日本でフィギュアスケートはマイナーで、特に男子スケーターはとっても少なかった。
国内では負け無しで、ゆうちゃんと楽しく滑っているうちにいつの間にか僕は一番になっていた。
「勇利くんが世界で戦ってるところ、早く見たいな」
それはたぶん、遠くない未来のことかもしれない。
だけど、世界の厳しさも分かってた。近いからこそ痛いほど。
自分が二歳年上で活躍しているクリストフ・ジャコメッティには遠く及ばないスケーターであることも。
僕はきっと、世界に出たら名もない普通のスケーターになるんだ。
そしてそれは、ヴィクトル・ニキフォロフとの出会いによって確定的な現実となる。
それは鮮烈なデビューだった。
氷の精霊が具現化して舞い降りたと言われても信じたかもしれないし、羽が生えていないのが不自然だと思うほど、その子は綺麗だった。
僕の中の可愛くて綺麗なものの定義だったゆうちゃんの存在が吹き飛んでしまうほどの衝撃。
ロシアがスケート大国で凄いことはわかりきってた、シニアで活躍しているユーリ・プリセツキーがいる国だもん。
だけど、初出場とは思えない静謐なエッジワーク、既に完成度の高いスケーティングスキル。繋ぎの完璧なジャンプ。
何よりもあの子は人を魅了した。
僕は当然のように表彰台を逃して惨敗。
僕がいつまでスケートを続けていけるかは分からないけれど、この先の人生にずっとあの子がいるという事実を単純にラッキーとは思えなかった。
初めて彼を見たあの日から分かっていた。
僕はきっと、あの子には勝てない。
「勇利くんおめでとう! 初出場で凄いね!!」
へうう、ゆうちゃんの曇りなきまなこと笑顔が苦しい。
出来ればメダルを見せてあげたかった。
「なんだアイツ、結局表彰台のがしたんだ」
「ノービスで煽てられてブタになったんじゃねーの」
うう、言われると思った。
ゆうちゃんが「ちょっと!」と文句を言う前に、いつの間にかエントランスに来ていた西郡がリンクメイト二人に拳骨を落とした。
「お前らなんか表彰台どころか出場権すらないだろ」
いつも意地悪な西郡が庇ってくれるとは思わなくて驚いた。
その代わり、おめでとうとも残念だったなとも、逆に叱咤もなかったけど。今の僕には一番ありがたい反応だった。
「次は全日本選手権だよね!」
「う、うん……」
「応援してるから」
はあ、ゆうちゃんはやっぱり可愛い。
ヴィクトル・ニキフォロフは綺麗だったけど、ゆうちゃんは癒し系。
そもそもヴィクトルは男でゆうちゃんは女の子なので比べるのがおかしいんだけど。
そんなゆうちゃんもうずうずした顔で、
「ヴィクトル・ニキフォロフ凄かったね! 初出場で優勝! もう女の子みたいに可愛くて綺麗でっ」
うん、凄かった。
凄くて凄くて……凄すぎた。スケートをするために神様が創ったような凄い子だった。
「優子、そんくらいにしとけよ」
「あ、そうだよね……でも、勇利くんならいつか勝てるって信じてるもん」
むんと元気ポーズを見せてくれるゆうちゃんは本当に可愛いし、期待に応えたいとも思うけど。
勝ちたいよ。ずっとスケートを続けたいし、好きでいたいし、メダルも欲しい。
だけど、言えなかった。生きてる世界が違う感覚。あれが世界なんだって。わかりきってたけど、実感するのと頭で考えてるのは全然違った。
だからせめて練習するしかなかった。
少しでもあの子に近づけるように。
あの高みを目指せるように。
高く、高く。
いつかあの子のように、僕も跳べるだろうか。
[newpage]
(表彰台逃して悔しいのは分かるが、世界ジュニア初出場四位であそこまで凹むヤツ珍しいんじゃねえかな)
日本男子スケーターが世界でメダルを取ること自体、五年に一度あるかないかなのだ。
勇利ははっきり言って射程圏内である。おそらく全日本でも大人を押しのけて上位入賞するだろう。さすがにシニア選手を押しのけて表彰台は難しいだろうが……
(それでも凹むんだろーな)
今まで以上にストイックにストイックに氷上でコンパルソリーを描くリンクメイトに溜息しか出ない。
昔、スケート教室に入ってきたチビスケ。
あっという間に西郡も一番だった優子も追い抜いてジャージにJAPANの字を背負っていた。
男女の違いからか、性格のせいか、優子は悔しいと思わないようだ。というより、
「勇利くんは本当にスケート好きね。好きって才能だよね」
リンクサイドから感心して呟く優子の台詞が全てを物語っている。
やっかむ西郡も、リンクメイトの輩も、あいつほどスケートに没頭できない。スケートの為に基礎練習して、バレエのレッスンもかかさないで、思春期を投げ打ってスケートに費やせない。
もう、勇利の目には自分たちなど映っていなくて、比較対象にしようとも思わない。優子は一緒に楽しく滑る仲間。あとはただのリンクメイト。
蔑みもライバル視もしない。だからリンクメイトは勇利を嫌う。
昔から勇利を知る西郡は思う。
勇利の頭の中からは、ジュニアで活躍する二歳年上のクリストフ・ジャコメッティすら飛んだだろう。
あいつの頭に住んでるのは、もうヴィクトル・ニキフォロフだけ。
国内の先輩スケーターもあまり気にしていない。いずれ追いつけるのを無意識に分かっているからだ。
そういう薄情なヤツなのだ、勝生勇利は。
バレエ教師の美奈子は言う。
勇利は天才ではないと。
実際そうなのかもしれない。天才というのは、きっとヴィクトル・ニキフォロフやたった十六でシニアメダリストのユーリ・プリセツキーのような存在を指すのだろう。
それでも、勇利をそう呼べないとすれば、報われない。西郡もリンクメイトも。
同年代に勇利がいるという理由で辞めていった輩も。
勇利と二歳差、つまり15歳から11歳の選手は現在の日本に異常に少ない。ほぼ、いないと言っていい。
世界と戦う力の乏しい日本ジュニア選手の現状で、勇利だけが世界で生きている。勇利がヴィクトル・ニキフォロフを前に絶望したように、日本の子供たちも勝生勇利に出会って絶望した。
