2018年4月3日火曜日

同年代ヴィク勇パラレル

 日本でフィギュアスケートはマイナーで、特に男子スケーターはとっても少なかった。
 国内では負け無しで、ゆうちゃんと楽しく滑っているうちにいつの間にか僕は一番になっていた。

「勇利くんが世界で戦ってるところ、早く見たいな」

 それはたぶん、遠くない未来のことかもしれない。
 だけど、世界の厳しさも分かってた。近いからこそ痛いほど。
 自分が二歳年上で活躍しているクリストフ・ジャコメッティには遠く及ばないスケーターであることも。
 僕はきっと、世界に出たら名もない普通のスケーターになるんだ。

 そしてそれは、ヴィクトル・ニキフォロフとの出会いによって確定的な現実となる。

 それは鮮烈なデビューだった。
 氷の精霊が具現化して舞い降りたと言われても信じたかもしれないし、羽が生えていないのが不自然だと思うほど、その子は綺麗だった。
 僕の中の可愛くて綺麗なものの定義だったゆうちゃんの存在が吹き飛んでしまうほどの衝撃。

 ロシアがスケート大国で凄いことはわかりきってた、シニアで活躍しているユーリ・プリセツキーがいる国だもん。
 だけど、初出場とは思えない静謐なエッジワーク、既に完成度の高いスケーティングスキル。繋ぎの完璧なジャンプ。
 何よりもあの子は人を魅了した。

 僕は当然のように表彰台を逃して惨敗。
 僕がいつまでスケートを続けていけるかは分からないけれど、この先の人生にずっとあの子がいるという事実を単純にラッキーとは思えなかった。

 初めて彼を見たあの日から分かっていた。
 僕はきっと、あの子には勝てない。

「勇利くんおめでとう! 初出場で凄いね!!」
 へうう、ゆうちゃんの曇りなきまなこと笑顔が苦しい。
 出来ればメダルを見せてあげたかった。

「なんだアイツ、結局表彰台のがしたんだ」
「ノービスで煽てられてブタになったんじゃねーの」

 うう、言われると思った。
 ゆうちゃんが「ちょっと!」と文句を言う前に、いつの間にかエントランスに来ていた西郡がリンクメイト二人に拳骨を落とした。
「お前らなんか表彰台どころか出場権すらないだろ」
 いつも意地悪な西郡が庇ってくれるとは思わなくて驚いた。
 その代わり、おめでとうとも残念だったなとも、逆に叱咤もなかったけど。今の僕には一番ありがたい反応だった。

「次は全日本選手権だよね!」
「う、うん……」
「応援してるから」

 はあ、ゆうちゃんはやっぱり可愛い。
 ヴィクトル・ニキフォロフは綺麗だったけど、ゆうちゃんは癒し系。
 そもそもヴィクトルは男でゆうちゃんは女の子なので比べるのがおかしいんだけど。

 そんなゆうちゃんもうずうずした顔で、
「ヴィクトル・ニキフォロフ凄かったね! 初出場で優勝! もう女の子みたいに可愛くて綺麗でっ」
 うん、凄かった。
 凄くて凄くて……凄すぎた。スケートをするために神様が創ったような凄い子だった。

「優子、そんくらいにしとけよ」
「あ、そうだよね……でも、勇利くんならいつか勝てるって信じてるもん」
 むんと元気ポーズを見せてくれるゆうちゃんは本当に可愛いし、期待に応えたいとも思うけど。

 勝ちたいよ。ずっとスケートを続けたいし、好きでいたいし、メダルも欲しい。
 だけど、言えなかった。生きてる世界が違う感覚。あれが世界なんだって。わかりきってたけど、実感するのと頭で考えてるのは全然違った。

 だからせめて練習するしかなかった。
 少しでもあの子に近づけるように。
 あの高みを目指せるように。
 高く、高く。
 いつかあの子のように、僕も跳べるだろうか。

[newpage]

(表彰台逃して悔しいのは分かるが、世界ジュニア初出場四位であそこまで凹むヤツ珍しいんじゃねえかな)

