ。
 彼女はあれで一応正社員。で、同僚のおばちゃんがパートで仕事出来るんだけどさ、ちょっと向こうの机でその娘をヒステリックに彼女を叱るわけ。
 そんなもん日常的に聞かされるこっちの身にもなってくれよ。

 で、あるとき休憩中にさ、そのおばちゃんが話しかけてきたわけ。ほぼ彼女に聞こえるように、要は陰口。

「いつもごめんねえ、栄子ちゃん。美依子ちゃんのせいで残業ばっかりさせて。どうしてあんなに仕事が出来ないのかしらね」

 女ってさ、愚痴で繋がるとこあるじゃん。特に年配の人。
 私それ苦手でさ。バイト先や前の職場で年上の女性とうまくやれた試しがねえ。
 タバコの煙ふかしながら、足組み直した。

「人間って生存のための環境が変化し続ける生き物なんスよ」
「………え?」
「こんなハコの中で背中丸めて数字追っかけるようには出来てない。特に女。でも遺伝子は肉体の文化的事情なんか知ったこっちゃないから、事務処理が上手いか下手かなんてそんなレベルの話なんですよ」
 あらゆる環境に順応するよう知能指数そのものは上がってるんだろうけどね。日本人だって開国してから急激に体型変わってるし。

 おばちゃんはそれきり話しかけて来なくなった。
 で、私に庇われたと感じたらしい美依子ちゃんが初めて向こうから接触してきた。
 ここからが本題。

「栄子ちゃんて勝生くんのファンって聞いたけど、ほんと?」

 マッジかよオイ。
 ファンっていうか大ファンっていうかオタクっていうかカツキチだよ。
 リアルで勝生くんファンどころかスケオタに出会うこと自体ないからフワってなった。オタじゃなくてもスケート見てる人くらいはいたけどさ、去年の酷い出来にリアルもネットも勝生くんバッシングでホント辛かった。

「今年の勝生くんネットで噂になってるから見てみたらすごくいいなって。いま日本で一番の人なんでしょ?」
「今の日本のレベルが低いことを差し引いても世界レベルで凄い選手だよ」
「ねー。なんか凄くイケメンの人がコーチになって色々あったって」

 …………ん?
 新規ファン大歓迎、と上機嫌に受け応えしてたが、首を傾げた。ちょっと待って、いくらスケートに詳しくなくたって、ヴィクニキの顔と名前くらい知ってるよな、普通な?

「勝生くんのコーチはヴィクトル・ニキフォロフって言って、去年に世界選手権で五連覇果たした宇宙一スケート上手い宇宙人だよ」
「宇宙人なの?」
 少なくとも私はそう思ってるよ。

 私なりに精一杯の社交性を発揮して、今晩食事か呑みでもどう、と誘った。彼氏持ちにこういうのどうかと思ったんだけど、快くオッケー貰った。

 だが落ち着け私。相手は一般人で初心者だ。
 はっきり言って私はかなりディープなオタク。勝生ファンが落ちるトコまで落ちた通称カツキチなんだ。いくら同士を見つけたからといって熱弁したらドン引かれること間違いない。

 が、私にはとっておきの秘策があった。
 何を隠そう高校時代、勝生くんと同級生だったのだ。

[newpage]

 いま思うと実にもったいないことをしたと思うが、勝生くんって普段はホントただの眼鏡くんなんだよ。

 私も当時ピチピチの女子高生。弱小だったがバレー部の主将だった。うん、言いたいことは分かるよ。身長は171センチ。私はでかい。
 バレーに青春かけてた私がスケートに詳しいはずもなく。

 放課後、廊下の先で先生となんか話してる眼鏡くん見て、一緒に歩いてた友達が「勝生くんだ」と弾んだ声を出した。
「知り合い? てかあんな生徒いたっけ」
「遠征とか合宿とかでいないこと多いからねー。フュギアスケートの選手だよ。すっごいんだよ」
「スケート選手? オリンピックとか出んの?」
 当時の私の認識としては、スケート選手が出場するのはオリンピックだけだと思ってた。グランプリシリーズとか世界選手権とか、アイスショーの存在すら知らなかった。

 そんな私のにわか知識を友達はけたけた笑った。
「勝生くんはいまジュニアクラスだよ。でも、いつかはオリンピックにも出ると思う。そのくらい凄い子」
「へー……」
 あの野暮ったい眼鏡くんがねえ、とそのまま彼の存在を忘却の彼方に追いやってしまった。




 半個室の洒落た居酒屋に席とって、私がメニュー見るあいだ美依子はタケノコのお通し食ってた。
「普段の勝生くんって眼鏡なんだ」
「見てみ」
 スマホ弄って演技中の勝生くんとオフショットを同時に見せてやった。美依子の箸が止まる。脳が画像の不一致起こして処理落ちした顔してるよ。
「え、なんか凄い。すっぴんの私とメイクした私くらい違う」
 逆にすげーなそんな変わるのか美依子。所謂ゆるふわ系の可愛い系女子なんだが、あんたのすっぴん見てみたいわ。

「なんかね、高校時代と全く変わってない。これ23歳」
「私より年上!」
 美依子、高卒なんだよな。驚きの19歳。その19歳に毎日がなるおばちゃんはアラファイ。大人気ねえ話よ。
 そういや私と美依子ってヴィクニキと勝生くんくらいの年の差か。私が美依子のコーチやってるようなもんだよなあ。

「普段こんなんだから、まあ忘れちゃってたんだけどさ。でも、二年時に社交ダンスでクラス合同の体育の授業、三年の時に創作ダンスの授業があってさ」
「え、もしかして一緒に踊った?」
「そう、踊ったの。すげくない? 輪になって男女ペアを入れ替えながらフォークダンス。思春期だからさ、教わったばっかのダンスを照れながら手つないでたどたどしく踊るわけさ」

 でも、勝生くん一人だけレベルが違った。
 前述の通り私はバレー部主将の171センチ。時には自分より背の低い男子と当たって気まずくギクシャクしてた。男の子と気軽に話せるタイプでもなかったしねえ。
 早く終われ、早く終われってガチコチになってた時、勝生くんとの番が回ってきた。眼鏡、してなかった。一瞬誰だかわかんなくてさ。

 そんで、近眼だから眼鏡外すとちょっと顰めッ面になるのな。
 身長差はほとんどなかった。でも、するっと私の手を取って腰に手を回して、明らかに周囲と違う優雅な足運びでリードしてくれるわけよ。
 凛とした横顔に思わず惚れかけたわ。

 何だか訳わかんない内にすぐペア入れ替え。
 たぶん、女子全員があの日のこと覚えてる。前後の女子、ペア入れ替わっても二度見してたもん。今のなんだったの!?って顔して。

 で、三年時の創作ダンス。
 大学受験で殆ど授業なくなるから、卒業目前にした記念的な意味合いも含まれてたけど、大抵の奴が文句言ってたな。自分でダンス考えて踊れって公開処刑かよと。

 殆どがダンスってよりナントカ体操みたいな動きで頑張ってた。
 ただ、意外に上手い女子もいて、そういう子は小さい頃からバレエやってたり、ダンス部の子だったりして。
 少なくとも男子は完全に体操だったな。よくて新体操。

 勝生くんな。
 もう脳裏に焼き付いて忘れらんないわ。
 だってそうだろ、小さい頃から日本の文字背負ってて、バレエの先生はブノワ賞とったとかいう人で、部活やっててもインターハイで予選負けばっかしてる奴らしかそこにはいなかった。バレエやってる子だってあくまで「お稽古」の領域なんだよ。

 伸びる手足と翻る掌。曲はなんだっけな、クラシックだったはずだけど。とにかく凄かった、一人だけ発表会じゃなくてステージで踊ってるみたいだった。
 身長は同じくらいだけど、手足長い。体柔らかい。
 一人持ち時間たった一分。罰ゲームみたいな授業にうんざりしてた私ら、唖然と見守ったよ。

 私が勝生くんに興味を持ったのはそれからだ。フォークダンスの時は「あれは一体なんだったんだ……」で終わっちゃったから。
 で、興味を持ったときには既に卒業間近。卒業式の日は勝生くん、海外にいたよ……

 彼がシニアに上がり、グランプリシリーズなるものの存在を知って、動画見て呆然とした。
 私は高校最後の部活、最後まで粘ったけどやっぱり県内ベスト16にも入れなくてさ。全国大会なんか夢のまた夢。全国制覇したチームなんて雲の上の存在だった。
 それなのに、日本一すっとばして世界にいる人が、同じ学校の同じ学年にいた。

「やっぱりその頃から凄かった?」
 目を輝かせて美依子が聞くけど、私は苦笑した。
「凄かったは凄かったけど、あんたは今年から見てるんでしょ。今年のあれ、世界記録更新だよ。勝生くんは緊張しぃでさ。ミスも多くて」
「去年、負けちゃったんだよね。去年負けたのに今年凄かったーってニュースとか」
 負けたってもファイナリストだし。それ言ったらピチットくんも惨敗ってことにならない? 日本のニュースの書き方、ほんとイヤ。
 全日本はぐうの音も出ないほどだったけどね! 転倒ダイジェストご馳走様だったけど。

「そのさあ、彼氏はいつから付き合ってんの? 高校?」
「うん。いま大学生。同じ大学通おうって約束してたんだけど、私は家の事情で進学できなくなっちゃったから……」
 寂しそうにカシオレのグラス両手で持って俯く美依子。そんな事情があったんだね。頭の問題かと思ってごめんよ。そうだよな、家の都合がつけば浪人してたっておかしくない年齢なのに、もう就職してんだもんな。

「中学生くらいの頃から勝生くんのファンなんだって。その前からスケート好きだったみたいだけど。他の選手とか女子スケーターについても詳しいけど、何言ってるのか全然わかんなくて、いつも頷くだけなんだよね。専門用語多いし……」

 カレよ。非スケオタの彼女相手に専門用語がちがちで語る奴があるか。しかもこんなフワフワしたタイプの子に。相手によっては別れ話になるぞ。

「でもよかったじゃん。恋人同士で同じ選手のファンになれて。一緒に応援できるし」
「そうなんだけど………」
 美依子はもじ、と身を小さくした。なんだお前カワイイな。背もちっこいし。いいなあ、ちっこくて可愛い女の子。私もそんなふうに生まれたかった。

「応援はいいんだけど、出来れば栄子ちゃんに色々教わりたい」
「なんで?」
「だって………なんて言ったらいいか、とにかく女の子同士でキャーキャー騒ぎたい!」

 ああー、わかる。わかるわ。
 彼女いる男がアイドルにハマるのと逆バージョン。私ん時は男のほうが理解示してくれなくてさ。なんでアスリートのファンになるのが駄目なのさって聞いても、フィギュアスケートなんてちゃらちゃらなよなよして男の競技じゃないときたもんだ。
 大喧嘩して別れたけど、たぶんあれは嫉妬だったんだろうなあ。

 とりあえず私が編集して焼いた自家製勝生くんDVDを貸す約束して、その日は別れた。

[newpage]

 ところで私は腐っている。
 まさか三次元で同人する日が来るとは思わなかった。しかも同級生。
 ごめん勝生くん。でもヴィクニキと公衆の面前でいちゃつきまくる君が悪い。

 その日は缶ビール片手に腐女子仲間で地方在住の詩子(しいこ)と次の新刊について話してた。
「早くもネタ出尽くした感あるよね」
「どこのジャンルでも見たネタは既出だねえ」
 本物たちが常に我々の先をゆくからな。

「そういやさ、会社で勝生くんのファンと知り合ったよ。すげーちっこくてふわふわしたお人形みたいな子」
「お前と真逆の生き物な」
「なんかすげーんだよ、わたあめみたいなんだよ。近づくといい匂いする」
「おまわりさんこの人です。あれだぞ、そんなピュアっ子に爛れたこと吹き込むんじゃないぞ」
「特に吹き込む気はないけど、ヴィクニキが爛れてるからどうしようもない」
「それな」

 ヴィクニキはマジでどこまでガチなの? 押しかけコーチして素っ裸で抱きついてたけど。ピチットくんどころかレオくんとかグァンホンくんもいたらしいじゃん。

「あ、やべ」
「どうした」
「美依子に化したDVD、フライングキスとか跪いてキスとか、ヴィク勇シーンもダイジェスト編集して焼いてあるわ」
「それあかんやつ」
 でも全世界に流れたじゃん! 私は悪くない!

 と、そこで美依子からラインの通知が入った。
『栄子ちゃん。このこれ、なに?』
「どのどれよ」
『同じ衣装で滑ってる。イケメンのひと』
 エキシか……! 衝撃だよな、いろんな意味で。
 とりあえず美依子にはヴィクニキの動画集も見せないとなあ。そこ分からんと訳分かんないだろう。見ても分かんないかもしれないけど。
 なんで世界王者が「ゆうり可愛いよゆうり」状態になってんのか本人に問いただしてみたい。

『なんかすごい……宝塚みたい』
「げふぉぶ」
「うわ汚っ、マジで鼻水吹いたような声がした!」
 音声通話中の詩子に丸聞こえだった。すまん。実際鼻水出た。
「例のエキシがヅカっぽいって」
「的確すぎるな」
 二人とも男なのにな。ヴィクニキのせいなのかは分からんけど……いや勝生くんのほうがよりヅカっぽさがある。何でだ。衣装のせいか? ヴィクニキ単品のときは全く感じなかったのに。
 美依子のせいでもうヅカにしか見えねーよ!

「ウテナみあるよな」
「誰かがやってたよ、何度か見た」
「いっそ誰かまどまぎやってくんないかな……」
「ヴィクニキのQBみ」
「僕と契約して、五連覇してよ!」
 何一つ間違ってないとこが凄いな、コーチ契約して五連覇。ヴィクニキがいる限り勝生くんに彼女出来ることなさそうだから、魔法使い待ったなし。ただし尻の無事は保証しない。

「勝生くんてさ……尻は無事なのかな」
「GPFのフリーの前日は完全にアレだろ」
「いやでもさ、一日休んでもケツだよ? 一番大事な試合前だよ? ただでさえ負荷の強いクワド跳べるか?」
「アナルおせっくすもちゃんと慣らせば大丈夫……と言いたいところだけど、私はスケーターじゃないから分からん」
 アナルおせっくすはしたことあるんだな。いらん情報をありがとう、知りたくなかったぜ。たぶん愛する受けちゃんの気持ちが知りたいとかいう理由だったんだろうけど、そもそも我々に前立腺ねえからな?

「着氷するたび尻の痛みに耐える勝生くんか……尊いな」
「尊いけど流石にあの神プロの裏で尻の痛みに耐えてたとか考えたくない。プリセツキーが可哀想すぎる」
『わー、すごい。この黒い衣装の、愛について? 素敵』
 穢れた話で盛り上がる私と、エロスを純粋に楽しむ美依子。温度差が激しい。
 美依子もまさか勝生くんが「ヴィクニキを落とす魔性」を演じてあれ滑ってるとは思わないだろう。美しいカツ丼に至っては脳の配線どうなってんだと問い詰めたい。くそ可愛いです。

『なんか、イケメンの人がコーチになった年から急にえっち』
『え、フリーのほうも?』
『フリーのほうも』
「おい詩子。パンピー目線でもヴィクニキがコーチになってからフリーもえっちだってよ」
「ヴィクニキ何を教えに日本きたんだろうな」
「愛のレッスンだろ」
「スケートしろよ」
 スケートはしてたろうけど、それ以外のレッスンがあったであろうところがな……

「GWで地元戻ったんだけどさ」
「は!? 初耳なんだけど」
 言わなかったから。だってその頃、〆切だって泣いてたから。私はそのイベント落ちたからね。

「ストーカーにならん程度に遠巻きに見守ったんだけども、外にいる時は大抵ヴィクニキ自転車乗ってて、勝生くん走ってた」
「あー、ダイエットしてたね。てかニキ自転車乗るんだ……」
 うん、なんかすげーシュールだったよ。氷上の絶対王者が黄色いママチャリ乗って走ってんの。スポーツカー乗り回してるイメージしかなかった。
 あの人は面白そうだと思ったらセグウェイも乗るんだろうけど。

 離そば動画のもちカツキは正月に飾りたいほどだった。

『かーくんがね』
「かーくん?」
『あ、カレのこと。隣で尊い……って言ってる』
 彼氏くん改かーくん、だいぶこっちよりの人間の気がする。でも男性だよな?

『なんか拝んでる』

 どういうことだってばよ……
「美依子ちゃんの彼氏がエキシ見て尊いってつぶやきながら拝んでるらしい」
「彼氏さ、カツキチじゃない? ちょっと美依子ちゃん経由で彼氏にカツキチ知ってる?って聞いてみて」

 カツキチ。それはいくところまでいってしまった変態のための変態の集い。
 我々にとって勝生くんの転倒はご褒美であり、いつまで経っても拙いインタビューは癒やしであり、泣き顔はご本尊である。

 で、聞いてみたところ、
『かーくん、栄子ちゃんもか!って言ってる。えとね、ヴィクニキ? 降臨? の時、おのぼりさんがAVに出演したみたいーって言った人がかーくんだって』
「かーくんに私はハセツ民だと伝えてください」

2018年8月29日水曜日

婿どのは潔癖症 R18

※R18



 小体なステーションのおんぼろ船から降り立った人々は、目の前に広がる黄金郷に歓声を上げた。
 アダムアイル=ヴェルトールきっての保養惑星、志摩である。
 テラが滅びて丁度一万年、合理性の名のもとに排斥された自然を保つのは、志摩を含めても片手の指で足りるほどだ。

 観光客は我先にと、搭乗橋の下に浮かぶ仮想パネルで手続きを済ませる。船の周辺では、パイピングの制服に帽子を目深に被った船員たちが忙しく働き回っていた。
 記章をつけた者たちは乗客の行く手に並び、一人が仮想デバイスの拡声器に向けてこんな口上を述べる。
『この度はピギーバッグペイロード船シマ・ハシリガネにご乗船頂き有難うございました。ヤマト神道の惑星、志摩での観光をお楽しみください。宇宙での長旅お疲れ様でした』
「ありがとう、志摩宙軍のおにいちゃんたち!」
 乗客の子供らが小さな腕を千切れんばかりに手を振った。記章つきの二人の青年が、それらへ笑顔で手を振り返す。

 このツギハギだらけの冗談みたいな古い宇宙船は、嘘のような話だが志摩宙軍の旗艦である。
 ピギーバッグペイロード船でありながら旗艦、旗艦でありながら貨物を載せて格安ツアーも行い、しかもその船員は全て志摩宙軍の兵隊というのだから変わっている。
 志摩はヤマト星系の古い伝統を守る惑星であり、滅びたテラさながらの風景を保つ、有数の人工惑星で、観光客も絶えない。従って志摩と中皇星をつなぐシーレーンは海賊の温床となりやすい。
 普通は哨戒船や護衛艦を出すものだが、志摩宙軍は観光客を乗せて守る方針をとった。特産果物のパッケージや高級ライスブランド『シマオトメ』の輸送で外貨は稼げるし、治安も維持できるし、観光客を増やせる。
 おまけに海賊相手の実戦経験まで積めるので惑星宙軍にとってはこの上なく美味しい商売なのだ。

 宙軍に手を振った子供たちは、今は透過材質の壁の向こうに広がる稲穂と朱塗りの建物に齧りついている。今まで見たことのない光景なのだろう。
「本当によくして頂いてありがとうございました。子供たちの遊び相手にもなって頂いて……」
「いやいや、うちも子供が多いので」
 記章の青年が桃花紋の制帽を押し上げるときに見える、目尻にさした朱色の化粧が色っぽい。
 青年がその目を、荷物を抱えて走り回る船員らに流すと、ぴょっと驚いた者たちが小動物のように飛び上がり、帽子から目元が覗く。彼らにも、青年と同じく朱色のアイラインがあった。

 観光客の母親は、そんな小さな船員たちを不安そうに見つめた。
「ずいぶん幼いように見えるのですけど―――うちの子と同じくらいか、少し年上程度に。あの子らも兵隊なのですか。それとも見習い?」
「見習いであり、現役でもあります。全体で言えば少数なのですが、フォローしやすいのと訓練になるのでよくハシリガネに乗せるんですよ。あれらは、志摩の当主が実験施設から引き取った子供なので」
「実験施設?」
 目を丸くしたアヴァロン星系からやってきた金髪の女性に、青年は苦笑した。
「決して珍しい話ではありません。ウィッカーが生まれやすい星系には……」
「志摩はヤマトで唯一のウィッカー誕生地ですものね」
「何にせよ、今はこうして我ら宙軍が目を光らせておりますし、シヴァロマ皇子が皇軍警察におわす以上、悪人どもも悪さは出来ますまい」
「ほんと」
 思わず女性が吹き出す。
 アダムアイル皇族のシヴァロマは皇軍警察を任されるニヴルヘイムに外戚を持つ皇子だ。その神話に出てくるかのような冴え冴えした美貌はアダムアイルにおいて珍しくもないが、冷血、冷徹、冷淡に偏執的な絶対正義と重度の潔癖症で三三七拍子揃った断罪の使徒である。
 あの皇子が皇軍警察でとぐろを巻くようになってから、宇宙での犯罪率は異様に低下した。執念も凄いが手腕も凄い、シヴァロマ皇子は皇位争いよりも犯罪撲滅で忙しいと専らの噂だ。

「ところで、将校さんはシマ姓の……?」
「志摩にはシマ姓の人間はごまんといますよ。自分はタカラ・シマ」
「自分はクラミツ・シマでござい」
 隣で黙っていた、もうひとりの記章の青年が名乗る。この青年、伝説のヨシツネかアマクサの再来かというほど繊細なヤマト系の美青年なのだが、声が……伝説の傭兵だった。低い。見た目の繊細さと裏腹に、あまりに声が渋すぎる。
 船内放送で聞こえる声と当人の落差に初見の乗客が二度見するのは日常茶飯事だ。

 と、少年兵の一人が「若様!」と叫んだ。
「若様ー、当主さまがお呼びです」
「はいあぃ」
 呼ばれて二人のシマのうち、タカラ・シマのほうが帽子の鍔を下げて去った。
 それを見送る、観光客女性とクラミツ・シマ。
「……若様?」
「へぇ」
「軍の一番偉い人かと……」
「あれは軍主ですから、一番偉い人で間違いないですよ。指揮官は自分ですが」
「志摩で若さまって、あのかたヤマトの王子様ですよね!? ヤマト文化財の!!」
 ヤマト王族にはヤマト星だとか、ヤマト家というのはない。ヤマト星系にある出雲、讃岐、薩摩、志摩の四家がヤマト王族に該当する。
「ヤマトの王子は珍しくないですよ。自分も王子なので」
「そ……そうなんですか、あなたも」
「ま、俺は末席の華族ですがね。あれは確かに次の志摩当主です」
「身分の高い方でしたわよね!?」
「はい、あぃ」
 女性の驚愕と恐怖と興奮も、クラミツにも分からなくはない。
 いくら王族が意外と多いとは言えど、総人口と比較すれば、少ないと言える。というかあれは志摩の跡取り息子だ。惑星まるまる一つ所有する家の、ヤマト王族だ。木っ端華族の次男坊クラミツとは違い、それこそ次期ヤマト王でもおかしくはない。
 それが志摩宙軍と一緒になって貨物を運び、観光客の面倒を見て、時には海賊退治に飛び出し、少年兵や観光客の子供と嬉しそうに遊びまわっていたのだ。

「いや、まあ、うちの当主一家は、全員、ああいう感じなので……」

 これで驚いていては身が持たない。
 そう告げると、女性は子供たちが熱心に見つめる黄金郷へ、何とも言えない眼差しを向けた。





 志摩のステーションから目抜き通りを抜けると、すぐ志摩の邸に着く。
 巨大な朱塗りの木造建築は体の良い観光スポットとなっており、もちろん当主一家の住まいなので一般公開はしていないが……周囲には仮想デバイスで記録を撮る客がたむろしていた。
「あぃ、ごめんなさいよ。はい、あぃ」
 正門で邸を仰ぐコンロン人の脇を抜け、鳥居の並ぶ石段を登る。

 テラが滅びて一万年、一時は欧州文化に押されて消えかかったヤマト文化を頑なに守ってきたが、これらの様式が意味するところは失われている。コンロンの文化にも似ているが、双方ルーツは定かでない。
 テラが滅びる際、人々は方舟のごとく適当に宇宙船に詰め込まれ、文献の類はデジタルデータに至るまでほぼ失われてしまった。あの鳥居も原型とはかけ離れたシルエットなのだろう。
 木造五重の邸にしても、畳なる独特のカーペットは茶室にのみ使用されている。い草の原料である稲作の盛んな志摩だが、畳床の技術自体は衰退し、職人は絶滅危惧種。現代では殆どの物品を3Dプリンターで生成するため、プリンターの材料費を考えれば畳のように複雑な構造で、しかもたかだか十年程度で張替えが必要な消耗品を趣のためだけに採用出来ない。
 従って邸内は鏡面仕上げの木床であり、内装も『ヤマト風』であって本物のヤマト文化とは違う。どれほど伝統を守っても、環境の変化には適わない。観光客の子供たちが、観葉植物しか見たことがないのと同じように。

 この志摩神宮は志摩当主家の住居であり、同時に中央行政機関でもあった。そのための官僚が二層、三層で働いており、その世話をする使用人も行き来している。
 彼らがタカラに軽い会釈はしても泣きついて来ないということは、当主の呼び出しも大した理由ではないらしい―――あの親父が何かしでかすと、大抵『法に抵触するか』もしくは『全く法にないこと』の二択しかない。

 四層から降りてきた老爺が垂れた白い眉を上げ、深く会釈した。
「おかえりなさいませ、若」
「おぉ……」
「あにさまぁ」
 爺やの背後から降りてきた朱袴に桃花柄の着物を羽織った少女が、無邪気に段上から腕を広げて飛んだ。
「ひぃ」
 十五歳になる娘が二、三メートル先からアイキャンダイブ。いくら宙軍で兵たちと共に鍛えたタカラ・シマでも、思わず悲鳴を上げる。何とか少女を受け止め、膝で衝撃を吸収し腰をひねって少女を軟着陸させた。
「な、な、な……ななせ」
「おかえりなさいまし、あにさま。父様が呼んでいましたよ。三日くらい前から」
 あの飽き性の当主が三日もタカラを捜していたとは、明日は隕石でも降るのだろうか。
「で、親父どのは何処に?」
「天守でお酒を呑んでいましたよ。父様ったら、ぜんぜん働かないんだから」
 桃のごとき可憐な頬をぷすっと膨らませるナナセハナ。しかし、仕事をしないというよりは、仕事させてもらえないのほうが正しいような。
「何の用かは聞いたか?」
「いいえ。でもあにさまの緊急ポートに連絡しなかったのでしょう? ならきっと一大事ではないです」
 そうであると、良いのだが。
 ともかく、タカラ・シマは妹と共に五層まで上がった。
 そこには確かに昼間から働きもせず、酒をのみのみ天守から城下を見下ろす駄目当主がいる。溜息ついて、その背に迫った。
「おい、帰ったぞ親父どの」
「んぉ」
 情けない声を上げ、当主は酩酊した赤ら顔をのけぞらせた。相手が息子と知るや、志摩当主カサヌイ・シマは髷を揺らして立ち上がる。
「捜してたんだぞ、タカラ! テメー、また軍服なんぞ来やがって、どこを遊び歩いてやがった」
「………」
 酒臭い息を間近から噴射され、タカラはうっそり微笑んだ。
「おめえ様がこしらえた借金の為に外貨稼いできたんですが何か問題でもございましたか親父どの」
「あっは、俺は孝行息子を持ったなぁ」
 まるで自分の手柄のように言うカサヌイにタカラは舌打ちした。

 この親父ときたら、まったく碌でもない当主なのだ。

 タカラとナナセハナは、幼少期の殆どを宇宙船ハシリガネで育っている。
 カサヌイは子供たちに広い宇宙を見せたいと言って、商いをしながらヴェルトール中を旅して回った。
 流石に志摩神道の修練はカサヌイ直伝だったものの|(流石にこれを怠っては志摩当主である存在意義が皆無)、タカラは自分たちをよくある宇宙キャラバンの一家だと本気で信じていた。
 カサヌイも偶には我が子を連れて志摩の邸へ帰ったが、志摩邸宅は説明されねば豪華な温泉旅館にしか見えない。使用人たちが至れりつくせり世話を焼いてくれるし、一般にも解放している巨大な露天風呂がある。公衆浴場みたいな場所を、自宅の風呂とは考えないだろう。ふつう。
 当主がそのように放蕩していても誰も困ることはなかった。むしろ志摩住民にとって、この父親はいないほうが有難い存在。いれば大問題を引き起こす。その問題は、長い目で見れば志摩に利益をもたらすのだが、親父殿は思いつきでことを起こすので、計画性はなく予算を考えない。

 カサヌイ・シマはせがれが十歳になるころ、急に志摩へ降り立ち、
「俺が思うに、外に物資を頼るのが悪いと思うんだよな。人間、飯と酒とエネルギーがあれば生きてける、自給自足で行こうぜ。せっかく景観のために人工太陽あるんだからさあ」
 などとのたまった。

 こんな男でも志摩当主。彼の一言で観光と祭事だけが収入源だった志摩は、突如としてエコなロハス志向に転向した。
 食料や物資、エネルギーの殆どを外部や工業惑星に頼っていたというのに、第一次産業革命勃発、農民優遇、害虫爆誕、エネルギー問題などが次々と引き起こされた。
 その上いかにも父親面で、
「俺の息子もそろそろ大きくなったし、一人前として扱ってやりたい。志摩宙軍をタカラに任せる」
 当主不在でガタガタになっていた宙軍を、幼い息子に丸投げする。
(この親父は商人の分際で何とち狂ったことを偉そうに言ってんだ?)
 キピガイを見る目で父親を睨んだのを覚えている。
 トンデモ当主に泣かされていた人々は面構えのよいタカラに感激し、あれよあれよという間に着飾らせた。
 その間、ナナセハナは巫女たちに囲まれてお菓子をふるまわれ、ほんわかふんわか状態。

 慣れない金雀友禅の着物に『着られて』ポカンとする若干齢十歳のタカラ・シマ。そこへ入れ替わり立ち代り官僚や軍人が現れ、
「どうすればいいんですか。どうしたらいいんですか」
 恥も外聞もなく、泣きつく。
 一度は民主制の道を選んだ人類が、再び世襲制に戻ったのは何も懐古主義のためでなく、自治権を確立させるためだった。官僚たちの権限はたかが知れている。ルールブックにない問題の解決には身分ある人間に采配を振るって貰う他ないのだ。
 いくら志摩の危機でも、彼らが越権行為で出しゃばれば、自治能力なしと見做され、志摩は他王家や他皇族に蹂躙される。
 タカラは面食らったまま「見識者と専門家を連れて来てください」と学者や有能官僚を一つところに集めた。

 それからが大変だった。まずこのままではエネルギー不足で志摩は枯渇する。志摩所有小惑星に集光炉やらバイオマスプラントやらを建て、エネルギー変換出来そうなものは死体でも使った。そのエネルギーをマイクロ波に変換して志摩へ送る手はずを整える。
 人手不足の農地には、鈍った志摩宙軍を放り込んだ。訓練と称して。今でも収穫期には手伝わせている。
 やる気のない警察を解体して宙軍に吸収、宙軍と銘打ってはいるが殆ど陸空海宙自衛警察だ。そのほうが人員整理するうえで扱いやすかった。
 ここまでの計画で借金の利息が利益率を凌駕。それをタカラはライスブランドカンパニー、製紙、地酒輸出、観光ツアー強化、ついでに海賊から略奪した物品と海賊船の解体で何とか巻き返す。
 宙軍は人づかいの荒い志摩嫡男のもと、海賊退治と農業と警備で無駄に逞しくムキムキと育った。
「人間は飯と共通の敵があって考えるひまがなければ文句も言わずに働く」
 タカラの持論である。この場合の敵とはカサヌイ・シマだ。

