※かなり辛くて切ない話です
薄氷の上を裸足で歩き、氷のガラスが貫いた
花が咲く、割れた氷の跡に
その花を伸ばしたつま先で踏みにじる
壊死した足裏はもう痛みを感じない
[newpage]
勝生勇利という男子フィギュアスケーターがGPFで銀メダルを取得した次の年に失踪してから五年の月日が経過しようとしている。
現役続行の意を表明し、コーチであるヴィクトル・ニキフォロフのホームへ活動拠点を移して、何もかもこれからという段階だった。
勝生勇利はリンクメイトのユーリ・プリセツキーと道で別れ、その後に忽然と姿を消した。
不慣れな異国のため、コーチと共同生活を送っていた勝生勇利の荷物は、本人が所持していたリュックやスケートシューズの他はパスポートも含め全て自宅にあり、自主的な失踪とは考えにくい状況だった。
また、リンクメイト及びコーチとの関係はすこぶる良好、最後に会っていたユーリ・プリセツキーと仲睦まじくショッピングをしていた姿が地元住民に目撃されている。
愛弟子を失ったヴィクトル・ニキフォロフは精彩を欠き、その状態でも勝生勇利が戻るまではと競技生活を続け、頂点に君臨した。
しかし、その彼も今年で33歳、引退を決意する。
勝生勇利の生存を諦めたともメディアで発言した。
その途端に―――――
匿名の文書がヴィクトル・ニキフォロフ宅に届いた。
「ユウリ・カツキの身柄と引き換えに引退をとりやめろ」
勝生勇利が行方不明になって五年、一切の痕跡が見つからなかった事件の手がかりだ。
それからは早かった。誘拐された勝生勇利の居所は瞬く間に割り出され、犯人は逮捕された。
犯人は熱狂的なヴィクトル・ニキフォロフのファンであり、ジョン・レノンの音楽性を歪めたオノ・ヨーコのような存在である勝生勇利が許せなかったから犯行に及んだと供述している。
勝生勇利生還の知らせを受け、彼の復帰を望む声もあったが、彼は日常生活もままらない状態にあることが正式に発表された。
事実上の引退表明であり、彼がどのような仕打ちを受けて五年間を過ごしたかを暗喩する報告だった。
[newpage]
カツ丼。勝生勇利。
初めて見た時にその唯一無二のステップに憧れた。あのヴィクトルさえ持っていない何かに惹かれた。
なのに情けない奴だった。なのにアイツに負けた。だから勝ってやろうと思った。そうしたら勝手に引退するらしい。ムカついて絶対負かしてやると思った。
現役続行するらしい。しかもロシアに来るとか。リンクメイトになるらしい。ロシア語もしゃべれないくせに。しょうがねえから面倒見てやる。俺は先輩だからな。
……ホントのこと言うと。
オレは家族と離れて暮らしてたし、ヴィクトルに憧れてた。ハセツで過ごした時間は短かったけど楽しくて、あったかくて、そこにヴィクトルとカツ丼がいた。
今思うとジジイはあの時点のオレがカツ丼に負けること、たぶん分かってた。オレはガキだったし、まだシニアの大会経験すらなかった。思い出すとマジむかつく。
あいつらは二人っきりの世界作って、オレはそん中に入れなかった。
だからカツ丼がロシアに来て、オレにも居場所があるんだってわかった時、すげえ嬉しかったし、アイツがいなくなるまでの間はめちゃくちゃ楽しかった。
練習とか嫌いだったけど、張り合い出るし。帰りとか、オフの日とか遊んだりして。足んなかったもんが満たされた気分だった。
いつまでかは分かんないけど、暫くずっとこの生活。
ユーロと四大陸終わって、世界選手権を控えてたしな。まだシーズンも終わってなかった。
あいつらは、いつもどおりアホみたいに距離近くて、笑い合ってて、幸せ一杯ですーって面で毎日毎日スケートしてて。たまにヤコフに怒鳴られたりミラに笑われたり、ギオルギーが「愛……」とか囁いたりしてて。
たまにオレに気がついて「ユリオー」とかアホ面そろえて接近してくる。
あの日は確か、サイフがぶっ壊れたから店に連れてってくれ、とか言われたんだっけな。ヴィクトルに言うとブランドもんのバカ高いのを買われるからって。
適当な店連れてって、適当なもん買って、そんで別れた。また明日って言ってたな。
笑ってた。
そのあと、ヴィクトルが帰ったら待ってたのは犬だけで、カツ丼どこにもいなくって。
妙だとは思ったけど、昨日の様子じゃ家出とかねーし。ジジイとなんかあったのかって聞いたけど、そもそもリンクで別れてから連絡してなかったらしいから、なんかある訳もねえし。
そもそも帰宅した痕跡自体なかったそうな。
三日して警察に届けた。けど、ロシアの警察はまともに働かねえ。それでも他国のトップスケーターだったしな。動かなかったとは思えない。一応、オレも事情聴取には付き合った。
マスコミのほうが熱心だったな。あれこれ根掘り葉掘り聞かれて、リンクメイトに苛められてたとか、コーチと不和とか憶測ばっか書かれて、基本的には「自主的な失踪」として扱われてた。
なら、残されたパスポートや、実家にさえ連絡入れてなかったのは何なんだよ。
スケ連になんも言わねえのもおかしいだろ。大会控えてたんだぞ。
あいついなくなってから、ヴィクトルと話す機会が減った。てか、ジジイの口数が減った。話しかけられる空気じゃなかった。