 日本男子スケーターが世界でメダルを取ること自体、五年に一度あるかないかなのだ。
 勇利ははっきり言って射程圏内である。おそらく全日本でも大人を押しのけて上位入賞するだろう。さすがにシニア選手を押しのけて表彰台は難しいだろうが……

(それでも凹むんだろーな)
 今まで以上にストイックにストイックに氷上でコンパルソリーを描くリンクメイトに溜息しか出ない。

 昔、スケート教室に入ってきたチビスケ。
 あっという間に西郡も一番だった優子も追い抜いてジャージにJAPANの字を背負っていた。
 男女の違いからか、性格のせいか、優子は悔しいと思わないようだ。というより、
「勇利くんは本当にスケート好きね。好きって才能だよね」
 リンクサイドから感心して呟く優子の台詞が全てを物語っている。
 やっかむ西郡も、リンクメイトの輩も、あいつほどスケートに没頭できない。スケートの為に基礎練習して、バレエのレッスンもかかさないで、思春期を投げ打ってスケートに費やせない。

 もう、勇利の目には自分たちなど映っていなくて、比較対象にしようとも思わない。優子は一緒に楽しく滑る仲間。あとはただのリンクメイト。
 蔑みもライバル視もしない。だからリンクメイトは勇利を嫌う。

 昔から勇利を知る西郡は思う。
 勇利の頭の中からは、ジュニアで活躍する二歳年上のクリストフ・ジャコメッティすら飛んだだろう。
 あいつの頭に住んでるのは、もうヴィクトル・ニキフォロフだけ。
 国内の先輩スケーターもあまり気にしていない。いずれ追いつけるのを無意識に分かっているからだ。
 そういう薄情なヤツなのだ、勝生勇利は。

 バレエ教師の美奈子は言う。
 勇利は天才ではないと。

 実際そうなのかもしれない。天才というのは、きっとヴィクトル・ニキフォロフやたった十六でシニアメダリストのユーリ・プリセツキーのような存在を指すのだろう。
 それでも、勇利をそう呼べないとすれば、報われない。西郡もリンクメイトも。
 同年代に勇利がいるという理由で辞めていった輩も。

 勇利と二歳差、つまり15歳から11歳の選手は現在の日本に異常に少ない。ほぼ、いないと言っていい。
 世界と戦う力の乏しい日本ジュニア選手の現状で、勇利だけが世界で生きている。勇利がヴィクトル・ニキフォロフを前に絶望したように、日本の子供たちも勝生勇利に出会って絶望した。
 ただ、そこで辞めるか否かが分かれ道だ。

 西郡はとうの昔について行けなくなっている。
 この勇利に対する嫉妬とも闘志とも違うモヤモヤした胸の苦しみを、勇利はヴィクトルに感じているのだろうか。

[newpage]

 ユーリ・プリセツキーには三歳年下の弟弟子がいる。
 生意気で自由で腹が立つほどスケートの巧いクソガキだ。

 何が腹立たしいか。
 既にスケーティングスキルについては負けているということだ。ユーリはジュニア時代、基礎練習が嫌いでサボりがちだった。それを疎かにしても勝てたからだ。
 流石にシニアでそれは通用せず、シニアに上がってからは心を改めて真剣に取り組んでいるが、三歳下のジュニアデビューした奴に劣るところがあるのは認めがたい。

 して、その弟弟子が優勝した大会だが、気になるのがデビューしていた。
 ユーリと同じ名前の日本人スケーター、ユウリ・カツキ。
(ガ……ガキのくせにいいステップ踏みやがる)
 ジャンプはいまいちだが、まだまだ13歳。ヴィクトルが異常なのだ(※おまいう)。

 どんな奴だろうと興味を持ってついて行ったら、トイレで泣いていた。
 表彰台を逃したとはいえ、初出場で四位は泣くほどのことか?(※ジュニア時代優勝総舐めプリセツキー)
 人に懐かないアイスニャンガーの異名を持つユーリ・プリセツキー。しかし、流石に三歳下が泣いているトイレの戸を蹴飛ばすほどではない。それをやったらもはや只の糞野郎だ。