 こうしてロハス地獄に陥った志摩も、ようやく落ち着いて利益を出すようになったのだが、追い打ちをかけるようにカサヌイは再び大問題を起こす。
 カサヌイはヤマト星系の子供を攫うウィッカー実験施設をハシリガネ一隻で壊滅させ、そこまでは良いが、収容されていた子供二千余名を志摩へ連れ帰ってきた。
「助けてきたんで、あとよろしくな」
 と、息子に押し付けて。
 これが先述の『法にないこと』の最たる例である。二千人もの素性不明の幼い子供。親元に返すにしても、どう調べれば良いのか。彼らの衣食住の世話は何処で、誰がするのか。
 保護したのは糞当主だが、あくまで志摩。自治権がある以上、皇軍警察に押し付ける訳にはゆかない。それは皇族に介入の糸口を自ら差し出すようなものだ。
 さりとて十歳以下の小さな子供たちを宇宙に放り出す訳にはいかない。暗く孤独な宇宙に子供を放り出すくらいなら処刑してやったほうがなんぼかマシだ。もちろん、統治惑星でそんな非人道な真似は出来ない。
「どうしましょう、若さま」
 半泣きの官僚を宥め、親探しをヤマト王家がそれぞれ所有する軍警察の行方不明者捜索課に依頼し、実親と里親を求め、残った孤児半数を宙軍で引き取っている。

 こうして数々の試練を乗り越えたタカラ・シマは当主以上に当主らしい跡取りへと成長した。人々が「若」と呼んで親しんでくれるのも、このあたりの経緯あってこそ。
 タカラが志摩に尽くすのは、こうして慕ってくれる人々のためであり、世情に抗って古い伝統を守る美しい志摩のためだ。
 決して父親の尻拭いのために日夜海賊の身ぐるみを下着までひっぺがしている訳ではない。断じて、違う。

 本題に戻る。
「で、何用だ。親父どの」
 どうせまた、死ぬほど碌でもない話に違いない。もし、またあの地獄が再来するような問題なら、ここで突き落として自分も死ぬ。後はナナセハナが優秀な婿をとって、いっそクラミツとでも結婚してくれれば良い。
 そんな息子の殺意を知って知らずか。
 カサヌイは酒に濁った目でじろじろと息子を値踏みし、脂っぽい顎に手を当てた。
「母親に似てきたな、タカラ。美しいぞ。クラミツほどじゃあねえが」
「クラミツほど美形でたまるか」
 気色の悪いことを言う。
 タカラはあの声の低い親友がどれほど顔で苦労してきたか、いやというほど知っている。そしてタカラ程度の顔でも、それなりの不快な思いはした。精悍になったと言われるならまだしも、美しいと賞賛されても、嬉しくはない。
 王族などはアダムアイルの皇帝へ嫁を献上するために存在するようなものだから、民族の特徴がよく出た純血の美女を次々娶る。その煽りで男児の容姿もカマくさくなりがちだ。カサヌイのようにむさ苦しいマスラオはあまり見ない。
「ニュース見てねえのか。じきに皇子様方の婿入り先を決めるイベントがあるんだよ」
「そうだっけか?」
「そうだよ。跡継ぎならニュースくらい見ておけ」
「……」
 宇宙では子供たちと海賊と戯れるのに夢中で、すっかり忘れていた。重要な速報があれば、クラミツ以下部下たちが話題にするから、さほど気にかけなかった。部下がアダムアイルの同性婚に興味を持つはずもない。
 しかし、言われてみれば皇子たちの年齢から考えてそんな時期だった。

 皇軍警察で有名なシヴァロマ皇子をはじめとするアダムアイルの皇族は、エイリアンと折衝する為に存在する人類の象徴だ。人類代表の一族であり、優れた遺伝子バンクであるため、その血は厳密に管理されている。
 皇帝は王族から妃を娶るが、皇子皇女は子孫を遺せない。皇族は皇族の他に存在しない。ゆえに、兄弟が即位した後の『居場所』として、同性の王族の元に嫁入り・婿入りするのだ。
 王族にとってこの政略結婚は、彼ら人間ダビスタの結晶たる皇族を迎える自体もさることながら、その皇子の生家とも外戚関係を結べる美味しいイベント。
 適齢期の娘息子がいるなら、逃す手はない。
 同性婚のため子孫は残せぬが、そこは兄弟が継ぐなり兄弟の子が継ぐなり、養子を迎えるなりすればいい。志摩はタカラが継ぐことになっており、しかも妹のナナセハナがいる。条件は満たしていた。

「あの、あの。私がクラライア皇女殿下と結婚しても良いのではありませんか?」
 話を聞いていたナナセハナ、やけに熱っぽく口を挟むが、タカラは手を振って否定した。
「むり。俺の友達がクラライア殿下の恋人だ」
「はぁー? てめー、どこの姫君と友達だって?」
「オリエントのヴィーヴィー王女だよ。前にお忍びで志摩へ観光に来てたんだ。ウィッカー同士、話が弾んでさ。今でも惚気話をメールしてくる。結婚するって言ってたから、皇女は諦めろ」
「わたし、憧れていましたのに」
 本気で残念そうだが、タカラとしてはあのメガゴリラみたいな皇女が義妹になるのは辛い。アダムアイルの皇族は優れた遺伝子を掛けあわせ掛けあわせ残った人間ダビスタの結晶なので、美しいだけでなく体格がいい。加えてクラライア皇女は一癖も二癖もある弟らの頭を押さえて君臨する恐怖の陸軍元帥。あの皇女が嫁に来ては、志摩が征服されかねない。

「……いいよ」
 とタカラは言った。
「婿貰って来い、と言いたいんだろ。いいよ」
「おお! もっと抵抗するかと思ったぜ」
「気構えはなかったけど、そういう慣習があると知識で知ってたからな」
 男と結婚してでも人材がほしい。
 というのがタカラの本音である。残った皇子はどれも超人、迎え入れれば即戦力。クラライア皇女が義妹になるのは辛いが、クラライア皇女と結婚しろと言われれば躊躇なく出来る。イエス政略結婚。
「それに、男とも女とも経験はある。いまさら抵抗なんざねえさ」
「だ、男性とも?」
 純粋培養、親父にも兄にも志摩の人々にも溺愛されるナナセハナが飛び上がった。
「ふけつですわ!」
「不潔かなあ」
「ふけつですわーっ」
 クラライア皇女と結婚したがっていたくせをして、ナナセハナは真っ赤になって走り去った。何をどう想像しているのか、年頃の娘は恐ろしい。お兄ちゃん知ってるんだぞ、男同士がキスしてる薄い本持ってるの。

「………」
 酔った親父がのたくた立ち上がり、息子の頭をはたいた。
「いって」
「男とヤったことがあるって、おめぇ、ガキん時のアレだろ」
「………」
「あれは違うだろ。おめぇは平気かもしれないが、ナナセに余計なこと言うな。あんなのを経験のうちに入れんじゃねえよ」
 たまにこの親父はちゃんと親父をするので腹立たしい。
 タカラは肩を竦め、
「アジャラあにさまなら、ノリで結婚してくれる気がするんだよな」
 アジャラは薩摩の姫君を母に持つ、ヤマトの血を引く皇子だ。気さくな方で、ヤマトの例祭で何度かお会いしている。
「お前、アジャラ様に可愛がられてたからなあ。よし、せいぜい気を引いてお情けで結婚してもらえ」
 制帽を被るために短く揃えた髪をぐしゃぐしゃ撫でられる。

 実を言えば、タカラの本命はシヴァロマ皇子なのだが。
 しかしニヴルヘイムの皇子がヤマト辺境の志摩へ婿に来てくださるとは思えない。ただでさえ、屈指の美女が揃うニヴルの出身だ。目は液だれするほど肥えているに違いない。扁平顔のヤマト人は大和撫子というブランドに頼る他なく、それも王子では意味もない。ヤマト王族はあまり婿をとれない傾向にあった。
(それでも、一目……)
 と思う。
 シヴァロマ皇子にお会いしたい。
 会って、十年前の礼を言いたい。

 十年前、シヴァロマ皇子は、タカラの命を救ってくれた。
 潔癖症で有名なあの皇子が、躊躇なく抱き上げて救助してくれたことを、一時も忘れたことはない。





 タカラは八歳のみぎりに誘拐された。
 自分が志摩の王子とも知らず、ウィッカーが希少人種とも知らなかった。ナナセハナも価値あるが、女性ウィッカーは十ヶ月に一度しか子を成せないため、男児のほうが誘拐対象として手頃らしい。第一、ナナセハナは見知らぬ惑星で父親から離れるような子供でなかった。
 冒険心自立心好奇心そろって旺盛でやんちゃ盛りのタカラ・シマは、父親が商談している最中、よく惑星探検に繰り出していた。
 カサヌイの管理能力のお粗末さもある。ふつうの親はヤマト文化財に指定されている息子を放任しない。

 そんなこんなで海賊に誘拐され、どこともしれぬ惑星に監禁され、穢らわしい目に遭った。ウィッカーはDNA抽出では誕生しない。なぜか、通常の性交で繁殖した例でしか現れないのだ。そのため、海賊の目的はタカラの精子だった。ウィッカー遺伝子を欲しがる金持ちは星の数ほどおり、タカラから絞りとれば絞りとるほど金になるぼろい商売……のはずだった。
 しかしタカラはまだ当時八歳。精通もしておらず、業を煮やした海賊たちは「犯せばそのうち出るはず」と言って、いや、おそらくは単純に憂さ晴らしだったのだろう。幼いタカラを嬲り者にした。
 二日目までは怖かった。
 何をされるのか分からぬし、海賊など乱暴なものだから純粋に痛い。高価な商品なので傷がつけば逐一医療用チャンバーで治療を受けたが、そのたびに処女同然になるのでそれはそれで辛かった。
 三日目になると麻痺してきたのか腹が立ってきた。このタカラ・シマ、ちょっとやそっと強姦されたくらいでヘコタレない。
 今日も今日とて幼い子供を慰み者に乱交パーティーを開く陽気な海賊どもの反り立ったブツに怒り狂い、海賊らの股間を噛みちぎって回った。
 そう、一人に飽きたらず、次々に襲いかかって噛みちぎったのだ。我ながら呆れるほど強顎である。

 そこへ突入してきたのが、シヴァロマ率いる皇軍警察だった。
 当時十五歳、紅顔の美少年であらせられたシヴァロマ皇子は、身の丈ほどもあるデンドロビウムみたいな物凄い携行砲を片手で担ぎ、ガンガン誘拐犯どもを撃ち殺しながら、その銃身で壁を貫き巨大なトランスアニマルを骨ごと貫き、タカラが囚えられていた300mmハルコンの扉を鉄球重機の如き膝でぶち抜いて、特殊鋼鉄で作られた手枷足枷を素手で引きちぎって救出してくれた。
 確かあの手枷はアダムアイルの皇族でも破れない……という触れ込みの違法製品だと海賊が自慢していたが、アダムアイルにそんなものは通用しないという実例をシヴァロマが証明した。

 こんな怪物みたいな人間が、宇宙に存在するんだ!

 タカラは感動した。もう無体を働かれたことも肉団子になった海賊のことも頭から吹っ飛んでいた。
 シヴァロマ皇子は血と白濁物に塗れたタカラに目を留めると、自身の将校コートを脱いで包み、何の躊躇もなく抱き上げて監禁先を後にした。
 冷血皇子などと呼ばれているが、シヴァロマの腕の中は温かった。
 そんなこんなで今度の婿争奪戦ではシヴァロマ目当てのタカラだが、まあ、相手にしては貰えなかろう。何しろ、各国からそれ用に調教もとい育成された王子が集う。がさつなタカラの敵うところではない。シヴァロマとは言葉さえ交わしたことがないのだ。彼にとってはタカラとの出会いなど、仕事の一環程度だろう。

「しかし、何で俺まで行かにゃならんのだ」
 不満そうな友人の肩を、生暖かく微笑むタカラ・シマが叩く。
「その皇子さまに見初められる為に神から授かったとしか思えない、無駄に洗練された美貌を今使わずにいつ使う、クラミツ・シマ」
「俺は家や志摩のために男と結婚する気はない!」
「俺だってべつに男と結婚したい訳じゃない。ただ、志摩のためには自分の人生も友の人生も犠牲にできる」
「お前なんか友達じゃねえ!」
 などと供述しているが、いざ見初められれば黙って婿を迎え入れるだろう、この男のことだ。クラミツの両親も手放しで歓迎するはずである。
 それに「いかようにもお使いに」とあの両親が言ったのだ。

 志摩ロハス事件で志摩宙軍を任された折、タカラは志摩の華族に助力を願ったのだが、彼らはこの期に当主一家を無力化して完全な傀儡にし、ゆくゆくは当主の座を奪おうと目論んでいた。
 とはいえ、流石に頼ってきた当主の息子を手ぶらで返す訳にはゆかず、ちょうど同じ年頃なので遊び相手にでもしてください、と差し出されたのが次男のクラミツだった。
 華族育ちで世間知らずのくせに欲だけは深い実家にうんざりしていたクラミツは、同年代の少年ながら孤軍奮闘するタカラに同情を寄せ、また実家を見返すために力を尽くしてきた。タカラにとっては最も信頼できる側近であり、何でも話せる親友であり、かけがえのない存在だ。
 しかし、そんな友人も志摩のためなら叩き売る。

「それに、お前受けの薄い本がけっこう出回ってるし、いけるいける」
「俺ウケ? ってのはなんだ?」
「実在する男同士の恋愛を妄想のままにコミカライズした民間出版誌だ。専用マーケットもある。志摩で人気があるのはタカラ×クラミツ、海賊や触手エイリアン×俺やお前の輪姦ものってトコだな」
「そんな不道徳なモン許容してやがるのか!」
「彼女たちは電子データではなく、実本を好む。製紙会社『たから千代』の和紙をよく使ってくれるんだよな」
 妹はまだ十五歳のため、なまぐさいエロ本は購入していないが、妹が好むというのでタカラは密かにこの未知の文化を調べた。ナナセハナはクラミツ×タカラがお好みのようだが、王道は逆CP、カサヌイ×タカラはマイナーといったところだ。
 ちなみにこの文化を知ってから、タカラはこっそりデオルカン×シヴァロマのニヴル皇子双子本を購入してみたのだが、シヴァロマ皇子が脆弱な肉体のなよなよ男として描かれており、すぐに捨てた。あんなのはシヴァロマ皇子ではない。シヴァロマはもっとこう……宇宙に住む巨大鮫のような御方だ。

「これからの時代、モノカルチャーじゃ生きていけない。需要拡大上等。彼女たちにはバンバン薄い本を制作してもらって、たから千代の名を宇宙に轟かせてほしい」
「だからって……俺とお前がアレとか……俺がお前に抱かれてるとか…………」
「ふふふ」
 苦悩する親友が微笑ましく、タカラは笑った。
 確かにCPとしてはタカラ×クラミツが多いのだが、全体的な人気はやはりヤマト文化財志摩王子のタカラが圧倒的に強く、タカラはクラミツや親父だけでなく様々な男に彼女らの頭の中で犯されまくっている。
 おそらくは幼少期に海賊に性的暴行を受けたことが、エロティックな妄想をかきたてるのだろう。実際は海賊の股間を噛みちぎって回った猟奇な結末であろうとも。
 クラミツは宇宙規模で言えば知名度が低く、志摩腐乙女には好まれるが、外星系でもタカラはよく題材に使われた。腐界のビッチといえばこのタカラ・シマだ。クラミツの苦悩などちっぽけなものである。

 クラミツは恨みがましく主君を睨む。
「しかも、宙軍のチビたちまで見た目のいい奴ばかり選んで連れてきやがって」
「皇子さまのうちにショタコンがいるかもしれない。見初められたらその子を養子にして皇子を志摩に迎える」
「最っ低だなテメーは」
「これが政治というものだ、クラミツくん」
 汚れっちまったが、特に悲しみはない。

 宙軍指揮官の会話を聞いていた宙軍のチビこと、忍部隊のコノイトがじっと二人を見つめていた。
 まだ帽子に被られているような小さな頭を撫で、タカラは破顔した。
「皇子さまに気に入られたら、もう兵隊なんかしなくていいんだぞ」
「皇子さまに気に入られたら、若の子供になれるので?」
 帽子と詰め襟からくりくりした目が覗く。
「んん……たぶん、養子にするなら親父の子供、俺の兄弟ってことになるのかな」
「若の子供がいいです」
「若さまの子になれんの?」
 乗客もいない暇な航海の最中、小さいのがわらわら集ってきた。

「若様の子になりたい」「いいなー」「誰がなるって?」「わかんない」

 我も我もタカラの子になりたいと主張する子らが可愛らしく、顔の緩みが戻らない。
 少年兵は五年前に保護され、やっと10歳から12歳になったばかり。残ったのはもともと身寄りのない子らで、タカラを親のように慕ってくれている。
 因みに助けてはくれたが、その後なにもしてくれない当主については、
「べつに皆うちの子にしてもいいが、俺の子になりたいなら、俺かナナセハナに第一子が産まれた後だぞ。跡目問題でややこしくなるからな。その頃にはお前たちも大人になってるだろう。親父どのの子なら、今すぐにでもなれる」
「やだー」
「当主さま酒くさい」
「加齢臭する」
 このように人気がない。

「がんばって皇子さまを落とすので」
 ふす、と鼻息荒く手を挙げるコノイトに、宙軍正規兵が笑う。
「本当に頑張るべきは若でしょう」
「頑張って皇子を悩殺してください」
「我ら志摩一同、若には期待しております」
「おお! 期待していろ。秘策がある。ナナセハナの美容機材で全身つるっつるだしな!!」
「全身脱毛機って、よくそんな高価なモン持ってんな、姫は」
 呆れたようにクラミツ。何ということはない、今年の誕生日にタカラが奮発して贈ったのだ、そろそろ年頃ゆえ、身ぎれいにしたいだろうと。まさか早速自分が使う羽目になるとは思わなかったが。
「気合入れすぎて股までハゲ山にしちまったんだがな」
「それは逆効果では……」

 ワキ毛はまだしも、すっかり成人したタカラ・シマがパイパンというのは、どうなのだろうか。それも、使用したのは最先端の美容機材だそうで、短くて年単位、最高で永遠に生えてこない。
 現代の技術ではある程度、老いもコントロールできるため、外見年齢は生涯変わらぬまま過ごせるとはいえ、爺さんになってもツルツルパイパン当主。
 これで皇子に見初められねば、彼は嫁をとるのだが……

 宙軍一同、敬愛する若の行く末に一抹の不安を覚えた。


***


 中央皇星は文字通り人類の心臓とも言える重要な行政惑星だ。此処にあるのは宇宙ステーションと一般用ホテル、宿泊施設としての宮殿、アダムアイルに仕える使用人の住む邸、各軍事施設、そして皇帝陛下のおわす帝宮と、それを囲うように建つ各星系の城の他は存在しない。せいぜい、それらを維持するための上下水道施設やエネルギー貯蓄システムくらいのものだ。
 一般人が此処に訪問するのは、皇星を経由して他の星系に行く場合。高価なワープ装置の問題で皇星を中心に展開されているためで、一般人はステーションとその周囲のホテル区画から外へは、決して出られない。テロ対策で天井までぶ厚い装甲で覆ってあり、宮殿をその目にすることさえ適わないのだ。

 志摩王族であるタカラさえ、この先までは見たこともない。いつもこのステーションで商いをし、観光客を拾って志摩へ帰るだけだ。
 フロートライナーから降りた少年兵たちは、志摩にあてがわれた客用宮殿に歓声を上げた。まるで修学旅行の様相である。
「他の王子さまもここに泊まるので?」
「いや、俺に用意された宮だ。他の王子もそれぞれ別の宮にいるよ」
「ほぇ……」
 志摩にも賓客用の離宮はあるが、招待客すべてに宮殿が用意されているとはスケールの大きな話だ。コノイトは豪華なゴシック調の宮殿に目を白黒させている。
「クラミツの招待状も確保出来れば、もうひとつ宮が用意されたんだろうけどなぁ」
「俺ごときの身分で来るか、そんな招待状。俺個人に宮が用意されるなんてぞっとする世界だ。俺には、むり」
「ちびどもー、探検に行くぞ」
 頑なに婿とりを拒絶するクラミツを放置して、タカラは少年兵を点呼する。この宮に配置された使用人たちは奇怪なものでも見るかのようにタカラを見送った。

「すげー、トランスアニマルの口から水が出てる」
 エントランスの噴水に感心するチビにタカラは苦笑する。
「トランスアニマルじゃねえよ。これは獅子という、テラに生息していた生き物だ」
「遺伝子操作されてないの」
「されてない。ネコ科で、大の大人が四つん這いになったくらいの大きさがある。金色のたてがみを持ち、肉食で、強い。百獣の王と呼ばれるほどの風格を持つ」
「すっげー!」
「はは……近いうち、アヴァロンの動物園に連れてって本物を見せてやる。今回連れてこれなかった奴らも一緒にな」
「やったあ!」
「ほーい、騒がない。次いくぞー」
「若、待って。デバイスに記録して、居残りのやつらにメールする」
「暫く滞在すっから、いつでも撮れる。いいから、おいで」
「…………」
 使用人たちが無言でクラミツを見つめている。あれ本当にヤマト文化財の王子ですか? アンタが本物のタカラ・シマじゃないんですか? という目だ。
(あんなんで驚いてたら、パーティー当日ひっくり返るだろうな……)
 タカラの「秘策」を知るクラミツは、笑うしかない。

 と、庭のほうへ行きかけていたタカラとチビ軍団を、執事が呼び止めた。
「おくつろぎのところ申し訳ございません。お客様がお見えです」
「客? 誰か知り合い参加するっけ」
 タカラが首を傾げると、執事が客の名を告げる前に「我ね!」という甲高い声が響く。

「タカラ! 久しぶりよ!」
 独特の訛りで叫ぶ高慢そうな少年が、招かれる前に付き人をぞろぞろ連れて宮へ押し入った。コンロン風のヒラヒラビラビラした華美な衣装を纏い、長い髪を頭の上でハート型に結っている。
 タカラは笑顔で子供らを振り返り、
「あれは飛仙髻って言う髪型なんだぞ。珍しいだろ」
「へー」
「子供に珍獣紹介するのと同じ口調で解説するのはやめるね!」
「ひさしぶりー、なんだっけお前、こ……こちゅじゃん?」
「コウ・玉林(ユーリン)ね!!」
 そう、コンロン星系は玉林の王子、コウ・ユーリンだ。昔から女みたいな顔と派手な着物だと思っていたが、なるほど婿とりの為に育てられた息子らしい。気付かなかった。

 コウ・ユーリンは毛が生えた扇子をタカラに突きつけ、
「タカラ! お前にだけは負けな…い……ょ……」
 宣戦布告の言葉が徐々に尻すぼみになる。というのも、いちおう若の護衛名目で付き添うクラミツが、部外者の登場でタカラの側に寄ったからだ。
 コウ・ユーリンはのけぞった。
「何ね! このアホみたいに美しい男は!」
「はっは、そうだろうそうだろう、うちのクラミツは皇子さまどころか皇帝陛下も落とせそうなほど美しいだろう」
「ぶっ殺すぞコノヤロウ」
「低い! 声が! 何処から出てるね!?」
 牛若丸もかくやという美貌にバトー=サンの声音。このギャップが却ってウケると、タカラは睨んでいる。

「こ……こんな隠し玉を持っていたとは」
 たっぷりした袖で口元を隠しながら打ち震えるコウ・ユーリン。彼は側人の一人、コウ・ユーリンと年かさの少年を振り返る。
「ロウホ! お前、今からでも整形するね! 傾宙の美貌になるね!」
「見初められても整形者は婚約破棄になるかとー」
「バレなきゃ犯罪ないよ!」
 大声で自らの犯行を喚いている時点で、無理かと思われる。
 コウ・ユーリンはもう一度クラミツをちらと見、顔を歪ませた後、
「お……お、覚えてるがいいね!!」
 叫んで、逃げ帰った。

 そんなコンロンの王子を、タカラは目を細めて見守った。
「相変わらず微笑ましいな、コシアンは」
「コシアンじゃなくてコウ・ユーリン様だろう」
「ほんの子供の頃に会ったきりなんだが、よく俺を覚えてたよ」

 あれはまだ、シヴァロマ皇子に出会う前、タカラが六歳か七歳で、コウ・ユーリンは五歳だったはずだ。
 今にして思えば、カサヌイは知人の王に会いに行ったのだろう。一家は半年ほど玉林の城に滞在した。
 幼いコウはちまちまとタカラの後をついてきて、
「何してるね」「どこいくね」
 つっけんどんに睨むのだ。
 遊んで欲しいのかと構おうとしても、
「触るないよ!」
 猫が毛を逆立てるように怒るのだ。それでいて、いつまでも後をついてくる。
 ずっとその調子だったのでまともな会話もないままだったのだが、いざタカラが帰るとなると、
「二度と来るないよ、ばかぁー!」
 べそべそ泣きながら叫んでいた。

「かっわいいよな」
「そりゃ可愛らしいな」
 幼い頃そのままに育ってしまったのが、またなんとも。
「あれもウィッカーなんだよ。百歌仙と呼ばれるコンロン文化財の一人だ。ただ、恋占いに特化している」
「ああそれは……儲かりそうだな」
「実際、玉林はコンニャクのおかげでかなり潤ってるはずだ。俺もそんな金になる能力欲しかった」
 コンロン百花仙というブランドもあり、あの性格と血筋であの顔なのだから、タカラよりよほど皇子の目に留まる確率は高かろう。なにも目の敵にせずともよかろうに。


――― 一連のやりとりを目撃した使用人たちは「王子という生き物はこういうものなんだ」と納得していた。概ね、間違いではない。





 足を踏み鳴らしながらあてがわれた宮に帰ったコウ・ユーリンは部屋につくなり付き人のロウホを睨んだ。
「ロウホ! 参加者のデータを洗うね!」
「はいはぁい。三分お待ちくださいね」
「遅い! 一分でやるよ!」
「はぁい」
 ふにゃふにゃした糸目のロウホは、仮想パネルを呼び出して操作を始める。文化財ではないが、ロウホもウィッカーの端くれである。情報収集に長けており、コウ王子に拾われねば軍警察にでも使われていたろう。
 コウ・ユーリンの占術は、対象の詳細データが必要となる。それで重宝されているのだ。

「出ましたよぉ」
 極秘事項である婿入り先探しの候補者リストを並べたて、パネルをコウの前に流した。
「やっぱり有力候補はタカラ・シマ様やコウ様ですね。ウィッカーで王子なのはあなた方お二人だけです。美貌と血筋、それからお父上が良き指導者となると、ニヴルのオリヴィア王子とか、アヴァロンのベネディクト王子とかですかね」
「有力候補の中で見劣りするのは、タカラ? でもあのダークホース、侮れないよ。あの男が見初められれば、あの男を養子に出来るね」
「いや、見劣りするのしないのではなく、タカラ様こそ本命でしょう」
「どういうことね!」
「コウ様が参加されるので、私なりに調査したのですがー」
「お前はやれば出来る子!」
「どういたしまして。つまり、このパーティーで注目されるのは、美貌なんか二の次三の次ということです」
「どういう意味ね。招待された以上、血筋も財力もある有力な家の王子ばかりのはずよ。あとの基準なんか、美貌くらいのものね」
「過去の婿入り先探しで最も重視されたのは、その家の将来性なんです」
 つまり、父親やその星の事業、または本人に伸びしろがあるか否か、が皇子が選ぶ基準なのだ。
 これは政略結婚だ。シンデレラストーリーではない。たとえシンデレラが宇宙一美しかろうが、アダムアイルの皇族は彼女を選ばない。実家に力がないからだ。

「そこを行くと、タカラ様は幼い頃から家を切り盛りして、数々のブランドや企業を起こして志摩を発展させてきました。名のある海賊を何人も討ち取っています。ヤマトの実験施設を壊し……たのはお父上ですが、子供たちの里親を探し、残りを引き取った話は美談として宇宙中で噂されました。あの方、すんごい知名度高いんですよ」
「……だから嫌いね!」
 コウは吐き捨てた。
「あいつ何でも出来るから!」
「ご当人の能力は、ウィッカー能力はとにかく、知能指数も身体能力も容貌も王族の中では平均程度なんですけどね。確かに器用な人ではありますよ」

 思い出すのも腹立たしい、幼いあの日……
 ヨソモノが玉林をうろうろするので、コウはタカラを見張っていた。きっとあの男は何かしでかすに違いないと、コウは読んでいた。
 ある時タカラは妹と蓮華畑に蹲り、もくもくと何かしていた。きっと呪殺の準備に違いない。
 やがてあの男は編んでいた花の冠を置き忘れて、帰っていった。
「作ったものを忘れるなんて、どじな奴よ!」
 せっかくだから貰っておいた。花の冠は子供が作ったとは思えないほど丁寧な仕上がりで、あの男に罪はあっても花に罪はなく、捨てるには勿体ない。
 持ち帰ったそれを、夜に部屋でこっそり被ってみると、
「あっ!」
 部屋の扉からそっと覗うタカラ・シマ。と妹のナナセハナ。彼らは顔を見合わせてぐっと指を突き立てる。
 花の冠を盗み、しかもそれを嬉々として頭に乗せた姿を見られたコウは、屈辱のあまり大声で泣いた。

「どうしたねコウ!?」※父王
「あーあー、タカラ、小さい子いじめんじゃねえよ」※カサヌイ
「いや、なんか花冠をプレゼントしたらすっげー泣かれた」※タカラ
「あらまあうふふ、あの子ったらよほど嬉しかったね」※母妃

 という外野の会話が聞こえぬほど泣き明かし、コウはいつの日かあの男を辱めてやる、と心に誓った。
 ちなみにこの誓いは、タカラ誘拐の速報を聞いて撤回している。彼はタカラが救出されるまで夜も眠れずに心配し、十分おきに乳母にタカラがどうなったかを尋ね、無事が確認された時には安堵のあまりギャン泣き。今では一連のことを認めたくないあまり、忘れてしまっているが。
「あのコウ王子、すっごく微笑ましい思い出のようなんですがそれは」
「それだけじゃないね! あの男に与えられた恥辱は!」
 思い出すのも辛い。あの日、あの男が玉林を出る前日の出来事は。