ヴィクトルにとってアイツがどんだけデケェ存在だったのか、一番知ってるのオレだったし。
大会出てたのは、有名で在り続ける為だった。
『ゆうり、もしいまこれを見ているなら連絡を』
『ユウリ・カツキを見かけた方はどうかご連絡を……』
ほとんどはガセネタだったろうし、実際そうだった。
犯行声明が出て、カツ丼が見つかったって聞いた時はぶっとんだぜ。まさか生きてるとは思ってなかったからな。
病院に呼びつけられて、予定全部キャンセルして駆け込んで。
病室のベッドの上に女がいると思った。
痩せこけてて、ろくに切ってねえ髪が背中まで伸びてたからな。トレードマークの眼鏡もしてなかったし。
ただ、ヴィクトルが傍にいたから、ああ……って。
コイツがあのカツ丼かあって。
「ゅり…ぉ?」
聞き取るのも困難な蚊の鳴くような声で、ここ五年だれも呼ばなかった愛称でオレを呼ぶ。
東洋人てのは、ホントに年とらねえんだな。いや、五年前に時間止めちまったのか。オレは背もデカくなったし、あの頃の面影はあんま残してねえ。
「ぉ…きく、なった、ねぇ……」
詰まりながらそのくらい言うのが精一杯で、噎せこんじまう。ヴィクトルが「無理しないで」と、それこそ五年のあいだ聞いたこともねえ優しい声でカツ丼の背を撫でてた。
アイツを見る目も、昔に戻ったみたいでよ。
足の筋肉衰えてて、スケートはもうまともに出来ねえってよ。ほとんどしゃべらないで暮らしてたから喉弱ってて、それで声が小せえんだと。
とにかく死んだと思ってたから、最悪マフィアの事件に巻き込まれたとかよ。
どんなでも生きててよかったって。
―――よかったんだよな?
[newpage]
引退したヴィクトルは元よりハセツに居を移すつもりで、海の傍に家をひとつ購入していた。
勇利のことは半分諦めていたから、マッカチンと暮らすための家だ。
そのマッカチンも先年、ヴィクトルを置いていってしまった。今いるのは二代目の子犬だ。
「どう、ゆうり。気に入ったかな」
大きな窓を開き、振り返る。
車椅子に座る勇利が目を閉じてすうっと空気を吸い込んだ。
「海のにおいがする」
「きゃう!」
勇利の膝の上にいるマッカチン二世が可愛い声で吠える。
勇利はもう眼鏡をしない。ほとんど視力がないので必要がなくなってしまった。
「もうヴィクトルのスケートを見られないのが残念」
と言って微笑んでいたが、その実、そこまで悔しいようには見えなかった。むしろ、清々しささえ感じるような―――
(ゆうり……)
海の風を受けながら子犬の頭を撫でる姿に目を細める。
何があればそこまで急激に視力を失う?
どんな扱いを受ければああまで喉や足を弱らせる。
監禁された先で何があったのか、まだ聞いていない。聞けるはずもない。話したくも思い出したくもないだろう。
皮肉なことに、ヴィクトルが完全に勇利の生存を諦めた矢先に犯人の手がかりを掴んだ。
もっと早くにあきらめていれば、こうなる前に勇利を助け出せていたのだろうか。
「何か食べたいものはある? これからはカツ丼だって毎日おなかいっぱい食べられるよ」
「ん……カツ丼はいいかな」
(カツ丼は、じゃないだろう)
好物のカツ丼なら少しだけでも口にしてくれるかと思ったが、やはり駄目だった。そもそも、ヒロコがゆーとぴあ勝生でもカツ丼を出してくれたのに箸をつけようともしなかったのだ。
この五年というもの、勇利はジャンクフードや粗悪な缶詰だけで生き延びていたらしい。
飢餓状態と栄養失調。それらは病院で治療を受けたが、拒食の気があった。今でも時折、病院に点滴を受けに行かねばならない。
「……ねえ、ヴィクトル。怒らないで聞いてほしいんだけど」
躊躇いがちに口を開く勇利に「なに」と返す。これはたぶん、よくないことを聞く前兆だと覚悟しながら。
「なんで、僕と暮らそうと思ったの? 僕とヴィクトルは一年も一緒にいなかったし、あれから五年経ってるのに」
「ゆうりは、俺と暮らすのイヤ?」
「イヤじゃないよ。僕……狭い部屋の中で暮らしてて、娯楽とかなんにもなくて。頭のなか、五年前で止まってる。
だけど、いっそ死んでたほうがヴィクトルのためだったのかも」
「なんてことを……」
「五年も信じてくれてありがとう。凄く嬉しかった。だけど、やっとヴィクトルが新しい人生を歩もうとしたのに……帰ってきちゃった。これから結婚したり、幸せな第二の人生が待っていたかもしれないのに」
「俺はゆうりが生きて帰ってきてくれたことが何より嬉しいんだよ?」
「ヴィクトルほどの人が、その年で結婚してないなんておかしいよ。それが五年も生死不明だった僕のせいだなんて悲しい。もし同情や感傷なら――――」
このやりとり、昔もやったなあと思いを馳せる。
勇利からペアリングを貰って、勇利のコーチとして生きていく決意をしたその翌日に「僕のことはいいから復帰して」と彼は言った。
身勝手と済ませるには悲しいほどヴィクトルの為を願っている。いつも。
「ゆうり。俺はもうリビングレジェンドでもスケーターでもない。ただのハセツのヴィクトルだ。籍も日本に移しちゃったし」
マッカチンを撫でる勇利の手をとり、指先にキスをした。昔のように。