「――――おい、何泣いてやがる」

 戸の前で声をかけると、嗚咽がすこし止んだ。
「あ、あいきゃんのっと……すぴく、いんぐいっしゅ」
 英語が喋れないとは面倒くさい。舌打ちする。
「何泣いてんだって聞いてんだよ。あ?」
「う、うえっ」
「負ける時くらいあんだろ。俺だってPB出してノーミスでJJに負けることもあるし。少なくともお前のステップ、ヴィクトルよりよかったぞ」
「ええ!?」
 何だかんだ反応はしてくるので、ヒヤリングは出来ているようだ。

「メソメソ泣くほどのことじゃねーだろ。俺と同じ名前のくせして」
「同じなまえ」
 慌てたように鍵の開く音がして、中からチビが現れる。
(ん、眼鏡したのか)
 当然ながら演技中は外していたので、一瞬人違いかと思った。
 くりくりの大きなチョコレート色の目が、ユーリを見上げて更に見開かれた。
「ユーリ・プリセツキー?」
「だからそうだって言ってんだろ(※言ってない」
「…………」
 驚きすぎて言葉もないのか、英語が不自由で何を言うべきか悩んでいるのか、ユウリは濡れた目でじっとユーリを見つめていた。なんというキラキラ輝く目……直視しがたい。
 実際に相対してみると、予想よりちまっこい。実家の弟妹を思い出し、ぽんと頭を撫でる。

 すると、控えめで臆病そうなそのチビは、ふにゃんと溶けるような笑みを見せた。
(うおお……)
 なんだ、こいつ。溢れるトロ臭さ。
 それ以上は、慰めるべきか励ますべきかも分からず、ユーリはその場を後にした。ユウリ・カツキにしてみれば、なぜシニアメダリストがトイレで出待ちをしていたか訳がわからないだろう。もう少しユーリの年齢が上なら事案ものだ。

「あー、ユーリ! 何処いってたの?」

 出た途端に煩いのがやってきた。
 金メダルと花をひっさげたヴィクトルが大きく手を振りながら駆け寄ってくる。その首根っこを引っ掴んでトイレから遠ざかった。今、あのチビとコレを会わせるのは得策とは思えない。

 猫のように吊られ気味に歩きながら、ヴィクトルは何事もないように口をハート型にしてご機嫌だ。
「大会楽しかったー。やっぱり国内よりずーっと滑り甲斐あるね」
「あっそ」
「クリスも良かったし、それにあの日本の、ユーリと同じ名前の子もよかった!」
 三位をぶっとばして四位に目をつけている。さすがヴィクトル……コイツとは微妙にスケートの好みが被るのが何とも言えない。

「ユーリは見た? 同じ名前の」
 見たどころか今しがた出待ちしてまで会ってきたが、黙っておいた。
「こぶたちゃんみたいに可愛くて、お目々くりくりで、お菓子で出来てるような子だった。あれは数年したら美しくなると俺センサーがピンピンしてるよ!」
「……珍しいな、お前が他人に興味示すの」
「んー、いまシニアにユーリ以外で気になる選手いないせいかな」
 JJや同門のギオルギーその他、有力スケーターはいるのだが。
 ランビエールが引退したあたりから、ヴィクトルは他の選手に興味が沸かないようだ。分からなくもないが。

「俺、ノーブルなエッジワークの選手好きなんだよね。好み的に言えばユーリより彼かも」
「クソガキ」
「だってユーリも俺よりあの子のほうが絶対好みだよねー」
 見透かされたような目で笑われた。本当にに可愛くないガキだ。いつか煮る。

 もっとも、ユーリとヴィクトルの間でユウリ・カツキの話題が出たのは数年後までこれきりだった。
 ユウリ・カツキは二人の天才からすれば凡庸な成績しか残せず、二人の記憶にも残らない存在になってしまったからだ。

[newpage]

 この感情はもう恋だろうか。

 ジュニアデビューしてから三年、勇利はうだつの上がらない成績で六位前後を行ったり来たりだ。
 対してヴィクトルは金を譲ったことがない。はじめはクリスと接戦だったのに、今はえげつない点差で勝つようになっている。
 ジュニアの大会で四回転を跳んだのには驚いた。確かユーリ・プリセツキーもやったと聞いたことがある。あそこの一門の通過儀礼なのだろうか。
 勇利はまだ練習でも成功したことがない。出来たとしても本番で跳ぶ度胸はないだろう。