ただ、そこで辞めるか否かが分かれ道だ。
西郡はとうの昔について行けなくなっている。
この勇利に対する嫉妬とも闘志とも違うモヤモヤした胸の苦しみを、勇利はヴィクトルに感じているのだろうか。
[newpage]
ユーリ・プリセツキーには三歳年下の弟弟子がいる。
生意気で自由で腹が立つほどスケートの巧いクソガキだ。
何が腹立たしいか。
既にスケーティングスキルについては負けているということだ。ユーリはジュニア時代、基礎練習が嫌いでサボりがちだった。それを疎かにしても勝てたからだ。
流石にシニアでそれは通用せず、シニアに上がってからは心を改めて真剣に取り組んでいるが、三歳下のジュニアデビューした奴に劣るところがあるのは認めがたい。
して、その弟弟子が優勝した大会だが、気になるのがデビューしていた。
ユーリと同じ名前の日本人スケーター、ユウリ・カツキ。
(ガ……ガキのくせにいいステップ踏みやがる)
ジャンプはいまいちだが、まだまだ13歳。ヴィクトルが異常なのだ(※おまいう)。
どんな奴だろうと興味を持ってついて行ったら、トイレで泣いていた。
表彰台を逃したとはいえ、初出場で四位は泣くほどのことか?(※ジュニア時代優勝総舐めプリセツキー)
人に懐かないアイスニャンガーの異名を持つユーリ・プリセツキー。しかし、流石に三歳下が泣いているトイレの戸を蹴飛ばすほどではない。それをやったらもはや只の糞野郎だ。
「――――おい、何泣いてやがる」
戸の前で声をかけると、嗚咽がすこし止んだ。
「あ、あいきゃんのっと……すぴく、いんぐいっしゅ」
英語が喋れないとは面倒くさい。舌打ちする。
「何泣いてんだって聞いてんだよ。あ?」
「う、うえっ」
「負ける時くらいあんだろ。俺だってPB出してノーミスでJJに負けることもあるし。少なくともお前のステップ、ヴィクトルよりよかったぞ」
「ええ!?」
何だかんだ反応はしてくるので、ヒヤリングは出来ているようだ。
「メソメソ泣くほどのことじゃねーだろ。俺と同じ名前のくせして」
「同じなまえ」
慌てたように鍵の開く音がして、中からチビが現れる。
(ん、眼鏡したのか)
当然ながら演技中は外していたので、一瞬人違いかと思った。
くりくりの大きなチョコレート色の目が、ユーリを見上げて更に見開かれた。
「ユーリ・プリセツキー?」
「だからそうだって言ってんだろ(※言ってない」
「…………」
驚きすぎて言葉もないのか、英語が不自由で何を言うべきか悩んでいるのか、ユウリは濡れた目でじっとユーリを見つめていた。なんというキラキラ輝く目……直視しがたい。
実際に相対してみると、予想よりちまっこい。実家の弟妹を思い出し、ぽんと頭を撫でる。
すると、控えめで臆病そうなそのチビは、ふにゃんと溶けるような笑みを見せた。
(うおお……)
なんだ、こいつ。溢れるトロ臭さ。
それ以上は、慰めるべきか励ますべきかも分からず、ユーリはその場を後にした。ユウリ・カツキにしてみれば、なぜシニアメダリストがトイレで出待ちをしていたか訳がわからないだろう。もう少しユーリの年齢が上なら事案ものだ。
「あー、ユーリ! 何処いってたの?」
出た途端に煩いのがやってきた。
金メダルと花をひっさげたヴィクトルが大きく手を振りながら駆け寄ってくる。その首根っこを引っ掴んでトイレから遠ざかった。今、あのチビとコレを会わせるのは得策とは思えない。
猫のように吊られ気味に歩きながら、ヴィクトルは何事もないように口をハート型にしてご機嫌だ。
「大会楽しかったー。やっぱり国内よりずーっと滑り甲斐あるね」
「あっそ」
「クリスも良かったし、それにあの日本の、ユーリと同じ名前の子もよかった!」
三位をぶっとばして四位に目をつけている。さすがヴィクトル……コイツとは微妙にスケートの好みが被るのが何とも言えない。
「ユーリは見た? 同じ名前の」
見たどころか今しがた出待ちしてまで会ってきたが、黙っておいた。
「こぶたちゃんみたいに可愛くて、お目々くりくりで、お菓子で出来てるような子だった。あれは数年したら美しくなると俺センサーがピンピンしてるよ!」
「……珍しいな、お前が他人に興味示すの」
「んー、いまシニアにユーリ以外で気になる選手いないせいかな」
JJや同門のギオルギーその他、有力スケーターはいるのだが。
ランビエールが引退したあたりから、ヴィクトルは他の選手に興味が沸かないようだ。分からなくもないが。
「俺、ノーブルなエッジワークの選手好きなんだよね。好み的に言えばユーリより彼かも」
「クソガキ」
「だってユーリも俺よりあの子のほうが絶対好みだよねー」
見透かされたような目で笑われた。本当にに可愛くないガキだ。いつか煮る。
もっとも、ユーリとヴィクトルの間でユウリ・カツキの話題が出たのは数年後までこれきりだった。
ユウリ・カツキは二人の天才からすれば凡庸な成績しか残せず、二人の記憶にも残らない存在になってしまったからだ。
[newpage]
この感情はもう恋だろうか。
ジュニアデビューしてから三年、勇利はうだつの上がらない成績で六位前後を行ったり来たりだ。
対してヴィクトルは金を譲ったことがない。はじめはクリスと接戦だったのに、今はえげつない点差で勝つようになっている。
ジュニアの大会で四回転を跳んだのには驚いた。確かユーリ・プリセツキーもやったと聞いたことがある。あそこの一門の通過儀礼なのだろうか。
勇利はまだ練習でも成功したことがない。出来たとしても本番で跳ぶ度胸はないだろう。
ここまで来ると悔しいとすら思えず、ただ彼の演技に見惚れるようになってしまった。
もっとも、ヴィクトルに対しての悔しさはなくとも、一番になれないことへの悔しさはある。相反するが両立している感情だった。
「ゆーうーり」
「ひ」
耳にふうっと息を吹きかけられて飛び上がった。こういう悪戯をするのはクリスだ。振り返るとやっぱりクリ……クリス………だがクリスじゃない……?
