中国四国大会を終え、グランプリシリーズ間際の調整中、リンクの脇で考え込んでいたヴィクトルが「どうもなあ」と呟いた。
「予選会の時も思ったけど、温泉onアイスの時のほうがよかった」
「ええ!?」
一曲滑り終わって汗だくの勇利は悲鳴に近い叫び声を上げる。
フリーのプログラムはとにかく、ショートのエロスは技術的にかなり仕上がっている。今更ここで路線変更は無理だ。
しかし、ヴィクトルのほうもそんなつもりではなかったらしく、ノンノンと人差し指を振った。
「ゆうり、エロスの曲を聞いて物語を話してくれたよね?」
「ええと、色男がやってきて………」
「そう。確かその物語、ゆうりの中で二転三転している。ゆうりの中で定まりきってないんじゃないの?」
言われてみれば……初めは色男が美女を落とす物語を想像したが、これはあくまでヴィクトルの滑りを見て浮かんだイメージ。
そしてエロスを追求するために選んだ題材はカツ丼。
色男から突如のカツ丼。
それはそれとして、最終的に勇利が選んだのは「街一番の美女」に焦点を当てた物語だった。
「勇利はアガペーを聞いた時も、すぐにイメージを述べてくれたね。エロスの物語に対するインスピレーションも速かった。音楽性と物語性に長けているのはゆうりの強みだよ」
「あ、ありがとうございます………」
未だにヴィクトルに褒められるのは慣れない。何しろこの皇帝さま、決まって蕩けるような甘い声で囁くように褒める。ときどき、口説かれているのかと錯覚するほどに。
しかし、スケートの話をする彼はあくまでストイックで真摯である。
「でも、そのゆうりの強みである音楽性と物語がごちゃごちゃに散らかっている。それって問題だよね」
「あー………そうかも」
「今日の練習はこれで終わり。帰りながらちょっと物語を固めよう」
そういう訳で早めに切り上げた師弟は、海沿いの橋を渡りながら先程の話を続ける。
「まず、最初の物語を聞かせてくれるかい?」
「えっと、とある街に色男が現れるんです。彼は女たちを次々に虜にしていくけど、見向きもしない。やがて男は街一番の美女に狙いを定めるけど、女はなびかない。かけひきをするうちに女は正常な判断が出来なくなり、ついには溺れる……でも、色男は手に入れたら飽きたとばかりに女を捨てて、次の街へ旅立つんです」
「俺の滑りでそこまで感じてくれたなんて、嬉しいな。俺でもそこまで考えてなかった。………でも」
ヴィクトルは笑顔で勇利を見下ろした。あ、これ怒ってるやつや。
「なんで手に入れた女性をポイ捨てしちゃうの?」
「え、なんかそういう軽薄なイメージ……あ、すいません!!」
これではヴィクトルが軽薄な男であると言ったも同然だ。
ため息つき、ヴィクトルは不満げにしながらも「次の物語を聞かせて」と言う。
「えーと、筋書きは大体同じなんですけど……ある街に色男がやってきて、街一番の美女に狙いを定める。でも彼女は……うーん」
「もうそこで詰まっちゃうの? いまゆうりが演じているのは美女のほうなんだろう」
「そういえば、そうだよね。最初の物語のイメージが強すぎて……」
「もっと美女の気持ちにならないと。彼女はどんな女性なの? なぜ男を拒んだのかな?」
改めて問われると、どんな………?