 自分に課せられた最後の任務|(※彼の中ではストーキングが任務にまで発展していた)を遂行するため、その日もコウはタカラを尾行していた。
 といっても城の周辺をぶらぶらして帰るだけだ。毎日、タカラとコウはそれを繰り返していた。違いはたまにナナセハナが同行するか否かで、飽きもせず二人はスパイごっこと、スパイに追われるスパイごっこをしていた。
 明日からあの騒がしい一家がいなくなる……と思うと、
(せいせいするね!)
 と自分を納得させようとするコウだが、内心は寂しくて仕方ない。ときおり泣きそうになるのをこらえていると、
「あっ」
 転んでしまった。
 城の周辺は衛星が王子二人を監視しているため、邪魔な護衛はつけられていない。コウの親は、可愛い我が子のささやかな遊びを妨げるような真似をしたくなかったのだ。
 しかし、コウは甘やかされて育った身。転んだ時、周囲に誰もいないなんて、みな何をしてるね! と憤慨した。憤慨が涙になって表れる。
「う、うぅ…ひっく」
 蹲って泣くコウの元へ、振り返ったタカラ・シマが寄ってくる。
「な…なにしにきたねっ、笑いにくるないね!」
「いーから、膝っこぞ見せろぃ」
 遠慮なくコウの着物をたくしあげるタカラ・シマ。思わず「無礼もの!」と叫んだが、タカラはまったく意に介さなかった。

「うむち、はるち、つづち」

 訳のわからぬ呪文を唱え、タカラ・シマはぱんぱん、と手を二度叩く。目の前でやられたので、殴られるかと驚いて身を竦ませた。
「ひふみ よいむ なや ここのたり ふるべ、ゆらゆらとふるべ―――いくたま、まがるかえしのたま」
「!」
 開いたタカラの手に、二つの宝玉が現れた。
 その宝玉は僅かに輝くと、陽炎のように歪んでコウの傷に染み込む。驚くことに、その現象が終るころ、コウの膝はつるりとした新しい皮膚に変わっていた。

「あんな高度な技術を見せつけて! 自慢されたね!!」
「いや、怪我治してくれたんじゃ」
 ロウホには、コウが何を根に持っているのかさっぱり分からない。おそらく、コウにも分かっていないだろう。
「大体、コウ王子の能力も凄いじゃないですか。将来性の点においても、志摩を凌駕していますし……」
 なだめると、ようやくコウは「それもそうだたね!」と大いばりで勝ち誇った。

 ただ、志摩神道は神道だけでなく、ヤマトの術文化を担うと言う。妹の巫女姫は地鎮や結界保護に長け、タカラはコウに使用した十種神宝(とくさかんだから)布瑠(ふる)の言(こと)を代表する神言に加え、陰陽道にも精通しているという話だ。コウの能力は恋占に限定されているため、多様性に欠けるが――そのあたりのことは言わないでおいた。

 そもそも彼らウィッカーと呼ばれる希少人種は、文化の信仰によってその強弱が決まる。
 医療と科学の発展により、人間の脳波を増幅させる技術が生まれた。しかし、それはただ脳波を増幅させる『だけ』。彼らの力は仮想次元によって実現される。
 いわゆる『ネット』に近い概念を持ち、様々な情報を蓄積するこの仮想次元は、専用デバイスを媒介して実世界に干渉する。仮想次元はあるいは動画を、あるいはニュースを、あるいはメールを人々に届け、目前に立体映像を映し、タッチパネル式のコンソールにもなる。
 現在のソフトマテリアルを一手に引き受けるサイバネクティックインターフェイスなのだ。仮想次元は演算機になり、宇宙船やモビルギアなどのシステムにもなる。

 その仮想次元に介入するのがウィッカーだ。
 ウィッカーが脳波増幅装置によって様々な現象を引き起こすその原理については、まだ分かっていない。分かっているのはウィッカー能力が遺伝しやすいこと、古くから多くの人に信じられたものほど強く発現するということだ。
 仮想次元は人々の迷信に強い影響を受ける――メールや通話にニュース、書籍や動画、あらゆる情報がひとつの生き物のように、育つ。
 仮想次元の中では、神道や占いなどの現実に「ありえない」ことが、リアルとして存在するのだ。人々が信じる限り。強く信じるものほど。
 ゆえにウィッカーは存在する、というのが有力説である。

 ウィッカーという呼称はテラでデジタルを思いのままに操った『ハッカー』またハッカーの中でも優秀で、魔法使いのようだと賞賛された者につけられた『ウィザード』、そのほか超能力者『エスパー』や魔女『ウィッカ』などが語源とされている。

(俺にとっては、コウ様もタカラ・シマも化け物みたいなもんだが……)
 コウにはああ言ったが、木っ端ウィッカーの端くれであるロウホも戦慄する。
 ロウホは仮想次元に少しばかりダイブして、情報を引っ張ってくる、昔ながらのハッキングのような能力しか持たない。そして多くのウィッカーはその程度だ。
 若干六歳にして実像を伴う異能など、それこそ魔法使いみたいなものだ。仮想次元はまことに、奥が深い。

「それよりコウ様、そろそろお支度をしなければ」
「そうね、そうだたね。うんとめかしこまねばよ!」
 そのように無邪気に笑うコウは大変可愛らしい。これは皇子に見初められぬまま当主になったらどうするのだろう、と心配になるが、まずそれはなかろう。コウなら逆に皇子の間で争奪戦となっても、おかしくはない。






 冷血冷徹と後ろ指さされるシヴァロマではあるが、彼にとっても処刑というのは楽しいものではない。
 また、彼は逮捕を楽しんでいるとよく言われるが、捕物より捕物に至るまでの捜査のほうが余程おもしろい。難解な事件の犯人が判明した時など報酬系が活発になり恍惚感すら覚える。逮捕劇などそれの後処理に過ぎない。
 更に処刑などというのは罰ゲームみたいなもので、どうせ殺すのだから誰でも良かろうにとうんざりする。アダムアイルに嫁を献上するどころか、王位にすら手の届かぬ末端王族の処刑など、マクロシステムで済ませてしまいたいものだ。

「帰ったか、シヴァロマ」
 ニヴル宮で昼間から酒を傾ける双子の弟に細い眉を顰め、シヴァロマは舌打ちした。
「暇そうだな、デオルカン」
「暇だ。戦争がしてえ。エイリアンを殺したい」
 などとぼやくので、前言は撤回する。皇宙軍はあくまで抑止力。この男が暇なのは宇宙が平和な証拠だ。

 ニヴルヘイムに外戚を持つこの双子の兄弟は、顔こそ瓜二つでも見間違えられることはない。性根からくる面相の違いが、あまりにはっきり出ているからだ。デオルカンは野卑さを隠そうともせず、シヴァロマは鏡で見ても神経質そうな顔をしている。自己紹介せねば双子とすら思われぬかもしれない。

「貴様は忙しそうだな」
「雑事が多すぎる。だが、規律は規律だ」
「規律、規律、規律……」
 度の強い酒をボトルのまま煽り、ソファに寝そべるデオルカンは足を組んだ。
「即位すれば、横で規律規律と貴様に喚かれるのか。鬱陶しいな。今のうちに殺しておくか」
「するがいい。出来るものならな」
「………」
 デオルカンはシヴァロマと同じバイオレットの瞳をゆっくりと此方へ向け、ふっと吹き出した。
「やめておこう。唯一味方になってくれそうな奴を潰すのは勿体ない」
「賢明だ。常に賢明に生きろ、弟よ」
「そういえば、今日は婿入り先を選ぶんじゃあなかったか? 兄よ」

 忘れてはいない。規律は規律だ。
 シヴァロマは、あまり皇帝になる気はない。やぶさかではないが、執着はなかった。デオルカンはあくまで帝位を狙うらしく、同性婚もしないらしい。ならば双子のよしみで皇帝になった後もせいぜい小言を言わせて貰う。
 長女のクラライアはとにかく、シヴァロマはアジャラやアーダーヴェインなど規律を重視しない者を皇帝にする気はなかった。その点はデオルカンも怪しいものだが、そこは双子のこと、扱い方は心得ている。

「どれにするんだ?」
「どれでもいい。他の輩が選ばなかったのを拾う」
「なら、コウ・ユーリンとタカラ・シマは諦めるんだな」
「タカラ・シマ……」
 シヴァロマは、そのヤマト系の名を苦々しく呟いた。
「あやつを他の兄弟が引き取るなら、願ってもないことだ。あれは志摩の航路で海賊を潰す」
「自治区なら問題なかろう。何が気にいらねえんだ」
「略奪品は返還するが、それ以外の物品や海賊船を金にかえて懐に入れる。ああいうグレーラインを巧妙に踏む犯罪者予備軍が最も厄介だ」
「貴様が羨むものを、持っているわけだ」
 茶化す双子を睨むが、デオルカンには氷の刃のようと評されるシヴァロマの眼光も効果がない。

「貴様は自分で思うほど潔白な人間じゃねえよ。貴様は本当は、俺のように奔放に生きたいのだ。貴様の本質は破壊衝動と悪徳への憧憬だ、俺には分かる」
「生物には誰しもある。それを理性で律するのが人間だ。それが出来ぬのは畜生よ」
「違いない。俺は獣の本分を忘れちゃいねえ。知ってるかシヴァロマ、かつてテラで地球外生物を追い出したエイリアンハーフは、本能から遠ざかって人間に近づくほど弱くなったらしい」
「貴様と頓智問答をする気はない」

 将校コートを脱ぎ、洗浄ポッドへ向かうために踏み出すが、一度振り返る。
「その気がなかろうが夜会には出席しろ。それが規則だ」
 シヴァロマにとって、それ以上に重要なことはなかった。



***



 コウ・ユーリンが歩けば人が避ける。
 恨めしげな目は心地いい。嫉妬はコウを輝かせる大事なスパイスだ。戦う前から勝ち目のない負け犬はいい引き立て役だった。
 催事用の宮殿は中央皇星でも特にきらびやかで、内装に貴重な宝石をふんだんに使用している。目も眩むような豪華さだ。テーブルクロスひとつ取っても、最高級のシルクだ。これを仕立てれば、立派なウェディングドレスになるだろう。

「ごきげんよう、コウ・ユーリン」
 大柄な護衛を連れたベネディクト王子が、コーカソイド特有の優美な顔で微笑み、声をかけてきた。
「ご機嫌は上々ね」
 お前なぞ眼中にないと、余裕を返す。
 ベネディクトはますます笑み深めた。
「誰かと一緒じゃないのかい。相変わらず友達がいないんだ?」
「と…友達なんか王族に必要ないね!」
「そう? タカラ・シマは交友関係広いみたいだけど」
「………!」
 コウの泣きどころ、タカラの話題を出されて苛立つ。実のところ、コウのタカラコンプレックスはこの男と会う度に蓄積されたものでもある。

 ベネディクトは、何も競争相手を潰してやろうと意地悪しているのではない。タカラ・シマのことで誂うと、この高慢で子供っぽい王子が取り乱すのが単純に面白いのだ。
「そういえばタカラ・シマの姿がないね。君も遅めだったけど、皇帝陛下も皇子殿下もいらしてるよ」
 彼の言うとおり、会場奥の段上の玉座には皇帝陛下がおわし、これほどの人混みでもアダムアイルの皇子は長身でよく目立った。
「我も挨拶するね。そこをどくよ」
 これ以上、タカラのことで弄られてたまるかと、コウは彼を押しのけようとするが。

 カッ―――ポポン

 談笑で騒がしい会場に、独特の音色が響き、人々が会話をやめた。
「何の音だろう」
 他の招待客がそうしているように、ベネディクトも音のするほうを見ようとしている。ただ、コウにはその音の正体が分かった。
「これは、つづみの音よ」
「ツヅミ? それは………」
「よーぉ!」

 カポン

 不思議な掛け声とともに再び鼓が鳴る。
 そうして笛が鳴り響く頃、動揺のさざめきが、歓声に変わった。これの理由は、コウには分からない。振り返って会場の入り口を見やる。
 まず、花びらを散らす桜の枝が揺れていた。意味が分からない。ヤマトの輩が、妙な歩き方で行列を作っている。やはり意味が分からない。
 しかし、最高に意味不明だったのは、美しい色打掛に前帯の格好で、短い髪を金簪やら桃の花簪で飾り立てたタカラ・シマが、三枚歯の巨大な下駄を引きずるようにして登場した時だ。

「ヤマトナデシコ!」
「うぉおおおおヤマトナデシコォオオ!!」

 会場騒然。花魁道中は、ヤマトやウィッカプールのヤマト街で行われる見世物のため、知っている人間も多い。コンロンにも民族衣装は多いのに、なぜか、ヤマトのキモノというやつは外星系に人気があった。尋常ではない、怒号のような歓声だ。
「派手だねえ。いくら無礼講のパーティーと言っても、ここまでやるかなあ、ふつう。変な人だね、タカラ・シマって」
「な、な、な………」
 わななくコウの目前で、タカラ・シマは満面の笑みで、心から楽しそうだ。登場して既にやりきった顔をしている。彼が肩に手をかけているのは、例の絶世の美男なのだが、誰も彼の美貌になど目もくれない。

「これは景気がよい」
 皇帝陛下までお喜びになられて、中央にくるよう手招きをなされる。
 嘘だろう。こんなことで。こんな一発芸のパフォーマンスなぞで………
 青くなったのはコウだけではあるまい。
 しかし、続く陛下のお言葉で安心した。

「どれ、そのほう、ひとつ舞ってみせい」

 タカラ・シマは、ロウホに調べさせた限りでは舞踊の類は出来ない。楽器はある程度扱えたはずだが、彼の多忙でまだ短い人生に舞踊稽古の入り込む余地はなかったのだ。
 だが、この格好で踊れませんは通らない。これはタカラが恥をかく姿が見られるかもしれない……
「………」
 案の定、タカラは黙り込んだ。さあ、どうする。何を言う。
 ヤマトの付き人どもが、近衛兵の指示で下がらされた。陛下の御前には無様な花魁姿のタカラ一人。
 沈黙する花魁に周囲が疑問の声を上げ始める、その頃に。
「り……」
 タカラが大きく片足を上げ、強く踏み下ろした。巨大な下駄が、とんでもない爆音を起こす。
「りん!」
 さらにタカラは、両足を踏みしめた。
「ぴょう!」
(何で返閉(はんぺい)踏み始めたね!?)
 あのバカ、どうしようもなくなって九字を唱えながら禹歩を。殿中で。花魁姿で。あの下駄で。返閉。
 同じヤマト星系から招待された讃岐の王子が「たからぁああ…」と魂消るような悲鳴を上げていた。コウも、そうしたい。

 聡明な皇帝陛下は、事情を察したらしい。呵々大笑、もうよい、とタカラを許す。
「よしよし、お前、面白い奴だの。近うおいで」
 何がそんなに陛下のおツボに入りめさるのか|(※コウ混乱中)、失態を罰するどころか側に呼ぼうとまでなさる。
 厚顔無恥なタカラ・シマ、謝罪するでもなく、恥じ入るでもなく、「あぃ」と返事して下駄を脱ぎ、段を上がる。皇帝陛下の足元で、ちょんと腰を落とした。正座というやつだ。コンロンでは失われた文化である。

 当代陛下は、オリエント出身の皇族で、何と表現しようか、非常に濃ゆいお顔をされている。
 優秀な遺伝子のみ取り入れてきたアダムアイルの皇族としては、顔面偏差値は低めだ。それでもじゅうぶん、男前ではあらせられる。
 彼はそのバタ臭い顔をほころばせ、
「愛いやつよのお。我が皇子の婚姻候補者でなくば、儂が召し上げたいほどだ」
「あちき、今晩でも陛下の褥に潜り込んでありんす」
「わっははは、そうかそうか、可愛いのー、可愛いのー」
 ひとしきり愛でられた後、タカラは帰された。

 その後、タカラ・シマはどの皇子と話すでもなく、すぐに会場から退散してゆく。あの男、何をしに来たのだろう。





「バカだバカだとは思っていたが、ここまでバカとは……」

 まだ誰もいない控室のカウチで着物の前から生足を突き出し、それを組みながら金雁首の煙管をふかす主君にクラミツがいっそ呆然と呟いた。
「え?」
「え? じゃねえよ。無礼講のパーティーで花魁道中、インパクト勝負ってとこまでは分かる。だが、脳の配線をどう間違うと陛下の御前で禹歩踏み始めるスイッチが入るんだ?」
「俺のレパートリーに、舞踊っぽいのがあれしかなかった」
「あれを舞踊っぽいものに分類するところがまず分からねえ……」
「―――タカラ!」
「ふぉっ」
 クラミツの小言を聞きながらダレていたタカラの身が、急に浮き上がる。手から煙管が落ちた。高そうな本皮のカウチに焼け跡が。

「探したぞ、タカラッ」

 身長180センチを超えるタカラを軽々しくも高く掲げる、あまりに逞しいその腕と、目の前に広がる子供のように無邪気な瞳。タカラは大口を開けた。
「アジャラあにさまっ」
「タカラ、どうして真っ先に私のところへ来ない」
 責めながら嬉しそうに笑う羽織袴の皇子は、タカラを抱いてくるくる回る。幼い頃会ったときと、対応が変わっていない。
「美しくなったな、見違えたぞ!」
「あ、美しいといえば、あれを連れてきたのですが」
「げ」
 指し示されクラミツが顔を引きつらせる。が、アジャラはクラミツを一瞥しただけで、すぐにタカラへ注意を戻した。クラミツなど存在しないような扱いだ。少年兵に至っては空気と大差ないのだろう。

「余ったら、俺のところに来るんだぞ」
「本当?」
「ああ!」
 言って、アジャラはぎゅうとタカラを抱きしめる。いや、アジャラならと思っていたが、まさかこうも簡単に皇族を確保出来るとは。
 目的を果たしたタカラ・シマは、早々に催事宮から切り上げた。

 その、数時間後―――

「コウ・ユーリンも捨てがたいのですが、タカラ・シマを希望します。彼のDNAは興味深い」
 夜会が終わった後の、皇子だけの談合で、まずアヴァロンの皇子アーダーヴェインが悪びれずに言ってのけた。トランスジェニックの研究に熱心なこの皇子、文化財を遺伝子操作する気満々である。
 それへ不服を申し立てたのが、アジャラ。そう、ヤマトの文化財だ。もちろんヤマトの母を持つ彼がアーダーヴェインをたしなめるのが、筋……

「あれは昔から、私の玩具にすると決めていたのだ! お前にはやらんぞ!」

 前言撤回。貴様ら、ヤマト屈指の文化財を何だと思ってやがる。
 シヴァロマは頭を抱えた。デオルカンは我関せずとばかり、壁際であくびをしている。眠くなると凶悪な顔が幼く見えるのが不思議だ。双子の自分も、睡魔に襲われればああなるのだろうか。気を引き締めねばならぬ。

「お前はコウ・ユーリンにすればいいだろ!」
「能力が恋占だけではねえ。タカラ・シマからはまだ色々と引き出せそうで」
「うるさい! ずっと前から目をつけていたのだぞ」
「外戚を作るのが目的ですから、貴方も彼もヤマト以外の家のほうがいいでしょう? 我が母の生家は志摩を援助できますが、志摩の政敵である薩摩のご実家はどう仰ってるんですか?」
「母の家の意見で結婚相手を左右する気はない!」

 アーダーヴェインにしろアジャラにしろ、タカラ・シマを玩具にすることで頭が一杯だ。本日は阿呆のようではあったが、タカラ・シマなりに精一杯のパフォーマンスをしたろうに、そんなことは露ほども話題に登らぬまま、微妙な理由で選ばれそうになっている。
(貴様ら、貴重な文化財を何だと……)
 憎たらしいタカラ・シマなど兄弟に押し付けてしまえばいいものを、シヴァロマの性格上、出来なかった。
 シヴァロマは無言で立ち上がり、白熱する二皇子の部屋を後にする。デオルカンは立ったまま寝ていたので放置してきた。
 待機していた皇軍警察の将校に足を用意させた。行き先は、志摩にあてがわれた宮殿だ。

 渦中の人物、タカラ・シマ。
 連れてきた少年兵と一緒に、噴水で水遊びをしていた。半裸で。とりまく使用人が無我の境地に達した表情で彼らを見守っている。エントランスの絨毯が、洪水を起こしていた。
「若ーっ、もう一回、もう一回!」
「わはははー、それー」
 そんな格好で戯れているので、少年趣味でもあるのかと思いきや、ただ遊んでやっているだけらしい。少年の一人に水をぶっかけて笑っている。かけられたほうも、猿のような声音で喜んでいた。ここは、動物園か。
 しかし、タカラ・シマもやがて此方に気が付き、笑顔が凍りついた。さすがにそのくらいの頭はあるか。心臓に剛毛は生えているようだが。
「しばっしばろま皇子。なぜ此処に」
「洗浄ポッドはどこだ」
 何より、まずそれだ。水しぶきが僅かにかかった。この服も、もう着られない。

 全身を滅菌消毒し、清潔な衣服に着替えてひと心地つけた。人の宮殿の一室で好みのウォッカを一杯煽る。呑まねばやっていられない。
「あの、シヴァロマ皇子殿下……」
 所在なげにタカラ・シマが現れた。此方も着替えている。花魁衣装よりはもっと大人しい意匠のワフクだ。
 シヴァロマは顎を上げた。
「単刀直入に申す。私と婚姻を結ぶか」
「へっ」
 間抜けな顔で目を見開き、かと思えば、タカラ・シマはみるみるうちに黄色い肌を紅潮させた。
「本気で仰っているので?」
「私が、この夜更けに、冗談を言いに此処へ出向いたと?」
「いえっ! ただ驚いただけで」
 皇帝を前に「あちき」と言ってのけた豪胆さは何処へやら、そわそわ視線を彷徨わせて指先を弄る。よく分からぬ男だ。

 部下が書類とペンを置く。
「で、どうする」
「もちろん、喜んで!」
 てっきりアジャラから求婚されているものと思ったが、タカラ・シマは二つ返事で、何の躊躇もなく、婚約書に署名しようとする。この警戒心のなさ。話に聞く限りでは、かなり用心深く食えない男のはずだったが……
「軽はずみだな。深く考えよ。私はこの婚姻に政略以上の価値を見出さん。まともな結婚生活などないと思え」
「殿下こそ、よろしいのですか。俺などで。俺はご覧のとおり、がさつで、大雑把で、雅からは縁遠い男なのですが」
「そんなものは、デオルカンで慣れている」
 噴水遊び以上に途方も無い真似を、あの双子の弟はしてのける。あんなのはデオルカンのしでかすことに比べれば、可愛いものと言えた。あの弟は気がつけば生き物で血の海を作り、噴水遊びをしているのだから。

 けっきょく、タカラ・シマは嬉々としてサインした。間違いがないよう、シヴァロマもその場でサインする。
「では、挙式は三ヶ月後とする。志摩で行うゆえ、準備するように。資金はこちらで出す。それと、我が実家の出席はない……我々双子は母の家と疎遠でな。その援助がないことも留意せよ」
「はい。俺は、シヴァロマ殿下と結婚できるだけで満足です。ああ、これからは、婿どのですね」
「………」
「婿どの。宜しくお願いします」
 そう言って、タカラ・シマは目尻に朱色のアイシャドウを顔をふにゃふにゃと綻ばせる。
 シヴァロマの胸のうちに、何かむず痒い、消化しきれぬ感情、感覚が起こった。喜びともつかぬ、嫌悪ともつかぬ……だが、彼の人生に今まで無い経験のため、感情の名も、理由も分からず、ただその場を後にした。

 これは、規律。規律に従うための、政略結婚。本当はしたくもないが、規律だから仕方がない。規律、規律……


***


 タカラは浮かれきっていた。憧れのシヴァロマ皇子。声をかける糸口もなく、諦めていたのに、あちらから求婚してくださった。
 本当に一目見たいだけだった。それはあの花魁道中の最中で果たしたのだ。皇子はタカラのほうを見てもおらず、顔を背けて退屈そうに酒を煽ってらした。望みはなさそうだと、重ねて自分を納得させたものだ。それが、どうだ。

「シヴァロマ皇子はなー、本当に格好よくてなー、もひとつ格好よくてなー」
「うるせえ! 結婚する前から惚気んな!」
 誰彼構わず捕まえては、嬉しさを爆発させる。惚けたタカラに少年兵でさえ、近寄らない。仕方ないのでむりやりクラミツを捕まえて、さらに惚ける。
「皇子が助けてくださった話もさんざん聞いたし、その皇子に憧れて海賊退治するようになったのも聞いた。散々、聞いた。何十回も聞いた」
 それほど飽きずに話し続けた相手と結婚できる喜びプライスレス。
「うひょぁあああ……きょげぇえええ」
 抱えきれない幸運に日がな一日、奇声を発して巨大ベッドを転がり続けるタカラ・シマ。宙軍一同「変な人だと思ってはいたが、ここまでとは……」と呆れている。

「それにしても、いくら憧れてても本当にシヴァロマ殿下でいいんか。俺だったら、一番結婚したくない相手だがな。やることなすこと逐一文句言われて、神経すり減らしそうだ」
「俺は文句言われても気にしないほうだから、相性はいいと思う」
「気にしろよ! シヴァロマ皇子が可哀想だろ!!」
「失礼します」
 執事がノックもせずに乗り込んできた。王族に仕える使用人としては、首が飛んでも文句の言えぬ無礼である。だが、それだけに切迫した雰囲気がある。

「アジャラ様が―――」

 執事が言い終えるのを待たず、扉が飛んだ。
 当然、その前に立っていた執事も、飛んだ。人間がバウンドして墜ちる様を見たのは、あの時以来だ。
 シヴァロマ皇子が海賊をなぎたおした、あの時以来。
「あ、アジャラあにさま?」
 二人目の皇子が候補者の宮に足を運ぶなど、異例ではなかろうか。タカラがクラミツに目配せするか否や、大股で歩を詰めたアジャラが、タカラをベッドに縫い付けた。
 いつでも明朗で優しいアジャラの顔しか知らぬタカラは、狂犬のごとく歪んだ表情に言葉もない。

「どうしてシヴァロマなんかと婚約した!」

 なんか、とは何か。
 アジャラには報告するつもりでいた。そうか良かったな、余り物にならなくて。くらいの返答があると、むしろ祝ってくれるものとばかり思っていた。
『余ったら、貰ってやる』
 アジャラはそう言った。余らなかったのだから、良いではないか。
「お前は私の玩具にするんだよ! 幼い頃に海賊にかわるがわる犯されて、平気な顔をして帰ってきた王子がいると聞いた時から、ずっとだ。どんなふうにすれば、そいつの顔は歪むのかと――楽しみにしていたのに」
「……は?」
「いいけどな、シヴァロマを殺せばいい! シヴァロマを殺してお前を奪い、即位してお前の妹のナナセハナを妃にしてやろう。壊れた人形になったお前は綺麗に飾っておいてやる。それを見た妹がどんな顔をするか、今から楽しみだな!!」
「………」

 タカラはゆっくり、首を傾げた。理解が追いつかない。いま、なんといった? 会うたびに可愛い可愛いと抱き上げて、肩車をしてくれ、遊んでくれたあのアジャラが。
「俺……アジャラあにさまのこと、本当のあにさまみたいに……」
「兄貴がこんなことをするのか」
 アジャラの大きな手が浴衣の裾に潜り込んだ。
「ひっ、あにさま……ほんとう、に……ほんきで……」
「ははは、なんだタカラ。下の毛を剃ったのか? そういう趣味か? 海賊にでもやられたのか?」
「きさ、ま……」
 下腹部を撫で、性器を弄ぶ手に、タカラも放心から脱した。海賊どもの男根を噛みちぎったあの日のような、煮えくり返る怒りが蘇る。
「貴様のような男を皇帝にしてたまるか! 貴様に妹はやらん!!」
「ここへきても妹の心配か。これは壊し甲斐があるなあ」
「ひふみ……」
「おっと」
 アジャラは掛けるタイプの枕カバーをタカラの口に突っ込んだ。タカラはかなり強力なウィッカーだが、口を塞ぐと簡単に無力化されてしまう。これほど至近距離で、これほどの怪力に抑えこめられれば尚更だった。

「んんん」
「よしよし、いい子だぞ。おとなしくしろ。シヴァロマを殺したら、すぐ結婚してやる。壊すなんて嘘だ、ナナセハナにも興味はない。大事にするぞ、本当だ。お前が欲しいんだ」
「んうーっ」
 性器を執拗にこねくり回されると、男の悲しいさがで変な気分になってくる。アジャラは巧妙にタカラの抵抗を封じながら首筋に舌を這わせ、乳首を撫でた。
「う、んっ」
「そうかそうか、ここが感じるのか? やっぱり男の味を知っている分、敏感だな。何人相手にしたんだ? もう尻だけでイケるのか?」

 腐乙女の頭ん中だけでなら、タカラは突っ込まれるだけで潮もふきまくるし妊娠もするのだが。

 残念ながらリアルのタカラは痛みしか感じたことがない。それでも合意の上でなら我慢できると思っていた。それが務めなら。大好きなあにさまのアジャラであれば……喜んで体を重ねたろうに。
 あの優しいあにさまは、もういないのだ。いや、最初から存在しなかったのか。長男で嫡男のタカラはいつも頼れる一方で、時には投げ出したくなった。兄が欲しいと願ったこともある。アジャラが本当の兄だったら、どんなに良かったかと。
 まさかシヴァロマが求婚してくるとは夢にも思わなかったから、最初からアジャラと結婚する気でいたのに。こんな裏切りはあんまりだ。
「うぅっ……うんん…ん、ぅ」
 悲しみが怒りを凌駕するころ、体から力が抜けた。先走りまで出ているのかアジャラの手がぬめっている。薄笑いを浮かべたアジャラの指が、硬く窄んだアナルの口へ滑る。
 が、その指に犯されることはなかった。
 それどころか、アジャラの体が失せ、重量感も消える。
 代わりに目の前にいたのは、ニヴルヘイムの冷血皇子だった。
 寝台の前で例のデンドロビウムみたいな愛銃を担いだシヴァロマは、それによって殴られ転がり落ちた兄弟を傲然と見下ろしていた。

「他人の婚約者に手を出すとは、ヴェルトール法5692条に反するな。おまけに皇子は皇子を殺害しても罪にならん」
「シヴァロマ!」
「ここで脱落するか、アジャラ。俺はそれでも構わん。元より貴様を皇帝にする気はさらさらない」
「タカラ、無事か!」
 大急ぎでシヴァロマを呼んで来たのだろう。クラミツがシーツでタカラを包み、抱き起こしてくれた。あの執事も救出してくれたらしい。気がつけばこの部屋にはいない。

 一触即発の様相で対峙する皇子二名。シヴァロマが述べたとおり、アダムアイルは同族殺しを許容している。蟲毒の虫のように争わせて数を減らし、優秀な者だけを残すことで今日まで存続してきた。
 彼らにしてみれば、いずれ殺し合う間柄。それが今でも一向にかまわぬのだろう。
 だが、タカラはこの二人の死体など見たくはなかった。

「吹っ切って放つ、さんびらり!」

 印を切った二本の指をアジャラに向け、神言を唱えた。タカラの体内に埋め込まれたデバイスが室内に専用仮想次元を展開、言霊が意味を持ってアジャラの意識を刈り取った。アジャラのアダムアイルらしい巨体が音を立てて崩れる。
「アダムアイルをこうも容易く落とすか」
 白目をむくアジャラを心底侮蔑した瞳で見下ろし、シヴァロマは枕元へ近寄ってきた。この血族は背が高いので、一歩が異様に広い。
 シヴァロマはそこで跪き、クラミツに肩を抱かれるタカラの手をとった。手袋ごしとはいえ、潔癖症の皇子に触れて貰えるとは貰えず、まごついてしまう。
「兄弟の犯行を許したことを謝罪する。未然に防げる事件であった」
「俺も悪いのです。たぶん、アジャラ様を傷つけた」
 余ったら俺のところに来い。あれが子供じみたアジャラの精一杯のプロポーズだったのではないか。皇子にああ言われたのに、ほかの皇子と婚約するなど、確かに無神経だ。
 アジャラは頭に血がのぼってああ言っただけで、本心は違ったのかもしれない。でなければもっと前にタカラを無理やり己のものとして、弄ぶこともできたはずだ。
 まだアジャラを信じたいだけだろうか。