「みんなのヴィクトルはもうおしまいだ。俺は、俺が望むままに生きたい。それがゆうりの隣。どうか俺を拒否しないで。ずっとお前を待っていた。諦めきれなかった。やっとゆうりがこの腕に帰ってきたんだ。このうえでお前に拒絶されたら、俺は生きていけない」
抜け殻のように生きてきた。
この体と心を満たしてくれるラブとライフをわけも分からず奪われて。
世間が口さがなく悲劇のストーリーを捏造するたびに勇利がそんな目に遭っているのではないかと想像して苦しんだ。
「僕、たぶん今、ヴィクトルを拒否するべきなんだろうね。酷いことを言ってでも」
「ゆうり!」
「ヴィクトルの為にも、たぶん僕のためにも。でも、怖くて言えない。アイツの言ったこと、全部ほんとになりそうで」
(あいつ)
ヴィクトルは目を伏せた。
ヴィクトルの熱狂的なファンで、勇利を五年もの月日を暗く狭い部屋の中に閉じ込めていたあの男。
ジョン・レノンを狂わせたオノ・ヨーコ? そんなこと、ビートルズのメンバーはみんな否定している。それを未だに信じている輩がいて、ヴィクトルと勇利の関係に重ねていたとは笑い草だ。
狂った男が勇利に何を吹き込んだのか、想像に難くない。
勇利も、全てを鵜呑みにしたわけではなかろう。だが、飢餓と栄養失調と運動不足、異常な環境でお前のせいだ、お前が悪いと罵倒され続ければ、誰だっておかしくなる。
いま、勇利の頭の中や心の中がどうなってしまっているのか。自分を極悪人だと思いこんでいるかもしれない。ヴィクトルの障害と思い込んでいるかもしれない。
以前はそれでも、勇利にはスケートという寄す処があった。スケートで愛を語り、スケートでヴィクトルを繋ぎ止める。
それさえ奪われてしまった彼は、ヴィクトルに愛される自信を失っている。どれほどヴィクトルが訴えたとしても。
一生消えない。頭で理解していても、繰り返し言われたであろう言葉は勇利の中からなくならない。
閉じ込められた恐怖も、短く貴重な競技人生を奪われた悲しみも、スケートを失くした喪失感も。
「ゆうり、お前が余計なことを考えると昔からろくなことがないよ。今は今を楽しもう。ハセツの海と、温泉と、俺とマッカチンのいる生活を。夢だとでも思って」
「夢かあ。夢だとしたら、いい夢………!?」
おかしそうに笑う、あるいは自嘲気味に笑う勇利を抱きしめた。
「ヴィクトル。汚いから触らないで。ヴィクトルが汚れちゃう」
「勇利は汚くないよ。汚れたとしても洗えばいい」
「でも………」
「夢が覚めたら汚れなんてなくなってる」
早く悪い夢から醒めて。
あれは全部悪い夢だったと言えるようになるくらい、幸せな現実を生きようよ。
腕の中の勇利は、強張ったまま緊張を解くことはなかった。
[newpage]
これが夢だとしたら、いつか醒めてしまうんだろう。
ヴィクトルは一人で暮らすつもりだったから、ベッドはひとつ。サンクトの家でも最初はそうだった。
今は単純に、勇利から目を離すことが怖いとヴィクトルは言っていた。また急に勇利が消えてしまったらと。
勇利の失踪は、勇利だけでなく多くの人の心に傷を残した。
ヴィクトルがハセツに家まで買って、勇利と暮らしたがるのも、傷の名残に過ぎない。
スケートがなければ縋るものもない絆で結ばれていた。氷の上にしかない愛の欠片を拾い集めるようにして。
ヴィクトルは勇利に事件のことを忘れてほしいと願っているようだが、忘れるべきなのはヴィクトルのほうだ。勇利という存在ごと忘れるべきだった。
あの男は本当に余計なことをしてくれた。最後の最後でヴィクトルに勇利の生存をわざわざ本人に知らせるような真似をして。五年見つからなかったから油断をしたのか。それともヴィクトルの引退がそれほど衝撃だったのか。
これは勇利が墓まで持っていくつもりの秘密だが、あの男は異常性愛者だった―――ヴィクトルをそういう目で見ていた。ヴィクトルを犯したいと。
ヴィクトルが抱いた体だからと言い張って勇利に幾度となく暴行を働いた。実際にはそんな関係ではなかったというのに、男は耳を貸さなかった。
あの男の狂気の矛先がヴィクトルではなく自分に向いたのは僥倖だったと言える。
自分が犠牲になることでヴィクトルが救われるなら、いくらでも耐えられた。時には嘲笑を浴びせ、挑発し、ヴィクトルから意識を逸らすことでヴィクトルを守ろうとした。
勇利もいくらか――――いや、だいぶおかしくなっていたに違いない。ヴィクトルを守っているという矜持が、自己満足だけが壊れそうな精神を守る全てだった。
その必要がなくなり、ヴィクトルの愛に包まれたいま、あの日々の悪夢が重くのしかかってくる。
(ヴィクトル。僕、あの男の興味を自分に向けるために自分から跨ったこともあるよ。女の子とも、ましてヴィクトルともしたことないのに。
そうしたらお前はやっぱり魔性の悪魔だって言われた。ヴィクトルを誑かした魔女だって。おかしいね。僕、女の子と手も繋いだことない童貞野郎なのに、魔性の魔女だって)
目と鼻の先で眠るヴィクトルの顔を見つめながら、とりとめもないことを考える。寝付けないので、頭の中でごちゃごちゃ、ごちゃごちゃと、思考が止まらない。