 ここまで来ると悔しいとすら思えず、ただ彼の演技に見惚れるようになってしまった。
 もっとも、ヴィクトルに対しての悔しさはなくとも、一番になれないことへの悔しさはある。相反するが両立している感情だった。

「ゆーうーり」
「ひ」
 耳にふうっと息を吹きかけられて飛び上がった。こういう悪戯をするのはクリスだ。振り返るとやっぱりクリ……クリス………だがクリスじゃない……?
「クリス、髭伸ばした?」
「うん。ちょっとワイルドになった?」
 甘い笑顔で顎を撫でる彼は、去年までの純朴な少年ではなかった。それに背もだいぶ伸びている。
「来年からシニアだっけ」
「そ。今年こそはヴィクトルに勝ちたいんだけど……万年二位じゃ締まらないからね」
 そんな、声まで変わって。声はとにかく抑揚が大人の色気にまみれている。とりあえず耳元で話すのをやめてほしい。

 既に滑走が済んだクリスは、歓声に覆われた銀盤に切なそうな目を向けた。
 ヴィクトルの演技がちょうど終わったところで、花やプレゼントが投げ入れられている。今年の彼も凄かった。年々美しく成長し続け、世界を驚かせている。既に兄弟子を超えているのでは、という声さえあった。
 少なくとも今年も一位は彼だ。

(イメチェンかあ)
 今までどうにも学芸会や演劇部の領域を出ていない野暮ったさが自分でもイヤだった。それでも髪を上げてみたり努力はしているのだが、素材が素材なので何ともかんとも。

「美奈子先生、綺麗になりたいんだけどどうしたらいい?」

 帰国してレッスンの合間に尋ねてみると、壮絶にヘン顔を披露してくれた。勇利の「綺麗」の原点である人にこれをされる悲しさが分かるだろうか。
「あの、演技中にだよ?」
「それでも普通、カッコよくなりたいとか言わない? アンタの年頃だと。いや、でも……いい傾向ね」
 ふむ、と斜め上を見てから、美奈子先生は奥からえらくゴツい化粧ケースを持ち出してきた。ジュラルミン製……ではないはずだが、そのくらいにはゴツい。

「ウィッグもあるよ。ロングは抵抗ある?」
「ロングは流石にちょっと……」
「といっても男物は殆どないんだけどね」
 言いながら美奈子はベビーパウダーをかるくはたいてから陰影をつけて更にパウダーを叩いた。
「あんた肌綺麗だからファンデーションはいらないわね」
「そう?」
「女顔だし」
「そう!? 言われたことないですけど!?」
「ロングウィックと口紅つけてセーラー服で街角立って何人にナンパされるか試してみたい?」
 遠慮したい、色々な意味で。

 軽くアイラインを描かれたり、眉を整えられたりしてから、最後にピンクベージュのグロスをつけて、ショートボブ(女性もの)を被せられた。
「…………………なんかこういう女の子、コンビニで見たことある」
「でしょ。流石にショートボブはやりすぎね。髪は上げるか。ホレ眉をしゃきっとしなさい、試合前みたいに」
 なにそれ分からん。全く覚えがない。

「で、急にこんなこと言い出したのは何? どういう心境の変化」
 髪を弄られながら問われ、口をへの字に曲げる。出来ればあまり言いたくないが。
「ヴィクトル・ニキフォロフの記憶に残りたい」
 来年もヴィクトルがジュニアに残っているかは分からないが、せめて覚えて居て貰いたい。
「そこはさあ、勝ちたいじゃなくて?」
「勝ちたいのは大会に出る以上………ま、負けたくて出る選手なんていない」
「そりゃそうか」
 大型ミラーの前で美奈子が顎に手を当てる。