 と、シヴァロマは眉を顰めてタカラの手を離す。彼の不興も買ったかと怯んだが、そうではなく、皇子は懐からクリスタルの小瓶と清潔そうなハンカチを取り出し、ハンカチをシュッとひとふきしてからタカラの首筋を几帳面に拭った。
「吸い痕ついてる」
 クラミツがそっと耳打ちしてくれた。アジャラに口づけられた箇所を、消毒されたらしい。
「怪我はないか」
「はい、おかげさまで―――」
「洗浄ポッドへ入るがいい」
 昨晩の求婚時とはうって違う、優しい声で促された。この皇子の場合、それでも硬質だが、元を知っているだけに明白な違いが出る。
 洗浄ポッドを勧めるのも、潔癖性の皇子にとっては最大限の気遣いだろう。それがうれしくて、タカラは微笑んだ。
「ありがとう、婿どの。やっぱり貴方でよかった」
「そうか」
 特に感慨もないのか、皇子の声音は記者会見でよく聞くつっけんどんな調子に戻っていた。

 タカラが洗浄から戻ると、既にシヴァロマの姿はなかった。失神したアジャラも消えたので、婿が連れ帰ったのだろう。
「おまえがシヴァロマ皇子を選んだ理由がちょっと分かったよ。皇族じゃ一番マトモなお方かもな」
 アジャラに傷つけられ、消沈するタカラに付き添ってくれているクラミツに、そうだろと弱々しく笑い返した。


***



 皇子の婚約相手が発表されると同時に、腐乙女界だけでなく仮想次元全体がその話題でもちきりとなった。
 中にはタカラへの批判、シヴァロマへの批判、この二人が結婚することへの悪い意味での嘆きもあったが、そんなことは気にしない。元より、タカラとシヴァロマはやることが過激なのでそういうものは多かった。中にはタカラに潰された海賊の残党や、かつてシヴァロマに逮捕された犯罪者もいるだろう。
 それからデオロマ|(デオルカン×シヴァロマの略称)クラスタとタカクラ|(同様にタカラ×クラミツ)クラスタはお通夜の様相で、覗いた瞬間にトークルームをそっ閉じ。

 しかし、大半は祝福のやりとりである。
 特に嬉しかったのは、シヴァロマ×タカラ、通称ロマ若が流行したことだ。今まで宇宙規模でほんの一握りしかいなかった超ドマイナーのカップリングが一挙に人気を博し、日に千と言わず数万の作品がギャラリーに投稿され、ロマ若と題されたトークルームがウン十万と乱立した。
 よくもこの短期間にここまで、という数のウ=ス異本が発行され、シヴァロマ効果で宇宙中から『たから千代』への注文が殺到、製紙が追いつかない嬉しい悲鳴。

 タカラもこっそり、バーチャルブックや個人制作アニメを購入した。というか廃人並に課金している。腐乙女の妄想力は逞しく鋭い。これだけ母体が大きいと、名を馳せたプロも多く、その重箱の隅をつつく洞察力にタカラ本人が唸るほどだ。
 タカラの誘拐事件は、元より有名である。しかし、それを救出したのがシヴァロマであるとはあまり知れていなかった。今までは。
 ロマ若が流行ってからすぐにこの事実関係は割り出され、雷のように伝播し、この婚約はこの時に運命の出会いを果たした二人の昔からの約束であったという見解が一般化している。

 それが本当だったら良かったのだが、残念ながらそんな事実はない。

 八歳と十五歳の出会いから今までの期間についての捏造ストーリーが、多種多様なネタで展開されたウ=ス異本を仕事の合間に読みあさり、寝不足で頭が働かない。
 おそらくあの潔癖皇子が相手では一生ないだろうロマンチックなキスに悶え、シヴァロマの愛の告白でもう、たまらない。
『そなただけを愛している、タカラ|(※シヴァロマはそなたとか言わない)』
『お前は宇宙で最も清潔だ|(※実際に言いそうで困る口説き文句)』
 リアルでシヴァロマに言われたい台詞ランキングは『見事だ』『大した手腕だな』『礼を言おう』と婿に認められたい願望で占められているが、捏造であればアリアリ。
 そしてここまで文化が定着すると、いずれ仮想が現実に干渉しそうで大歓迎。

 とはいえ、この騒動も嬉しいばかりとはいかなかった。
 まず最も問題となったのは、タカラの偽物が仮想次元に何名も出没したことだ。
 これは志摩の面子に関わるゆえ、皇軍警察を抑えて自らの手で逮捕した。いくら皇軍警察元帥が婿とはいえ、自治権を持つ志摩が嫡男の偽物の逮捕を他所に委任できるわけがない。
 おかげで慣れない宇宙全域の仮想次元にジョイントダイブせねばならず、骨が折れた。この捜索はタカラや志摩宙軍のウィッカーだけでは手が足りず、ナナセハナにまで手伝わせている。親父どのは宥めすかして黙らせた。親父どのを関わらせると、余計な問題をこしらえかねない。
 ただ、この事件のおかげで、シヴァロマと通信する機会が増えたことにだけは、感謝している。

 それから余波というか、タカラにとっては苦いことに、アジャラ×タカラの人気も高まった。
 アジャラは結局、誰も選ばなかった。デオルカンと同様に独身表明をしたのである。
 今まで誰にも気に留められなかったが、ヤマト王族の定例会や夜会で熱心にタカラを構うアジャラの様子はマスコミに撮影されており、今でもその記録が仮想次元に出回っている。
 今までは単なる微笑ましい姿と報道されていた。しかし、タカラがシヴァロマと婚約し、アジャラが急に独身表明したというのがあまりに意味深で、人々は様々な事情を邪推してくれた。
「お家の事情で二人は引き裂かれた」
「タカラはアジャラを愛していたが、泣く泣くシヴァロマと結婚することに」
 アジャタカ界でのタカラは一貫して悲劇のヒロインだ。ロマ若界では潔癖症で経験のない皇子の童貞を腐界のビッチことタカラが食い散らす話からリバーシブルまでネタに事欠かないにも関わらず。

 ちなみにタカクラ・クラタカ界でもこの傾向は強い。タカクラの場合はクラミツが悲劇のヒロインだ。但し、タカクラでもタカラに比重を置く腐乙女は攻め受けイケる両刀のタカラを堪能しており、クラミツ派のタカクラ乙女の顰蹙をかっている。同じCPが好きでも、色々あるらしい。

 そして兄の話題沸騰の煽りで、なぜかナナセハナ人気も高まった。ウ=ス異本カルチャーは腐乙女だけが担っているものではない、萌え漢も多く存在する。萌え漢にとってナナセハナはもう女神のような扱いで、ウ=ス異本も多い。
 自分のことは好きに料理してくれて構わぬが、妹をウ=ス異本で陵辱する真似だけは絶対に許さない。絶許。
 ウ=ス異本で題材にされる実在の人物の肖像権侵害は親告罪だ。限りなくダークなグレーである。あのジャスティス・イズ・グローリーの異名を持つシヴァロマが放置している程度のダークではあるが、確かに訴えれば勝てる。

「俺のナナセを汚す奴は、何人たりとも許さん。ウィッカーよ、咒いたくば咒うがいい。倍々返しだ。ヤマト文化財志摩神道次期当主タカラ・シマをなめるなよ」

 萌え漢にもウィッカーは多く、実際に攻撃は多く受けた。というか一部の腐乙女からも受けた。まあ、こんなことは王族商売柄よくあることだ。ただでさえ、思い上がって志摩神道を負かしてやろうという輩はいて、今更の話だ。
 またこうした輩を返り討ちにするのは志摩の信仰を高める上で役立つ。信仰とは価値だ。価値は志摩の力となる。
 ただ、余計な仕事は増えた。

「あにさま、顔色が悪いです。もうじき挙式なのに」
 昼も夜もなく、ずたぼろの肌で僵尸のごとき色をしたタカラを、ナナセハナが窘める。
 基地まで態々出向いてまでの叱責だ。それも、ご大層に眠たげな親父どのまで連れて。
「あと一週間なのですよ。もうお休みくださいまし」
「此方としても休ませたいのですが、あまりに手が足りないのですよ」
 クラミツが申し訳なさそうに謝罪する。この男は昔馴染みのタカラをぞんざいに扱うが、ナナセハナには目上の姫君として接した。
 ちなみに仮想のNL界ではクラミツ×ナナセハナことクラナナが王道だ。
 ナナセハナが即位した皇子の何れかに嫁がないなら、タカラとしてもクラミツに妹を任せたいと考えている。というか皇帝であろうと嫁にやりたくない。何処の馬の骨とも知れぬ男にもやりたくない。どうしてもナナセハナをやらねばならぬなら、苦楽を共にした親友が良い。

「なら父様をお使いくださいまし。一週間のことですし、私が責任をもって見はります。この期間にお父さまがしでかしたことは、すべて私が責任をとります。そういうつもりで励んでくださいまし、父様」
「働きたくないでござる」
「たまには働いてくださいまし!」
 愛娘にぽかぽか殴られ、カサヌイはやに下がっていた。人のことは言えぬが、親父どのはナナセハナに甘い。
 クラミツ以下宙軍は揃って迷惑そうではあったが、こんな当主でもウィッカーとしての習熟度はタカラの遥か高みをゆく。
 そういうことなら久々に親に甘えることにした。何しろタカラの顔は日に日に隈が濃くなり、むくみ、血色が悪くなる一方だったのだ。

「じゃあ、悪いけど休ませてくれ。流石にこの顔で婿どのをお迎えしたくない。切腹したくなる」
「ああ……まあ、酷い有り様だからな。よく働いたよ、おつかれさん」
 そういう自分も暫く不眠不休で働いているというのに、そんな素振りも見せずにクラミツは主君を労った。こういうときのクラミツは「抱いて!」と言いたくなるほど男前である。
「挙式までは、私が兄さまの結界も担当いたします。呪い返しは中断なさいまし。他のことはせず、体調とお肌を整えてくださいましね」
 少し前までふにゃふにゃぽえぽえのアホの娘だったのに、成長したものだ。
 結界にかけてナナセハナの右に出る者は、この宇宙にいないと断言していい。タカラほど多様性のあるウィッカーも珍しいが、この結界にかけるナナセハナの力量はヴェルトール史上例のないものと褒めそやされるほどで、タカラの神言などナナセハナの禹歩ひとつで全て弾かれる。というか、タカラに限らず彼女の結界を破ったウィッカーは今のところ、存在しない。
 実はタカラより、ナナセハナを標的にしたウィッカーのほうが、ずっと多い。彼女を打ち負かせば宇宙一を名乗れる。しかし、彼女はほんの幼い頃から全てを黙らせてきた。志摩の守護者は、本当は妹のほうだと思う。





 一方宇宙の片隅で―――
「なんで、あんなヤツがこんなに人気あるのよ!」
 と髪を引き毟る女の姿があった。

 彼女は美の崇拝者だった。不細工には生きる価値がない。一般人ならまだしも、皇王族は美形が前提だろう。
 そころいくと志摩は一家揃って顔面偏差値は下の下|(当社比)、彼女はタカラだけでなくナナセハナも気に入らなかった。あんなカマトト女の何がいいのよ! そう思っている。
 志摩には皇族なみに美しいと評判のクラミツ・シマ様がいらっしゃる。だというのに、なぜ世間はタカラ・シマを持ち上げるのか。

「なんでって、皇族並ですから。クラミツ様くらい珍しくないっていうか……」
「トークルームが荒れるので皇王族の方々の批判はやめてください。不謹慎です」
「どうせ構ってちゃんだろ。スルー推奨」
「アンチは帰れ」

 どれほどトークルームで正論を訴えても、愚鈍なバカ女は考えを改めない。中には彼女に同調する輩もいたが、どいつもこいつも頭のおかしいメンヘラばかり。あんなのと一緒にされたくはない。彼女の思想はもっと崇高なのだ。
 また、タカラ批判の萌え漢も見苦しいことこの上なし。お前らがしたいのは批判ではなくやっかみだろうと。
 その点、彼女は軽率で無様な萌え漢どもとは違う。性別すら違うのだから、嫉妬の対象にはならない。と少なくとも彼女は信じており、その考えを疑いもしない。

「タカラ様が嫌いな人は、一度ハシリガネで志摩に行くといいですよ」
「旅行の時、気張って重い荷物を持ってちゃったんだけど、タカラ・シマ様がそっとあたしの荷物を取って『お手をどうぞお嬢さん』ってぇ!! 一生の思い出よ!」
「すっごい明るい方で、ちっとも気取らないっていうか、船旅の最中よくお話できるのよね」
「少年兵の面倒見も本当によくて、船内での訓練風景とか凄く微笑ましい。クラミツさまとツーショットが見れると幸せ」

 反吐が出るような絶賛の嵐。
 皇軍警察元帥の婚約者でヤマト文化財志摩次期当主の王子の悪口など、言ったその日にリアルで首が落ちても文句を言えないほどの不敬罪なのだが、シヴァロマもタカラも批判者から情報を得て犯罪者を割り出しているので放置されているだけという事情を彼女は知らない。

 そこまで言うなら、行ってやるわよ!
 彼女は志摩ゆきを決意した。もちろんタカラ・シマおよび当主一家をこきおろすネタを探しのためだが、クラミツ・シマ様をこの目で見たい。
 かくして彼女は五十年ぶりに|(現代人類の平均寿命は200歳)集合居住惑星の自宅から一歩踏み出したのだった。
 しかし何分、体が鈍っている。その気になれば一生涯、外へ出なくとも生きてゆける昨今、彼女のような一般人は珍しくない。貨物用モビルギアを購入しておくべきだった。
 旅行荷物ともなれば相応に重く、乏しい体力を奪う。中皇星の中継ステーションに着く頃には力尽きており、志摩ゆきの船着場でへたりこんでいた。

「――お荷物お持ちしましょうか?」

 何処かで聞いた声音。
 彼女は弾かれるように顔を上げた。桃葉紋の制帽から覗く、朱色の隈取。タカラ・シマだ。
 現実で他人から声をかけられるなど、百年以上なかったこと。彼女の職業はグラフィックパタンナーであり、仕事はすべて仮想次元で行っていた。メールやトークルームでのやりとりはあれど、生の声は久々で、すっかり萎縮してしまった。
 何のかんの相手は王子様、彼女より遥かに身分の高い相手だ。
 しかし、怯んだのを認められず、また混乱して「さっさと持ちなさいよ!」と怒鳴りつける。

 タカラ・シマは驚いて切れ長の目を丸くした。そんな彼と彼女の間に、腕が一本差し入れられた。タカラ・シマを庇うように現れた、クラミツ・シマ様だ!
「いかがなさいましたか。この方は志摩次期当主タカラ・シマ様です。お客様といえど、我が主君への無礼は許されませんよ」
「落ち着け、クラミツ。ご覧のとおり、お客様はお疲れで状況判断が出来ないんだ。さ、お荷物お持ちしましょうね、お姫様。クラミツ、彼女を船室までご案内しろ」
「はいあぃ」

 何という幸運だろう。クラミツ様の長く艶やかな黒髪をうっとりしながら追う。たまさかに横顔を見上げれば、長い睫毛に彩られた伏し目がちの瞳が見えた。狐のような顔をしたタカラ・シマとは大違いの黒目がちな瞳だ。
「先程は申し訳ございませんでした。あれでも次期当主なので、立場上とがめない訳にはいかないので」
「いえ、そんな……」
 耳が孕みそうな低く心地よい声音に震えながら、彼女の声は1オクターブ上がっていた。
「それと、少年兵の中には若への無礼に過敏なのがおります。奴らはまだ子供で加減というものを知らんので、お客様を保護する目的もありました。俺が先に出れば、奴らも満足しますから」
「あの少年兵は実戦に出るのですか」
 自分の身が危険だったことより、それに反応した。子供を軍で引き取ったことにも批判は多いのに、無礼を働いた客へ襲いかかるほど戦闘訓練を受けているなど―――

 実験施設にいた子供たちはもともと軍事用に育成されたウィッカーである事実は一般にはふせられており、彼女の知るところではない。

「実戦に出ねば成長しませんよ。大人になったからと急に酒を呑んで中毒で死ぬ奴が続出するのと同じことです。子供のころは守られて、大人になった瞬間死なせていい道理はない。海賊との白兵戦は基本的にハシリガネ船内では行われず、敵船で行われるので少年兵の戦闘をお客様の目には触れませんが……ま、基本的には我々正規兵が少年兵を監督しておりますので、滅多なことはありません」
 実際、志摩宙軍の少年兵に死者が出たという話はない。これは皇軍警察が毎年きっちり調べて公表していることなので、隠蔽工作は通用しないだろう。なにせあの相手はシヴァロマ……
 と言いたいところだが、彼女は思い直した。
 そう、可哀想なシヴァロマ皇子は、何か弱みでも握られてタカラ・シマの毒牙にかかったのだ。もしかしたら、もしかするかもしれない。
 彼女はニヴル双子皇子推しであった。なんといっても、皇族の中でも群を抜いた美を誇っている。

 ピギーバックペイロード船シマ・ハシリガネは外装ほど中は古くなかった。一面赤い絨毯びきで、ロビーには桃のテクスチャが飾られており、その花びらを唐傘が遮る畳のカウチがあった。窓枠も雅な檜枠で、木材自体が珍しい昨今の宇宙では贅沢だった。
 客室の扉も、なんと和紙で飾られた麩である。触れてみると立体映像ではなく、リアルのものだ。噂に高い『たから千代』の和紙をこれほど大胆に……名前は気にいらぬが、その美には感動を覚えた。
 流石に格安ツアーだけはあり、船室自体はシャワールームのごとく狭い。小さな棚があって、ベッドがある。足の踏み場が二歩あるかないかという程度。
 それでも宇宙が見える障子窓や、照明となるヤマトの灯籠は見事だった。ベッドに敷かれた寝具など、動物の毛がふんだんに使われており、まるで雲の上で寝るかの心地。
 食事も、バイオプリンタで生成された食料とは違う、土から育った野菜や果物は五臓六腑に染みわたる味だった。また、それらを食べて育った獣の肉は舌の上で蕩けるようで、今まで食べていたケミカルミートがどれほど味気なかったかを思い知る。

 志摩観光は、ハシリガネに乗るだけでも価値がある。
 その論評だけは素直に認めざるをえない。

 が、問題はここからである。ハシリガネにはもうひとつ名物があるのだ。それが目当てで常連化している客も多いらしい。
 彼女がハシリガネに乗って二日目、日光浴ルームで読書をしている最中に、船内にスクランブルが響いた。
『ご乗船のお客様にお知らせ申し上げます。ただいま志摩所有のソノ・ブイから敵船情報を受信しました。ただいまよりピギーバックペイロード船シマ・ハシリガネは戦闘態勢に入ります。はいあぃ』
「やったあ、海賊退治だ!!」
 無邪気な御子様が飛び上がって窓に齧りつく。
 観光客を乗せたままの戦闘など危険極まる行為だが、ヤマトでは黙認されている。彼女も乗船する際「格安ツアーですので死んでも文句を言いませんように」という書類にサインさせられていた。
 宇宙での旅は常に危険と隣り合わせ。どれほど護衛艦がついていようが、撃沈される時は、される。そこをいくと今まで死者を出したことのないハシリガネは安全そのものと言えるが、とにかくタカラ・シマの気に入らない彼女はその書類にも反感を持っていた。

 その不満が、実際に海賊に襲撃され、膨らんだ。五十年も自宅に引きこもっていた彼女には刺激の強いことだった。
 しかも、ちょうど彼女が乗り合わせたこの便は、ちょっとした伝説に残る事件が起きた。
「あれ、おかしいな」
 窓を見ていた子供が首を傾げた。
「何か、船の数が多―――」

 ビーッビーッ

 無機質なスクランブルが再度けたたましく響く。
『ご乗船のお客様、それから志摩宙軍にお知らせです。敵は艦隊を組んで突撃してくる様子。クラミツ、シノノメ! ギアモビル『オモイカネ』『ヒヒイロカネ』に搭乗し待機せよ。
 ただいまより、シマ・ハシリガネは九十九システムに移行します。ちびども、久々に俺の操舵テク見せてやっから、管制室に来い』
 客への連絡と宙軍への連絡がごっちゃになった放送だった。
 続いて、改めて客への連絡が流れる。
『ご乗船のお客様へお願いがございます。ハシリガネは百年以上親しまれた船です。ヤマトでは、九十九年の時を経た道具には魂が宿るという信仰があり、九十九システム起動中のハシリガネは生きて(・・・)います。
 従って船内の飛行タレットなどの防衛モビルギアからお掃除ロボまでが自分の意志で動き回るようになります。九十九システム起動中、彼らは機械感応による支配を受けつけませんので、ご安心ください。
 ……ところでクラミツー、あのエクラノプランの動力部落とせる?』
『オープン回線で聞くな! やればいいんだろ』
『お、出来んのか。愛してるぜクラミツ』
『気色悪い』
『若ー、このコンソールパネル何?』
『九十九で呼び出してないパネルが勝手に立ち上がったら、ハシリガネが「これ必要だと思うんだけど」と相談してきてると思え。必要なければ無視して構わない。で、今回の編成は有人モビルギア二機と、それからモビルギア支援のアビオニクスとダミービームと機雷と……』
 おまけにオープンでレクチャーまで始めてしまった。

 彼女は光浴室を出て、最も大きな窓のある展望ラウンジに移動した。既に大勢の乗客が海賊退治を見物しようと集まっている。命の危険に晒されているというのに、呑気な連中だ。
 この展望窓は、普段は装甲で覆われている。この緊急時になぜ腹を見せているのだろうか。客の命より見世物が大事とでも言うのだろうか?

 ――実際は「当たったら即死」のため装甲があろうがなかろうが関係ない為だが、例によって彼女は以下略
 どのみち、彼女の思う通り危険なことに変わりはない。

 しかし、一面の透過素材の向こうに見える武装艦隊は圧巻だった。あれに一斉射撃されたら、どうするのか? モビルギア二機とオンボロ貨物船だけで。
『お客様にお知らせです。少々揺れるので歯を食いしばって何かにお掴まりください。それから慣性装置の働いていない区画への移動もご遠慮ください。そろそろ戦闘開始です。来るぞ、クラミツ、シノノメ!』
『はいあぃ』
 タカラ・シマの号令に反応したか如く、敵艦隊が放射しながら突っ込んできた。凄まじい勢いで、巨大戦艦が迫る。窓いっぱいに怪物みたいな鼻面の機体が広がった時には生きた心地がしなかった。
 ふわっと腹が浮くような感覚がある。ハシリガネが急降下したのだ。足が掬われるように浮き、優しく包み込むように床が膝を覆った。痛みはない。
『見たかー、お客さんを乗せている時には、慣性装置を利用してスペーサーに船体をねじ込むんだ』
 あれだけの放射と艦隊を軽々回避しながら、まだレクチャーを続けている。

 と、後方へ行ったはずの敵船のひとつが、火を吹きながら前方へ流れていった。無惨なほど大破しており、中の人間は全滅だろう。
『……クラミツ、俺は動力部壊せっつったんだ、誰がデブリ作れって言った?』
『それどころじゃあねえ!』
『次ゴミ出したらオメー減俸処分だ。回収処理に金かかンだろうがっ。いいかチビども、デブリは敵だ! 海賊より敵だ』
 クラミツが操縦する戦闘機型モビルギアがラウンジの前を横切っていった。
 可哀想なクラミツ様。こんな不利な戦場で無能上司に無茶振りされて。撃破したらデブリが出るなど、当たり前ではないか。
 そうこうするうちに例の怪物船(エクラノプラン)が再び立ち塞がった。
 ぐるぅ、と振り回されるように身が揺れて、壁にとんと押されて止まる。酔いそうだ。何が操舵テクだ、揺れてばかりいる。

『くーらーみーちゅー』
『すいまっせんした! もうしない、もうしないって!』
『若、何を怒ってるので?』
 少年兵が訊いたくらいなので、このやりとりの真意はタカラとクラミツにしか分からない。
 実はクラミツ、支援母艦なしの艦隊戦でかなりテンパっていた。そのせいでタカラはクラミツのミスをそうと分からぬようフォローしながら、攻撃を回避しつつ機雷とダミービームで敵を撹乱し、本来なら全滅してもおかしくないところで踏ん張った。
 クラミツはエースである。彼が浮足立てば、後方支援のシノノメも動揺する。皇軍であれば処刑ものの大失態をやらかし、それを主君に隠蔽させたのだから、クラミツが焦るのも無理はない。

 何がどうなったのか、やがてエクラノプランが沈黙。今度こそ、クラミツ様はその華麗なテクニックで無能上司の命令を遂行したのだ。モビルギアを操る美しきエースパイロット。素敵だ。
 それをあんな聞こえよがしにオープンで叱るとは、一種の醜い示威行為に相違ない。やはりタカラ・シマ、憎むべき存在だ。

 彼女は志摩に到着してから、志摩邸宅で一般解放されている露天風呂で男湯を覗き、タカラ・シマの全裸を盗撮する。自慢のグラフィック技術で数千にも及ぶ卑猥なコラージュを仮想次元に流し、淫行疑惑を浮上させたうえでシヴァロマとの婚約を破綻させようと目論んだが、程なくして皇軍警察に逮捕された。
「なんでよ! タカラ・シマのエロ本なんかいくらでもあるじゃない!」
 と彼女は訴えたが、あくまでそれはイラストとして描かれた場合。似顔絵はあくまで似顔絵、その人物とは別物として扱われ、名前は記号化する。作者が同名の別人だと主張すれば否定する手段はなく、悪魔の証明になるからだ。
 しかし、写真は言い逃れ出来ない。どれほど萌え文化が繁盛しても皇王族のアイコラが出回らない訳を、彼女は理解していなかった。

 かくして、憎きタカラ・シマと敬愛するシヴァロマの挙式は、彼女が獄中に繋がれている間に行われたのである。ショッギョムッジョ。


***


 シヴァロマ皇子の挙式を一目見るために、大勢の人間が志摩へ押し寄せた。惑星全域の民宿までもが稼働し、当日は祝言の前に惑星の何箇所かを並んで歩く姿を臣民にお披露目する手はずとなっている。
 特にシヴァロマは露出の少ない皇子だ。メディアに登場するとすれば記者会見ばかりで、まずこのような保養地を歩く姿など目撃されない。そもそも彼は休暇をとったことがないのだから。

 ニヴル皇族専用船ヨルムンガンドが重厚なエアーを発しながらゆっくりとステーションに降り立った。
 テラの伝承にあったという、世界竜の名を冠した漆黒の宇宙船は、その名に恥じぬ風格を備えている。装甲はオブシディウム合金、装備は主砲一門で、あとはモビルギア格納ハンガーのセルハッチのみである。
 通常の母艦では一つから少数の飛行甲板のみだが、ヨルムンガンドでは全戦闘機を一度に出撃させられるらしい。
(あれとやりあったら、ハシリガネなんか一溜りもなかろうな)
 苦笑しながらタカラ・シマは搭乗口を見上げいていた。万が一、シヴァロマが双子のデオルカンと決裂した場合、デオルカンが双子の後援たる志摩に攻撃する可能性はなくはない。このヨルムンガンドと同じ船で。
 皇族を迎えたからには、相応の覚悟も必要だ。そろそろ軍備の調整を考慮すべきか。海賊からかっぱらってきた良い装備は売らずに溜め込んでいることであるし。

 ミドガルズオルムが口を開けた。漆黒の船体にぽっかり穴が表れるので、妙に目立つ。ボーディングブリッジが地に伸びて、シヴァロマ皇子が姿を見せた。
「よくおいでくださいました、婿どの」
「うむ」
「こちらが志摩当主カサヌイ・シマ、こちらは妹のナナセハナ・シマです」
「そうか」
 皇子は婚約者の血縁、ヤマト文化財にも少し目をやって頷くのみだった。

 タカラは本日、お引き摺りの和装である。裾は仮想テクスチャなので汚れはしない。が、歩き方には注意が要る。足の長い皇子にはちんたらした歩行が鬱陶しいようだ。
「市民にお披露目せねばなりませんから、ご辛抱なさいませ」
「分かっている」
 という返事も、実に苛々していた。

 ステーションから出ると、仮設バリケードの外から人々がわっと歓声を上げる。無愛想な婿に代わって手を振り、志摩邸宅に入る。
「すぐに別地方に飛びますが、まずはおくつろぎください」
「ああ」
「洗浄ポッドや風呂の用意もありますが……」
「構わん」
 頷きはするが、全くリラックスする様子がない。緊張しているのではなく、これが彼の常なのだろう。軽食や酒を出されても、シヴァロマに用意したソファでじっと前を見つめるのみだ。
 タカラのほうは、遠慮なく軽食をぱくついていた。自分が好きに振る舞うことで、シヴァロマの気持ちをほぐしたかった。まあ、好物の里芋田楽が食べたかっただけでもある。甘辛味噌の焼き団子も実に絶品。

 程なくして志摩邸を出発。南地方までスカイライナーでひとっ飛びして、分社のほうまで田園地帯を歩いた。収穫が終わった後なので風景が寒々しいのが残念だ。
 そして分社にて昼食。さすがに、シヴァロマは料理に口をつけた。
 皇族たるものあらゆる食器の扱いを心得ているらしく、箸さばきが巧みである。しかし、焼き魚には箸をつけなかった。栗きんとんはお好みだったのか、全てたいらげた。この分だと薩摩芋もお好みかもしれない。そのうち薩摩から仕入れよう。

 南分社を出て次は北へ。ちょうど八つ時なので、北分社では柚子きり蕎麦や白玉ぜんざいが出た。
「若さま、白玉はたんとおかわりがありますから沢山食べてくださいね」
「わーありがとー」
 ふくふくした下膨れの顔をした巫女のおばさんに甘えて、蕎麦を二杯、ぜんざいを三杯おかわりした。最後に志摩茶と漬物を頂いて、大満足。

 それから東西と裏側の分社を巡り、人々に愛想ふりまき、夕食の祝い膳に舌鼓を打っていると、これまで口を開かなかったシヴァロマが勘弁ならぬという表情でタカラを睨んだ。
「……どれだけ食うのだ、お前は!」
「ふほっ」
 もぐもぐ、ごくん。
 鯛の塩釜焼き美味しいです。
「黙って見ておれば、貴様、朝から行く先行く先で延々食っておるではないか」
「ほうでふ?」
「はしたない! それでも王族かっ。食うか話すかどちらかにせよ!」
「………」

 ぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱく

「……食うのをやめぬか!!」
 怒鳴られて、最後の一口を嚥下する。そしてへらっと笑った。
「婿どのは、少食ですねえ」
「予定があるのにそう腹を満たせるか」
「腹が減っては戦が出来ぬですよー。軍人たるもの、食べられる時に食べねば」
「一理あるが、貴様、体脂肪率はどうなっている」
「たいしぼー率……」
 首を傾げ、腕を組み、考え込んでから、
「腹は出てないし、鍛えてますし、でぶって言われたことないから大丈夫かと」
「明らかに消費カロリー以上のエネルギーを摂取しているだろう!」
 ご不興をかってしまった。
 しかし、このくらいで堪える性格なら、クラミツは苦労していない。天ぷらが冷めるので食事再開。あ、ごはんのおかわりお願いします。
 婿どのは頭を抱えてしまった。