眠りに落ちかけても、ときおりふっと浮かぶフラッシュバックに叩き起こされるのだ。
眼前に迫りくる酒瓶だとか。
鼻孔をつく生臭い吐息だとか。
爪の間が垢で真っ黒になった歪な指だとか――――
(洗わなくちゃ)
ふらりと立ち上がり、壁づたいに歩く。まだ支えがなくては一人で動けない。
トイレの前の洗面台。水を流す。石鹸があるけれど、それでは足りない気がした。
ちょうど、足元に洗濯用の漂白剤があった。ちょうどいい。洗面台に栓をしてボトルを逆さにして中身を注ぐ。その中に手を浸した。
手を合わせてこすってみる。落ちない。漂白剤だから少し時間がかかるかもしれない。手首にもかける。どうせなら風呂場を漂白剤でいっぱいにしてその中に浸かりたい。
体の中も汚い気がする。これを飲んだら綺麗になるだろうか。
歯ブラシの立ったカップをとり、水と漂白剤の混合液をくむ。
だが、そのカップは満たされた洗面器に落ちた。
「………乳児並に目が離せないな」
絞り出すような溜息を漏らしながら、ヴィクトルが勇利の手首を掴んでいた。
「ヴィクトル、手が爛れるよ」
「それはゆうりだよ!」
風呂場に連れていかれ、着衣のままシャワーをかけられた。
「漂白剤に手を浸すところまではまだ理解できるけど、なぜ飲もうとした? そんなことをすれば死ぬことくらい分かってるよね」
「いや……ちょっと寝ぼけてたかも。眠いのに眠れなくて」
今も頭はぼーっとしている。
濡れた寝間着はそのままバスケットに入れて、新しいシャツをシャツを差し出される。
「ゆうりは嫌がるけど、こんなことがあるんじゃ安心できない。俺の安眠のためにがっちり抱いて寝るからね」
「でも汚れちゃ、」
「汚れと安眠なら安眠のほうが大事」
少し怒らせてしまったようだ。
有無を言わさずマッカチンごと抱き込まれてしまう。身動きもできないほどに。
ヴィクトルとわんこの混ざった匂いがする。昔よく嗅いだにおいのはずなのに、思い出せない。
ろくにゴミも捨てず、換気もしないあの部屋の匂いしか覚えていない。
それでも、ヴィクトルの腕のあたたかさや、その中にいるときの安心感はかろうじて覚えていた。
(痛い。痛いよ、ヴィクトル)
これが夢ならいつか醒めてしまうんだろう。
そしてあの悪夢のような現実が待っているに違いない。
「昔ね、スケートをやっていたんだ」
ベッドの上から見える、粗末な椅子に腰掛けた背中。灰色の壁。テーブルに遮られ、チカチカと光るテレビ。
いつまで続くのか、永遠に続くのかと思うほど見飽きた景色。
「君と違って才能に恵まれなかった。それでもスケートは好きでね。ヴィクトルは僕の憧れであり、理想だった」
勇利にとってもそうだ。あるいは多くのスケーター、この道を諦めた人々にとって。
「その理想が汚された気持ちが分かるか? 比類なき王様の隣にみすぼらしい東洋人がいる絵面の醜さを自分で確認したことはあるか?
せめてユーリ・プリセツキーなら納得も我慢もできた。だが、なぜお前なんだ。同じ名前でもユーリ・プリセツキーとお前は違う。なぜそれが分からない? 弁えなかった? 大勢の批判と嘆きを見なかったのか。彼らの苦しみを見てみぬフリをしてまでヴィクトルの隣に居座った気分はどうだ」
男が椅子を引いて立ち上がる。
『ヴィクトル・ニキフォロフ、今シーズンのテーマは奇跡―――』
「ほら、ヴィクトルはお前がいなくたって奇跡を起こす」
ちがう。
ヴィクトルは奇跡を起こしたくてあのプロを滑っているんじゃない。奇跡を求めて一縷の望みにすがっているだけだ。ただただ神様に救いを求めて天に手を伸ばしているだけだ。
「ころして」
枯れた喉で訴えた。
「ころして。ぼくの首でも目でもヴィクトルに送りつけて。そうしたらヴィクトルは解放される」
「お前のそういうところがなあ………」
男はかつて勇利の使用していたスケート靴を振りかぶる。
白銀のブレードが肩口に突き刺さった。
[newpage]
――――勝生勇利になりたかった
その後の調べでカツ丼を監禁してた犯人がそう言ったらしい。大見出しで新聞に載った。
犯人はアマスケーター出身で、志半ばでスケートの道を諦めた。
そんなやつ、ロシアに、いや世界にどれくらいいるんだろうな。
ヴィクトルに憧れ、才能のなさを呪って、勝生勇利になりたいと願った奴が。
いるんだろう、と想像はつくけど、オレから言わせりゃバッカバカしい話。
ヴィクトルに憧れたんなら、ヴィクトルになりたいって思えばいいだろうが。大体、ヴィクトルを超える気もねえ輩が勝生勇利を妬む資格はねえ。
あいつは弱虫ですぐクヨクヨする奴だったが、ヴィクトルを超えようとしてた。実際に超えた。あのままスケートを続けていれば、ヴィクトルから金をもぎとることだって夢じゃない、そのくらいの実力がある奴だった。
勝生勇利になりたい? そりゃなれるもんだったらなりたいだろうよ。自分の身ひとつで世界に喧嘩売る気概のない奴なら。
あいつの後に日本代表として台頭してきた南だって「ゆうりくんみたいに」「ゆうりくんの分まで」としつこいくらい言っていた。
あいつの後輩にあたる日本のスケーターのどのくらいが勝生勇利の背を追ったか、考えたことがあるのか?