「そぉーだ、勇利、あたしが振り付けしてあげようか」
「美奈子先生が?」
「ロシアといえば黒い瞳のロマじゃーん。思いっきりロマンチックなの作ってあげるわよ」
「女の人の踊りはどうかなあ……」
「ばかね。ロマの踊りは女だけのもんじゃない。踊ることでしか自身を証明出来なかった民族の命を燃やすダンスよ。そこにあるのは有無を言わさぬ迫力だけ。どう、やってみたくない?」
「…………」
 フラメンコを思い浮かべると確かにカッコいいが、あの色気を表現出来るか不安だった。

 そこで美奈子が鋭く手首を翻してステップを踏んだ。弾かれるように鳴る床と靴底。たった一瞬で度肝を抜かれた。美しく婀娜っぽいのに、そこにあったのは強い闘志だ。

「美奈子先生、かっこよかあ!」
「今までジプシーの踊りで滑ったスケーターはいたし、フラメンコやラテンのリズムで踊ったスケーターもいたけど、もっとロマの根源に近づけるの。これをよ」
 美奈子は勇利の目尻に赤いシャドウを入れ、学生服の上着を剥いでシャツのボタンをいくつか外し、袖の根本を適当な紐で縛った。
「ほらさっき見せたのやってみて」
「こう?」
「そんで目を眇めるようにして鏡見てみ」
 分からないので睨むように目だけで鏡を見やった。そこには、エキゾチックな黒髪を流したダンサーがいる。
「うわ何、これ僕!?」
「変われば変わるもんでしょ」
 満足げに腕を組む美奈子の笑みに、嫌な予感がした。
 これは遊ばれる予感しかない。

「技術的なとこはコーチと話つけるとして、世界でアンタにしか踏めないステップ組み込むわ。そしてあのついてんだかついてないんだか分かんないロシア人を捻り潰してきなさい!」
「いや、そこまでは思ってないよ?」
 確かに男子トイレで遭遇したら心臓止まりそうなほど綺麗で可愛い子ではあるが。もはや男の娘の領域だが。

 ところで、バレエダンサーによる振り付けとスケート専門の振付師には齟齬が生じる場合が多い。
 今まで美奈子に振り付けを頼まなかった最大の理由がここにある。
 要するに、美奈子の浪漫を詰め込んだコレオなのだ。
 更に、
「目線はこう! ジャッジに喧嘩売る勢いでやりな! 点をつけられるもんならつけてみろって気持ちでね」
「点は付けてもらわなきゃ困るよ!?」
「つけられないジャッジにブーイング上がる意気込みでやんのよ! 見る目のない男ねって顔してね」
「ジャッジ男の人とは限らないよ」
 なんだそりゃ、とは思うのだが、この異様な説得力。そして目指すヴィクトル・ニキフォロフがそういえばそんな調子で滑っている気がする。

 とにかく美奈子哲学を叩き込まれ、コーチにげんなりされながらも形になった。いくらステップはそこそこ得意だと言っても、この掘削ドリルステップをどうしたものか。
 更に、
「やれるなら四回転跳びな。度肝を抜きたいならね」
 この頃にはトウループがそこそこ形になっていたとはいえ、コーチにいい顔はされなかった。すると美奈子先生がコーチにナシをつけた。美奈子先生が本気すぎる。

 そして迎えたジュニア最後の世界大会。場所はサンクトペテルブルク、まさかのヴィクトル・ユーリ兄弟弟子の地元だった。
「関係者として来るの夢だったのよねえ」
 感激して震える美奈子先生が完全にミーハー気分だ。まさかそれが目的だったのでは……

 ヴィクトルは黒に大きなラインストーンをあしらった中性的な衣装だった。
「やば、黒衣装被ったわね」
 まあ男子スケーターなら珍しいことでもないが、此方は襟シャツだし良いのではなかろうか。

 勇利は第四グループ、20番の滑走だ。ヴィクトルは安定の一位発進で最終滑走。
 メイクの最終チェックをされる間に、視界の端をすっと銀色の尾が引いた。
「それでねヤコフ、今回はアレをやってみようと思………」
 コーチと並んで笑顔で歩いていたヴィクトルとふっと目が合った。ほんの一瞬だったが――――
(なんかはじ、はじ、はじめてだったような)
「勇利!? 勇利ちょっと落ち着きなさい、目が泳いだウサミちゃんみたいになってる!!」
(至近距離で見るとやばか……なにあれ人間? やっぱり精霊?)
「勇利ィイイイ!!!」