「………初夜までにはその腹の中身を残らず洗浄しておけ。胃の腑にも残すな」
「初夜!?」
 驚きのあまり、飯が喉に。圧迫感に苦しんで胸元をどんどん叩く。
「んぐっ、初夜はないかと思っておりました」
「規律は規律だ。仕方あるまい」
 実に嫌そうだ。検分があるでなし、ヤったことにして口裏を合わせれば済むのではなかろうか。
(初夜……初夜か)
 確かに一応、全身磨いてあるが、実感はなかった。

 それと、休養中に房中術を習うには習ったのだが、男根の張り型にどうにも我慢ならず、咥えると必ず噛み砕いた。強顎は健在だ。
「そのように皇子殿下まで噛みちぎってしまうおつもりですか!」
 と先生に叱られ、まず尺八で馴らすことに。
 日がな一日尺八をぴろぴろすることによって、尺八の腕が上達した。そのうちハシリガネで披露しようかと思っている。フェラチオンのほうは全く上達しなかった。相変わらず、それっぽい形のものはキノコだろうがドアノブだろうが噛みちぎる。もはや習性だ。
 シヴァロマが強制さえしなければ問題ないはずだが、どうだろう。先に言うべきだろうか。


 しかし、その晩、心配は杞憂であったと思い知らされる。


 形ばかりの心のこもらない祝言の後、さんざん腸洗浄して床で待ち構えているところへ、Dスーツ姿のシヴァロマ皇子が現れた。宇宙服である。バックエアがシュコーシュコーと酸素提供していた。完全防備にも程があるだろう。
「あの……そこまでして寝る必要ありますかね」
「規律は規律だ」
 腹を決めた男の声音だ。
「タカラ・シマ。貴様は受け身の経験はあるか」
 覚えてなかろうとは思っていたが、自分がタカラを救出したことだけでなく、タカラが誘拐された事件自体、ご存知ない様子。
 ここまで綺麗さっぱり忘れ去られていると却って心地いい。素直に「ないです」と答えた。腐界では何千万人の男と寝たか知れないタカラだが、ほぼ処女同然である。セカンドバージンというやつだろうか。違うだろうか。

「ではそのように扱う」

 皇子が指を鳴らすと爆音が響き「すわテロか!」と慄くが、どうも皇子が指を鳴らした音らしい。どういう材質の骨なら、あんな音が出るのだ。
 外からワラワラと皇軍警察官たちが突入してきた。特殊部隊さながらの動作である。実際、特殊部隊なのかもしれない。
 志摩宙軍では逆立ちしても及ばぬ見事な身のこなしで、彼らは様々な機材を持ち込み、テーブルの上に各種小物を揃える。志摩側でも準備したが、ローションや張り型くらいだ。
「閣下、ご武運を!」
 ざっと一列に並んだ警官が敬礼して退去。

 唖然とするタカラを尻目に、婿は窪みがある謎のブロックを二つ、寝台の上に置いた。
「横になれ」
 前へならえ、と同じ語調の号令である。言われるままに、のそのそベッドに上がって仰向けに寝た。
「わひゃ」
 無造作にとられた足首を大きく開かされ、思わず肌襦袢の裾をおさえる。下には何も着けていない。
 シヴァロマはそういった初夜の相手に一切かまわず、例のブロックに腿を乗せ、上から同じブロックをかぶせて足を固定させた。もう片方も同じように拘束される。このブロック、見た目よりずっと重く、マットレスに食い込んでいる。大きく開脚して局部を晒す間抜けな状態にひきつる。
 次に、シヴァロマは帯を外さぬままタカラの合わせを下ろした。何やら腕まで上手く動かない。
 露わになった乳首に、コードのついた吸盤のようなものをつけられた。押し当てると空気が吸いだされてきゅっと締まる。変な感覚だ。
「うわっ」
 急に尻穴が濡れる。何をされたのかよく分からない。が、婿が防護手袋でポンプを持っている様子を見る限り、ローションかワセリンと推測される。
 それから彼はコードのついた不思議な突起物ついた棒? のようなものを持ち、
「苦痛はないと思うが、耐えろ」
「何を!? うひぎゃ」
 躊躇なく突っ込んだ。
 タカラには分からなかったが、例の『棒のようなもの』は前立腺を刺激する形状になっている。
 大した大きさではないので、痛みはない。が、ちくちくする。

 もうそろそろ見栄を張って「ヤリケツマンビッチですぅウヘヘ早く突っ込んでカモン」とでも言えば良かったと後悔し始めた。痔くらい現代の医療機器ならすぐに治る。入れてズコバコしてそれで終るなら、そのほうがましだった。
 というのも、シヴァロマが持ち込んだ機材、変態御用達・調教用の逸品らしい。かなり後になってから知った。様々な犯罪に関わってきた彼は、この機材が誘拐された婦女子に使用される現場に踏み込んだこともあり、それで知っていたとか。
 因みにこの機材自体は、違法ではない。あくまで合意の上で使うことを前提とした製品だ。アホほど高価だが。仮想次元のショップを覗いて後悔した。

 そのような事情を知らぬ今現在のタカラ・シマは、乳首と尻を襲うぴりぴりした刺激に混乱していた。
「ひぁっ、ぁ…あ、あんん……」
 思わずそんな鼻から抜けるような声が出てしまう。時折大きな波がきて、体が勝手にビクビク跳ねた。じわりとした熱が性器に溜まり、触られてもいないのに反り返ってどろどろ先走りで腹を濡らしていた。
「あぁはッ…んぅう。ひッ、んっ……ひ、ぁ……んぁあ」
 きゅうきゅう乳首を締めつける吸盤が断続的に痛痒い。尻は……どうなっているのか自分で分からぬが、焼けるように熱いし、括約筋が切なくて器具に食いつく。何やらもどかしい。指を突っ込んで掻き毟りたい衝動に襲われる。治りかけの傷がじんじん痒みを訴える感覚に、近い気がした。
「そろそろか」
 腕を組んでタカラが悶える姿を監視していた婿どのが、尻の器具を引き抜いた。もっと優しく! ちゅぽんと音を立てて一気に出たものだから、衝撃で腰が痙攣した。

「あ……あ、あ…あぁ」
 だらしなく舌を出してぼろぼろ涙を流す。これが所謂アヘ顔というやつなのかそうなのか。目はきっとレイプ目というものになっているに違いない。
 しかし、これでやっと合体してズコズコして終われる……と安堵したのも束の間、下準備はまだ終わっていなかった。
「ぎゃっふ」
 また何か突っ込まれた、今度は黒くて萎んだ何かを。

ピッ、ピッ―――

 規則正しい機材の電子音とともに、尻の中の器具が膨らみ、アナルが拡がる。それ以上は、と目を瞑るところで、プシューと空気が抜けた。
「はぁっ、はぁ……っ」
 何だろうこの謎の緊張感。気分は分娩台に乗せられた妊婦。機材のリズムがラマーズ法に似ていて余計に嫌だ。
 ピッピ、と更に器具は膨らんだ。もうだめ、と思うところで、再び萎む。もう一度。更にもう一度。二度あれば三度。
 だんだん慣れてきた、とすっかり疲弊して天井を見上げて油断するころ、それは起こった。

ヴ…ヴヴヴ……ヴー、グリュングリュン

「ひぎっ…うぎゃあぁあ…!」
 なんと中の器具が振動しながら膨らんだり萎んだりしながら、アナルの縁をマッサージし始めたのだ。中に小さな揉み玉が入っているらしく、回転しながら絶妙に襞をもみもみと。
 さんざん拡張されたので痛くはない、痛くはないが……
 尻穴の裏(・)から揉まれる(・・・・)経験など、そうはなかろう。あってたまるか。

ヴッ ヴッ ヴ プシュゥウウ……

 止まった。漸く止まってくれた。今度は生理的な涙ではなく、安堵の涙が頬を濡らす。タカラはこの時はじめてマリッジブルーを覚えていた。
「あぅ」
 すっかり緩くなったソコから器具がにゅるんと引きぬかれた。途端、ゾクゾクした快感が全身を奔り、背を反らせて打ち震える。
 すっかり改造された我が身が恐ろしい。これが腐界でよく見る『ケツマンコ』状態か。これがそうかそうなのか。仮想次元だけのファンタジーだと思っていたが、信仰を持って実現してしまったのか。ということはいずれ、突っ込まれるだけで潮吹きまくりイキっぱなしになるのか。死にたい。

 これだけの入念な処理を加えてから、ようやく、シヴァロマは自らの手でタカラの腰を掴み、立ったまま、Dスーツから出た謎の突起……完全密閉された分厚いゴム状の突起物を、押し当てた。中身はおそらくシヴァロマのペニスだろうが、ねえそれヤったことになります?
「あ…ん、はぁっ」
 先端がずるんと押し入ってきた。何というか、この時点で相当、穴が広がっている。大した巨根だ。なるほど、あれくらい拡張しないと、これは入らなかったろう。
「お前……」
 久々に婿どのが言葉を発した。が、タカラはまともに受け答え出来る状態にない。
「やはり過剰摂取ではないか! なんだこの柔い肌は!!」
「あんっや…やぁん!」
 そんな叱りながら、ずっぷり奥まで。やばい、気持ちいい、もう何だっていい。

「胸筋も大殿筋もこのように!」
「ひぃっ、ちゃ、ちゃんと腹筋割れっあっあっ」
「あれほど食して遅筋繊維ばかり鍛えていればこうもなろう!」
「あ…、いやぁ…っ、ゆる…し、あうぁあぅうう」
 時間をかけて調教したとはいえ、始めてなのにこの仕打ち。文字通り、ズッコンバッコン。固定された足が動く範囲で暴れ、つま先は丸まる。更に言うと、吸い付いたままの乳首の吸盤が地味に辛い。
 というかこれは、何プレイというのだろう。お仕置き? 何か違うような。そもそも初夜でお仕置きプレイもどうだろう。
 それからタカラの名誉のために追記しておくと、別に彼は肥満体ではない。むしろ身長に対してウェイトがなさすぎる程だ。ただ、よく食べる割に体脂肪率を気にしないのは確かで、痩せぎすではなく肉付きはよい。体脂肪率を親の敵のように憎むアダムアイルの皇族からすると、白いもち肌が妙にむっちりして見えるのだ。

「全く……!!」
「あっあっああっ」
 激しく腰を使いながら、皇子は苦々しく吐き捨てる。
「次までにそのけしからん肉体を鍛え直すがいい!」
「へ、なに…?? あ、や! やあっ……!! ッんぁあああッん」
 何か変なじわじわした強い快感の波が押し寄せ、頭の中が白く染まる。耐え難い快楽が神経を犯し、タカラはガクガク震えながら力尽きた。

 タカラから巨根を引き抜いた皇子は「フン」と鼻を鳴らし、添い寝するでもなく出ていった。あのスーツで添い寝されても、それはそれで困るが。
(……あの皇子、よく勃ったよなあ)
 呆然と手足を投げ出したまま、タカラはそのことに感心していた。


***


 近頃のシヴァロマ皇子の朝は、令夫人との通信で始まる。
『おはようございます、婿どの』
「ああ」
 その声で目覚めた殿下も、心なしご機嫌が良さそうだ。

 お部屋の壁に映し出される令夫人、タカラ・シマ様は指定された時間に秒単位できっちり通話をかけてくる。几帳面な殿下はこのことに満足されていらっしゃるようだ。
 映像のタカラ・シマ様は詰め襟姿である。シヴァロマ皇子も船上で過ごされることの多い御方だが、彼も早朝から仕事モードでいらっしゃることが多い。
 しかし―――お二人の通話を眺める、警護の軍警察官は、令夫人の姿に思う。こんな軍人がいるものかと。
 ヤマト人のタカラ・シマ様は、皇軍人から見るとあまりに小柄だ。一般人と比べればそれなりに鍛えているが、とにかく恵まれた体を鍛えに鍛え抜いて絞るガチムチ皇軍人の目には華奢にさえ見える。もし彼が皇軍に入れば、その日のうちに誰かの女にされているだろう。争奪戦で血の雨が降るかもしれない。
 おそらく、アダムアイルのごつくしい皇族として生まれたシヴァロマ皇子にも、そのように感じているはずだ。
 尤も、王族は大抵、男子もこのようなものではある。そもそも王侯貴族が軍人であるケースも少ない。その必要のない身分だ。

 タカラ・シマ様は美しい。皇族に及ぶところではないが、皇軍人に美貌は求められないのでシヴァロマ皇子に見慣れていても『美貌』と呼べるほどには美しい。
 最初はシヴァロマに似合いのきつい美人だな……と感じていた側近たちも、日々の通話を聞くうちにその印象が180度変わってしまった。
「貴様、今日の今朝のは何を?」
『今日は諸用でかなり早くに起床しましたので、その時に握り飯を五個、具はおかかと梅干しと豚の角煮と鮭といくらと蛸わさで、皆と一緒に朝食をとっておかわり三杯しました』
「食べ過ぎだ!!」
『あはは』
 泣き喚くワガママ貴族も黙るシヴァロマ皇子の一喝を受けても笑ってらっしゃる。何というか、大らかな方だ。

『そうそう、婚約した日に植えた千年桃花の盆栽が、だいぶ大きくなりましたよ。春には花をつけるでしょう』
 嬉しそうに植木を抱えて笑うお顔は、大変かわいらしい。シヴァロマ皇子が保護する形での結婚で、その事実をこの王子は知らぬはずだが、シヴァロマ皇子を素直に伴侶として慕ってなさるようだ。
 婚約の日に植えたとはまた、いじらしいことをなさる。
 カロリー過剰摂取に腹を立てていたシヴァロマ皇子も「そうか」と怒りを鎮めてしまう。この方の激昂を一瞬にして宥めるとは、ある種の才能だ。尊敬に値する。

 このような方がシヴァロマ皇子のお相手であることは、喜ばしいことだと思う。
 まず心臓が弱い方だと、シヴァロマ皇子の突然の噴火で失神しかねない。繊細で臆病な方であれば精神を病むだろう。
 タカラ・シマにはどちらの心配もない。見ていて安心感がある。
 それに、シヴァロマ皇子はあまりに滅私してヴェルトールの治安維持に務められた御方。休暇をとった日が一日たりともなく、人間らしい娯楽も知らない。何しろ、皇帝陛下と母妃の意向で五歳の時から皇軍警察に入り、醜い犯罪や悲惨な事件を処理されてきた。
 恐ろしいことに陛下は、ご自身のご子息を万引き犯の逮捕や酔っぱらいの取り調べなども幼いうちに経験させた。母妃は皇子に子供らしい遊びをさせることさえ一切許さず、甘えという甘えを彼から奪った。
 双子のデオルカン皇子は自由を許されていたにも関わらず、である。
 このあたりの事情は、王族ですらない一皇軍人である側近たちは知らない。しかし、あまりに酷いではないか。シヴァロマ皇子が潔癖症であるのも、人の温かみがない……とされるご気性や冷酷な部分も、無理からぬことだ。

 タカラ・シマ様と会話される朝のひと時、皇子の表情は心なし、柔らかい。
 しきたりのため仕方なくした結婚だからこそ、皇子の冷えきった心を溶かすきっかけになればと願わずにはおれない。

 しかし、皇子の穏やかな日々は、突如として終焉を告げる。
『……おはようございます、婿どの』
 昨日まではころころとよく変わる表情を見せてくれた令夫人が、何やら思いつめた様子で朝の挨拶を告げたのだ。シヴァロマ皇子も何事かあったかと、刑事の顔で向き直る。一種の職業病だ。
「何があった」
『何でも……』
「何でもという顔ではない。志摩に問題があったならすぐに報告しろ。伴侶の星に何かあれば、俺の責任となる」
『志摩は、関係ないです」
「では、何だ。はっきり言え」
 シヴァロマ皇子は苛々と声を荒らげる。この方は怒りはするが辛抱強くもある。どうも、タカラ様の変化に焦っている、ような……もしや心配なのか?

『………』
 その日の令夫人は和装であった。外星系の者からすると手術着のようにも見える、白い合わせ。たっぷりした袖を合わせてもじもじしているように見えた。あの服装は、そうすると胸元が見えそうで見えないのが何とも言えない。
『……が』
「なんだ」
『婿どのがっ! 来ないからっ……!』
 おもむろに令夫人は合わせを掴んで左右に開いた。ぶぼっ、という声は隣の同僚。
 タカラ・シマの細いのに肉づきの良い白い胸元で、赤く熟れた乳首がぷっくりと勃ちあがっていた。
『婿どのがあんな機械を使うから、こんなになってるんですっ! なのに放置プレイ一ヶ月目突入! なんすかこれ! 服が擦れるたびにじんじんしてっ』
 涙目で訴える令夫人。あれは確かに辛かろう。

 シヴァロマ殿下がどのような顔をされているかは、警護の者には見えなかった。スクリーンを見上げて硬直し、無言だ。
『子供たちがじゃれて、うっかり此処を触ろうものなら大惨事ですよ! 変な声漏れて若どうしたのって。ゲップ出たとか苦まぎれの言い訳レパートリーも在庫切れです! どうしてくれるんですかあ』
 そのような状態で一ヶ月苦しんでいたというのに、今日の今日まで我慢されていらしたのか……
 警護の者は同情した。いや、同僚。同僚よ。口元おさえて前かがみで皇子の伴侶のB地区をガン見するのはやめなさい。確かにこのところ色気の欠片もない任務続きで息抜きも出来ない状況だったから気持ちは分かる。しかし殿下に殺されるぞ、あのデンドロビウムみたいな愛銃で。
 あの容姿は反則だと思うのだ。老け顔の多い外星系の者からすると、ヤマト人は成人しても子供に見える。

 いわば合法ロリ

 そういう印象を、他星系出身者に与える。ヤマトの王子の中でも特にタカラ・シマは特に幼く見えた。あくまで外星系の者からすれば、という話ではあるが……
 加えてあの志摩伝統の朱色アイライン。妙に色っぽい。この王子は流し目がちなつり目をしていて、あの瞳で見られると、誘われているような錯覚を覚える。
 おまけにあのけしからん肉体は何だ。細い。細くて小作りなのに、微かに浮いた筋肉の筋がうっすら脂肪に覆われ、全体的にむっちりふっくりして見える。おまけに腰がしなやかだった。そしてあのAカップ程度の胸筋が却って卑猥。

「…………」
 シヴァロマ皇子は、顔を片手で覆って俯かれた。
「解決案を模索しておく。今日中にだ。それから明日から音声通話にするように」
『うぅ…早めにお願いします』
「分かっている」
 乱暴に通話を切り、ふぅ……と疲れた溜息をついてから。
 ツンドラの瞳が警護の者を射抜いた。

「ヨクマサカル、バック」

 前かがみの同僚がびくっと肩を揺らした。もう一人も冷や汗を伝わせる。ヨクマサカルは同僚の名だ。そしてバックとは……控えの後輩と交代しろ、と意。
 皇子の怒りが解ければ戻れるが、出世コースから遠のいた。
 肩を落とす同僚に「お前悪くねえよ!」と目だけで励ました。彼は力なく頷いてから、すごすご部屋を退出してゆく。
「ヨクマサカル先輩には申し訳ないですが、自分はこのチャンスを精一杯活かしたいと思います!」
 若手でありながら成績を認められて控えにいた好青年の後輩。
 彼も翌日、出世コースから去っていった。

『ぅ……ふっ、むこどの………ん、ぁ』

 緊張走る皇子の室内。響き渡る音声オンリー。
『んん…あふ、おはようござい……』
「…………………貴様、何をしている」
『だって』
「昨晩に届くよう、乳絆創膏を届けてやったはずだが!」
 ニップレスです皇子。乳絆創膏ってなんですか。
『……あんなのっ! 根本的な解決にならないじゃないですか』
 令夫人の言い分も尤もだ。
 あの機材を用意したのは自分なので分かるが『不感症でも五分で肉奴隷』がキャッチコピーの極悪調教機だったのだ。言いつけられた際、皇子の頭を疑ったが、我が身可愛さで注進もせず命令に従ったことを後悔している。
 皇子は此方の方面に疎く、過去の事件で知ったこの機材なら初夜に役立つだろうと深く考えず購入したのが、仇になった。

『ふっ、ぇ…ふぇえ……まえだけじゃ、たりなくて、どうしたらいいんです。うしろになにか入れればいいんですか』
 肉奴隷仕様にされたというのに放ったらかしの王子は、体が切なくて泣いてしまっているようだ。
 この王子、声はちゃんと低くて明朗なのだが、妙に腰にクるというか、無邪気な性格のせいか嬌声も嫌味がない。あの一見きつそうな目でぽろぽろ涙をこぼし、柔らかそうな唇で嗚咽を漏らしているのかと思うと……
「まて、おちつけ。話せばわかる」
『おなかがちくちくして、ひっく、んぁ、あ…ぁん』
「…………!!」
 皇子が乱暴に髪を掻き乱した。長く仕えているが、あの皇子がこれほど取り乱す姿は初めてかもしれない。
「おちつけ! この部屋には他にも人間がいる!!」
『!!!!!?』
 婿だけでなく、警護の者まであられのない声を聞いていた。
 そのことに気づいて驚いた令夫人は、即座に通話を切る。

「トリテラン、バック!!」

 仕事一筋で女っ気のない職場で悶々としていた可哀想な後輩が、鼻血を噴いた咎でチャンスをその日のうちにふいにする。
 不意打ちとはいえ、夫人に欲情するなど確かに罰されても仕方のないことではあるが、それにしてもシヴァロマ皇子にしては感情的な処断のように思えてならない。
 自分は長年鍛えた鉄面皮で何とか耐えたが………
 あれはしょうがないでしょう、ねえ。


***


 皇宙軍の仕事は主に訓練、演習、訓練と訓練、軍備調整、紛争の鎮圧、敵対エイリアンへの威嚇、逆に友好エイリアンへの軍の貸与などが該当する。
 多忙と言えば多忙だが、ひっきりなしに宇宙を奔走する皇軍警察と比べれば閑職とさえ言えた。
 双子の兄は、五歳の時分からそのクッソ忙しい罰ゲームのような職務をやらされていた。同時期にデオルカンも皇宙軍に放り込まれたものの、シヴァロマよりはマシな境遇だった。
 性格的に向いているとは思う。
 が、向いているのと限界は別問題。

「どうした、兄者」

 真昼のニヴルヘイム宮殿で、神経質な堅物の兄が酒のボトルをいくつも空けている。
 デオルカンが部屋に入る前から手を祈るように組み、そこに額を預けて憔悴した様子。これは、ただごとではない。生まれる前から一緒だった兄のこのような姿は、今までなかった。
 他人などヘモグロビンの詰まった袋程度にしか考えていないデオルカンだが、この兄には負い目がある。
 ニヴルの双子皇子は実験的な教育対象者だった。片方の大人しい子供は徹底的に厳しく躾け、片方の奔放な子供は大らかに育てる。その結果がこの、人間らしい楽しみを何一つ知らない憐れな男だ。
 彼を束縛する母妃を殺害したのは、せめてもの償いだった。母妃がいては、この先彼が人間性を得る機会さえ失われてしまう。
 この男は、女を抱いたことがない。興味すら抱けない。好意を抱くということが、どういう意味かさえ知らない。休み方も遊び方も知らない。娯楽を楽しめない。食事を美味いと感じることさえない。
 酒を呑むのは苦痛やストレスを誤魔化す為。それも普段は一杯ひっかける程度だ。

 そんな双子の兄が、自暴自棄に酒をくらっている。何事かと思う。
「………」
 既に相当呑んだのか、据わった目がデオルカンを睨みつけた。親の敵のように。いや、そういえば親の敵だったか。
 シヴァロマはボトルを掴んで前に突き出した。
「呑め」
「おう。貴様、どうしたというのだ」
「未だかつてない怒りに囚われて己を保てぬ」
 短気ではあるが、最後の一線で留まるシヴァロマが、己を保てぬほどの怒りで酒に逃げたと。
 注がれた酒を煽り、しげしげと双子を見た。常にきっちり整えられているプラチナブロンドがほつれて額にかかっている。
 彼はテーブルを拳で叩いた。勢いで端が粉砕。

「あのタカラ・シマには我慢がならぬ!!」

 なるほど、合点がいった。
 保護目的で結婚したはいいが、あのお気楽極楽あっぱらぴーの王子とは根本的に合わなかったのだろう。初めから無理があったのだ。
 しかし、夫婦喧嘩はデオルカンも食わぬ。
「嫌なら離婚してしまえ。外聞など気にするな」
「誰が離婚すると言った?」
 心外、いや不快だと言わんばかりに吐き捨てる。シヴァロマは恋人どころか友達すらいた試しがなく学ぶ機会もなかったろうが、会わない人間と無理して付き合ってもストレスが溜まる一方で得られるものなど何ひとつない。傷が浅いうちに別れるべき。
 しかし、あくまでシヴァロマは結婚生活を続ける気のようだ。
「あやつはどう言っても食事を控えん。早朝、朝食、昼食、間食、夕食、晩食、間食、夜食で酷い時には日に十度も食う」
「見かけによらず大食漢だな。しかし肥満体にも見えんし(どうでも)良いのではないか」
「よくはない。男のくせに卑猥な肉体をしおって……!!」

 ?

 話の方向性が、どうも……
 シヴァロマは憤懣遣る方無しという調子で拳が白くなるほど強く握り、奥歯を食い締める。
「あの者の緩みきった笑い顔は張り飛ばしたくなる」
「ずいぶん嫌っているな」
「それだけではない。あの不道徳に漲った腿を思い出すたびに食いちぎりたくなる。いや、腿に限らぬ、あらゆる箇所の肉をだ。それにあの貧弱な肩はベアバックで力の限り砕いてしまいたい」
「いや、貴様、それは……抱きしめたいのではないか?」
「これほどの殺意を抱いたことはない! 罪なき幼い少女を何人も拉致し皮を剥いだ姿で飼っていた凶悪犯を処刑した時よりもだ!!」
「あー、あの事件、貴様それほど怒りを……いや待て、その程度の怒りだったのか?」
「俺にも、なぜこれほど腹が立つのかわからぬが、その衝動が全身を駆け巡っている。寝ても覚めてもだ。だが……」
 シヴァロマは項垂れた。何だこいつは。本当にシヴァロマなのか? 偽物か?
「アジャラから救出した際、あの男は今にも泣き出しそうであった。あの顔は見たくない……」
 殺してやりたいほど憎んでいるというのに、泣かせたくはない。
 言っていることは猟奇的だが、彼の欲求は全く別の方向にある。そのことが、彼には処理しきれぬのだ。
 デオルカンは兄の肩を叩いた。

「二十年以上、貴様は一日たりとて休息しなかった。もういい。俺が皇軍警察を請け負う。貴様は半年ほど休め」
「下らん。休暇など必要ない」
「貴様は自分の限界を知らんだけだ。といっても急に抜けられては困る、そうだな……三ヶ月後には志摩は春を迎える。ヤマトは桜が咲く時期だ。その頃に行け」
「…………」
 もっと激しく抵抗するかと思いきや、シヴァロマは考え込んだ。この機に乗じて皇軍警察を乗っ取る気か……などの疑惑も、一切口にしない。
 頭にあるのは寝ても覚めてもシヴァロマを悩ませるタカラ・シマの『張り倒したくなる笑い顔』のこと。





『昨日はすみませんでした、婿どの。はしたない真似を……』
 よほど堪えたのか、このシヴァロマ・ヨドルグ・ヲガ・ニヴルの喝にも怯まぬタカラ・シマがしょぼくれた様子で映像通話で謝罪した。高い詰め襟に制帽を目深に被り、顔もよく見えない。
 シヴァロマはそのことに舌打ちする。理由は不明だが、苛つく。この男はシヴァロマの逆鱗に触れる天才だ。

「謝罪する必要はない。あの機材がどういったものかは、知っていた。配慮が足りなかったことを詫びる」
『いや、まあ、その……もういいです。では、これで相殺ということで』
「お前がそれで良いなら、この話はここまでだ」
『へへ』
 何が可笑しいのか帽子の鍔を上げ、へらへら笑うタカラ・シマ。
 これだ、この顔だ。このふにゃけた顔を見ると、襟首を掴んで往復ビンタをかまし、無駄にふっくらした唇に齧り付いて窒息させてやりたくなる。
 他人の粘膜に口をつけるなど、シヴァロマの感性的にありえぬ不衛生な行為だが、どうにも歯の根が疼いて耐え難いのだ。
 だからと言ってタカラ・シマに「笑うな」と命ずる気にはならなかった。食事制限はさておき、どんな表情をしようがこの男の勝手。志摩は自治領で、志摩宙軍の主はこの男だ。軍人がにやつくべきではないと言っても文化の違いはあり、シヴァロマに口を挟む権利はない。

 とにかく話題を逸らすべく、シヴァロマは咳払いした。
「しかし、根本的な解決にはならぬ」
『そうですね……あの、婿どのさえよければ、俺、専門の人に頼……』
「あァ?」
『ひぃ』
 豪胆なタカラ・シマが小動物の如く身を竦ませる。反射的にチンピラやデオルカンのやるような下品極まりない威嚇をつい真似てしまったとはいえ、怖がりすぎだろう。
 おまけに唇を震わせて眉を下げてしまう。シヴァロマは、慌てた。ヘラついた顔はまだしも、この顔だけは見たくない。
「……三ヶ月後、俺は休暇をとり、志摩で半年ほど逗留する予定だ。仕事の合間にでも忍んでくるが良い」
『休暇!? 半年!? 本当ですか、婿どの』
「貴様は俺が冗談を言うために……」
『いや、別に疑った訳ではないので。ただ吃驚して。へへ、何だか婿どのが求婚してくれた日みたいですね』
「………」
『じゃあ、俺も同じ期間、休暇をとりましょう。実を言うと、俺もまとまった休暇をとったことがないんです』
 この男の場合、航行中に手が空いたり、コンディション調整のための期間を設けたりはするようだが、その間も当主代理としての仕事は絶えぬらしく、実のところ似た者同士だったのかもしれない。
「三ヶ月間、耐えられるか」
『はい、大丈夫です。うわあ、楽しみだなあ。へへへへへー』
「………」
 男児がにへらにへらと締まりなく笑いおって、全く………

 しばき倒したい

 通話を切断してから、ニヴル皇子シヴァロマは脳内で伴侶の頬を思うさま抓る想像で己を落ち着かせつつ、モーニングコーヒーを傾けた。
 とはいえ、昨日の遣り切れぬ激情は綺麗に消えていた。デオルカンの指摘通り、疲れていたのかもしれぬ。タカラ・シマは人を疲れさせる。
 その疲れさせる相手の元に休暇へ赴く矛盾について、彼は深く考えなかった。


***


 ところがだ。
 たかが三ヶ月、常のように流星のごとく過ぎ去ると疑いもしなかったシヴァロマは、生まれて初めて時の流れの遅延を感じていた。
「シヴァロマ皇子、犯人の声明文です!」
「人質の無事は確認されません。敵の数はおよそ数百名、最新鋭銃火器を装備しております」
「ご指示を!」
 複数の回線からの報告を聞きながら、シヴァロマは虚空に浮かべた仮想パネルを忙しく操作し、各陣営に指示を送る。
 何やら腰が重く、前頭葉のあたりが朦朧とする。体調管理を怠ったのか。いや、そんなはずはない。母妃のことは今でも憎悪しているほどだが、それでも健康に関する教育だけは感謝していた。

 本陣から見える位置に火の手が上がった。モニタを移すと二足歩行軍事モビルギアが数機、テロリストの立てこもる大使館の前から光線兵器で周辺を薙ぎ払っている。
(軍事用モビルギアだと?)
 一体どの経路から流出した。
 いや、それより対策を。この展開は予測していなかった。まさか、このシヴァロマがミスか。いや違う、万が一に備えて装甲モビルギアを後方に配置していた。火器を外して前線へ置き、トーチカに。
 その指示操作の片手間に、シヴァロマは皇族専用ポートを空けて緊急連絡をかけた。

『なぁにぃ、アタシ今忙しいんですけど?』

 気怠げな声で応答したのは長女クラライア。アダムアイルが誇るゴリラ皇女である。
 彼女は何処ぞの寝室で下着一枚。ボコボコした筋骨隆々の足を晒し、同じく下着姿の黒い肌の女を抱いていた。
「クラライア! テロリストが軍事モビルギアを所持しているぞ。陸軍を回せ!」
 罵声が爆音、轟音に霧散しそうになる。皇軍警察はあくまで警察だ。戦争をするために存在する訳ではなく、陸軍(惑星で戦闘を行う軍の総称で、陸空海を兼ねる)の装備には敵わない。
『あらら、だいぶ困ってるみたいね。いいわ、その星系に駐屯する陸軍を回してあげる。でも、もう邪魔しないでね。見ての通りお楽しみ中なの』
『まあ、弟君ですか、皇女』
『そうよぉ、ヴィーヴィー。ご覧なさい、あの固めたような眉間の皺。あいつそのうち絶対ハゲるわ』

 余計な世話だ。
 嫁ぎ先の王女の額に口づける姉に苛つきながら、通信を切った。
(タカラ・シマめ!)
 なぜか怒りの矛先が伴侶へ向かう。
 やけに重装備のテロリストへの怒りも、軍事兵器が漏れたことへの怒りも、クラライアが女と乳繰り合っていたことへの怒りも、タカラに集結する。
 オリエントの王女ヴィーヴィーは、恥ずかしげもなく艶かしい脚をクラライアに絡めて甘えていた。あの女などどうでも良い。しかしあの、足の動きを見た瞬間、タカラ・シマが妖艶に微笑みながら己へ足を絡めるイメージが湧いた。あの男、この非常時にも邪魔だてするか。

 大体、昨日の晩もだ。付近の市街が炎に包まれる。昨晩、あの男は勝手に人の夢の中に現れ、事もあろうに見知らぬ男に抱かれてヨがっていた。トーチカが一つ吹き飛んで、空高く舞う。
(配置、迂回路から特殊部隊ステルス潜入準備。火器が足らんっ、通報では数十名だったはずが何処からこれほど増えた? 装備もだ!)
 テロリストはかなり計画的に犯行に及んだのだろう。大使館に装備とモビルギアを隠していた。そうとしか思えない。ということは政府側に手引した者がいたという事実に繋がる。
 そもそも、この星の自治軍はどうした? なぜ応援に来ない?