氷上の勝生勇利は美しかった。トップが集うヤコフ門下生が揃ってその美しさを認めてた。その筆頭格なんかはアポなしでコーチに押しかけてちゃっかりその隣をキープするくらいにな。
勝生勇利は美しかった。日本の、一国のエースだった。オレやヴィクトルと同じでガキの頃から国しょって戦ってた。
それに「なりたい」? おこがましいにも程がある。
なぜ、ヴィクトルから、南から、日本から、世界から―――オレから、お前に勝生勇利を奪う資格があると思ったんだ。
だけど、もしかしたら。
あのクソ犯罪者が一番認めてたのかもな。
勝生勇利は美しいと。
[newpage]
勇利の全身には太い切り傷が無数に刻まれている。
そのせいで実家の温泉に入ることはできない。もちろん、家族はせめて内風呂だけでも、とすすめたが、勇利はそれさえ嫌がった。
スケートを見るのを怖がる。スケート靴を見るのを怖がる。包丁やナイフ、ハサミも苦手だ。髪を切る時はすこし我慢してもらわねばならないから、極力散髪は控えている。
「あいつ、どうして僕の顔を傷つけなかったんだろう」
自分の手足に残る傷跡を眺めながら、勇利は首を傾げる。
「だめだよ、犯罪者の考えることを理解しようとしちゃ。そもそも俺たちとは思考が違うんだ」
「思うに、顔には興味がなかったんじゃなかったかな」
ヴィクトルの声が耳に届いていないかのように、勇利は独り言を続けている。
「ヴィクトルをそそのかした体、スケートをする体が羨ましくて憎かったんだろうね」
「勇利は顔もキュートだよ。俺は勇利の全部が大好きだ」
「そう言ってやればよかった。そしたら顔もズタズタにしたろうから」
「ゆうり、お願いだからそんなことを言わないで」
「どのくらいの人が、この五年のヴィクトルを生きてるかどうかも分からない僕が束縛して独占したって感じたかな。五体満足で帰ってきてがっかりしたよね。せっかく邪魔なのがいなくなったのに、生死不明のせいで………」
「ゆうり」
「なんで、あいつ、僕を殺さなかったんだろう」
何度も殺してって言ったのに。
ヒロコやマリや、ミナコやユウコに同じこと言えるの? ユリオに言えるの。親友のピチットには?
そう尋ねたかったが口には出来なかった。
勇利は死んだ方が楽だったような拷問を受け続けてきた。それでも何処ぞのマフィアや猟奇殺人犯よりはマシな扱いではあったが、程度の差の問題ではない。
「―――どうしても死にたいなら一緒に死のうか」
指を絡ませ、唇が触れるほど至近距離で口説くように囁く。
「ゆうり、汚いからって触るのも嫌がるし、キスもさせてくれなさそうだ。そんなに辛いなら、いいよ。ゆうりとなら、いいよ」
「………」
それまで淡々と語っていた勇利の顔が悲しげに歪んだ。
「ごめん、ヴィクトル……別に死にたい訳じゃないんだ。ヴィクトルが死ぬのはもっと嫌だ。ただ、ずっとずっと殺せって思ってたから。こんな状況なら死んだほうがいいって思ってたから、すぐ頭を切り替えられないだけなんだ」
「うん」
きゅうと愛しい人を抱き上げ、海の見えるバルコニーに出る。ハセツの海が夕日を反射して煌めいていた。
[newpage]
ヴィクトルにはまだ話していないこと。
あの忌まわしい五年間とは別のことだ。
庭先で小さく弾ける音がした。立ち上る煙。舞う火の粉。ゆらめく炎がヴィクトルの物憂げな顔を照らしている。
「ヴィクトル、何をしてるの?」
「ああ―――過激なファンからの贈り物をね」
眉を下げて苦笑する。
ヴィクトルは周知の通り、ファンを大切にする。ファンからの贈り物は連盟やエージェントを通して届けられるだろう。
つまり、そこにある「箱」の中身は―――そういうことだ。
モーツァルトが死ぬ前に犬の首が届けられたという逸話を知を思い出す。
呪いだったのか、嫌がらせだったのか。モーツァルトの死因は、実のところ病死だったとされているが、何にせよ不吉な話だ。
(行き過ぎたファンかあ。それを言うなら、僕もそうかな)
覚えはいないが、よりによってヴィクトルにコーチを乞い、今はこうしてヴィクトルの家に住まわせて貰っている。
いつか、クリスが言った。
ヴィクトルを独り占めした罪は重いと。
「ゆうり?」
考え事をして俯く勇利の頬にヴィクトルの指先が触れた。
「つっ」
ちりっとした痛みが迸り、思わず身を引く。
「なに? どうした」
「え、うーん。今一瞬、痛くて。静電気かな」
それにしては妙な、冷たい硝子の破片が刺さるような痛みではあったが、傷も痣もなく、すぐに忘れてしまった。
その翌日、一緒に練習を上がったユリオと雑談をしながら、汗に濡れたシャツを着替え、カバンを担いだそのとき、ヴィクトルに「ねえ」といつもの調子で手首を掴まれた。
「―――――!?」
痛い。
今度は静電気で済まされなかった。ヴィクトルに掴まれた箇所、指の形に添うように、怜悧な刃が食い込む痛みがある。
思わず手首を見ても、ヴィクトルがさほど力を入れずに触れているに過ぎない。振りほどけばすぐに外せるだろう。
「なんだカツ丼。ヘンな顔して」
「あ、また静電気? ごめんごめん、忘れてた」
ヴィクトルはすぐに離れてくれたが、逆にユリオは悪戯小僧の顔して両手を開閉させ、にじり寄ってくる。
「ちょっとやめてよユリオ、ほんとに痛いんだから!」
「安心しろよ、死にはしねえ」
「もおおー!」
「うりゃ」