「クリス、髭伸ばした?」
「うん。ちょっとワイルドになった?」
甘い笑顔で顎を撫でる彼は、去年までの純朴な少年ではなかった。それに背もだいぶ伸びている。
「来年からシニアだっけ」
「そ。今年こそはヴィクトルに勝ちたいんだけど……万年二位じゃ締まらないからね」
そんな、声まで変わって。声はとにかく抑揚が大人の色気にまみれている。とりあえず耳元で話すのをやめてほしい。
既に滑走が済んだクリスは、歓声に覆われた銀盤に切なそうな目を向けた。
ヴィクトルの演技がちょうど終わったところで、花やプレゼントが投げ入れられている。今年の彼も凄かった。年々美しく成長し続け、世界を驚かせている。既に兄弟子を超えているのでは、という声さえあった。
少なくとも今年も一位は彼だ。
(イメチェンかあ)
今までどうにも学芸会や演劇部の領域を出ていない野暮ったさが自分でもイヤだった。それでも髪を上げてみたり努力はしているのだが、素材が素材なので何ともかんとも。
「美奈子先生、綺麗になりたいんだけどどうしたらいい?」
帰国してレッスンの合間に尋ねてみると、壮絶にヘン顔を披露してくれた。勇利の「綺麗」の原点である人にこれをされる悲しさが分かるだろうか。
「あの、演技中にだよ?」
「それでも普通、カッコよくなりたいとか言わない? アンタの年頃だと。いや、でも……いい傾向ね」
ふむ、と斜め上を見てから、美奈子先生は奥からえらくゴツい化粧ケースを持ち出してきた。ジュラルミン製……ではないはずだが、そのくらいにはゴツい。
「ウィッグもあるよ。ロングは抵抗ある?」
「ロングは流石にちょっと……」
「といっても男物は殆どないんだけどね」
言いながら美奈子はベビーパウダーをかるくはたいてから陰影をつけて更にパウダーを叩いた。
「あんた肌綺麗だからファンデーションはいらないわね」
「そう?」
「女顔だし」
「そう!? 言われたことないですけど!?」
「ロングウィックと口紅つけてセーラー服で街角立って何人にナンパされるか試してみたい?」
遠慮したい、色々な意味で。
軽くアイラインを描かれたり、眉を整えられたりしてから、最後にピンクベージュのグロスをつけて、ショートボブ(女性もの)を被せられた。
「…………………なんかこういう女の子、コンビニで見たことある」
「でしょ。流石にショートボブはやりすぎね。髪は上げるか。ホレ眉をしゃきっとしなさい、試合前みたいに」
なにそれ分からん。全く覚えがない。
「で、急にこんなこと言い出したのは何? どういう心境の変化」
髪を弄られながら問われ、口をへの字に曲げる。出来ればあまり言いたくないが。
「ヴィクトル・ニキフォロフの記憶に残りたい」
来年もヴィクトルがジュニアに残っているかは分からないが、せめて覚えて居て貰いたい。
「そこはさあ、勝ちたいじゃなくて?」
「勝ちたいのは大会に出る以上………ま、負けたくて出る選手なんていない」
「そりゃそうか」
大型ミラーの前で美奈子が顎に手を当てる。
「そぉーだ、勇利、あたしが振り付けしてあげようか」
「美奈子先生が?」
「ロシアといえば黒い瞳のロマじゃーん。思いっきりロマンチックなの作ってあげるわよ」
「女の人の踊りはどうかなあ……」
「ばかね。ロマの踊りは女だけのもんじゃない。踊ることでしか自身を証明出来なかった民族の命を燃やすダンスよ。そこにあるのは有無を言わさぬ迫力だけ。どう、やってみたくない?」
「…………」
フラメンコを思い浮かべると確かにカッコいいが、あの色気を表現出来るか不安だった。
そこで美奈子が鋭く手首を翻してステップを踏んだ。弾かれるように鳴る床と靴底。たった一瞬で度肝を抜かれた。美しく婀娜っぽいのに、そこにあったのは強い闘志だ。
「美奈子先生、かっこよかあ!」
「今までジプシーの踊りで滑ったスケーターはいたし、フラメンコやラテンのリズムで踊ったスケーターもいたけど、もっとロマの根源に近づけるの。これをよ」
美奈子は勇利の目尻に赤いシャドウを入れ、学生服の上着を剥いでシャツのボタンをいくつか外し、袖の根本を適当な紐で縛った。
「ほらさっき見せたのやってみて」
「こう?」
「そんで目を眇めるようにして鏡見てみ」
分からないので睨むように目だけで鏡を見やった。そこには、エキゾチックな黒髪を流したダンサーがいる。
「うわ何、これ僕!?」
「変われば変わるもんでしょ」
満足げに腕を組む美奈子の笑みに、嫌な予感がした。
これは遊ばれる予感しかない。
「技術的なとこはコーチと話つけるとして、世界でアンタにしか踏めないステップ組み込むわ。そしてあのついてんだかついてないんだか分かんないロシア人を捻り潰してきなさい!」
「いや、そこまでは思ってないよ?」
確かに男子トイレで遭遇したら心臓止まりそうなほど綺麗で可愛い子ではあるが。もはや男の娘の領域だが。
ところで、バレエダンサーによる振り付けとスケート専門の振付師には齟齬が生じる場合が多い。
今まで美奈子に振り付けを頼まなかった最大の理由がここにある。
要するに、美奈子の浪漫を詰め込んだコレオなのだ。
更に、
「目線はこう! ジャッジに喧嘩売る勢いでやりな! 点をつけられるもんならつけてみろって気持ちでね」
「点は付けてもらわなきゃ困るよ!?」
「つけられないジャッジにブーイング上がる意気込みでやんのよ! 見る目のない男ねって顔してね」
「ジャッジ男の人とは限らないよ」
なんだそりゃ、とは思うのだが、この異様な説得力。そして目指すヴィクトル・ニキフォロフがそういえばそんな調子で滑っている気がする。
とにかく美奈子哲学を叩き込まれ、コーチにげんなりされながらも形になった。いくらステップはそこそこ得意だと言っても、この掘削ドリルステップをどうしたものか。
更に、
「やれるなら四回転跳びな。度肝を抜きたいならね」
この頃にはトウループがそこそこ形になっていたとはいえ、コーチにいい顔はされなかった。すると美奈子先生がコーチにナシをつけた。美奈子先生が本気すぎる。
そして迎えたジュニア最後の世界大会。場所はサンクトペテルブルク、まさかのヴィクトル・ユーリ兄弟弟子の地元だった。
「関係者として来るの夢だったのよねえ」
感激して震える美奈子先生が完全にミーハー気分だ。まさかそれが目的だったのでは……
ヴィクトルは黒に大きなラインストーンをあしらった中性的な衣装だった。
「やば、黒衣装被ったわね」
まあ男子スケーターなら珍しいことでもないが、此方は襟シャツだし良いのではなかろうか。
勇利は第四グループ、20番の滑走だ。ヴィクトルは安定の一位発進で最終滑走。
メイクの最終チェックをされる間に、視界の端をすっと銀色の尾が引いた。
「それでねヤコフ、今回はアレをやってみようと思………」
コーチと並んで笑顔で歩いていたヴィクトルとふっと目が合った。ほんの一瞬だったが――――
(なんかはじ、はじ、はじめてだったような)
「勇利!? 勇利ちょっと落ち着きなさい、目が泳いだウサミちゃんみたいになってる!!」
(至近距離で見るとやばか……なにあれ人間? やっぱり精霊?)
「勇利ィイイイ!!!」
もう何も聞こえない。
[newpage]
(思い出した。ユーリと同じ名前の子だ)
ヤコフの説教も耳に入らず考え込んで暫く、ようやく思い出せた。
というのも、記憶にある彼とあまりに印象が違いすぎたのだ。というかSPともだいぶ違うような。
赤いシャドウを目尻にさした目元は涼やかで淫靡ですらあった。特有の清潔感が女々しさより凛々しさを際立たせている。
(予想通り綺麗になってた……!)