――ぁぁ、ん……婿どの…………

 なぜこんな時に夢の内容が脳内でリフレインする!!
 どこの馬の骨とも知れぬ男に抱かれながら、シヴァロマの名を呼ぶな! あの男が悪いのだ、専門の者に頼むとか何とか下らぬことで耳を汚すから―――!
「デオルカン、貴様も来い!! この星は内部分裂を起こしたのかもしれん、これは事件ではない、戦争だ!」
『おお、なかなか派手な戦場じゃねえか。こりゃ楽しめそうだ』
『ロマぁ、データ採りたいんで実験中の軍事用トランスアニマルそっちに送っていいですかぁ』
「急に割り込むな、アーダーヴェイン! 好きにしろ、但しトランスアニマルの命の保証はしないっ」
 これで戦力は確保出来た。
 とはいえ、陸軍の応援も宙軍の到着も、少なくとも今日ではない。あと数日は軍警察のみで持ち堪えねば。それも、全軍ではない。ほんの十分の一だけで、だ。全軍を投入しては他地区の治安を維持できない。
 シヴァロマの長い一日が始まった。

『婿どのっ! ご無事ですか、何か志摩に出来ることは!』
 硝煙と建築材の焦げた匂いが漂う戦地の本陣で、いつも通りの時間に通信をかけてきたタカラ・シマ。
(もう、夜明けか)
 戦況に神経を集中させていたシヴァロマの緊張の糸が、タカラ・シマによって途切れた。どっと疲れが全身を襲う。
「………俺は、無事だ。此処はヤマトから遠い、志摩宙軍はあくまで自治軍だ。貴様の裁量で軍を寄越してみろ、指導能力欠如と見做し、貴様を廃嫡させてやる」
『私軍なら問題ありませんね』
「まあ、私軍であれば……しかし」
『微力ながら助太刀させて頂きます。ご武運を!』
「………」
 敬礼だけは、一人前だ。
 何やら腹の裡、横隔膜だろうか。そのあたりが、痒い。神経痛か? 痛むほどではないが、もやもやする。肋骨付近が締め付けられるような、妙な感覚だ。
(タカラ・シマめ……)
 毒づきながら、浮かんだのは笑みだった。

 戦況は悪い。敵は宇宙から人員と装備を送っている。ヨルムンガンドが補給をある程度潰しているが、星の裏側にポッドを落とされると、もうどうしようもなかった。おそらく大使館には地下道がある。その捜索もさせているが、まだ見つかっていない。絶望的に人手が足りないのだ。
 いくらなんでも、辺境の星のたかか数十名だったテロの通報で誰がこんな展開を想定する。ほんの数時間で駆けつけただけでも表彰ものだ。
(軍事用兵器といい、何か大きな母体がある。軍警察本部からの連絡はない。情報を掴んでいないのか。どういうことだ? だとすればもしや、敵性エイリアンか)
 理屈に合わぬことが多すぎる。こういう時は大抵、人外生命体の仕業だ。ここまで大規模なのは近年なかった。
「殿下、ここは一時撤退を……」
「しかし、どう離脱する! 大気圏内でヨルムンガンドの支援はないぞ!!」
「特殊部隊が殿下の盾になります。殿下は皇帝となられる御方、我々はそう信じております。このような場所で御身を散らすなど、あってはなりません。令夫人も悲しまれます」
(死ぬ? 俺が死ぬだと)
 兄弟とやりあって命を落とすならとにかく、辺境のテロリストに敗れて死ぬ。

 まだ、タカラ・シマをこの手で抱いていない

 シヴァロマは常に全力を尽くす。故に過失があっても後悔はしない。
 だが、今、彼はどうしようもない後悔に襲われていた。なぜ、初夜のあの時にこの手で、何も覆わぬこの手で、あの肌を触れておかなかった。いつ死んでもおかしくないこの身の上で。
 部下がそこまで思いつめている事実、タカラ・シマに触れたいという欲求が自身にあるという事実に愕然とした。
「……撤退はせん」
 シヴァロマは愛銃を担ぎ、臨時司令塔装置から降り立った。
「ヨルムンガンドまで戻れる保証もない。この星を占領されれば後が厄介だ。せめて陸軍の応援が来るまで持ちこたえるぞ」
「はっ」
「随伴モビルギアを寄越せ。突入して敵兵器の数を削る」
 それが出来れば、暫く耐えられる。それが出来なければ、援軍が来るより先に消耗によって全滅する。ここが正念場だ。

 と、本陣付近の上空から青いレーザーが降った。まさか、衛星兵器か。ヨルムンガンドが破壊されたとでも?
 しかし、それは攻撃ではなかった。光が失せると共に、三体の丸いフォルムの蜘蛛型モビルギアが、足を上げて立つ。
 兵装は見えぬが、何だ? 敵か? もしやエイリアンの手先か。
 モノアイの中央に赤い点が灯り、モビルギアはぎゅるぎゅると首を回す。
『……ザ…ザー、あれ接続…おかし…婿どの、いますー?』
 不明瞭なノイズが晴れるころ、モビルギアはアームをぴこぴこさせながら左右に揺れた。このアホな動作。その発言。
「タカラ・シマか?」
『はいあぃ、タカラ・シマでございます』
『此方はカサヌイ・シマでござい』
『ナナセハナ・シマですぅ』
 他の二体までもが上下に身を振って踊りだした。援軍とは、まさかこれか。あれから大して経過していないのに、一体どうやってこんなものを……

『実は婿どのと結婚してから、思うところありまして、各星系の衛星バンクに遠隔操作モビルギアを預けていたんです。こうしておけば、婿どのに何かあってもすぐに駆けつけられるなーっと。早速役立つとはさすが俺』
『具体案は俺がしたんだがな、ガハハ』
 無能で有名な当主が自慢気に身を揺らす。
 しかし、衛星バンクになど兵器を預けられる訳がない。そんなことが出来ればテロリストが無限増殖する。従って、志摩親子がよこしたモビルギアも、ただ遠隔操作が出来るだけの鉄くずである。
「何をする気だ、そんな装備で」
『何って、あはは……婿どのったら疲れてるんですか?』
 確かに疲れた。貴様のせいで疲れた。
 駆動音を響かせながら、タカラ・ギアはモノアイを点滅させる。
『ヤマトが誇るウィッカーが三名、援軍に来たんですよ。もっと歓迎してください』
「……!」
 どうやら本当に半分眠っていたようだ。
 シヴァロマは部下を振り返り「ただちに随伴モビルギアを!」と指示する。
『ご覧のとおり、このモビルギアは遠隔操作ができて仮想次元を展開するだけの貧弱な装備です。さほど良い材質でもないので、走っているうちに関節が熱ダレしかねません』
「なぜそこで予算を削る」
『俺のポケットマネーじゃこれが限界だったんですよ!』
 全星域に配置するなら、王子の財力では無理がある。この短期間でよく用意したと褒めるべきだろう。無事に帰れたら、整備しなおしてやると心に誓った。

 トーチカを盾に気張る前衛部隊の背後に回り、現場から様子を伺う。
 殆ど廃墟と化した大使館の前には、三体の二足歩行ギアが見張りに立っていた。裏側にもう四体いるという情報をオペレーターから受信する。もうエネルギー残量もないのか、派手な掃射はしてこない。
『突っ込んでください、婿どの。何があってもお守りします』
 心強い言葉だが、シヴァロマは志摩の文化財どもに何が出来るのか、把握しきれていない。味方の装備を確認しきれぬ戦は怖いものだ。
 しかし、ウィッカーの能力を今ここで悠長に聞いてはいられなかった。
「信じるぞ、タカラ・シマ!」
『どーんとお任せくださいっ』
「………」
 シヴァロマは奥歯を喰いしめた。
 ああ、本当に、本当にこの馬鹿者は……


 生身で会ったら犯す


 シヴァロマは遮蔽物から無反動砲をぶちかました。一体の脇腹に活性酸素弾が炸裂し、機体が崩れる。敵機は倒れながら滅茶苦茶な方角に熱線を流した。付近の建物が一条の線を受けて爆発、その瓦礫の真下に味方が一名……
『神火清明、神風清明!』
 戦場に似つかわしくない愛らしい娘の声が何事かを唱えると同時、瓦礫が風に流されるかのように警官を避ける。実際、耳の側をゴッと風鳴が横切った。
『婿どの!』
 促され、シヴァロマはトーチカから躍り出た。一箇所にいては集中砲火を食らう。トーチカも最早もたない。
 味方が攻撃されてすぐに、他二体がレーザー砲を撃っている。その切れ間を狙ってトリガーを引くが、どうも狙いが定まらなかった。
『婿さまっ』
 ナナセハナ・ギアが横から襲うレーザーの前に立ちふさがり、円形のバリアを展開する。
 しかし、そこは安物のモビルギアである。
『あきゃあっ!?』
 熱で関節が溶け、無様に転がり落ちてしまった。最強の盾が早くも脱落。
『天切る土切る八方切る、天に八違い土に十の文字! 吹っ切って放つ!』
 いつか、アジャラに襲われていたタカラ・シマが唱えていた呪文を、今度は父親が唱えた。
 シヴァロマが仕留め損ねた半壊ギアが衝撃を受けて大使館の壁に激突した。しかし跳ね飛ばされながらカサヌイ・ギアに向かって熱線を発射、父親のモビルギアは原型すら失う。
『ひふみ よいむ なや ここのたり』
 父親とほぼ同時に詠唱していたタカラ・ギア。じゃっと車輪を滑らせながらシヴァロマの側についた。
『ふるべ! ゆらゆらとふるべ! 八握剣(やつかのつるぎ)!!』
 彼の言葉に反応したように、大地が震える。耐熱舗装路が地割れし、そこから巨大な刃が現れて三体目を串刺しにした。
(実像を伴う……?)
 シヴァロマは目を疑う。ウィッカーの力はおしなべて不可解なものだが、その中でも実像を伴うものは稀だ。ないとは言わぬが、あまり大規模なものは不可能らしい。
 ナナセハナのようにバリアを操る者は、他星系のウィッカーにもいる。念動力を使う者もいる。
 しかし、このような実像を伴う何かを呼び出すウィッカーは、他にいるのだろうか。まるでこれでは、魔法ではないか……
『婿どの、前門をクリア! 撤退を!』
 タカラ・ギアの声で我に帰り、シヴァロマは銃を構えながら後退した。

 その後、タカラ・ギアはシヴァロマを護衛してヨルムンガンドまで送り届けた。やがてもう一隻のヨルムンガンドがドッキングし、世界蛇は双頭となる。
「けっきょく、クラライアは来なかったのか」
「あの女にとっては、貴様を始末できる絶好のチャンスだ。何処かで高みの見物をしているだろうよ」
 戦場を求めて高揚している双子の弟の見解に溜息つく。無論、彼に対してではない。
『婿どの……』
 アームの先を突き合わせ、もじもじするタカラ・ギア。それにしても、このような低予算でよくこれほど多彩な動きが出来るものだ。
 シヴァロマは彼に改めて向き直った。
「命拾いをした、タカラ・シマ。礼を言おう」
『! あ、そんな。お礼なんて……えへ、うへへふひひ』
「………」
 シヴァロマは知らぬ「タカラが言われたい台詞ランキング一位」という地雷を踏み抜いたことにより、タカラ・ギアが気色の悪い笑い声をたてながらヨルムンガンドの床をローリングする。
 そんな彼を爪先で止め、デオルカンが愉快そうに覗きこんだ。
「こいつがタカラ・シマか」
『わっ! ……デオルカン様? うわわ、顔近いです近いです』
 小娘のようにモノアイをアームで覆って転がる蜘蛛型モビルギア。だから、なぜそのモーション性能の予算を素材に回さなかった。
「双子が世話になったな。こやつに恩を売ってやろうと思ったんだが、貴様のせいで台無しだ。賠償しろ」
『えぇ、賠償すか?』
「その者の言葉を本気にするな」
 呆れつつ、シヴァロマは横転するタカラ・ギアを捉えて自立させ、モノアイを睨むように覗きこむ。
『えっ、あっ、婿どの、顔が近……』
「重ねて礼を言う。よくやった。大した手柄だ、タカラ・シマ」
『わわ』
 タカラ・ギアはバタバタとアームを動かし、シヴァロマの手から逃れる。
『うっ、そんな褒められたら俺』
「……なぜ泣く」
『お、おお俺、もう帰ります』
 返事も待たずにタカラ・ギアは性急にシャットダウン。惜しむ間もなかった。

「………」
 光の消えたモノアイを眉を顰めて見下ろしていたが。
「あと二ヶ月か」
 思わず呟き、それを笑った双子の弟を鋭く睨んだ。


***


 シヴァロマは限界だった。
 あらゆる意味で限界だった。
 目は血走り、血管は浮き出、筋骨は盛り上がり、吐く息は鬼か悪魔の如し。出会う人すれ違う人が悲鳴を隠せない。失神者さえ続出した。

 タカラ・シマめ!
 このうえは生かしてはおけぬ!!

 だんだんと目的をはき違えて来ていることにすら、シヴァロマは気づかない。
 あらゆる雑事を倍速で片付け、あまつさえ仕事が残った状態でデオルカンに押し付けてまで志摩旅行を早めた。
 その頭にあるのは、タカラ・シマへの殺意。それのみである。

―――なぜ「会いたくて会いたくて震える」が「生かしておけない」に脳内変換されるのか、シヴァロマの思考回路は謎に満ちている。

 航行ですら苛つくので、体が鈍るのを覚悟の上でスリープポッドに入った。これで寝て目が覚めれば志摩に到着する。
「殿下、お目覚めください」
 想像以上に早かった。
 だが、これからが少々長い。長旅につかれた体を癒し、リハビリで元の状態に戻さねば。

 ホーク・ホールから志摩までの数日間で体を戻し、貧乏ゆすりをしたい思いでじりじりとヨルムンガンドがステーションに着陸する瞬間を待った。

「婿殿!」

 それは、それは嬉しそうに。
 めかしこんできたのだろう、婚約の際に植えたという千年桃花の羽織を纏ったタカラ・シマが満面の笑みで両手を広げ駆け寄ってくるのを、

 片腕に担いで攫った。

 ところで、アダムアイルは時速五十キロほどで走る。様々な臨界点を突破したシヴァロマはK点をも突破「ひげへえええひょへえあはあああ」と間抜けな悲鳴を上げるタカラ・シマになど構わず、志摩の宮殿にあたる庁舎にひた走る。
 千鳥居を駆け上がったところで(※移動装置は無視)特殊装甲の踵でブレーキをかけ、ややドリフト気味に宮入りを果たす。
「む、む、むこ…どの……?」
 軟弱にもシヴァロマの肩の上でへろへろと震えるタカラ・シマを睨みつけた。

「どこだ」
「はい?」
「貴様の部屋だ」
「………」
 タカラ・シマは震える指で上を指した。ゆえに階段を跳躍して昇る。タカラ・シマがまたも悲鳴を上げた。周囲も上げた。上げるほうが普通の感覚だが、その時のシヴァロマには「喧しい連中だ、騒乱罪で逮捕してやろうか」としか考えられなかった。

 ちなみにシヴァロマの側近もいたのだが、未だ宮殿に到着出来ていない。出来るはずがない。

 三階までの行程を四歩で済ませ、奥の角部屋らしいタカラ・シマの部屋を蹴破って押し入った。
 王子の部屋にしては、質素なものだ。むろん、家具はそれなりに高品質だったが、美術品の類はない。必要最低限といった程度だ。
 王族のくせにシングルのベッドで寝起きしているらしい。シヴァロマはタカラ・シマをその寝台へ放り投げた。

「ひぇえ、婿殿待って……まだ色々準備済ませてないですから、ていうかお道具もなくて……嘘でしょ!?」

 何も嘘ではない、真実で、現実だ。
 千年桃花の着物だと? ふざけた事をしやがって……はっ倒してくれようかこの野郎。脳内がデオルカンと同調しつつある(※デオルカンの名誉の為に言えばデオルカンはこのようなことは考えない)。やはり血は争えぬか。

 帯を引き裂き下着を破り捨て、着物に袖を通したまま裸体を晒すタカラ・シマの肌に手袋を外してそうっと触れてみた。
 指先からじわりと嫌な感覚が奔る。やはり、タカラ・シマ相手でも不潔さを感じる。とくに今の彼は冷や汗でじっとりと濡れていた。

 だが、それがどうした。

 不安がって腰の逃げるタカラ・シマの二の腕を掴んで肩を齧り、不道徳な腿の付け根を揉みしだく。
 その間、シヴァロマが蹴破り大破した扉には衝立が置かれていたが、シヴァロマの知るところではない。

「ああ、いやっ……」

 どうしてかタカラ・シマが抵抗を始める。それが腹立たしくもあり、煽られもする。
 とにかく出会ってすぐさまぶち犯す所存だったので、潤滑剤は携帯していた。ゴム? なんだそれは美味いのか?
 潔癖がなんだ。潔癖が怖くて警察やれるか。シヴァロマは潔癖だが汚れを恐れない。そんな弱点を抱えて犯罪者と戦えるはずがない。ただ少しかなり大分とても凄まじく嫌だというだけの話だ。

 例の調教装置のおかげで赤く熟れたけしからん乳首を思うさま舐めしゃぶり、性急に潤滑剤のボトルの先を足の間にこれでもかとかけ、ぐっちゃぐちゃに濡れそぼった性器に触れてさすってみた。
「あっあ、ああっ」
 胸を吸い、弄りながら性器を愛撫すれば、すぐに達して潤滑剤と精液が溶け混ざってわからなくなった。

 膝裏に手を差し込んで(手がぬめって掴みにくい)局部を露わにする。
 てらてらと光るアナルがきゅうっと怖がるように窄んでいた。
「むこど…むこどのっ……らんぼうしないで、お、おねが………」
 いつものシヴァロマであれば、タカラ・シマの泣きそうな顔は罪悪感で胸が締め付けられるはずなのだが、この時は完全に理性が飛んでいた。

 片足だけ上げさせた姿勢でぬぐぬぐと指をさしこみ、具合を試す。どれほどタカラ・シマが指を追い出そうと締め付けても、潤滑剤の魔力には敵わなかった。
 すぐに指は三本ほども受け入れるようになり、シヴァロマは張り詰めた自身を一気に突き入れた。
「うっ……ぐぅ」
 苦痛のうめき声がタカラ・シマの喉から漏れる。そのまま動かしても暫くは苦痛の悲鳴を上げていた。それさえ、今のシヴァロマには快楽のスパイスでしかない。

 しかし、一度は即席性奴隷調教を受けた身。すぐに順応してシヴァロマの背を引っかきながらもがき喘ぐようになる。
「んあぁんっ、むこどの……むこどのっ…あひ、あ、ああぁん、あ…っ!」
 アダムアイルの規格外サイズのペニスは簡単に小柄なタカラ・シマの直腸の奥にある秘所を暴いて抉りつける。抱えた足は暴れ、つま先がきゅうと丸まって快楽を主張した。

 シヴァロマのほうはといえば、潤滑剤が溢れて滑りが良すぎるあまりに快楽をうまく得られず、遮二無二腰を動かしていた。可哀そうなタカラ・シマはおかげで何度も何度もドライオーガズムを経験し、声が枯れるまで泣き叫び、シヴァロマに犯され続けた。

「――――婿殿! それ以上は息子が死んじまう!!」

 義父となったカサヌイ・シマの叫びではっと我に返る。
 のろのろと首を動かして視線を落とした先には、タカラ・シマは何の反応も返さずただ揺さぶられるがままになっていた。





 タカラ・シマが治療室へ運ばれ、シヴァロマは洗浄ポッドで身を清めてから少し。
 あの、壊れた人形のようになってしまった姿が脳裏から離れず、祈るようにして時が過ぎるのを待っていた。
「いやあ、びっくりしました」
 案外と平気そうな顔で帰って来た時には、反動で殴り倒しそうになったものである。

 ここは、客用に作られたという宮の離れ。
 朱塗りの御殿とは違い、素朴な木造の美を追求した屋敷で、昨今の宇宙ではまずお目に掛かれない見事な花や獣の木細工が柱などに散見される。
 縁側に置かれたカウチにいたシヴァロマの隣に腰を下ろし、タカラ・シマはにこにこしている。
「何がそんなに嬉しい」
「ええ? だって婿殿がDスーツなしで抱いてくれましたし、あんなに余裕なく俺を求めてくれたんだなって思うと、もしかして俺、愛されてる? って」


 愛?


 とんと縁のない単語だ。好悪ですら、シヴァロマにはよくわからぬというのに。
「それにね、案外、平気だったから。ううん、婿殿だからかな」
「なんだ」
「俺ね、むかし、海賊に凌辱されたんですよー」

 覚えていたのか……

 あまりに何でもない風にふるまい、助けたシヴァロマにも何も言わぬもので、てっきり幼さと事件のショックで忘れ去っているものと思った。
 シヴァロマも最近までは忘れていたが、タカラ・シマと結婚するにあたって過去を洗い、そして思い出した。あの小さな小さな痛ましい被害者と、図々しいほどふてぶてしいこの男が重ならなかったのだ。
 しかし、よくよく思い返すと海賊どもの性器を食いちぎって回ったらしいので、やはりタカラ・シマは幼くともタカラ・シマだったのだな、と今なら思う。

「こんな俺でも、それなりにトラウマがあるみたいで、今でも棒状のものを口元に持ってこられると、ダメなんです。婿殿はイラマチオとかしないから大丈夫でしたけど」
 けたけた笑うタカラ・シマは、先ほどの出来事をなかったことにしようとしているようだが。
「……許されたいとは思わない」
 シヴァロマは覚悟をしていた。あれは、例え夫婦間であっても許される所業ではなかった。シヴァロマともあろうものが、なぜああまでととち狂ってしまったのか、理解に苦しむ。

(なぜ、俺は……)
 隣で笑うタカラ・シマ。この男は、このように笑っている姿がよく似合う。それなのに、どうしてあんな顔で泣かせられた? どうしてそのくるくると志摩の四季よりも変化に富む表情が消えて失せるまで犯すことが出来た。

「俺は自首しようと思う」
「はあ!? いやいや、あれは和姦ですって。聞いてましたか? 俺、嬉しかったんですよー」
「そういう問題ではない。規律は、規律だ」
「規律だっていうなら、和姦で自首してきた男がいたとして、婿殿はどうしますか?」
 それはもちろん、追い返すが。追い返すけれども。

「だが、このままでは俺の気がおさまらぬ」
「そこまで仰るなら……うーん。そうだなあ、キス、してみませんか?」
「なに?」
「キスです。唇と唇を合わせて」
「あの、数百種類の菌が蠢く粘膜と粘膜を合わせるアレか?」
「そういわれてしまうと、アレなんですけども……」
 苦笑しながら、タカラ・シマは庭木の下に積もる葉を指さした。

「あの中には大量のダニがいます」
「ぐぬう!!」
「ダニは、葉を食べて分解し、やがて土にするのです。土から植物は生まれ、その植物を動物が食む……水も似たようなものです。ダニは星の清浄者なんです。決して汚いものなんかではないんですよ」

 シヴァロマは、いや現代において殆どの人間は人工整備された建物の中で育ち、生涯の殆どをそうして過ごす。殺菌消毒は当たり前のことで、それが清潔であるという認識がぬぐい切れない。
 志摩のような保養惑星では、いやかつて人類が住んでいたテラでは、天然の分解者がすべてを循環させることが当たり前だった。それこそが、志摩こそが自然としてあるべき姿なのだ。

「掌にも菌はいます。いるべくしています。俺たちを守ってくれているんです。あんまり嫌わらないであげてください。人間と人間の間に本物の愛は存在しないかもしれないけど、この子たちだけは間違うことはあっても絶対に裏切らない」

 シヴァロマは己の手を見つめた。この手が菌に塗れていることは知っている。あらゆる皮膚、あるいは体内にも菌はいる。
 他人のそれが嫌だという感覚はあった。
 しかし、それらがタカラ・シマを、この妻を守ってくれているのだと思うと、急に感謝の念のようなものが沸いてきた。

「キスを、するか」

 尋ねると、タカラ・シマは頬を染めて頷いた。夕日の赤色を吸ったような色であった。
 シヴァロマはごく自然に、嫌という感情もなく、タカラ・シマの柔らかな唇を味わった。





 月日はあっと言う間に過ぎ、志摩でのひとときは夢の泡のように消えていった。
 滞在中、挙式の時にはまったく眼中になかった志摩の美しい景色を妻と共に堪能し、行く先々で体を重ね、口づけをして、体温を分かち合った。

 タカラ・シマに教わった。このことを愛というのだと。触れ合い、寄り添い、胸が熱くなるこの感情が愛なのだと。

「ずいぶん腑抜けた顔になって帰ってきやがったな」
 皇軍警察を預かっていた双子の弟に揶揄われても調子が出ない。
 久方ぶりの軍用マントを重く感じながら、シヴァロマは双子をぼんやりと見返した。
「デオルカン。皇族をやめるにはどうしたらいいんだろうな」
「はあ? アダムアイルは死ぬまでアダムアイル、やめられるもんかよ」
「ならばせめて、皇軍警察を辞したい。幼少期からやっているんだ、もうよかろう。時間はとれぬし婿に入ったというのに志摩にも行けぬ」
「本気か? 骨抜きにされちまったのか」

 なんとでも言うがいい。もはやうんざりなのだ、犯罪者の尻を追いかけて不毛な戦いを続けるのは。
 タカラ・シマはヤマト王になると息巻いているし、それを手伝ってやりたい。アダムアイル皇子シヴァロマとしてではなく、ただのシヴァロマになりたかった。
 こんな感情は初めてだ。

「いや、いや、いや……せめて次の皇帝が即位して皇子が育つまでは無理だ」
「ならば皇宙軍を俺によこせ。貴様にそのまま皇軍警察を任せる。そのほうが自由が利く」
「冗談じゃないわ。こんなクソな職務やってられるか」
「そのクソな職務をずっと俺に任せきりにしていた貴様が言えたクチか。嫌ならばさっさと即位して子供を作ることだな。
 これから陛下に言上してくる」
「ちょっと待てロ……ロマァ!!」

 何とも晴れやかな気分だ。清々しい。皇宙軍なら皇軍警察と違って数か月に一度は休みをとれるし、タカラ・シマをヨルムンガンドに誘うことすら可能だ。



 愛を知らず、愛を知った皇子、シヴァロマ。
 そして彼に愛を教えた王子タカラ・シマ。
 彼らの物語は続くが、シヴァロマが愛を知ったところで一応の幕が下りる。

 願わくば彼らの愛が永遠のものであることを、千年桃花に祈る。


【第一部 完】

2018年4月10日火曜日

ヴィク勇:電影続1

「中国大会で二位か……」

 ソチのトイレで啖呵を切り、一方的にライバル視しているユーリと同じ名前のスケーターが勝ち上がってきた。
 ユーリの目に留まったにも関わらず、情けなくめそめそ泣いていたあの豚野郎。今度はロシアで共に戦うことになる。次に情けない真似をしたら容赦なく叩き潰してやる。

 それと同時に、口にしはしないが楽しみにもしていた。勝生勇利は新しいコーチとの相性がいいのか……というか一体あのコーチは何者なのか、ヴィクトル級の凄まじいプロを勝生のために用意した。動画で見たが、前年度と違って高難易度のプロをノーミスで滑りきり、見事なスケーティングを見せつけられた。

 それはいいのだが、なぜかロシアに帰ったヴィクトルが浮かれ返っている。
「もー、日本のゆうりはそれは可愛くてトレヴィアンで俺は痺れてしまったよ」
「やかましい、ニタニタするなヴィーチャ!!」

 このところ浮かない顔ばかりしていた兄弟子をこっそり心配していたユーリだが、あれはあれで面白くない。自分ではヴィクトルにあんな顔はさせられないから……させたいとも思わないが、とにかく面白くないのだ。

 確かにヴィクトルに念願のプロを貰い、その指導もしてもらったが、ヴィクトルはずっと上の空だった。それがどうだ。

 酔っ払った勝生勇利にバンケットでコーチをねだられたものの、結局はロシアに残った。そのことに心の何処かで優越感を抱いていたのに、今は……

 リリアの屋敷へと戻る途中、いつもの道を通っていたユーリだが、見慣れない妙な店を見つけた。
「なんだ……? カフェか?」
 蔦の這う古い建物だった。昨日今日建ったはずはないのに、なぜかそこにある。元が何の店だったかは忘れたが、とにかくこんな建物は存在しなかったはずなのだ。