覚悟を決めて両頬を襲う手を受け入れた。
が、ユリオのほかほかしたぬくもりしか感じない。
「なんだ、痛くねーのか。ジジイが帯電してるだけか?」
「ひひゃい、引っ張らないで」
静電気がなくとも引っ張られれば普通に痛い。ユリオはつまらなさそうに手を離した。
「それでゆうり、帰りなんだけど、マッカチンのごはんを買いにね……」
何事もなかったかのように話を続けるヴィクトルにうなずきながら、一抹の不安を覚えていた。
あの痛みは何だったのか。
二度目は静電気ではありえない感覚だった。触れられている間、接面の皮膚が切り刻まれたのかと疑うほどの激痛。悲鳴をおさえるのを苦労するほどに。
もちろん、ヴィクトルが掌に刃物を仕込んでいたわけではない。そんなことをすれば、ヴィクトルの手だって傷つく。それに、切られたと思った箇所には、血のひと雫も、うっ血の痕ひとつなかったのだ。
その後も、
ヴィクトルがいつものようにスキンシップで触れるたびに、その箇所に激痛が走った。
それも、ヴィクトルだけだ。他の誰かに触れられてもこのようにはならない。
一度は競技生活を諦め、ヴィクトルの傍にいることを諦めた。
その覚悟を覆し、今はロシアでヴィクトルと共に生活をしながらスケートをしている……一番の理由はマッカチンだ。今まで多忙な時期は人を雇ってマッカチンを預けていたが、二人で世話をするほうが寂しい思いをさせずに済む。
とても幸せで、夢のような日々。
ヴィクトルも今まで以上に楽しそうだし、勇利を見る目はとても優しい。サンクトペテルブルクで勇利やマッカチンといることが幸せで堪らないのだと隠すこともせず、無邪気な笑顔を見せてくれる。
彼の笑顔を曇らせたくない一心で、勇利は激痛に耐え続けた。
しかし、これがスケートに響くようでは困る。
そう思い、一念発起して診察を受けることにした。もちろん、ヴィクトルに悟られぬよう、彼が一週間ほど留守にした時の、オフの日にだ。
まだロシア語は不自由だった。外国人であるがゆえに医療を受けにくい立場にもある。
そんな中で、英語を話せる医者を探し、必死に事情を説明する。
冷たそうな印象のあるその医者は、見た目に反して真摯に話を聞いてくれた。
「痛むんです。特定の人に触れられた時に、その箇所が。不意打ちだと悲鳴をこらえるのが一苦労なくらい」
「ふむ……失礼ですが、フィギュアスケーターのカツキ選手ですね。詮索するつもりはありませんが、重要なことですので確認させてください。もちろん他言はしません」
勇利は頷いた。これがメディアに漏れたとしても、他の誰かに打ち明けたことがないので、情報源は彼だと分かる。そんなことは医者も承知だろう。
「これも失礼な質問になってしまいますが、特定の方とは恋人ですか? それともコーチですか」
「………コーチです」
「有難うございます。カツキさん。私はこの分野の専門医ではありませんが、この症状が何に由来するかは検討がつきます。
コーチに対しての感情をお教えくださいませんか。ざっくりとで構いません」
「それは………」
「もちろん診断に関わることです。非常に重要なことで、詮索のためではありません。また、詳細に話す必要もありません。
憧れていた、とか何年ほど、などの情報でお願いします」
それ以上を言われても困るという態度に、かえって安心した。
「僕のコーチが誰かはご存知ですよね」
「ロシアで知らない者はいないでしょう」
「僕はコーチに長年憧れていました。子供の頃から。彼がコーチになってくれたことは青天の霹靂で、とても僕の人生において重要な……なんて言ったら分からないけど、大きな意味がありました」
「はい、結構です。貴方の中で、コーチの存在は大きい。人並み外れて、と感じますか」
「そうでしょうね。人生の半分以上、彼に憧れて生きてきました」
憧れだけでは済まない。
世間が騒ぐような関係ではないが、確かに師弟以上ではある。家族のようで、友人のようで、とても愛しい人。
彼は、勇利の人生や、勇利そのものを構成する殆どだ。
そんな相手を何と呼ぶのか、勇利には分からない。
「その思いが最近大きくなった、と感じることはありましたか」
「………分からないです。ただ、一度は離れることを覚悟したので、嬉しいんだと思います。まだ彼と競技を続けられることが。彼が競技を続けてくれることが。彼が、そのことで幸せそうに笑ってくれていることが」
「はい。大体わかりました―――カツキさん」
カルテを眺めながら、医者は椅子を此方に向けた。
「異性同性関係なく、好きな人や憧れの相手に触れられると、その箇所が熱い、と感じたりしますよね。これは普通のことです。
要するに現在、それが顕著になり、刺激過敏になっているんですよ」
「過敏………」
「特別に、大切に思うがあまり、意識しすぎてしまう。これはそういう病気です」
グラスボディ症候群。
それがこの症状の名前だそうだ。
死ぬことはない。今以上に痛みが強くなることもない。
そう聞いて心底安心した。なんだ、大したことがなくてよかったと。
「カツキさん。この症状が出た殆どの方が通院を拒否します。自分が我慢すればそれでいいと。相手に知られるなど迷惑がかかる、と口を揃えて言うのです」
医者の警告など右から左。
これでよしとばかりに病院を後にした。
次の予約など取るはずもなかった。