クリスがいなくなってつまらなくなったと思ったが、楽しみが出来た。
「ヤコフ! ちょっと観戦してくるね」
「はあ!? アップをせんか!! いやもうどうせ言うこと聞かんだろうから見るなとは言わん、アップしながら見ろ!」
お言葉に甘えてそうすることにした。連覇中のヴィクトルがウキウキ顔でアップしてリンクから目を逸らさない様を、周囲が妙なものを見る目で見ている。
二人ほど滑走を終えたところで(この二人についてはプロも名前もまったく覚えていない)目当ての選手が登場して目を輝かせる。
袖に赤の刺繍が入った締め付けるほどタイトな黒のドレスシャツに腰元に細かいラインストーンの入ったパンツ。少年から大人になる中間の魅力がよく引き出されている。
どんなプロを見せてくれるのか胸踊らせた。
それはクラップとツインバロムの旋律から始まる無国籍の本格的なロマ音楽。
円を描くエッジに翻る指先、憎悪さえ見せる目線。
(黒い瞳の……ロマ)
ロシア民謡のそれとは別の曲だが、ロシア人にはギュンとくるワードである。
何よりもヴィクトルの心を鷲掴みにしたのは、
エキシでやれというほどの点数度外視
ただひたすらに浪漫と美を詰め込んだ無駄だらけの高難易度サーペンタインステップシークエンス。バックアウトから入る恐怖のブラケット、バックカウンター……アクセル!
これはもはやジャパニーズ・カブキの領域だった。粋と伊達。ただそれだけを追求したプロ。最高にロックだ、痺れる。
(負けたよユウリ)
歓喜にうち震えながら敗北を認める。いや、基礎点の問題で負ける要素は殆どない。だが、サプライズという意味では、心意気という意味では完全に負けた。フリープログラムというよりフリーダムプログラム。
バレエ教師の趣味で作られたプロであることなど知る由もないヴィクトルは、涎が出るほど魅入られた。ヤコフが怒鳴っているが全く脳に届かない。
濡羽の鴉が水面に降り立つようなラストを見終えても、まだ視線は釘付けだった。
ヴィクトルは当然のように金メダルを取得し、更にユウリ・カツキは初の表彰台、銅メダルだった。
表彰台のてっぺんからユウリの首にとびつき、頬にキスをする。
「すき!!!!!!」
これが後々の「伝説事件」の始まりになろうとは、この時誰も予想だにしなかった。
[newpage]
殆ど勝つことを放棄したようなプロにコーチは難色を示して何度も説得されたけど、僕自身やってみたいと、挑戦してみたいと心くすぐられて敢行。
結果的に初の銅メダルを獲得できた。
ヴィクトルの記憶に残りたい、ただそれだけの願いのために。
それがどうしたことでしょう。
ロシアの天才スケーターがバンケットで僕にひっついて離れません。
「ユウリ、どうしてそんなにネクタイもスーツもだっさいの。燃やしていい?」
「よくないです……」
「はあ、ほっぺたもちもちすべすべだ。ジャパニーズ・カブキニンジャ、soクール」
どういうことなの………
後ろから抱き込まれて頬ずりされるし意味が分からない。
恐怖と混乱に僕の目が死にかける頃、ヴィクトルを誰かが引き剥がした。
「クソガキ。他国のスケーターに迷惑かけてんじゃねえ」
この声はユーリ・プリセ………ツキー!! じゃ、ない!?
振り返った先にいたのは巨人だった。今年十九歳になる元ロシアの天使。以前トイレで慰めてくれた綺麗で可愛いお兄ちゃんは、いつのまにかロシアの首領(ドン)と化していた。
「ユーリ、金メダルおめでとう! 来年からは俺が貰うけど」
「ハッ、奪れるもんなら奪ってみな」
奪と書いて「と」と読む。美麗なのに殺伐として兄弟弟子だった。思っていたのと何か違う。
「あの、金メダル…お、おめでとうございます」
僕もプリセツキーにお祝いを言うけど、何だか複雑な氷上で嬉しそうじゃない。
「んー。JJが負傷して取った金だしな。まあ負傷なくても勝ったか」
「ユーリには最後の金だよ?」
「何一つ悪気なく心底そう考えて言ってんのがマジでムカつく」
毒づいてから、プリセツキーは僕に向き直った。
「ずいぶん思い切ったプロ滑ってたな。悪くなかったけどよ」
「あ、はい。コーチには反対されてたんですけど、やりたいと思ってやったら何か上手く行って」
「お前にはそういう方が合ってんのかもな」
ロシアの首領がにっと笑って頭を撫でてくれた。大きくてしっかりした手だ……
その背後からヴィクトルが肩に顎を乗せてくる。
「俺は来年からシニアだけど、ゆうりはどうする?」
「僕は……十八くらいまでジュニア、かな」
「そうなの? さびしいなー。ゆうりと接点なくなっちゃうんだ」
今まで無かったものが無くなっても大した差はないんじゃないですかね。
それよりほんと距離近……何なのお花の精なの? 妖精の国から来たの? その撫子の花弁みたいな睫毛は何事なの……
それから外見に見合わない筋肉質な肉体と異様な腕力と体幹は本当何事なの。マッチョ妖精。レゴラスか。無双するんですか。オークの頭をベアクローで掴んで家屋に打ち付けまくるんですか。
「ユウリが住んでるのは日本のどんなところ? 遊びに行くよー」
「おい、押しかけんじゃねーぞ」
W金メダリスト及び美形兄弟に囲い込まれてるせいで視線が痛いです。この場にユーリエンジェルスがいないことだけが救いかな。ユーラチカ様と口きいた罪で狙撃されるよね。
「あ、えと。うちは温泉やってるから気が向いたら遊びに来てください」
実家の宣伝を兼ねて軽くダイマしておいた。まさか本当に来るはずはないだろうし、話のネタ程度にね。
うん。
まさか本当に来るなんてね。思わないよね。
しかも呼んだのヴィクトルだけのつもりだったのに、日本のド田舎(観光資源:温泉と勝生勇利)にドン・ユーラチカまでおいでになるなんて誰が思う?