勇利は真剣に考え込んだ。あまりに深く考えすぎて、帰宅しても、温泉に入って食事をして寝間着に着替えても、まだ沈黙していた。
寝るにはまだ早かったし、イメージが固まらないまま明日の練習はできない。ヴィクトルの部屋の大きなベッドにちょこんと正座して「あの」と改めて切り出した。
「考えてたんだけど」
「もうそれは俺の言葉が聞こえないくらい考え込んでたね」
「え? 話かけてた? 気づかなかった……」
「それだけ真剣だったんだろう? 構わないよ。それで、答えは出たかな?」
「まだ固まりきってないんだけど……」
色男の物語はとにかく、街一番の美女のほうは自分が演じねばならない立場なので、気恥ずかしい。膝の上で拳を握りながらうつむいた。
「とにかく、彼女は魅力的なんだ。だから、男という生き物そのものを信じてない」
「パードゥン?」
「すごくもてるから、言いよってくる男が体目当てだったり、美女を側に置くことをステータスみたいに考える不実な男か、わからないんだ。しかも男たちはみんな最初だけは誠実に口説く」
「うん。男という生き物は口先ばかりで、実際にしてくれることを見るまでは信用できないって有名な台詞もあるね」
「彼女にとってはやって来た色男も、今までの男も同じなんだ。だから最初は信じられない。でも、心の底では彼女も男に惹かれてる………」
「その気持ち、ちょっとわかるなあ」
苦笑しながら、ヴィクトルはマッカチンを撫でている。
「ゆうりは意外とそういう、人間の深いところを見てるね」
「そうかなあ? 目の前の人が何を考えてるかもわからないよ」
「心理学者が恋愛上手とは限らない。人間性の深層を感じ取れることと人付き合いは別なんだよ。
むしろ、そんなこと分からないほうが気楽に人と接することができる。ゆうりが繊細なのも、そのせいかもしれないね」
全くピンとこないので、勇利は首をかしげるばかりだ。
「ちょっと話の腰を折ってしまうけど、美女の気持ちが俺にも少しわかったよ。俺に近づいてくる人間は色んな種類がいる。カネ目当てだったり、それこそステータスのためだったり、功名心のためだったり………ゆうりにもあるだろう? 恋愛に関係なく、この業界はどろどろだ」
「…………うん」
ただ楽しく美しくスケートをしたい。その気持ちを踏みにじるようなことが、この世界には多すぎる。
どこにでもいるスケーターの自分がそうなのだから、世界規模のトップスケーターであるヴィクトルの苦悩は計り知れない。
「だけど、美女はたぶん、生まれて初めて………引き止めたいと思ったんだ」
「なるほど」
「だから拒みきれない。でも自分だって安くない。甘い顔して安い女だと思われたら、すぐ捨てられることは彼女もわかってる。
だから男を誘惑するんだ。彼女は、気安く男に触らせないし、心を許さない。でも、蠱惑的な笑みや目線、仕草で挑発する。ほしいなら全力で捕まえてみなさいって」
「いいねえ! 直接的な快楽がないのにとってもエロスだ。そういうの大好きだよ!!」
「あはは。このあたりはミナコ先生の受け売りなんだけどね」
さすがに男の勇利に女性の恋愛の駆け引きは難しすぎる。経験豊富で美人のミナコだからこそのアドバイスだ。
ヴィクトルは目をきらきらさせて身を乗り出してきた。
「それでそれで、そのあとは?」
「あ、その……うーん、ここまでなんだ。でも、今日中に決めなきゃ練習にならないよね」
「オーケー、じゃあここからは一緒に考えよう。最初の物語なら、女は正常な判断が出来なくなるくだりだね」
「でも、こっちのバージョンだとまだ溺れきってない、かな。もしかしたら最後まで溺れることはないのかもしれない。男を情を交わしても、最後には別れがくるってわかってるから」
「不思議なんだけど……どうして男は女を捨てるんだい?」
「え!? えーと、なんでだろ。実はこのバージョンでも最後に美女が手に入れた男をぽいっと捨てて次の男へ……あれおかしいな」
貞淑で警戒心の強い美女が、慎重に手に入れた男を捨てた直後にまた別の男? これではつじつまが合わない。