病院を出て近道に人気のないアパートが立ち並ぶ住宅街をゆく。サンクトのアパート地帯は日本の旧い団地のような雰囲気だが、あまり高い建物はなく、汚れていてもそれぞれ可愛らしい印象を受けるのが好きだった。
その道を抜けて角を曲がろうとしたとき、コートの男が目の前にぬっと現れた。出会い頭に思わず謝ろうとしたが、胸ぐらを掴まれて息を呑む。
「ユウリ・カツキ。ヴィクトル・ニキフォロフから離れろ」
意外と思われるかもしれないが、勇利がロシアにきてこのような警告を受けるのは初めてだった。それも、女性ならとにかく壮年の男に言われるとは。
男は言いたいことだけ言って乱暴に勇利の衣服を離し、立ち去る。
(ユリオの時を思い出すなあ)
今でこそ気安い仲になったユリオだが、最初はトイレまで文句を言いに来たのだ。引退しろとか何とか。
その一年後に「俺に黙って引退するとか何事だ」と怒られたのだが。ロシア人、難しい。
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ダンサーやスケーターは、常に足や体の痛みを抱えて生きている。
膝を故障したままジャンプをするスケーターに至っては、跳ぶたびに地獄を見るとのことだ。
スケーターにとって痛みや負荷は切って切り離せぬ友人のようなものであり、勇利はそれに慣れきっていた。
悲しいとは思った。
ヴィクトルに触れられること、抱きしめられることを幸せと感じられないことが。
(要するに、意識しすぎなんだよ。痛みを感じるほど特別視って我ながら怖いよ)
自分がその対象になったらドン引きだ。
ヴィクトルがそこまで特定の一人を特別視することはないだろうから、ヴィクトルは除外。
(ヴィクトルはただのコーチ。同居人。それ以上の意味はない。ないったらない)
四六時中、自己暗示のように言いかせ、幾度となく痛みをやり過ごした。
(やっと終わったぁ)
ロッカーに向かい、週末のサラリーマンのように溜息が漏れる。
そんな勇利を、ユリオが不審そうに見ていた。
「なに」
「お前、最近ヘンじゃね?」
本当に妙なところで鋭い。
言葉に詰まる勇利を鼻で笑い、アイスキャットは金色の髪を翻して背を向けた。
「お前がそんなんなら、次の大会は俺の勝ちだな」
ざまあ、と可愛げのない捨て台詞を吐く。
そう、自己暗示に必死でスケートに集中しきれていない。ヴィクトルにも注意された。
勝たなければ意味がない。現役を続行する意味も、ヴィクトルの時間を奪う意味も。
眠れなかったから、大切なものを失ったから、緊張していたから。
そんな言い訳は通用しない段階にあった。
「………消えて」
誰もいないロッカールームで呟く。
消えて、早く消えて。こんなスケートに関係ない感情は無駄なんだ。
消えろ。消えろ。
お前なんか必要ない!!
「ゆうり?」
背後からの声にはっとして顔を上げる。
スポーツドリンクのボトルを持ったヴィクトルが、目を丸くして勇利を見つめていた。そしてひょいとロッカーの中を覗き込む。
背中に彼の胸元が触れるか触れないかの位置にどぎまぎした。もう少し近寄られたら、またあの痛みが襲ってくる。
「……僕のロッカーなんか何もないよ」
「いや、ゆうりが開いたままのロッカー睨んでるから、イジメにでも遭ったのかなーって」
「ああ」
ないない、と手を振る。
「直接的なのは全然ないよ。デトロイドにいた頃のほうが激しかったくらい。ロシア語勉強してないから嫌味言われてもわかんないしね」
「……そういえば、こっちに来たころは熱心に勉強してたよね。やめちゃったの?」
「日常会話さえ出来ればいいから」
だって覚えたら分かってしまう。
自分が悪く言われるだけならいい。だが、必ず勇利の陰口はヴィクトルも話題に出る。何を言っているかは分からずとも、彼の名前がのぼるのだ。
ヴィクトルに関するゴシップ。無神経なマスコミの、勇利との関係を邪推した記事やインタビュー。
ロシア語が分からなければいい。英語が話せる人もいるが、それでも数は減る。
何より、ここはヴィクトルのホームで、ハセツ以上にヴィクトルを慕う人が大勢いる。ヴィクトルを昔から知っている人も。
(知りたくないし見たくない。ヴィクトルが誰かと楽しげに話してるところも、内容も)
こんな根暗な自分を知られるのも。
意識しすぎて病気になったことも。
「ゆうり」
ふわりと良い香りとぬくもりに包まれた。
ただし、背から何から茨で締め付けられたような痛みが走り、喉が引きつった。
「あ」
生理的な涙が溢れる。
それを指で掬い取る仕草は美しかったが、勇利にとっては目元の薄い皮膚をカミソリで剥がれるような激痛だった。
「不安な時はちゃんと言って。ゆうりは溜め込みすぎるから心配だよ。たまには吐き出さなきゃパンクする」
「………っ、………!」
「よし、よし」
悶絶するほどの激痛に息も出来ない勇利を、ヴィクトルは慰める。
いつからだろう、ヴィクトルがこんなに優しくなったのは。
泣かれるのは苦手、と言っていた彼が優しい声で宥めてくれるようになったのは。
いつからだろう、生ける伝説ヴィクトル・ニキフォロフではなく、彼そのものを愛しく思うようになったのは。
(消えろ。こんなものは無駄だ。ヴィクトルに対する裏切り行為だ。消えろ、消えてしまえ。邪魔だ。
消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ!!)