 腐っていたこともあり、気晴らしに店の戸を推してみると、DVDやブルーレイの並ぶ棚がひしめいている。
 かなり種類が豊富なようだが、不思議なのは映画などはなく、有名人がピンで写ったパッケージばかりだということ。
 ユーリは薄気味悪さを覚えたが、興味も引かれ、店内をおそるおそる歩いていると……フィギュアスケーターの棚があった。ヴィクトルはもちろん、クリスや勝生勇利のパッケージもあり、更にはユーリ自身のDVDまで飾られていた。

「お気に召しましたでしょうか」

 急に背後から声をかけられ、ユーリはぎょっとして振り返る。しかし慌て過ぎだったと決まり悪く居住まいを直す。
「この店なんなんだよ。俺はこんなのに出演した覚えはねえ。去年まではジュニアだったしな」

 その店主とおぼしき黒尽くめの男は喧嘩腰のユーリになど構わず、優雅に一礼した。
「歓迎します、ユーリ・プリセツキー選手。
 当店は神に愛された方をおもてなしするために存在します」
「はあ……?」
「当店が扱う商品は、再生してから一年間、その人物のコピーを現実へ呼び出すことが可能です。
 初恋の人、憧れの人物……誰でも一人、選ぶことが出来ます」

 一体なんのことだ。こいつは頭がおかしいのか?
 逃げる算段を立て始めたユーリに「ですが」と続けた。
「実はお願いがございます」
「はあ? 初対面で図々しいな」
「承知の上でございます。貴方の兄弟子様に関わることで……」

 事情を聞くうち、ユーリの目がみるみる見開かれていく。信じがたい。しかし、それならあのコーチの正体も、納得がいく……
 ヴィクトルも言っていたのだ。あのコーチはどうもおかしいと首をかしげて。
「俺にしか作れないようなプロを作るんだ」
 そう、ヴィクトルの感性やクセまでもトレースしたようなプロ。そして、勝生勇利がいくらヴィクトルをリスペクトしているといっても、特定の……ヴィクトルの指導でもなければ、あんなスケーティングやジャンプにならない。

「アレは不良品だったのです。このままでは勝生選手のためにも、ニキフォロフ選手のためにもなりません」
「……わかった。協力してやる。その話が本当だってんならな」

 どちらもユーリの興味の対象だった。それがわけのわからないものに潰されるというなら溜まったものではない。あの二人は今度のGPFで潰してやる予定だからだ。決して親切心などではない。

 問題は誰を具現化するか、だったが……悩んだ末に自分自身を選んだ。そのほうが扱いやすいと思ったのだ。

2018年4月9日月曜日

ヴィク勇:ピアニスト全編

 久々に練習も仕事もなく、ヴィクトルはマッカチンを連れてピーテルを散策していた。
 大通りを歩くと無駄に注目を集めるため、何気ない小道や裏路地を探検するのが乙だ。

 こんな些細な日常にも昔は心踊らせていたっけな、と懐かしむ。これが年を取るということだろうか。
 シーズンに入れば世界中を飛び回り、オフシーズンにはアイスショーや撮影。息つく暇もなく一年が過ぎて、また過ぎて、とうとうフィギュアスケーター最年長になってしまった。

 そろそろ転身を考えるべき時期だ。だが、踏ん切りがつかない。不完全燃焼なのだ。このままプロに転向したとして、果たして喜びを得られるだろうか。与えられるだろうか。

(本当に年をとったなあ)
 スケート以外のことなど考えてもみなかった。二十年以上もラブとライフを放置して、スケート靴を脱いだ後の人生が見えて来ない。
 いつかはこの時が来ると分かりきっていたはずなのに。

 ―――――と。

 ヴィクトルの耳にピアノの音が届いた。曲はキャラバンの到着。軽快で高音、ジャズにしても独特のリズム。
 思わず振り返った先にあったのは、隠れ家のような外装の暗いジャズバー。ネオンの看板に天使の止まり木、とある。
(ピアノってこんな音が出るんだ……)
 ヴィクトルが知らないタイプの、特殊なピアノかとすら疑った。
 だが、そんなはずもなく。

 クセの強い奏者だ。的確に人間の胸の「いいところ」を突いてくる。欲しいと思ったところに音がくる。
 ぶる、と寒気に似た震えが走った。
 音楽を聞いて体が歓喜したのも久々だ。思わず窓に寄り、中を見る。

 店内は薄暗く、よく見えないが雰囲気はよさそうだ。奥のピアノの前にいるのが奏者だろうと分かるが、ちょうど影になっている。
 マッカチンがいるので酒を出す店に長々といるわけにはいかないが………
「ちょっと待っててね」
 少しだけ、ほんのすこしだけ。
 あのピアニストの手元が見たい。

 ヴィクトルが店に入ると、バーテンが少し目を上げたが、構わずにいてくれた。ヴィクトルと気付かなかったのか、気付いてそっとしてくれたのか。

「カツキ! 踊りたいから景気いいの頼むよ」

 酔った客がフロアに出て、ピアニストが了解とばかりにカデンツァを流す。
 えらく多彩な音色でスピード感のあるマック・ザ・ナイフが流れ始めた。ヴィクトルはまたも度肝を抜かれる。
 鮮やかで強い演奏もだが、ピアノに隠れて見えないだろうに、踊る客のステップに合わせてハメている。もともとのシンプルな曲をこれだけアレンジして、指が回る回る。

 本来なら酒を注文すべきだろうが、ヴィクトルは吸い寄せられるようにピアノの傍に寄った。
 激しく鍵盤を叩きつけているのは若い東洋人。オールバックにしてジャズスーツに身を包んでいるが、やけに幼く見える。
 それより気になったのは、彼が目を瞑って演奏していることだった。

 曲が終えてひと息ついた彼は、やはり目を閉じたまま此方に首を向ける。ただし、本当にただ横を向いただけで、顔を見上げる素振りすらなかった。
「えっと、リクエストですか?」
 演奏と違い、気弱そうな声。ヴィクトルは返答せず、鍵盤をひとつぽんと鳴らす。
 やっぱり普通のピアノだ。なぜあんな音が出る?

「お客さん。冷やかしは困るよ」
 ようやくバーテンから注意され、ヴィクトルは苦笑した。
「今日はたまたま通りがかって、犬連れなんだ。また改めてくるよ。これで彼に何かサービスしてほしい」
 紙幣をピアノの上に置き、立ち去ろうとするが、ピアニストが「えっあっ」と慌てたような声を上げる。

「その声……もしかしてヴィクトル・ニキフォロフ!?」

 彼が叫ぶと店内から苦笑が漏れる。せっかく言わないでおいたのに……とでも言いたげだ。
 それで、ああ、と理解する。
(見えないのか……)
 目が不自由な身の上で、あれだけ演奏出来ることも驚愕だが、初対面のヴィクトルを声で判別するのにも驚きだ。

「君はいつこの店にいるの?」
「えっと、いつも……います?」
「他の奏者がいる時も、大体カツキはここにいる」
 他の客が教えてくれた。そう、とヴィクトルは微笑んだ。

「また来るよ」

 そう言って次にこの店のことを思い出したのは、更に一年後になる。


***


 忘れた、というよりは多忙だった。
 自宅やスポーツクラブから少し遠いここに立ち寄るだけの時間がなく、また息つく暇もない一年で、あのジャズバーでの出会いが昨日のことのように思えた。

 久方ぶりに現れたヴィクトルに「アンタ酷い奴だな」とカウンター席の客に詰られた。
「カツキはずっとアンタを待ってたよ。この一年、可哀想で見てられなかった。店に入るたびヴィクトルじゃない…ってガッカリされるこっちの身にもなってみろ」
「カツキ……ってあのピアニストの少年」
「ああ見えても二十四だぜ」
 驚いた。ここに来ると驚きの連続だ。いくら東洋人が若く見えると言っても、あれは幼い。

 ともあれカウンターに腰かけると、バーテンとは別の従業員らしき人物が奥へ引っ込んだ。
 おすすめのを、と頼んだところで誰かが慌ただしく出てきた。バーテンが眉を顰め、ひょいと腕を伸ばしてそれを受け止める。
「カツキ。杖はどうした」
「えぇえと、あの、だってヴィクトル来たって」
「すぐそこの席にいるよ」
「えええええ」
 ぱか、と少年……改めカツキ青年は目を開いた。チョコレート色したきらきら輝く大きな瞳。目が見えると余計に幼く感じる。

 見えていないと分かっていても、彼に手をあげて笑顔を向けた。
「はあい。ヴィクトル・ニキフォロフです」
「ふぁあああ」
 耳まで真っ赤に染めてのけぞろうとするもので、バーテンがまた嘆息しながら彼を支えている。
「まあ、このとおりアンタのファンで、そそっかしい所のある奴でして」
「ボックス! ボックス席来てください! 演奏するから……!」
「カツキ、落ち着け」

 宥められても聞いていない。えと、えと、とカウンターを出ようとして手をわたわたさせている。奥から出てきた従業員が苦笑まじりに彼の肩を抱いて、ピアノまで誘導してやった。
 ボックス席にと言われたのでヴィクトルも出された酒を持ってついてゆく。

「ああああの、リクエスト…ありますか?」
「君の好きな曲が聞きたいな」
「…………!」

 暗い店内でもわかるほど、ボンッと真っ赤に膨れてしまった。あんなにガチゴチで演奏できるんだろうかと見守っていたところ、案の定でだしが調律しそこねたピアノのように酷い。
 ブラインドタッチで弾いているため、指の位置を間違うと惨事になるようだ。

「~~~~~~!!」

 顔を覆い、暫くピアノの前で悶えてから。
 すぅ、ふぅ、と何度か大きく息をつく。

 柔らかなタッチからゆったりした音が流れ出し、メロディが乗ってヴィクトルは目を瞬く。
 離れずにそばにいて――――今シーズンのヴィクトルのプロだ。
 この曲をピアノでやるのか。できるものなのか。
 緩やかで叙情的な音律が店内を満たす。

 美しい。掛け値なしに美しい。原曲とはテンポもリズムも微妙に違うアレンジ。だというのに、アリアが聞こえてくる。
 酒を口に運ぶのも忘れ、ヴィクトルは呆けたように吐息を漏らす。
 演奏を終えてピアノから手を離し、余韻に浸ってから……彼は両手で顔を覆ってしまった。例によって耳まで真っ赤だ。

「カツキ。今日は他の奏者がくるから引っ込め」
「え、もう!?」
「他に仕事がないなら、こっちにおいでよ」
 誘ってみると、カツキはうさぎのように飛び上がって椅子から転げ落ちた。もう笑うしかない。
 歩み寄って彼の手をとり、優しくエスコートして席へ導いた。他の客が口笛を吹き、カツキは不思議そうに首を傾げている。
 彼は知らないのだ。男がレディをエスコートする姿など。

 彼にも飲み物を、と注文し、改めて盲目のピアニストに向き直る。
「カツキ……だっけ?」
「ユウリです。ユウリ・カツキ」
「珍しいね。東洋人がロシアでピアニストをやってるなんて」
「あ、えと、親の仕事の関係で子供の頃にロシアにきたんですけど、みんな死んじゃって」
 悪いことを聞いてしまったかな、と酒を煽る。だが、ユウリの顔に暗さはない。
「物心付く前からオモチャのピアノいじって育ったので……雇ってくれそうなお店さがして頑張りました」
「十五の東洋人の子供が演奏を聞いてくれと頼み込んでくるから、何事かと思ったさ」
 気難しそうなバーテンだが、思い出話をする彼の口調は柔らかい。あえて口に出さなかったが、十五の、それも目の見えない子供が、必死に食い扶持を探す姿は痛ましいものだったろう。

「オモチャのピアノって……レッスンは受けたことないの?」
「あ、六歳の時にキーボードは買って貰ったんですけど。イヤホンつけられるやつ。でもまともな勉強はしたことないんです」
「こいつ、ここの他にもリサイタルとかで呼ばれるんだぜ。一度なんかは有名なマエストロに惚れ込まれてオーケストラとやらないかって誘われたんだが……」
「楽譜の読み方も専門用語も知らないのに、オーケストラなんて無理だよ!」
 そのマエストロも、それだけユウリのピアノに惚れ込んだのだろう。それほどの魅力はある。

「……すこし失礼な質問になるかもしれないけど。どうして俺のファンなの? というか、ファン……でいいんだよね」
「あ、はい! 小さい頃にアイスショーにつれていって貰って、そのときから………」
「えぇと、その。スケート、わかるの、かな。うまく言えないけど」
「はい! 氷を切る音が優雅で………」
「カツキは足音やスケート靴の音を聞けば頭の中で立体が浮かぶらしい」
 それは凄い特技だ。それでピアノに隠れていても、踊る客にあわせて演奏できたのか。いや、そもそもステップにあわせて音をつくるスキルも信じがたいほどだ。

「テレビだと氷を切る音が聞こえないんで……生で見ないと分からないんですけど。それでもずっと憧れてて」
「ヴィクトルが滑った曲は全部演奏できるんだよな」
「バラさないで!!」
 ソファに倒れて蹲ってしまった。あんまり勢いよく動くものだから、見ているこっちがハラハラする。テーブルに頭を打ったらどうするつもりだ。

「ユウリ」
 向かいの席のソファに突っ伏してしまったピアニストの名を甘くささやき、覗き込む。
「今まで色んなファンに好きだ、応援してるって言われてきたけど―――こんなに感激したのは初めてだ。ありがとう」

 音や気配で物を立体的に捉えられるとしても、彼は色を知らない。ヴィクトルとは生きている世界が違う。それでもヴィクトルのスケートが彼には「わかる」と言う。
 彼の中にだけある世界は、きっと美しい。その世界の住人になれたことが心から嬉しかった。

「君の演奏をもっと聞きたいんだ。でも、俺は滅多にこの店には来れなくてね。どうしたらいい? もちろん店には仲介料を払うし、君にも演奏料を払うよ」
「え? えと……どうしたら、って………」
「じゃあ、アンタが望む時にカツキを貸し出してやるよ」
 バーテンから鶴の一声。ええ、とユウリは起き上がろうとして、テーブルに頭を打ち付けた。本当にそそっかしい子だ。

「その代わり、送迎はちゃんとやれよ。そんなんでもウチの看板だからな」
「そんなんでもって………」
 ユウリは落ち込んでいるが、バーテンの言葉を意訳するなら「怪我させたら承知しねえぞ」というところだろう。

 ヴィクトルはユウリのレンタル料などの話を詰め、浮かれ気分で帰宅した。


***


 ユウリを呼び出せたのは、幸いにも次の週だった。
 事情を話してハイヤーに足を頼み、チムピオーンスポーツクラブの前で待っていたヴィクトルは、現れたユウリの姿に意表を突かれた。

「あ、あの。私服で……って言われたので。ちゃんとスーツ持ってきてるんですけど」
 前髪を下ろし、やぼったいコートにマフラー。
 幼く見えるとはいえ、艶っぽい黒のジャズスーツで演奏する姿はなかなか凛と麗しかった。人はこんなに化けるものかと感心するほどだ。
 だが、これはこれで愛嬌があっていい。

「今日はそのほうがいいんだ。おいで」
 腕をとって彼の歩幅に合わせながら、ゆっくりとスポーツクラブに入る。
 ユウリは冷やりとした空気と、スケーターたちが削る氷の音に「え、え?」と驚いていた。
「あの、演奏……」
「残念ながらピアノは持ち込めなかったんだけどねー」
 ユウリの手を導いてリンクサイドに設置したシンセサイザーにそっと触れさせる。

「三年前のプロ、ピアノ協奏曲だったけどソロでいける?」
 そもそも連弾でなければ不可能な曲だが、彼はヴィクトルの滑った曲を全て弾けると聞いた。ユウリならできる、という確信もある。
「できます、けど……」
 また縮こまってしまった。

「も、もしかして僕の演奏で滑ってくれるんですか?」
「うん」
「…………………!!」
「ユウリ。危ないからここで悶絶するのはやめようね」
 顔を覆ってへたりこんでしまったユウリ。いわゆる女の子座りだ。放っておくとそのまま転げ回りそうだったので、腕をとって立ち上がらせる。

「ヴィクトル。そいつ誰だ?」

 休憩で上がったらしいユーリがキーボードの前に立つ東洋人を睨みつけている。が、睨んだところで意味がない。ユウリには見えていないのだから。
「この子はユウリ・カツキ。ユーリとは同じ名前で、ピアニストだよ」
「あ? ピアニストって……」
 目を閉じた状態の東洋人をじろじろ見、ユーリはそれ以上を語らなかった。ユーリは口の悪い子だが、根は優しい子だ。

 そして何を思ったか知れないが、ユウリはキーボードに向き直って指をキーに軽く滑らせた。
 ジャン、と激しい和音の後、凄まじい指捌きでアレグロ・アパッショナートを演奏し始めた。ユーリがの口が顎が外れたように開く。

「ユーリの曲も弾けるんだねえ」
「一回聞いたら大体覚えます。原曲とは違うものになるし、同じ演奏は二度と出来ないんですけど……」
 半端なところで演奏をやめ、ユウリは苦笑する。

 ヴィクトルは銀盤に降り立ち、中央まで緩やかな軌跡を描いて「いいよ」と合図する。
 すぅはぁ、と何度も深呼吸を繰り返すユウリを、ユーリがじろじろと見ている。気になって仕方がないらしい。

 やがてユウリは珍しく目を開いた。きっと鋭く鍵盤を睨み、腕を伸ばして黒盤を端からスライドさせ、ハープのようなグリッサンドから入った。
 音階を上げながらディレイをかけ、音で尾を引かせるように深みを持たせながら演奏を始める。
 えらくキラキラしい曲にアレンジされたものだ。だが、これは気持ちいい。音にハメるのではなく、音が追ってくる。まるでこちらの呼吸まで捉えるかのような演奏だった。

 ところが、ここからが佳境、と漕ぎ出したところで、音が止んでしまう。
 ヴィクトルだけでなく、いつの間にか見入っていた周囲も突然とまった音楽に拍子抜けし、ユーリが「おい!」と叫んでいる。

「むり……しあわせすぎて………もぅむり…………」

 気づくとユウリは鼻水垂らしてぼろぼろ泣いていた。慌てて滑り寄ると、どうもかなり冷えているようで、指先も赤い。
「ユーリ、ティッシュ!」
「ねえよ」
「じゃあタオル!」
「俺のタオルでコイツの鼻水拭く気か!」
 兄弟弟子がコントしている間に、本人がポケットからティッシュを出して顔を拭っていた。

 泣かれるのは苦手だ。名を呼びながら肩を抱くと、また大きな瞳から大粒の涙が大量に溢れる。
「こんなの僕のほうがお金払わなきゃいけないじゃないですか……」
「君の演奏を聞きたくて無理に呼び出したのは俺だから。思ったとおり素晴らしかったよ」

 まともな教育を受けていないとは思えない、高度なテクニックまで習得していた。子供の頃からピアノばかり弾いて育ったといっても、あの独特のセンスは一流のピアニストにひけをとらない。
 ピアノは最もポピュラーで最も残酷な楽器だ。巧拙に関わらず、奏者のセンス次第で全く別の楽器に変貌する。どれほど技巧に優れていても、ピアノの音しか引き出せない奏者は人の心を打たない。

「次シーズンの曲の演奏をユウリにお願いしたいんだ。それと、エキシの生演奏も……無理かな?」

 ユウリとはイマジネーションが死にかけて迷走していた頃に出会えた。窓越しに聞いたキャラバンの到着で横殴りにされ、アリアの演奏を聞いた瞬間、彼のピアノに惚れ込んだ。
 しかし、この調子だと無理そう……だな! 無理だな! ぼろ泣きのユウリをハグして懸命にあやす。
 同時に愛しくも思う。こんなファンがいるヴィクトルは幸せ者だ。

「や、やりたい…です。やります!」

 乱暴に目をこすりながら、それでもユウリはしっかり強い目でヴィクトルを見返す。見えていないはずの瞳に、ヴィクトルの顔がしっかり映り込んでいた。


***


 作曲家に原曲を受け取ってから、スタジオを借りて幾度か勇利に弾いてもらったところ、本当に勇利は同じ曲を二度弾けないらしい。
 時々は遊び心が起きるのか、がらっと雰囲気を変えてアレンジしてしまう。

 そのすべてを録音して、どれをプロに使うべきか吟味した。
 ところが、どの録音で滑っても、あまりに独特なクセある演奏のため、うまくリズムを合わせることができない。
 一番いいのはヴィクトルが滑っている音を聞いて貰いながら演奏してもらい、録音することだが……それではノイズが混じってしまう。

 やはり無理な注文だったろうか。諦めかけもしたが、それを彼にどう伝えていいか分からない。あれほど「弾きたい」と熱望し、ヴィクトルも彼の演奏で滑りたいと強く願っている。
 しかし、現実は厳しい。

 何度も繰り返される録音の最中、ふうっと勇利が顔を上げた。
「ヴィクトル。誰もいない静かな環境で滑ることはできる?」
「ん? そうだね、夜に貸し切れば可能だよ」
「なら、イヤホンで原曲を聞きながら滑って、氷を切る音を録音してください」

 なるほど妙案だ。音から立体が動く様を脳内に浮かべることのできる勇利なら、ダンスのステップ音に演奏を合わせることのできる勇利なら、闇雲に原曲をアレンジするよりそのほうがいい。

 数日後に誰もいないアイスリンクでプロの滑走音を録音したヴィクトルは、改めて勇利を呼び出し、収録したMP3とイヤホンを勇利の手に握らせる。

 勇利は音楽に聞き惚れるように少し俯いて集中していた。何度も繰り返し再生し、時には同じ箇所ばかりリピートする。
 こんなに長くかかるとは思わなかった。いっそ勇利をいったん帰らせるべきかと悩んだほどだ。勇利は三時間もたっぷり聞いた後でほー……と長いため息をつく。

「いつもノイズや歓声や拍手が交じるから……こんなに間近でヴィクトルのスケートを聞いたのは初めて」
 まるで僕のためだけのアイスショーみたい、と頬を染めて語る勇利の姿がヴィクトルも嬉しく、時間を見つけて過去のプロの「特等席」も用意しようと心に決める。
 暫く余韻に浸っていた勇利は、ぱちっと瞼を開いてMP3の再生ボタンを押した。

「行きます」

 指を弾ませて力強く軽妙なトリルの導入。原曲とまるで違う……というか、
(ディキシーランドジャズ……!?)
 古きよきアメリカを彷彿とさせるクラシックジャズアレンジ。いまにもジュークボックスから流れてきそうな曲調だ。
 だが、アンサンブルやビッグバンドが主流だったディキシーランドジャズとは違い、ピアノソロで賑やかで華やかに、かつ丁寧に積み上げてゆく。どこか怪しげで愉快で……
 まるで童心に帰って悪戯を企む大人の悪ふざけを思わせる。
 そして、恐らくそれは――――今のヴィクトルが一番やりたいと思っていることだ。

 この曲のテーマは「リボーン」。
 今までの己を殺し、新しく生まれ、初心に還る。
 原曲はそれを厳格かつ荘厳に演出しているが、勇利はそれを面白おかしく、古めかしいジャズで見事に表現しきった。
 新しく生まれるという演目を、わざわざ古い手法で。
 これも一種のリバイバルと呼べるだろうか。斬新で新鮮だった。

 この子は音楽理論など知らない。存在すら知らないかもしれない。
 だが、物語の起承転結を紡ぐようにメロディを組む。天性のバランス感覚と呼ぶべきか……
 弾き終わり、音の尾が空間に霧散する。

 ふいーと息をついた勇利が額の汗を拭って一息ついてから、はっとしたようにわたわたし始める。
「あ、ごめ、ごめんなさい! なんか貴方のスケートを聞いていたら、こういうふうにしたくなって、それで、あの」
 ヴィクトルが黙っているので怒られると思ったのだろうか。
 勇利の言い訳の声がどんどんしぼんでゆく。

 ヴィクトルは録音室の扉を開け、思い切り勇利に抱きついた。
「ひ、うひゃ」
「いいんだ。これでいいんだよ!!」
 少し硬い丈夫な髪に頬ずりし、ヴィクトルは喜びを声とハグとで勇利に伝えた。




 どうして俺の心の奥底の声が聞こえたの?
 君にだけ聞こえる特別な音があるの?

 ゆうり。ゆうり。
 この感情をどう表現していいか、分からないくらいだ。


[newpage]


 完成した曲を流してご機嫌のヴィクトルを、ユーリがちらちら見ている。ヤコフに怒鳴られながら。
 休憩時間になってから、狙ったようにそそっと寄ってきた。
「さっきの、あいつのか」
「あいつって?」
 分かっていながら満面の笑顔で首を傾げた。ユーリが口をひんまげる。

「だ、だだ、だから……あいつ、その、ヘンテコなピアノ弾くやつ!」

 あの一件でよっぽど気に入ったらしい。ヴィクトルとユーリは琴線が近いのかもしれない。
「実は今日、彼の店に行くつもりなんだけど」
「!」
「でも、ユーリは未成年だしなー。ヤコフとリリアに聞いておいで」
 言うと、ユーリは何も返事せずぴゅっと小魚のように氷上を滑っていってしまう。

 早めに切り上げることと、酒を飲まないこと、ヴィクトルがきちんと監督することを条件にユーリの外出が許可された。
 タクシーの後部座席で運ばれる間、ユーリはずっと落ち着かなかった。ジャズバーに行くのも初めてなら、あの時の彼に会いに行くのが嬉し恥ずかしい年頃なのだろう。微笑ましさの塊のような子だ。

 乱暴にジャズバーの扉を開き、来てやったぞとばかりふんぞり返る。
 バーテンも常連客も、突然現れた未成年―――それもヴィクトルに次ぐロシアのスケーターが現れたもので、背後のヴィクトルに「何をつれてきてんだ」という目を向ける。

 勇利は演奏中だった。本日のナンバーはイングリッシュマン・イン・ニューヨークのジャズアレンジ。ジャンルとしてはポップに入るが、ジャズとの相性は抜群だった。勇利のドラマチックな演奏によく栄える。

 慣れない内装の店に落ち着かないユーリをボックス席に座らせ、酒とミルクを注文した。
 その声で分かったのだろう。急にピアノが不協和音を喚かせた。
「え、あ、もしかしてヴィクトル来てます!?」
「来てる。が、仕事をしろ。干すぞ」
「すみませ……あれ、どこまで弾いたっけ」
「マヌケ」
 ユーリがニヤニヤしながら呟いた。

 ユーリが来ていることも、今ので分かったのだろう。勇利は先程の曲を諦めて、アガペーを弾きはじめた。不意打ちを食らったユーリの耳が赤く染まる。

 一曲終わらせてから、勇利はもじもじしながらヴィクトルが「いるであろう方向」を気にしている。バーテンがため息つき、店内に録音された過去の演奏が流れ始めた。
 お許し頂けたようなので、ヴィクトルは以前と同じように勇利を優しくエスコートし、ボックス席に連れてきた。わざわざユーリの隣に座らせ、自分は向かいに腰かける。

「えぇと、プリセツキー…さん。来てくれたんですか」
「べつに。深い意味はねーよ」
「深い意味でこの店に来る人なんかいませんよ」
 笑う勇利に、ユーリのほうは不機嫌そうだ。今この店の中で一番「深い意味で」来店しているのは彼だ。ヴィクトルとてただ勇利の顔が見たかったのと、演奏を聞いて軽く呑みたいという気楽な理由できた。

「もう少ししたら、ちょっと有名なサックス奏者の方がきますよ」
「どうでもいいし。ジャズとか興味ねえし」
「ジャズ嫌い?」
「ききききらいではねーし! 眠たいのは嫌いだけど」
 ユーリのことだ。ジャズなんて退屈なジジイの音楽、とでも考えていたのだろう。彼の演奏を知るまでは。

「あの、ヴィクトル。完成した曲どうでしたか?」
「最高だったよ。その報告に来たんだ。もうあのプロはあの曲しか考えられない」
「はー……よかった」
 ふにゃん、と輪郭が溶けるほど緩みきる勇利。ああ、可愛い。可愛いったらない。

「僕の演奏が全世界に流れるなんて信じられないなあ。テレビで流れるんだよね?」
「当たり前だろ。ヴィクトルのプロだぞ」
「ヴィクトルのファンに怒られたりしないかな? 大丈夫かな」
「プロの曲演奏してる奴に興味持つ奴なんかいねーよ」
「そう? ならよかった」
 でも恥ずかしくてテレビつけらんないかも……と縮こまっている。本当に緊張しぃだ。リサイタルを開くこともあるらしいが、ちゃんと演奏出来ているのだろうか。

 頬杖をついて二人のユーリを眺めていたヴィクトルを、勇利が急に目を開けて見つめた。
「どうかした?」
「あ、あの……厚かましいかもしれないけど。ほ、報酬のことでちょっと……えと、お金いらないので、代わりにお願いがあるっていうか」
「なに?」
 お金の代わりにおねだりなど、いじらしいこと言う。

 それも、その内容が「顔に触れさせてもらいたい」というものだった。
「あ、僕、目がこうだから、直接触らないと人の顔もわからなくて……ヴィクトルってよくテレビで凄くカッコいいって聞くから、どんな顔してるのかなって」
 指を弄りながら一生懸命主張するのが可愛くて可愛くて、ヴィクトルは向かいの席に移動した。奥へ追いやられたユーリが「せめーよ」と文句を言っている。

「はい、どうぞ」
 勇利の手を自分の顔に導き、目を閉じる。少し緊張して震える指が、遠慮がちにヴィクトルの輪郭をなぞった。そんなに恐る恐る触れられては、かえってくすぐたい。
「うわぁ、なんか、凄い。磨いた彫刻みたい。あ、おでこ広い?」
「………そんなに危険か」
「あ、いやそんなじゃなくて!! えと、えと、あと……あ、鼻が高い。目も彫りが深くて……きれい」

 目を細めてうっとり微笑む勇利の顔。抱きしめてキスしてやりたいほど愛しい。
 そう考えてから、ヴィクトルはずいぶん彼のことを気に入っている、というより惹かれてやまないことに今更気づく。
 もとより興味はあった。彼というピアニストに。
 だが、今の感情はもう、彼個人に―――恋をしている。

「ありがとうございました」
 手を離し、照れに照れ、満足そうな顔。
 だが、ヴィクトルは再び彼の手をとって、笑う唇に触れさせた。
「ここ、まだだよ?」
「………!」
 あえて唇には触れないようにしていたのだろう。暗い店内でも分かるほど顔を真っ赤に染め、きつく目を瞑ってしまう。その様子が思いの外ブサイクだ。だが、そこも可愛い。

「おいヴィクトル、もう時間だ」
「あれ、早いな。ゆうり、また来るよ」
「あ、はい!」

 勇利を引き起こし、ユーリを席の外に出してから、二人は店を後にした。
「ピアノ買おうかなあ。俺の家に置きたい」
「あ? まさか呼ぶ気か」
「うん。俺の家でケータリングと美味しいお酒用意して、勇利に演奏してもらう」
「手ぇ出すなよ」
 釘を刺されたが、それは雰囲気と流れ次第だなーと口には出さず返事もしない。

 だってこんな気持ちは初めてなんだ。
 あの子はたぶん、ヤコフ以上にヴィクトルのスケートを深く見てくれる、世界で一番の理解者だ。


[newpage]