ヴィクトルが言っていた違和感はここにあったのだ。
「不思議なんだけど……ゆうり、なんで男視点でも女視点でも、最後に捨てるんだ?」
「え? う、うーん」
「今季のテーマは愛! それも愛について、エロスだよ。なんで離別が前提なの!?」
「それはこう……刹那的な、ワンナイトラブ的なイメージが」
「じゃあ、世の中の恋人はみんなワンナイトラブかい? 夫婦はどうなっちゃうの?」
「それはエロスじゃなくてこう……まあエロスだけど、愛情が先立つから」
「どうしてエロスから始まって真実の愛にたどり着かない?」
ヴィクトルがゆうりの手をとり、息がかかるほど顔を近づけてくる。間近に迫った美しい顔に思わず身を引いた。
「男は遊び半分で美女に近づいた。でも男はなかなか靡かない彼女を手に入れるのに躍起になって、溺れる。男はもう彼女に夢中になるんだ」
「そうなの?」
「そのくらいの演技してくれなきゃ困るよ! 俺も、観客も、ジャッジも! 夢中にさせなきゃ意味がない」
ヴィクトルの言い分は尤もで、考えの甘さに恥じた。
「女を弄んで次々に捨ててきた男が、情けないくらい彼女に夢中になって、やっと彼女は男に手を差し伸べて微笑む―――そのとき、男は真実の愛に気づくんだよ」
ゆうりの手を己の頬に引き寄せ、目を閉じるヴィクトル。
もう、なんの話をしているのか分からなくなってきた。勇利の口はひきつるし顔は真っ赤。
しかし、飲み込まれそうな色香を放つヴィクトルは一変して険しい表情になり、勇利を睨んだ。
「練習でいつも言ってるよねえ? 俺を誘惑してって。俺のことも誘惑できないで、世界を魅了できるの? その程度の覚悟なのかい?」
「っ、そんなことない!!」
「じゃあ、見せて。最初からおさらいしよう。照れたり誤魔化したりしたら承知しないよ」
ヴィクトルも姿勢を正し、真っ向から勇利を見据える。勇利も目を逸らさず真剣に頷いた。
ヴィクトルに貰った最高のプロ。ヴィクトルの貴重な時間を奪っておきながら、世界も魅了できないでスケート人生は終われない。
「まず、色男がやってくる―――どこから来たのか素性は分からない、次々に女を虜にする男。自分が誰かに袖にされるなんて考えてもみない傲慢な男だ。彼は女たちを尻目に、街一番の美女に目をつける。さぞ目を引く美女なんだろうね。どんな女性なんだい、勇利」
「…………」
もうこの時点でハードルが高いが、いま、勇利は試されている。照れている場合ではないのだ。
眼鏡を外し、横髪を少し耳にかけて、顎を上げてヴィクトルに目線を送る。初めは誘惑でもなんでもない。つまらない男、とでも言うように気怠げな視線。
ヴィクトルはうん、と頷いた。
「実にいいね。男は彼女の価値を知る。もっと彼女のことを知りたい。男は彼女に近づき、手を伸ばすが――――」
「まだ早い。出直してらっしゃい、と彼女は蠱惑的な笑みを浮かべる」
ミナコにそう教わったように、右肩を上げて首を左側に寄せ、斜めに睨むようにしながらヴィクトルへ挑発的な笑みを唇に乗せる。
「男はますます彼女に興味を持った。なんとしてでも彼女を手に入れたい」
「女も心の底では彼のことが気になってる。他の女に目移りはさせない。もっと私を見て。私だけを愛しなさい。そうしたら触れることくらいは許してあげる」
体のラインに指をそわせ、エロスのふりつけの一部を再現する。
「男は彼女の思惑どおり、彼女の虜だ。取り繕った気障な笑みは消え、余裕がなくなる。ときには強硬手段に出るかもしれない」
ヴィクトルは勇利の両手首を掴み、ベッドの上に組み伏せた。
流石に驚いたが、ここで崩れたら元も子もない。男を手玉にとらなければ―――世界一の男を跪かせなければ、意味がない。
勇利は唇を舐め、ヴィクトルの足の間で片膝を立て、彼の首にするりと腕を回す。
ヴィクトルは勇利の腰の下に腕を回して僅かに浮かせ、勇利の首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に柔らかな唇の感触。はぁ、と艶めかしいため息を漏らして身を捩り――――――