お願いだから、死んで。
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「ルイスキャロルの著作に、FEEDING THE MINDといういう題がある」
マッカチンを撫でながら寝る前の読書をしていたヴィクトルが唐突にそんな話を始める。
風呂上がりに髪をタオルで拭っていた勇利は、ぼんやりそちらへ首をめぐらせた。
「心を、やしなう?」
「そうだよ。体はとても正直で、エネルギーが足りなくなるとお腹が減ったり、怪我をすると痛みを覚えたりする。
心を養うというのは、美しいものに思いを馳せることだ。美しいもので心を満たすということだ
決して心を飢えさせててはいけない。俺たちは表現者なんだから」
本を閉じ、アイスブルーの瞳で真っ向から勇利を見据える。
「最近、自分のスケートをどう思う?」
「え……うーん、むしろ調子はいいかな」
無心になったからか、不思議なほどジャンプはよく跳べるようになった。演技中に考えごとをする悪いクセも抜けて一石二鳥。
問題がないわけではなかった。
何を食べても味がしない。
それどころか、五感そのものが薄れているようだった。匂い、触覚……流石にこれ以上目が悪くなることはなかったものの、景色が色あせて見せる。
ヴィクトルの笑顔を魅力的に感じない。
彼のスケートの意味が分からない。
どうだカツ丼、と嬉しそうに高難易度の技を見せつけて誇らしげにするユリオに何も感じない。
ただ空虚な笑みを浮かべて返す。
「スケートに感情が乗ってない。試行錯誤してるんだと思ってたけど、自覚がないようなら困るな」
「………そう」
勇利は俯き「努力はしてみる」と言った。
(僕ってどんなだったっけ)
改めて自分というものに意識を向けると、これがますます迷子になる。
仕方なしに過去のプロやキスクラでの様子をネットにある動画で確認してみることにした。
(うわ、すごい緊張してる……壁に激突。そんなこともあったなあ。鼻血出しながらヴィクトルにアイキャンフライ。そりゃヴィクトル避けるよ)
(中国大会のエロス。まあふつう? 舌舐めてるけど、唇乾いてたんだっけ。覚えてないや。フリーの……なんだっけ。ヴィクトルと喧嘩したんだっけ。ああそうだ、初フリップ。
それで……ヴィクトルがアイキャンフライ。ヴィクトルが怪我したらどうするんだよ)
その後、GPFのラストまで見たが、過去のプロから得られるものはなさそうだった。そういえばヴィクトルを泣かせてしまったなあ、とか、このあと現役続行を決めたんだっけ、とか。
総評として、本当にヴィクトルのことが好きで堪らないという顔をしている。
(いいなあ……好きでいられて)
今の勇利には、ただ胸の内に秘めていることさえ許されないのに。
ベッドの上で寝返りをうち、ふと。
(あ、あれ……?)
痛い。指を押さえる。
痛い。薬指が痛い。右手の薬指が。
ヴィクトルとおそろいの指輪に針でもついているかのように、その下が痛む。食い込むような痛みだ。
(なんで!?)
久々の激しい動揺だった。いや、今まで押さえ込んでいたものが噴き出したかのように、涙が溢れ出る。
せめて指輪で繋がっていたいのに、なんでこれまで取り上げるの。何でこんな症状が出るの。
殺さなければ。もっともっと根っこまで殺さなければ。
拳を握りしめて震え、泣き疲れて眠る頃には痛みは綺麗に消えていた。
勇利が再びあのコートの男に出会い、拉致されたのは、その翌日のことである。
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グラスボディ症候群
対象に触れられた箇所にまるで氷のナイフで傷つけられたような冷たい痛みがあると訴える
発症例:
内向型で自己完結しやすい性格
夢のようだと繰り返し発言している
相手が人より異性にもてる、あるいは有名人である
相手を神聖視しており、本人の中だけの理想像がある
その中に自分がいることを想像出来ないので排除しようとする
周囲からの批判で悪化する
悪化した場合、痛覚そのものが鈍くなる。
発症した時は「ヴィクオタこじらせすぎ僕キモイ」としか思わなかったものだが、もしかしたら先を見越して神様が授けてくれたのかもしれない。
おかげであの男の癇癪でスケートシューズのブレードで傷つけられても、苛立ち紛れに手ひどく犯されても、大した痛みを感じずに済んだ。
ヴィクトルを思う硝子の痛みに比べれば、あんなもの。
男は五年間も勇利を罵り続けてくれたから「周囲からの批判で悪化」という項目に該当し、痛みはどんどん薄れていく。
それより閉じ込められていること自体に頭がおかしくなりそうではあった。
だが、ヴィクトルと再会してあの痛みが復活しつつある。
汚いから触らないで、と言うのは方便だ。本当は抱きしめられるたびに、愛おしげに撫でられるたびに皮膚と肉を切り裂く痛みに耐えねばならないからだ。
「ゆうり。たまには散歩にいこうよ。少しだけでいいから」
きゅうと勇利の手をしっかり握り、ヴィクトルが微笑む。昔よりすこし年をとり、やつれたその顔で。
指先と心臓がずたずたにされるほどの愛しい激痛を感じながら、勇利は微笑んで頷いた。
もう逃げない。
痛みと共に生きていくと決めた。
この痛みはヴィクトルを想う気持ちそのものなのだから。
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