[newpage]
ロシアのドン・ユーラチカ。
カザフの英雄オタベック。
ロシアの精霊ヴィクトル。
そしてマッカチン。
ねー、すごいねー、ヴィっちゃん。壮観だねー。びっくりだよねー。
うち旅館じゃないって言うの忘れたよね……
「わお、かわいい! ちっちゃいマッカチンだ!」
「トイプーだろ」
僕の腕の中できょろきょろしてるヴィっちゃんを二人を覗き込む。降りたそうだからマッカチンの傍に置いてあげたら、匂いを嗅ぎあってた。大人しい性格同士、気が合うみたい。親子みたいでかわいいなあ。
うん……ヴィクトルを目標にするあまりプードルまで飼っちゃうってほぼ恋だよね。我ながら気持ち悪い。
今のところ性愛的な何かはないんだけど。
2018年4月3日火曜日
ヴィク勇】フォトグラファー勝生 没
最近の撮影機器は高性能になっており、特別な技術がない素人でもそこそこ良い写真が撮れる。構図を決めてくれるアプリなどというものが出回っているくらいの世の中だ。
その上で人とは違う美しいワンシーンを切り取れるとしたら、その人物はきっと特別な世界で生きているに違いない。
その日本の雑誌社とは長い付き合いで、ここ数年とくにいい写真を撮ってくれるので気に入っていた。
見開き二ページ、星のように瞬くライトの間を飛ぶように腕を広げるヴィクトルの特集ページ。文章が端に並んでいるが、それも異国語ではデザインの一部に思える。
相変わらず「あの子」はいい画を撮る。
無愛想で口べたで、社交性を撮影の腕に費やしてしまったような野暮ったい眼鏡の青年。いつも新しいヴィクトルの顔を発見してくれる。
あの表情の見えない眼鏡の奥の目には、どんな世界が広がっているのだろう。
このように他国のカメラマンなどを記憶しているのは、彼がいい画を撮ってくれるカメラマンだからではなく、そもそも記憶しようとして記憶しているのではない、彼の方がヴィクトルの記憶の中に居座っているからだ。
彼を見るにつけ「どこかで、見たような……」という、歯にものの挟まったような、痒い場所が分からないような、奇妙な感覚に陥るのだ。
だから、彼の写真がネットで有名になり、フリーになってしまったと聞いた時は少なからず落胆したものだ。あれほどいい腕なら、確かに自分の腕ひとつで生きてゆけるだろう。
「せめて彼の名前やアカウントを知りたいな。ファンだったんだ」
「いえ、違うんです。勝生は、」
雑誌社の担当が言葉を濁す。
「彼はフォトグラファーとしてではなく、モデルになってしまったんです」
カツキ、カツキ、カツキ………
何度もその名を脳内で反芻し、やっと思い出した。
数年前から姿を見なくなった日本のトップスケーターだ。一見してヴィクトルをリスペクトしていると分かるスケーティング持ち、鮮やかなステップを持つ黒髪の青年。清潔で透明感のある滑りが印象的だった。
が、あの眼鏡のカメラマンがどうしても一致しない。
それで最近噂になったというSNSのアカウントを見にいって、ああ、と納得した。
さかのぼると風景写真ばかりがある。サムネイルだけで独特の世界観に引き込んでくれる。
しかし、それよりも、今すぐに確認せねばならぬ事柄があった。最近の投稿だ。といっても、それは数ヶ月前で途絶えている。
何の出来心か、当人を撮影したものだった。打ちっぱなしのコンクリートの部屋を色針金のアートや造花で飾り立て、記憶にある日本のスケーターが美しい肉体で写り込んでいる。
それは、被写体に対する不満を感じた。自分はこういう写真を撮りたいのだ、だが、被写体は自分のように動いてはくれない。かといって自分で自分を撮ればカメラの目線を動かすことはできない。
彼のフォトは一種のアートであり、写真とは少し違う。
(そう、きみは―――)
ヴィクトルは端を上げた唇に人差し指を当てた。
こんなふうに俺を撮りたかったんだね。
[newpage]
高校生の時に写真を褒められた。
「これってあの場所だよね? 全然違って見える」
不思議なことを言うものだなあと思ったものだけれど、どうもそういうものらしい。
その頃の勇利は、日々の全てをスケートに傾けていた。だから、写真を褒められても何ら痛痒を覚えなかったのである。
ただ、ヴィクトル・ニキフォロフの撮影物を見るたびに、自分の目から見た彼とは違うと渋面していた。
それは例えると、自分の顔を鏡で見た時と、証明写真を撮った時に感じる気持ちの悪い違和感。自分の住んでいる知るを航空写真のストリートビューで確認した時の味気のない不快感。
そういうものは一種の、不衛生な菌のように思えた。触れるとざらりと不潔な感触がする。
だから勇利は時々、自分の好きなものや、好きな場所を自分の目から見たものをカメラで切り取り、自分の世界を再確認する作業をしなければならない。そうしなければ自分の中に溜まった澱が溢れ出て、眼鏡が曇ったような視界で生きなければならないからだ。
ただ、被写体が必要な時はうまくいかなくて、特にヴィクトル・ニキフォロフに関しては頭を抱えた。
レンズを隔てない彼はあんなにも美しいのに、誰かの目を通し、更に液晶や紙といったフィルターを通されたヴィクトルはくすんで見える。
いっそ一度でいいから彼を直接レンズに収めてしまえば、この胸苦しさも消えるのだろうか。
けれども。
「記念写真? いいよ」
せっかくそのチャンスに恵まれたのに、勇利は自らそれを蹴った。
その後の全日本で無様を晒した勇利は足を負傷し、何ひとつ満足できないままスケート人生を終えた。
第二の人生として選んだのはフォトグラファーだった。普通に求人募集を見て応募した。何のツテもなく入社したが、去年までこの雑誌社に撮影される側だった日本のトップスケーターが面接に来れば驚かれるし印象も違うだろう。同席した面接希望者にもじろじろ見られた。採用は殆どずるをしたのと変わらない。
それでもここがよかった。ここなら世間やくだらない自尊心に苛まれず、責務として自分の網膜に映ったヴィクトルを二次元の世界に閉じ込められる。
技術などろくに学んだことすらない勇利の写真は喜ばれた。
「勝生さんの写真には物語の構成美すら感じます。見慣れたものの新しい視点を教えてくれていうとか……モデルの皆さんも自分の姿に驚いてくれるんですよ」
褒めちぎられて曖昧に微笑んだ。
構成美? 構図? 斬新な視点?