 もう何も聞こえない。

[newpage]

(思い出した。ユーリと同じ名前の子だ)

 ヤコフの説教も耳に入らず考え込んで暫く、ようやく思い出せた。
 というのも、記憶にある彼とあまりに印象が違いすぎたのだ。というかSPともだいぶ違うような。
 赤いシャドウを目尻にさした目元は涼やかで淫靡ですらあった。特有の清潔感が女々しさより凛々しさを際立たせている。
(予想通り綺麗になってた……!)
 クリスがいなくなってつまらなくなったと思ったが、楽しみが出来た。

「ヤコフ! ちょっと観戦してくるね」
「はあ!? アップをせんか!! いやもうどうせ言うこと聞かんだろうから見るなとは言わん、アップしながら見ろ!」
 お言葉に甘えてそうすることにした。連覇中のヴィクトルがウキウキ顔でアップしてリンクから目を逸らさない様を、周囲が妙なものを見る目で見ている。

 二人ほど滑走を終えたところで(この二人についてはプロも名前もまったく覚えていない)目当ての選手が登場して目を輝かせる。
 袖に赤の刺繍が入った締め付けるほどタイトな黒のドレスシャツに腰元に細かいラインストーンの入ったパンツ。少年から大人になる中間の魅力がよく引き出されている。
 どんなプロを見せてくれるのか胸踊らせた。

 それはクラップとツインバロムの旋律から始まる無国籍の本格的なロマ音楽。
 円を描くエッジに翻る指先、憎悪さえ見せる目線。
(黒い瞳の……ロマ)
 ロシア民謡のそれとは別の曲だが、ロシア人にはギュンとくるワードである。
 何よりもヴィクトルの心を鷲掴みにしたのは、


 エキシでやれというほどの点数度外視


 ただひたすらに浪漫と美を詰め込んだ無駄だらけの高難易度サーペンタインステップシークエンス。バックアウトから入る恐怖のブラケット、バックカウンター……アクセル!
 これはもはやジャパニーズ・カブキの領域だった。粋と伊達。ただそれだけを追求したプロ。最高にロックだ、痺れる。

(負けたよユウリ)
 歓喜にうち震えながら敗北を認める。いや、基礎点の問題で負ける要素は殆どない。だが、サプライズという意味では、心意気という意味では完全に負けた。フリープログラムというよりフリーダムプログラム。

 バレエ教師の趣味で作られたプロであることなど知る由もないヴィクトルは、涎が出るほど魅入られた。ヤコフが怒鳴っているが全く脳に届かない。
 濡羽の鴉が水面に降り立つようなラストを見終えても、まだ視線は釘付けだった。

 ヴィクトルは当然のように金メダルを取得し、更にユウリ・カツキは初の表彰台、銅メダルだった。
 表彰台のてっぺんからユウリの首にとびつき、頬にキスをする。

「すき!!!!!!」

 これが後々の「伝説事件」の始まりになろうとは、この時誰も予想だにしなかった。

[newpage]

 殆ど勝つことを放棄したようなプロにコーチは難色を示して何度も説得されたけど、僕自身やってみたいと、挑戦してみたいと心くすぐられて敢行。
 結果的に初の銅メダルを獲得できた。
 ヴィクトルの記憶に残りたい、ただそれだけの願いのために。

 それがどうしたことでしょう。
 ロシアの天才スケーターがバンケットで僕にひっついて離れません。

「ユウリ、どうしてそんなにネクタイもスーツもだっさいの。燃やしていい?」
「よくないです……」
「はあ、ほっぺたもちもちすべすべだ。ジャパニーズ・カブキニンジャ、soクール」
 どういうことなの………
 後ろから抱き込まれて頬ずりされるし意味が分からない。