ふたりとも正気に戻った。
「ちょっと入り込みすぎたね」
「うん」
二人とも熱を込めたせいか、ぼんやりしながら身を離した。
頭のどこかで、いつものじゃれ合いならもっと先までやったかもしれないな……と考える。ヴィクトルとはそういう関係ではないが、空気が完全にアレだった。
しかし、勇利もヴィクトルもあくまで真剣だ。演目はエロスだが、エロスどころではない。グランプリシリーズがもうそこまで迫っている。
「ゆうりの構想だと、このあと男は捨てられるんだね」
「そう。彼女はわかってるんだ。男が自分の手の中に収まっていられるような人間じゃないって。いっときだけでも自分のものにしたかった。だから、捨てる。そして自分一人を抱きしめて、エンド」
「でもそれって辛いよ。俺は嫌だ」
「ええ…………」
あくまで勇利のプロなのだから、自分の意見を押し通したいが、かといって振付師が遺憾だという展開では禍根が残る。
勇利はもぞもぞ居住まいを正した。
「ええと……物語って、切り取ったワンシーンじゃない?」
「うん?」
「でも人生には続きがあるよね。もしかしたら男は女を諦めないかもしれないし、女は男を迎え入れるかもしれない。でも、エロスという物語はここまでなんだ。情熱的で刹那的で快楽の愛は。
えと、それで、そのですね。実はまだヴィクトルに相談してなくて、許可とりそびれてたことがあるんだけど………」
「またゆうりはそうやって! コーチにちゃんと相談してって言ってるでしょ!」
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだ。
あのね、エキシビジョンのプロなんだけど、もう僕はいっぱいいっぱいだから、新しいのはちょっと無理っていうか………それもあって、シーズンオフに練習したヴィクトルの離れずに側にいてを滑りたいんだ」
「わお!」
きらん、と目を輝かせてヴィクトルはぎゅうと抱きついてきた。
「ひえっ、ヴィクトル………」
「もちろんいいよ! どうして早く言わないかなあ!! そのときはもちろん、持ち込み:ヴィクトルニキフォロフだよね!!」
「世界一豪華な小道具だねえ!?」
「じゃあそっちの練習もしなきゃじゃないか! でも、それとエロスに関係あるのかい?」
「だからね………」
とりあえずしがみつく師匠を引き剥がし、眼鏡をかけた。
「エロスは、刹那的に別れて終わる。でも、男にとっても女にとっても切ないラストなんだ。
そこで、離れずに側にいての歌詞だよ」
「……………!!」
「愛に敗れ、こんな自分をさしおいて愛を歌う恋人たちの喉を引き裂いてしまいたいほど、悲しみに暮れる。かなうことならあの情熱をもう一度―――でも、あの日々は何の価値もない物語と化してしまった。
もし、もう一度、この愛を見出してくれたなら、永遠の栄光が待っているはず。
失うのが怖い。離れずに側にいて。共に生きて…………」
自分で語りながら目が潤んでしまった。もう、本当に最高の曲だと思う。
そしてエロスと繋がるとも思ってもみなかった。ヴィクトルにしてもそうだろう。
乙女のように拳を合わせてぶるぶる震えるヴィクトルは「最高だよ!!」と叫んだ。
「ちょっ、ヴィクトル、夜中だから」
「それでいこう!! ゆうりが金メダルをとって、グランプリファイナルのエキシビジョンで滑るのが楽しみで仕方ないよ!!」
「う、うん………」
もちろんそのつもりではあるが、予選会のフリーの散々な出来を思うと即答できない自分が悔しい。
いや、これからもっとジャンプの精度を上げて、ヴィクトルも世界も驚かせかねば。
ハートを散らすほどご機嫌のヴィクトルに抱きしめられながら、勇利は視線を落とす。
(本当にそんなふうになれればいいのにな………あのフリーの歌詞みたいに、ずっと、離れずに側に)
それが叶わないことを知っていながら、今だけはと目を閉じてヴィクトルを抱きしめ返した。
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