何を言ってるのか分からない。黄金分割だの日の丸構図だの、そんな名称も存在も初めて聞いた。
(僕はただ、僕の見える世界をそのまま写しているだけ)
カメラは自分の目とは違うから、自分の見た世界とのすり合わせに苦労することはあるけれど、ただそれだけのことでもある。
勇利の写真は、勇利がスケートよりも高く評価されている気がする。
もしかすると才能というやつがあったのかもしれない。
けれども、ちっとも嬉しくはなかった。勇利にとってはあって当たり前の、生まれた時から変わらない世界の焼付作業。
かなうことならスケートの才能がほしかった。表彰台で彼の隣に立てるほどの実力が欲しかった。あるいは、何があっても大崩れしない不動の精神力か。
自分が元スケーターだからか、あるいは実力が認められたからか、入社して数ヶ月ぺーぺーのカメラマンにヴィクトルを撮影するチャンスが巡ってきた。
勇利が二度とは戻れぬ氷の上で、銀盤の女神に愛された男は今日も美しい。
問題は、彼が動き回るもので、勇利の見た世界にピントを合わせるのに苦労したことだ。最初のうちはうまくいかなかった。それが悔しくて、ようやく写真技術について本格的に学び始めた。
その練習にと撮った写真を、現役時代も放置していたインスタグラムに投稿してみたところ、これが思わぬ好評を得た。
「勇利! こんなに写真撮るの巧いなら、僕のことも撮ってほしかったよ」
ピチットからのコメントはとりわけ嬉しく、レスではなくついつい電話をかけてしまったほど。
「サワディークラップ。久しぶり、ピチットくん」
「もー、全然連絡くれないんだから、勇利ってば。写真、本当によかったよ。僕が自撮り大好きなの知ってるくせに、こんな特技隠してたなんて狡い!」
「ごめん。自分の写真がこんなに喜ばれるなんて知らなかったんだ」
ピチットくんと居た頃、デトロイドにいた頃はスケート以外の全てが見えていなかった。自分の見えている世界を他人に公開し、良し悪しを決められる未来など想像もしなかったことだ。
スケートを失った喪失感は今も拭いきれぬが、それでもこの人生も悪くないと少しずつ思えるようになってきた。
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その上で人とは違う美しいワンシーンを切り取れるとしたら、その人物はきっと特別な世界で生きているに違いない。
その日本の雑誌社とは長い付き合いで、ここ数年とくにいい写真を撮ってくれるので気に入っていた。
見開き二ページ、星のように瞬くライトの間を飛ぶように腕を広げるヴィクトルの特集ページ。文章が端に並んでいるが、それも異国語ではデザインの一部に思える。
相変わらず「あの子」はいい画を撮る。
無愛想で口べたで、社交性を撮影の腕に費やしてしまったような野暮ったい眼鏡の青年。いつも新しいヴィクトルの顔を発見してくれる。
あの表情の見えない眼鏡の奥の目には、どんな世界が広がっているのだろう。
このように他国のカメラマンなどを記憶しているのは、彼がいい画を撮ってくれるカメラマンだからではなく、そもそも記憶しようとして記憶しているのではない、彼の方がヴィクトルの記憶の中に居座っているからだ。
彼を見るにつけ「どこかで、見たような……」という、歯にものの挟まったような、痒い場所が分からないような、奇妙な感覚に陥るのだ。
だから、彼の写真がネットで有名になり、フリーになってしまったと聞いた時は少なからず落胆したものだ。あれほどいい腕なら、確かに自分の腕ひとつで生きてゆけるだろう。
「せめて彼の名前やアカウントを知りたいな。ファンだったんだ」
「いえ、違うんです。勝生は、」
雑誌社の担当が言葉を濁す。
「彼はフォトグラファーとしてではなく、モデルになってしまったんです」
カツキ、カツキ、カツキ………
何度もその名を脳内で反芻し、やっと思い出した。
数年前から姿を見なくなった日本のトップスケーターだ。一見してヴィクトルをリスペクトしていると分かるスケーティング持ち、鮮やかなステップを持つ黒髪の青年。清潔で透明感のある滑りが印象的だった。
が、あの眼鏡のカメラマンがどうしても一致しない。
それで最近噂になったというSNSのアカウントを見にいって、ああ、と納得した。
さかのぼると風景写真ばかりがある。サムネイルだけで独特の世界観に引き込んでくれる。
しかし、それよりも、今すぐに確認せねばならぬ事柄があった。最近の投稿だ。といっても、それは数ヶ月前で途絶えている。
何の出来心か、当人を撮影したものだった。打ちっぱなしのコンクリートの部屋を色針金のアートや造花で飾り立て、記憶にある日本のスケーターが美しい肉体で写り込んでいる。
それは、被写体に対する不満を感じた。自分はこういう写真を撮りたいのだ、だが、被写体は自分のように動いてはくれない。かといって自分で自分を撮ればカメラの目線を動かすことはできない。
彼のフォトは一種のアートであり、写真とは少し違う。
(そう、きみは―――)
ヴィクトルは端を上げた唇に人差し指を当てた。
こんなふうに俺を撮りたかったんだね。
[newpage]
高校生の時に写真を褒められた。
「これってあの場所だよね? 全然違って見える」
不思議なことを言うものだなあと思ったものだけれど、どうもそういうものらしい。
その頃の勇利は、日々の全てをスケートに傾けていた。だから、写真を褒められても何ら痛痒を覚えなかったのである。
ただ、ヴィクトル・ニキフォロフの撮影物を見るたびに、自分の目から見た彼とは違うと渋面していた。
それは例えると、自分の顔を鏡で見た時と、証明写真を撮った時に感じる気持ちの悪い違和感。自分の住んでいる知るを航空写真のストリートビューで確認した時の味気のない不快感。
そういうものは一種の、不衛生な菌のように思えた。触れるとざらりと不潔な感触がする。
だから勇利は時々、自分の好きなものや、好きな場所を自分の目から見たものをカメラで切り取り、自分の世界を再確認する作業をしなければならない。そうしなければ自分の中に溜まった澱が溢れ出て、眼鏡が曇ったような視界で生きなければならないからだ。
ただ、被写体が必要な時はうまくいかなくて、特にヴィクトル・ニキフォロフに関しては頭を抱えた。
レンズを隔てない彼はあんなにも美しいのに、誰かの目を通し、更に液晶や紙といったフィルターを通されたヴィクトルはくすんで見える。
いっそ一度でいいから彼を直接レンズに収めてしまえば、この胸苦しさも消えるのだろうか。
けれども。
「記念写真? いいよ」
せっかくそのチャンスに恵まれたのに、勇利は自らそれを蹴った。
その後の全日本で無様を晒した勇利は足を負傷し、何ひとつ満足できないままスケート人生を終えた。
第二の人生として選んだのはフォトグラファーだった。普通に求人募集を見て応募した。何のツテもなく入社したが、去年までこの雑誌社に撮影される側だった日本のトップスケーターが面接に来れば驚かれるし印象も違うだろう。同席した面接希望者にもじろじろ見られた。採用は殆どずるをしたのと変わらない。
それでもここがよかった。ここなら世間やくだらない自尊心に苛まれず、責務として自分の網膜に映ったヴィクトルを二次元の世界に閉じ込められる。
技術などろくに学んだことすらない勇利の写真は喜ばれた。
「勝生さんの写真には物語の構成美すら感じます。見慣れたものの新しい視点を教えてくれていうとか……モデルの皆さんも自分の姿に驚いてくれるんですよ」
褒めちぎられて曖昧に微笑んだ。
構成美? 構図? 斬新な視点?