 恐怖と混乱に僕の目が死にかける頃、ヴィクトルを誰かが引き剥がした。
「クソガキ。他国のスケーターに迷惑かけてんじゃねえ」
 この声はユーリ・プリセ………ツキー!! じゃ、ない!?
 振り返った先にいたのは巨人だった。今年十九歳になる元ロシアの天使。以前トイレで慰めてくれた綺麗で可愛いお兄ちゃんは、いつのまにかロシアの首領(ドン)と化していた。

「ユーリ、金メダルおめでとう! 来年からは俺が貰うけど」
「ハッ、奪れるもんなら奪ってみな」
 奪と書いて「と」と読む。美麗なのに殺伐として兄弟弟子だった。思っていたのと何か違う。

「あの、金メダル…お、おめでとうございます」
 僕もプリセツキーにお祝いを言うけど、何だか複雑な氷上で嬉しそうじゃない。
「んー。JJが負傷して取った金だしな。まあ負傷なくても勝ったか」
「ユーリには最後の金だよ?」
「何一つ悪気なく心底そう考えて言ってんのがマジでムカつく」
 毒づいてから、プリセツキーは僕に向き直った。

「ずいぶん思い切ったプロ滑ってたな。悪くなかったけどよ」
「あ、はい。コーチには反対されてたんですけど、やりたいと思ってやったら何か上手く行って」
「お前にはそういう方が合ってんのかもな」
 ロシアの首領がにっと笑って頭を撫でてくれた。大きくてしっかりした手だ……

 その背後からヴィクトルが肩に顎を乗せてくる。
「俺は来年からシニアだけど、ゆうりはどうする?」
「僕は……十八くらいまでジュニア、かな」
「そうなの? さびしいなー。ゆうりと接点なくなっちゃうんだ」
 今まで無かったものが無くなっても大した差はないんじゃないですかね。
 それよりほんと距離近……何なのお花の精なの? 妖精の国から来たの? その撫子の花弁みたいな睫毛は何事なの……

 それから外見に見合わない筋肉質な肉体と異様な腕力と体幹は本当何事なの。マッチョ妖精。レゴラスか。無双するんですか。オークの頭をベアクローで掴んで家屋に打ち付けまくるんですか。

「ユウリが住んでるのは日本のどんなところ? 遊びに行くよー」
「おい、押しかけんじゃねーぞ」
 W金メダリスト及び美形兄弟に囲い込まれてるせいで視線が痛いです。この場にユーリエンジェルスがいないことだけが救いかな。ユーラチカ様と口きいた罪で狙撃されるよね。

「あ、えと。うちは温泉やってるから気が向いたら遊びに来てください」
 実家の宣伝を兼ねて軽くダイマしておいた。まさか本当に来るはずはないだろうし、話のネタ程度にね。

 うん。
 まさか本当に来るなんてね。思わないよね。
 しかも呼んだのヴィクトルだけのつもりだったのに、日本のド田舎(観光資源:温泉と勝生勇利)にドン・ユーラチカまでおいでになるなんて誰が思う?

[newpage]

 ロシアのドン・ユーラチカ。
 カザフの英雄オタベック。
 ロシアの精霊ヴィクトル。
 そしてマッカチン。

 ねー、すごいねー、ヴィっちゃん。壮観だねー。びっくりだよねー。
 うち旅館じゃないって言うの忘れたよね……
「わお、かわいい! ちっちゃいマッカチンだ!」
「トイプーだろ」
 僕の腕の中できょろきょろしてるヴィっちゃんを二人を覗き込む。降りたそうだからマッカチンの傍に置いてあげたら、匂いを嗅ぎあってた。大人しい性格同士、気が合うみたい。親子みたいでかわいいなあ。

 うん……ヴィクトルを目標にするあまりプードルまで飼っちゃうってほぼ恋だよね。我ながら気持ち悪い。
 今のところ性愛的な何かはないんだけど。

3 件のコメント:

  1. わーめっちゃ楽しかったです(´ワ`*)わいわいしてていいなあ。

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  2. あ、すみません、名前が入らなかった。しぶでコメントにお邪魔してます祭と申します_| ̄|○

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    1. いつもお世話になってますー!SNS社会についていけずあっさりしたアレばっかりですが、いつも祭さんのコメントに励まされております

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