 まだ心臓がどきどきと煩い。
 あの人が来ると、いつもこうだ。いや、来ていない時もか。いつ来るか、また来てくれるかと、一年前から期待が絶えない。

 人の顔に触ってまで形を確認することは、滅多にない。不躾だし、相手だって顔をべたべた触られるのは嫌だろう。
 せいぜい勇利が触れるのは、人形や彫刻、あるいは自分の顔くらいだ。人間というのはこういう顔をしている、と把握するために行う作業で、深い意味はない。あとは店員やバーテンなど、長い付き合いの人だけだ。

 それにしても整った顔立ちだった。ふつう、生の人間はどこかデコボコしていたり、曲がっていたりするのに、どこもなだらかで完璧な造形をしていた。睫毛が長くて、すっと切れ長の目をしていたのが瞼から分かった。

「ユウリ、気が済んだならもう一曲弾け」
「あ、はい」
 サボってばかりでは給料が減る。慌ててピアノに戻り、鍵盤に指を置いた。

――――と。

 誰かが近寄ってきた。リクエストだろうか。

「お客さん、なんでアンタ、酒瓶なんか持って………」
 バーテンが訝しんだ声を上げる。

 彼が質問しきる前に、強い衝撃がこめかみを襲う。
 なに、と思う前にピアノと、次いで床に頭が叩きつけられ、痛みにうめき声を上げた―――と思う。

「――――、――――」

 叫ぶ。何も聞こえない。
 痛みに苦しみながら耳に触れる。ぬっとりとした液体の感触。

「―――――!?」

 なんで。なんで。
 何も聞こえない? 自分の声も、周囲の音も。

 なんで。


[newpage]


 勇利が暴漢に襲われて入院した、という知らせをヤコフから聞かされた。
 あの店のバーテンがこのスポーツクラブのアドレスを調べて連絡を入れてくれたらしい。

 練習を放り捨てて教えられた病院に駆けつけ、ナースに注意を受けながら病室に飛び込んだ。
 そこには、背中を丸くした私服姿のバーテンと、頭に包帯を巻きベッドで上体を起こす勇利の姿があった。
 とりあえず勇利の意識があることにほっとする。

「………アンタか」
 振り返ったバーテンに頷き、勇利に歩み寄る。

「勇利。俺だ。ヴィクトルだよ。怪我は大丈夫?」
「…………」
 下を向いたままの勇利。反応もしない。いつもヴィクトルの声を聞くと、子犬のように喜んで笑うのに。

 暴漢に襲われたことで心に傷を負ったのだろうか。様子がおかしい。不安になり、声をかけながら勇利の手に触れようとするが……
 バーテンがハッと顔を上げた。
「だめだ、さわるな!」
 警告を聞き入れる前に、ヴィクトルは勇利の手を握ってしまった。

 それまで大人しかった勇利が、びくっと過剰に震えて身を捩る。
「なに!!!!! だれ!!!!! だれかいるの!!!!」
「ゆ………」
「だれ!!!!!!」
 病室の外まで響き渡るほどの大声を張り上げる勇利。気圧され、手を離した。

「耳をやられたんだ」
 バーテンが消沈した声で言う。
「この前アンタが店に来て帰った後、酔っ払った客が勇利の耳のあたりを酒瓶で思い切りぶん殴った。理由はアンタにべたべた触るとこがゲイみたいで気持ち悪かったから、だとよ。
 一見の客で、勇利の目が見えないことすら知らなかった」

 バーテンも、常連客も、暴漢を取り押さえて勇利を介抱しようとした。
 勇利は搬送される間もずっと叫び続けていたらしい。自分の声も、なにも聞こえないことに恐怖して。
 聞こえないから過剰に叫ぶ。人は、自分の耳にちょうどいいボリュームで話すのだ。耳が遠くなったベートベンが、大声で話していたという逸話が残っているように。

 ヴィクトルは呆然と、怯える勇利を見下ろしていた。
(この子は、音の世界で生きていて………)
 生まれつき光に見放され。
 音の世界で生きて、ピアノを愛し、スケートを耳で感じていた。

「なんだってこんな事に………十五でコイツを雇ってから、ずっと息子みたいに面倒見てきたんだ。常連客の殆どだってそうさ。
 どうして神はあんなヤツに、コイツのピアノを奪う権利を与えたんだ」
 いまになって気づいたが、バーテンは泣いていた。悔しさに泣いていた。ヴィクトルが来るずっと前から。


 ヴィクトルはそのシーズン、勇利の演奏を録音したプロで優勝し、競技生活を終えた。



***



 鼓膜が破れただけならよかった。鼓膜はすぐに再生してくれる。
 だが、勇利の場合、高次脳機能障害による聴力の喪失らしい。骨振動による音も拾えないとのことだ。
 医者が掌に文字を書いて意思疎通した為、現在は自分の状態を把握し、なるべく声を出さないよう息を潜めて生きている。

 何度めかの見舞いに来たヴィクトルは、勇利がついた手の傍のシーツをトントン、と指で叩く。
 そうすると勇利は手探りでヴィクトルの手を探し当て、きゅうと握る。勇利とヴィクトルだけの合図だ。

『お は よ』
 掌に文字を書く。勇利はこっくんと頷いた。

『た い ち ょ う』
 再び勇利が頷く。

 勇利はもう殆ど回復している。身体的には―――
 だが、もう彼はピアノを弾くことはできない。唯一の特技を失い、生きる糧を稼ぐ手段がなかった。
 本来なら施設に行くべきなのだろう。

『お れ の い え』
 勇利が首を傾げた。
 ヴィクトルは続けて文字を描く。

『 ぼ う お ん に し た 。
  ぴ あ の 、 あ る 。
  う ち に お い で 』

 勇利が眉を寄せ、首を傾げ、頭を振る。
 ヴィクトルはプロの演奏を依頼されたことがある程度で、そう親しい仲ではなかった。こんなことをする義理も理由もない。
 それでも。

『 お れ の こ え 、 お ぼ え て る ? 』

 勇利はすぐに頷いた。力強く、速く。
 だが、それだけにもう聞こえないことが悲しいと、そう言いたげに涙を零す。
 ヴィクトルはその頬にキスをした。急に感じた柔らかな感触に、勇利がびくっと身を竦ませる。

『 ぴ あ の 、 ま た ひ け る
  お れ は し ん じ て る 』

「なんで」

 思わず声を上げた勇利が、口を覆う。自分の声が煩くて、他の患者の迷惑になっているのを散々注意されたからだ。

『 お れ は プ ロ に な る
  ゆ う り の え ん そ う で す べ り た い
  う ち に お い で 』

 勇利の喉から嗚咽が漏れた。
 ぽん、ぽん、とその身を覆うように肩を抱きながら、勇利が泣き止むのを待つ。

 いいの、と勇利が潰れそうに囁いた。

 勇利にはヴィクトルの顔は見えない。
 勇利にはもうヴィクトルの声も聞こえない。
 それでも彼の手を両手で包み、一番の笑顔で、声に出して言った。


「いいんだよ!」





【書き直す予定の後編】

 目が見えないことで不自由じゃないか、不便じゃないかと聞かれたことが何度かあった。

 しかし、勇利にとっては当たり前のこと。自分が何かをする時に踏む余計な手順を省いて動けることについては羨ましく思うが、それだけでもあった。
 視覚という概念自体が人とズレていた。勇利は空間把握能力に優れており、頭の中で座標地図を作って、気配や音で大体の物の位置を察することが出来たので、余計にだ。

 あるとき、家族に観光地へ連れていって貰ったとき、近場にいた観光客らしき誰かが言った。

「見えないのにこんな所に来ても意味ないんじゃない?」

 確かにその宮殿に行った時は、あまり意味がなかったかもしれない。金色で丸い屋根があって~と説明されたもピンとこない。
 けれど、もし「どうせ見えないから意味がない」という理由でアイスショーにつれていって貰えなかったら、勇利がヴィクトルに出会うことはなかった。

 ロシアに来てから、何度かスケートをしたことはある。細い鉄の板みたいなもので支えられた靴で氷の上を滑るなんて、手を引かれてても怖くて怖くて出来なかった。

 だというのに、スケーターはあんな靴を履いて凄まじい勢いで硬い氷の上を走る。
 とりわけヴィクトルは凄かった。いろんなスケーターが登場したが、ヴィクトルが一番きれいな音で氷を切った。
 間近でシュゴッと音を立てて「消え」、着地の音も優雅で。
 浮いてる時間が長くてびっくりしたけど、回転しながら跳んでいると教えられてもっと驚いた。

 なによりも、勇利が大好きな音楽でこんなに全身と氷で「奏でる」ことに心を奪われた。

 アイスショーも前の方の、よく音が聞こえる席でないと聴覚に頼って観戦する勇利には意味がなく、めったには行けなかった。
 テレビで放送されていると知ったとき、初めて見えないことが寂しいと思った。勇利には、音楽プレイヤーとテレビの区別がつかない。映像がどんなものかも想像がつかない。勇利の頭の中にある位置関係と、感触から想像した立体以上の何かがあるらしい。色とはどんなものだろう。空と海は青いとか、木の幹は茶色とか、知識でしか知らない。

 だが、ヴィクトルは雲色の髪と空色の瞳をしているという。
 それを聞いて初めて「色って凄い!」と思った。

 ヴィクトルはロシアで有名人ゆえに、何かと耳にすることが多かったのも憧れの一因。
 彼が選ぶ音楽はいつも素晴らしかった。ヴィクトルが滑っているつもりで何度も彼の演目を演奏した。
 勇利がピアノで食べていけるようになったのは、ヴィクトルのおかげもある。

 家族が勇利を遺していなくなってしまった時、悲しみより先に「これからどうしよう」という不安のほうが先だった。
 いつも助けてくれた家族の手、声がなくなってしまったことへの寂しさはあっても、死という概念は実感から遠い存在だったのだ。

 施設に、と言われたものの、勇利は一人で生きていきたいと飛び出した。
 ロシアに来ることになったとき、言葉が通じないことへの恐怖はあったが、音楽に国境はなかった。ピアノさえあればきっと何とかなると信じていた。
 人に話しかけることは苦手だったけれど、音楽で食べていける場所を探して、運良くジャズバーに拾われた。

 最初は優しくなどされなかった。うちも余裕はないから、客にウケなかったら雇えないと言われ、必死で演奏し続けた。
 少しずつ、勇利の演奏を聞きに来るお客さんが増えて。
 リサイタルをやらないか、と誘われるようになって。
 マスターがあれこれ面倒見てくれるようになって。

 そうして生活が落ち着いたころ、勇利はやっと家族を失って一人になったということを思い出し、初めて泣いた。
 その時もラジオではヴィクトルのインタビューが流れていた。

『貴方は挫折を感じたことなんてきっとないんでしょうね』
『そうかもしれない。上手く跳べない時期や、怪我をしたことはあったし、経済的に苦しい時期もあった。
 ただ、俺はそれらを気に病んだことがないんだ』

 彼の言葉は勇利を励ましてくれた。
 助けてくれる手がない生活は、不便なんてものではなかった。家から店は遠くて、マスターの好意で近くのアパートに引っ越すまで、毎日何時間も歩いた。
 火を使うのは難しいから、自宅ではそのままで食べられる食料ばかり食べて。これは今もそうだだが。
 どこかが極端に汚れても、匂いが酷くなるまで気づかなかったりする。

「なぜ施設に入らず、一人で生きていこうと思ったんだ?」

 マスターに問われて初めて気がついた。なんでだろう?
「だって、ヴィクトルはそうしていたし」
 ロシアではスケート支援でそうやって家計を支えている子供は沢山いる。なら自分だって出来るはずだと信じていた。

 大変といえば大変な人生だったけれど、勇利は恵まれていた。
 勇利には音楽とピアノがあった。
 そのおかげで仕事も出来たし、ヴィクトルに出会うこともできた。


 音が、あったから。


[newpage]


 目が見えないのって不自由じゃないの?

 そう聞く人たちの意図が、やっとわかった。
 見えている人たちが急に見えなくなったら、きっとこんなふうに感じる。

 見えない。音も聞こえない。
 自分しかいない世界の檻に閉じ込められた絶望感。

 触れてくる相手が誰かも分からない。もしかしたら、またあの酔っ払いみたいに暴力を振るうために触れてきたのかもしれない。そう思うと怖くて怖くてたまらなかった。

 もう、ピアノを弾けない。
 スケートの音を聞くこともできない。
 ヴィクトルの澄んだ声も聞こえない。

 虚ろに寝込む日々の中、マスターやお店の常連さん、ヴィクトルが何度か御見舞に来てくれた。
 こんな状況になっても、手に文字を書いてくれれば意思の疎通ができることが、なんだか泣けるほど嬉しくて、悲しかった。嬉しいと思えることが悲しかった。
 生きる気力を失いかけていた時、ヴィクトルが言った。

「うちにおいで」

 ヴィクトルは勇利がまたピアノを弾けようになると信じているという。
 勇利自身が諦めていたのに、ヴィクトルは勇利を信じてくれた。
 なぜ僕を、と聞くと、ヴィクトルはこう書いた。

「奇跡はね、起こるんじゃなくて起こすんだ。俺はいつもそうしてきたよ!」


[newpage]


 ヴィクトルはもともと引退したら一年は休養するつもりだったらしい。
「今まで目が回るくらい忙しく生きてきた。ゆっくり暮らしてみたい」
 ゆっくり休みたいのに、勇利がいては意味ないんじゃないかな、とは言えなかったけれど。

 ヴィクトルは自分の家をどんどんバリアフリーに改造していった。
 勇利が動きやすいように家具を移動させて、時には家具自体を入れ替えて。
 迷惑じゃないか、そんなにお金を使って大丈夫かと不安を覚えたが。

「新しい家に住むとき、食器や家具、必要なものをそろえるのにワクワクしなかった? 俺はいま、そのときと同じくらいワクワクしてる」

 どの壁にもある手すり、角という角にあるクッション。
 棚という棚に点字のラベルがつけられて、いたれりつくせり。
 あんまり凝るので、この人は本当に楽しくてやっているんだろうな、と伝わってきた。

 勇利のために空けたというピアノ部屋の扉には「宝箱」というプレートがつけられて、点字だけではなく普通の文字も刻まれていることに驚いた。なんでここが宝箱なんだろう?

 ヴィクトルはローマ字式指文字を覚えてくれて、意思疎通はかなり楽になった。
 勇利とヴィクトルの距離はいつの間にか近くなって、よくヴィクトルに後ろから抱っこされる形でお互いの指を握りながら色んな話をした。

 何も聞こえない状態でピアノに触れることすら怖くて、部屋を作って貰ったのに何ヶ月も入らなかったが、ある日とつぜん弾いてみよう、と思い立ってピアノの前に座った。

―――すると誰もいないピアノが、ひとりでに鍵盤を下ろしていることに気づく。

 驚いて指を鍵盤に這わせる。ピアノは自分で演奏を続けていた。
 数分ほど理解が追いつかず、まさか幽霊、とまで思い詰めてから、もっと現実的な理由に気がついた。
 ピアノ周辺を探ってみると、やはりある。

 そのピアノは自動演奏装置がついていた。
 いつかマスターが導入を検討していたのを覚えている。あのときは「僕の仕事とる気?」と怒ったものだけれど。

 自動演奏、それも勇利の演奏だった。
 無我夢中で演奏を追いかける。

 鍵盤を押しても、やはり感触しかない。音を返してはくれない。勇利の外の世界では鳴っているのかもしれないが、実は鳴らないピアノだったり、調律してないピアノでも、勇利にはもう分からない。
 幸い、記憶障害や運動障害は起こさず、鍵盤の位置やリズム、どう押してどこを叩けばどう音が響くのかは体が覚えていたが、記憶とズレが起きれば矯正する手段はなかった。
 少なくとも今まではそう思い込んでいた。

『俺はね、挫折を気に病んだことがないんだ』

 堂々と言ってのけたヴィクトルを凄いと感心しつつも、心のどこかで「天才さまは言うことが違う」と遠く考えていた。
(こういうことか………)
 鍵盤に置いた指にぽつぽつ、涙の雨が降る。

 あの人は、ヴィクトルは、本当に凄い人だ。

 自動演奏で感覚のズレを直しながらキーを打つうち、脳裏に鮮やかな音が蘇ってきて、本当に弾いているように錯覚した。
 錯覚だけでなく、聞こえていないのが嘘のように綺麗に弾けているらしい。

 もう一度ピアノを弾くことができた。
 ヴィクトルの言うとおりだった。


***


 あるとき、勇利と同じ名前のプリセツキーが現れて「次のプロの曲を弾け!」と依頼しに来たときは驚いた。
 点字の楽譜を渡されて。だから楽譜読めないってば、と文句を言ったら「じゃあ覚えろ」とのこと。
 そういえば、もう耳で音楽を聞いて覚えることが出来ないから、点字楽譜がないと新しい曲は弾けないことにその時に気づいた。

 少し前の自分なら、そのことを気に病んだろう。
 だが今は「来シーズンまでに間に合うかな?」という焦りのほうが強い。なんとしてでも間に合わせねば。

 プリセツキー(面倒くさいのであだ名はユリオ)はそれからしょっちゅうやって来て、ああでもないこれでもない、ああしろこうしろと勇利の掌に注文つけていく。
 ついでにピロシキや美味しいと評判のお菓子をお土産に持ってきたり、人使いと言葉使いは荒いが妙に優しい。
 隣にユリオの体温を感じながらお菓子を食べると、そういえば僕にはまだ味覚もあった、なんてことを思い出す。これまでだって食事はしていたのに、なぜ気づかなかったのだろう?

 あって当たり前のものほど忘れてしまう。

 その頃の勇利にとって、いつの間にかヴィクトルは居てくれるのが当たり前の存在になりつつあった。
 憧れの遠い人だったヴィクトル。
 縁も所縁もない勇利を引き取って、全面的に世話してくれる奇特な人だ。

 その晩、ベッドで向かい合いながら手を握り合い、いつものように寝る前のおしゃべりをしている時、改めて伝えた。
「ありがとう、ヴィクトル」
 どのことをどう感謝していいかすら悩むくらい、ヴィクトルによくして貰っている。

 ヴィクトルは返事の代わりに、きゅうっと抱きしめてくれた。
 勇利は彼以外と一緒に同じベッドで眠ったことはない。
 最初は戸惑ったが、このほうが補助しやすいからと言われて納得した……というよりせざるをえなかった。一方的に負担をかけているのは此方だ。
 今ではすっかり慣れて、寧ろヴィクトルの帰りが遅い夜はマッカチンがいてくれないと寂しくて眠れない。

「アイツにヘンなことされてねーか?」
 ある日、ヴィクトルの留守中に遊びにきた……もしかしたらヴィクトルに頼まれて留守番に来たのかもしれないユリオが、勇利の手にそう書いた。

「ヘンって、なに?」
「服の下に触られたり、舐められたりしてねーか?」
「それって変なことなの?」

 最初はくすぐたくて、じゃれて遊んでるのかと思っていた。
 そういえば途中から何とも言えない気分や感覚に変わっていったかもしれない。あれを「変」というなら、そうなんだろう。

 ユリオは隣に座ったまま、もぞもぞ動いてる。何をしてるんだろうと腕を触ってみると、スマホで電話をかけてるようで。











「けっきょく手ぇ出したのか、このスケベジジイ!!」


[newpage]


 勇利と暮らすようになってから半年も経つ。
 ヤコフにこの話をした時、当然のように反対された。

「お前は盲ろう者についての専門的な知識を持っているのか? 赤の他人を支え続けることがどれほど大変なのかを分かっているのか?」

 引退宣言した直後にも関わらず、親のように叱ってくれたことが嬉しくて、思わず抱きついてしまった。ヤコフは余計に怒ったけれど。

「分からないからダメだムリだって諦めてたら、スケーターはジャンプなんか跳べないよ!」

 何事も最初は思い切りが一番。
 その後のことはその時考えればいい。そのせいで大ケガして死ぬかもしれなくとも、それでもスケーターは勢いをつけて高く跳ぶ。

 勇利は退院前後、うつ状態にあると医者に聞かされた。
 唯一の生きがいであり、生きる糧であるピアノを失ったことで、勇利は気力を失っていた。
 気持ちはわかる。ヴィクトルもこの足を失ったとすれば、二度と氷の上に立てないことをきっと嘆く。
 それでも自分のスケートを伝える術がなくなる訳ではない。そのことを勇利にも分かって欲しい。

 ヴィクトルはまず、自宅を完全バリアフリー化計画を進め、点字ラベルプリンターを購入。部屋中にべたべたとメモやメッセージを貼り付けてゆく。
 場所によっては勇利が気付かずに終わるかもしれない。でも、いつか何かの拍子に気がついて、クスっと笑ってくれればいい。
「こういうの、不思議の国のアリスであったよね」
 マッカチンを撫でながら、ラベルまみれの部屋に満悦。

 次に―――というより、同時進行でジャズバーのマスターから受け取った勇利の演奏を録音したCDを受け取り、専門家にMIDI化してもらった。
 これを自動演奏できるよう業者に依頼し、たところ、大変食いつきがよかった。

「もしや、これはユウリ・カツキの演奏では?」

 まさか言い当てられるとは思わず驚いた。
 勇利はピーテルを中心に知る人ぞ知る人気のピアニストだったらしい。そういえばリサイタルもやっていたし、何処ぞのマエストロに気に入られたとか、結婚式やパーティーに呼ばれてピアノを弾くことも多かったそうな。

 加えてヴィクトルの最後のシーズンのフリーを飾った曲を演奏し、業界人からすれば垂涎ものの一品だったようで、ぜひ商品化を、とせがまれた。
「自動演奏だけでなく、音源があるならCD化を。かのマエストロが愛したピアニスト、ヴィクトル・ニキフォロフの最後を飾った演奏者とあれば、世界中に売り出せます」
 鼻息荒く口説かれ、ヴィクトルは苦笑した。

 ひとまず勇利の状況を説明する。暴漢に襲われて聴力を失ったこと、今はそれを受け入れることに精一杯だということ。
 まさかこのピアニストがそのような目に遭っているとは知らず、彼はショックを受けていた。ただでさえブラインドピアニストであった勇利が、過失事故などではなく悪意によってあの素晴らしい音楽を奪われたことに心を痛めていた。

「そういうことだから、勇利に許可を求める為にもう少し時間が欲しい。
 それと、売り出すのにマエストロの名前が必要なのは分かるけど、キャッチコピーにはヴィクトル・ニキフォロフが愛したと入れてほしいな」

 そのマエストロとて勇利を口説いてフラレただけで、勇利の音楽に惚れ込んでここまでしているのはヴィクトルだ。そこだけは譲れない。

 とにかくその日は自動演奏化だけを頼み、自宅に戻ったところ、扉を開けて「ヴィクトル!」と勇利の嬉しそうな声に出迎えられた。
(なぜ?)
 勇利には扉を開ける音など聞こえないはず。
 だというのに、勇利は点字の本を投げ出してソファから立ち上がり、真っ直ぐにヴィクトルに向かってやってきた。

 そんなバカな!?
 視覚も聴覚もなく、ヴィクトルが帰ったのに気づき、方向を誤らず躊躇もなく部屋の中を歩く。そんなことが可能なのか?
 ヴィクトルの腕の中にぱふんとおさまる勇利を抱きとめて、彼の手をとった。
「ゆうり、俺が帰ったの分かったの」
「空気が変わったし、気配があったし、マッカチンが反応したから」
 ヴィクトルは指文字、勇利は普通に口で発言している。

「ユリオが来ることもあるけど、マッカチン反応しないから」

 マッカチンは新しい住人である勇利を家族として迎え入れ、よく彼の足元にいる。
 まるで勇利の状況が分かっているかのような動作をする。当然ながら盲導犬の訓練など受けさせていない。賢い犬だとは思っていたが、これほどまでとは知らなかったと感心する次第だ。

 自動演奏のことは、伏せておいた。
 勇利はまだピアノ部屋に近づこうともしない。彼が受けた傷は、脳以上に心に深く痕が残っている。
 彼にはまず新しい世界での生活に慣れてもらうことと、ピアノがなくとも生きていることは楽しいと知ってもらうことが先決だった。

 ピアノが生き甲斐なのはいい。だが、ピアノだけが生きる意味になっては駄目だ。
 勇利は、ヴィクトルが引き取らなければ、おそらく預けられた施設で命を断っていたと思われる。それほど最初のころは酷かった。

 自動演奏のCDが完成した日、勇利がいつものソファにおらず、部屋を見て回るとクローゼットで服をひっくり返している現場で。それも夢中になっていてヴィクトルの気配にも気づいていない。
「わー、凄い。色々ついてる。ひだがある。ふりふり」
 どうも現役時代の衣装をほじくっているらしい。一人はしゃいで衣装をぺたぺた触れていた。

 その姿が可愛らしかったので、思わずカメラに収めてから、とんとん、と肩を叩いた。
「ひえっ!? ヴィクトル帰ってる!?」
 まるで悪戯が見つかった子供のように(実際、悪戯の現行犯)勇利は慌てて手をわたわたさせた。

「ごめんなさい、つい出来心で! 最初はただ、僕の持ち物どうなったかなって確認しに来ただけなんだけど………ヴィクトルのものかなって思ったら」

 尻すぼみになっていく言い訳に「怒ってないよ」と後ろから抱き込んで手をにぎにぎしながら伝えた。
「ほんとに?」
「楽しんで頂けたなら何よりだ」
「ねえ、これなに? ふつうの服とは違うよね。ヴィクトルが着るの? スケーターってみんなこういう服で歩いてるの」

 思わず笑ってしまった。震えが伝わって笑われたことが分かるのか、勇利は小さくなって赤面している。
「大会やアイスショーで着る衣装だよ」
「そうなんだ。アイスショーでも何着てるかまでは分かんないから、知らなかった。こういうの着るんだ……
 ぼく、スケーターはみんなこういう近未来的っていうか前衛的なファッションなのかなって思った」
 これで外を歩いたら完全にコスプレだ。

 勇利は慌ててぐちゃぐちゃになった衣装の山から手探りで一着を取り出し「これ着て!」と叫んだ。聞こえていない分、熱が入ると声が大きくなる。
 リクエストに応えてファッションショー。着替えると、勇利が大興奮でまふんと抱きついて立体を頭の中で描く為にあちこちをペタペタ触る。
「すごいすごい、カッコいい! これはいつの?」
「離れずに傍にいて、をやった時のだね」
「あー、あのヴィクトルと会ってから一年目のー………」
 そう言って勇利は目の前で手を揃え、指を動かすような素振りを見せたが、少し眉を寄せて手を下ろしてしまった。

(そろそろ、かな?)
 ピアノから離れて数ヶ月、恋しくなってくる頃だろう。
 彼が音を失くしてから暫く経っているので、音の記憶が曖昧になってはいないかと不安もある。こればかりはヴィクトルも助けてやれない。

 ヴィクトルはその日から毎日、こっそりピアノに勇利の曲を自動演奏させることにした。
 さて、勇利がいつ気づくことやら?


***


 実際のところ、そうかからなかった。
 買い物から帰ると、それまであの部屋の付近にすら寄らなかった勇利が、扉を開けたまま熱心にピアノに触れており、自分の演奏を指で追いかけていた。

 自動演奏が切れると、勇利は背筋を伸ばして鍵盤の位置を確かめ、そして――――
 鮮やかな音色が鳴り始めた。

(アメイジング)
 勇利に抱きつきたい衝動をこらえ、瞳を揺らす。
 思った通りだ。勇利は音そのものよりも、リズムで演奏する。体が覚えているならきっとまた弾ける、と踏んではいたものの、予想以上の演奏だ。自分の音を聞けていないとは思えないほどの。

 しかし、ピアノの位置が惜しい。配置を間違えた。
 いや、勇利のためにはこのほうがいいのだが……ピアノを壁につけたせいで、彼の顔が見えない。
 ジャズバーで演奏する勇利の姿はそれは麗しく、音楽をより魅力的にするスパイスになっていた。

 一曲弾き終えて放心する勇利の肩を指で叩き、彼の手をとる。
「素晴らしい演奏だったよ!」
「ぼく、ちゃんと弾けてた?」
「パーフェクトさ。勇利は最高のピアニストだよ」
「褒めすぎ」
 照れてそっぽ向かれてしまった。最近、こういう素っ気ない態度もとる。ヴィクトルとの生活に慣れてきた証拠だろう。
 今までは、遠慮や憧れが強く良い顔ばかり見てきたが、これからは軽口も言い合いたいし、喧嘩だってしたい。
 喧嘩しても離れることができない存在だと、勇利に知ってほしかった。

 勇利がピアノを弾けるようになると知って、ちゃっかりユリオが演奏依頼をした。勇利は生まれて初めて、楽譜から新しい曲を弾くべく勉強している。
 ピアノには音階の点字ラベルを張ることにした。

 CD発売と復帰祝いでリサイタルを開くと、予想以上の予約が殺到したらしい。ジャズバーの関係者や常連、ピーテルのファン、そして業界人が押し寄せて、ついには例のマエストロが最前列でおいおい泣きながら勇利の演奏を聞いていた。他の連中も似たようなものだった。

「ヴィクトル・ニキフォロフ。彼にピアノを取り戻してくれてありがとう」

 口々に感謝を述べられたが、全く身に覚えがない。
 ヴィクトルは環境を整えて彼を支えただけ。
 ピアノを再び弾きはじめたのは、勇利の力だ。


[newpage]


 ヴィクトルが引退して初めてのアイスショーが開催された。
 題してピアノ・オン・アイス。
 全ての楽曲を勇利が担当している。

 引退したシーズンで演じた「リボーン」からの開幕。
 これは、生ける伝説ではなく、ロシアの皇帝などという大層な存在でもなく、ただのサプライズ好きでいたずら者のヴィクトルに戻してくれる原点回帰の曲。
 プロ転向第一回目としてこれほど相応しい演目はない。

 次に氷上のピアノに勇利をエスコートし、勇利を残してヴィクトルは退場する。
 曲はYURI ON ICE。初めてヴィクトルが勇利をスケートに誘った日、勇利が即興で弾いた曲をプロの作曲家に頼んでブラッシュアップしてもらったもの。
 この曲を滑るのは、もう一人のユーリが相応しい。二人のユーリが奏でる氷の上の愛。
 だが、実は勇利はこの曲を演奏していない。自動演奏だ。

 何しろスケート靴を履いているので、ペダルを踏めないのだ。

 曲が終了してから、再びヴィクトルが現れ、勇利の手をとり中央まで移動する。
 自動演奏のピアノから流れる「離れずに傍にいて」。素人ながらリズム感のある勇利は、教えれば案外とすんなり氷上を走るようになった。
 もちろん、プロのスケーター並の鮮やかさはない。
 彼をエスコートしながらのアイスダンス。
 二人の薬指に嵌った指輪がライトに照らされて星のように瞬いた。

 曲が終わってから、ヴィクトルは勇利をピアノへ誘導し、今度はスケートシューズを脱がせる。
 何曲か招待したスケーターたちの曲をメドレーで演奏し、そして最後にもう一度、アレンジ違いの「リボーン」を。

 生まれ変わって、生まれ変わって、また、始まる。







 勇利には、スケーターたちがどのような演技をしているか、観客の反応がどうかも分からない。
 音のしないピアノをリズムだけで演奏している。
 冷えた氷の上でひたすら鍵盤を叩く。
 それでも今は閉じられた檻のような世界だとは思わない。勇利は広い世界にいる。ヴィクトルと一緒に。

 僕は、勝生勇利。
 どこにでもいる、ふつうのピアニストです。






end.