何を言ってるのか分からない。黄金分割だの日の丸構図だの、そんな名称も存在も初めて聞いた。
(僕はただ、僕の見える世界をそのまま写しているだけ)
カメラは自分の目とは違うから、自分の見た世界とのすり合わせに苦労することはあるけれど、ただそれだけのことでもある。
勇利の写真は、勇利がスケートよりも高く評価されている気がする。
もしかすると才能というやつがあったのかもしれない。
けれども、ちっとも嬉しくはなかった。勇利にとってはあって当たり前の、生まれた時から変わらない世界の焼付作業。
かなうことならスケートの才能がほしかった。表彰台で彼の隣に立てるほどの実力が欲しかった。あるいは、何があっても大崩れしない不動の精神力か。
自分が元スケーターだからか、あるいは実力が認められたからか、入社して数ヶ月ぺーぺーのカメラマンにヴィクトルを撮影するチャンスが巡ってきた。
勇利が二度とは戻れぬ氷の上で、銀盤の女神に愛された男は今日も美しい。
問題は、彼が動き回るもので、勇利の見た世界にピントを合わせるのに苦労したことだ。最初のうちはうまくいかなかった。それが悔しくて、ようやく写真技術について本格的に学び始めた。
その練習にと撮った写真を、現役時代も放置していたインスタグラムに投稿してみたところ、これが思わぬ好評を得た。
「勇利! こんなに写真撮るの巧いなら、僕のことも撮ってほしかったよ」
ピチットからのコメントはとりわけ嬉しく、レスではなくついつい電話をかけてしまったほど。
「サワディークラップ。久しぶり、ピチットくん」
「もー、全然連絡くれないんだから、勇利ってば。写真、本当によかったよ。僕が自撮り大好きなの知ってるくせに、こんな特技隠してたなんて狡い!」
「ごめん。自分の写真がこんなに喜ばれるなんて知らなかったんだ」
ピチットくんと居た頃、デトロイドにいた頃はスケート以外の全てが見えていなかった。自分の見えている世界を他人に公開し、良し悪しを決められる未来など想像もしなかったことだ。
スケートを失った喪失感は今も拭いきれぬが、それでもこの人生も悪くないと少しずつ思えるようになってきた。
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ヴィク勇】記憶喪失話
気がつくと、見知らぬ部屋に突っ立っていた。
実家じゃない。それどころか日本じゃない……と思う。外は異世界みたいに真っ白、洋風の家並みが闇夜に浮かんでいる。
デトロイドでもない。もっとノスタルジックな印象を受ける。
こじゃれたインテリアが並ぶ、さっぱりした寝室。足元にはふかふかの大きな犬が丸くなっていた。
「起きたの、ゆうり」
呼ばれて振り返る。銀髪に青い瞳の、寒色に包まれた男。だが、その目は優しく、表情は柔らかく、声には愛しさが滲み出ていた。
この男のことを知っている。
「ヴぃく……とる?」
たどたどしく名を呼ぶと、男は悪戯っぽく目を細めて「オフコース」と囁いた。
「座って。ココアを入れるよ。バレーニエはいる?」
反射的に首を振った。すこし、気分が悪い。
ソファに腰をおろし、顔を両手で覆う。
(――――何も思い出せない)
起きたときに夢の内容を思い出せそうで思い出せないような、ふわふわした不思議な感覚。
自分が日本人だ、という認識はあった。自分がどんな顔をしているかも。スケートのことも。家族の顔は思い出せないが、みんな息災で、あたたかくて優しく、母と、父と、姉がいて、そして親戚の子のように一家ぐるみで親切にしてくれる人々や、女性の先生がいることも。
そして、キッチンで鼻歌を歌いながら湯を沸かしている男。ヴィクトル・ニキフォロフ。ヴィーチャ。ヴィーチェニカ。
少し移動しても、甘えるようにすりついてくる可愛い犬。マッカチン。
思い出せそうで何も思い出せない。どうして、自分はここにいて、さっきまで何をしていた?
「ゆうり、思いつめないで。大丈夫だから」
テーブルにグリーンティのカップを置き、ヴィクトルが隣に腰掛けて肩を抱き寄せてくれた。
その体温にほっとして、彼のセーターに凭れ掛かる。ここは安全だ。この世の何処よりも。
「ゆうり、どこまで思い出せる? ひとつひとつでいいから、ゆっくり話してごらん」
「ゆうり……僕の名前?」
「おっと、そこからか。君の名前はカツキユウリ。漢字ではこう」
テーブルに載っていた雑誌―――きらびやかな衣装を纏ったヴィクトルと、金髪の美しい少年。そしてその真ん中ではにかむアジア系の青年が表紙の、ロシア語の雑誌。
その真中、アジア系の青年の胸元あたりに、ヴィクトルは「勝生勇利」と習字の先生みたいな綺麗な日本語で名を書いた。
「これ、真ん中の、僕?」
「そうだよ」
「鏡見せて」
ヴィクトルはパチンと手鏡を開いてユウリに渡した。そこに映っているのは、情けない表情にぼっさぼさの髪をした、平凡すぎる男―――しいて言うなら童顔すぎることが特徴の顔だった。
美形二人の間に挟まれて微笑んでいる男とは似ても似つかない。が、眉毛だけは、へろっとした太めの眉毛だけは似ているかもしれない。
「ヴィクトル」
ユウリは雑誌の左にいる男、そして今現在自分の左にいる男を指差した。
ヴィクトルは嬉しそうに頬を染めて微笑む。まるで花が咲いたようだ。綺麗なひと。なんで僕といるんだろう。
僕なんかと。
「このこ―――しってる。口が悪い子」
「うん」
「でも、誰よりやさしい子」
「うん」
カメラを睨みつけるように映る美しい少年。
「この子はユーリ・プリセツキー。君と同じ名前で、あだなはユリオだよ」
険悪な表情で今にも罵詈雑言を吐き出しそうだが、ユウリは目を細めてその子の部分を指で撫でた。
どうしてか、この態度の悪い少年がいとおしくて胸が締め付けられる。
「かわいい」
かわいい、という言葉に反応したのか、プードルが一声吠えて、ユウリの膝に前足を載せた。
「マッカチン」
へっ、へっと舌を出しながらじゃれついてくる毛玉のような犬を撫で、抱きしめる。
「わかるのは、俺の名前と、マッカチン。それから?」
「あとはわかんないや」
「――――そっか」
ヴィクトルはマッカチンごとユウリを抱きしめた。
その瞬間、脳裏にきらりと青い光が瞬いた。
「うみ」
「うん?」
「うみ、はまべ。あおいそら。ちいさくて茶色い友達。おんせん。満開のさくらに積もる雪。スケートリンク。黒い肌の男の子。笑顔。小さな三つ子。おまつり。それから、カツ丼」
「カツ丼」
「カツ丼」
オウム返しに応えてユウリはくすくす笑った。ヴィクトルも笑っている。
「ぼく、滑りたい」
「今日は無理だな。夜だし、外は吹雪だ」
「じゃあ、踊りたい」
「踊ろうか」
立ち上がったヴィクトルが手を差し伸べてくる。ユウリはその手を取った。
スタイルも様式も音楽もない。二人で気のむくままに踊った。マッカチンが尻尾を振っている。最高のステージだ。
笑いながらターンして、そこで―――ヴィクトルが僅かに眉をしかめた。
「どうしたの?」
「ああ、いや。実は少し、捻挫をしていたのを忘れてた」
「じゃあ暴れないで大人しくしてないと!」
「ごめんごめん。大したことないから自分でも忘れてたくらいなんだ」
どんなに軽症でもスケーターが捻挫を甘く見ていい理由にはならない。そんなこと、ヴィクトルならよく知っているだろうに。逆の立場なら、カンカンに怒ってユウリをベッドに押し込めただろう。
子供みたいに抱っこして。
「………――――」
当たり前のようにそんな風景を思い描いて、ユウリは頭を抱えた。
「大丈夫、ユウリ」
「ぼく、なんか………へん、みたい。事故にでも遭った? 思い出せそうで何も思い出せない」
「あせらないで」
ヴィクトルはもう一度ユウリをソファに座らせ、ハグをする。
「事故には遭ってない。でも、ちょっと病気にかかってる」
「どんな?」
「健忘症の一種。ちょっとずつ、ちょっとだけ忘れちゃう。でも、スケートのことや俺のことを忘れたことは一度もない」
「思い出せる?」
「それはすこし難しい。でも、みんなはゆうりのことを覚えてるし、新しく覚えていくことは出来る。それってきっと、悲しいことじゃないよ」
そうかもしれない。ユウリは笑った。ヴィクトルがいれば、きっと悲しいことなんて何もない。
それに、どうも体のほうは色々覚えているらしい。歯ブラシの場所。いつも使っているボディオイル。おいしいボルシチとポトフの作り方。
スマートフォンがピロリと鳴る。黒い肌の男の子。ピチットくん。
"ユウリ、またグランプリシリーズで会おう!"
そうだね、また会おうね、ピチットくん。今度は二人で観光しよう。
音楽を聞く。今年のプロ。振り付けは覚えている。体が勝手に動く。
(悲しい曲だ)
タイトルは思い出せない。悲しくて力強く、決意を感じさせる。この何を訴えるつもりで振り付けたのだろう? 思い出せもしないのに、体は勝手に表現を続ける。
休憩室に入ると、隣にどっかり腰を下ろす金髪の少年。ふてくされたような顔。
「ゆりお?」
だよね、と恐る恐る呼びかけると「ユリオじゃねー!」と噛みつかれた。やっぱりユリオじゃないか。思わず笑ってしまった。
「ユリオは、僕の病気のこと知ってる?」
「チムピオーンのヤツらも、お前の家族も、それどころか全世界が知ってる」
「そんな大事になってんの……」
「一時期大騒ぎだった。世界選手権一位、ヴィクトルニキフォロフの愛弟子カツキユウリが不治の病! ってな。悲劇に仕立て上げようとして、カスゴミが大勢押しかけてヤコフがブチギレてた」
「申し訳ないことしちゃったなあ」
自分のせいでただでさえ面積が広いフロンティアが、更に開拓されてしまったに違いない。
「悲劇なんかじゃないってのにな」
悪戯を企む子供みたいに笑うユリオに、ユウリも笑って返した。
そう、これは悲劇なんかじゃない。勝手に悲劇のヒーローにしないでほしい。こんなに幸せな悲劇の主人公がいたら、シェイクスピアの登場人物に申し訳ない。
「おい、ステップを教えろよ」
「基礎だよ基礎。何はともあれコンパルソリー。僕とユリオじゃ積み上げてきた時間が違う」
「あの地味な作業を朝から晩までやってられるテメーのメンタルのほうが病気より深刻なんじゃねーの?」
「だって楽しいだろ」
むしろ、ユリオがなぜそうまで面倒がるのか分からない。
「氷をするーって滑ってる時って、飛んでる感じしない?」
「ジャンプじゃなくてか?」
「ジャンプは跳ぶでしょ。そうじゃなくて、空飛んでる感じ」
「………」
なぜかユリオは不貞腐れた。なぜ不機嫌になったのか分からない。
そんな彼を、頬杖ついて見つめた。
「なんだよ。きもちわりーな」
「ユリオはこれから成長期がくるね」
「ああ……気の重い話だけど、くるもんはくるし仕方ねえ」
「痛いし思い通りに滑れないし、しんどいよ」
「余計気が重くなるよーなこと言うんじゃねえ!」
「でも、そこを抜けたらユリオは誰より高く飛べるようになるんだろうね」
ロシア人だから、ユウリの身長など簡単に超えてしまうだろう。力強く跳んで、誰よりも美しく。
「いいなあ」
「ざまーみろヤポンスキー。テメーのつむじを見下ろす日が楽しみだぜ」
「違うよ。ユリオの成長を見られる皆が羨ましい」
「…………」
「僕はまた忘れちゃうんだろ?」
そうしたら、ユウリの中のユリオは最初から大きなユリオになってしまう。
細い体でいろんなものを背負って跳び、成長し続ける小さなユリオのことを忘れてしまう。
ユリオは舌打ちして乱暴に椅子を蹴った。
「おい、そこの柱に立て」
「なんでマジックペン持ってんの?」
「セークラベだ、セークラベ。日本じゃこういうのやるんだろ。ユウコが三つ子にやってた」
「こんなとこに印つけたらヤコフコーチに怒られるよ!」
「いいからそこに立てってんだよ!!!」
押し切られて立つ。後で何を言われるやら。眉を八の字にするユウリの頭上に手を伸ばし、ユリオはきゅっと線を引いた。
「どけ」
乱暴にユウリを突き飛ばし、柱に背を当てて自分の頭上にマークを引くユリオ。年齢を書いた。17。
「来年も再来年もやってやる。そんで、いかにして自分が俺に抜かれたか噛み締めろ。バーカ」
得意げに笑う顔が子供っぽくて、ユウリは笑いを噛み殺しながら「そうだね」と返した。
「なになに、何してるのふたりとも」
「ヴィクトル」
「うっせー、くんなハゲ」
「二人ともいつまでも来ないからヤコフが怒ってたよ?」
もうそんな時間だったか。慌てて紙パックをゴミ箱に捨てる。
「そういえばヴィクトル、今年のプロは? 僕まだ見てないよ」
見せてよ、とせがむとヴィクトルは曖昧に微笑む。ユリオも苦い顔だ。何かそんなにヘンなことを言ったろうか? 捻挫はもう治ったはずなのに。
「オーケー、いいよ。ちょっとリンクを開けて貰おう」
世界中の誰より少し早く見られる、ヴィクトルのプロ。これだけでもロシアに来た甲斐はあった。
曲はいつもどおりオリジナル。うららかな春の陽を思わせる出だし。夏の木漏れ日。少し寒い秋。何かが終わって、そして始まりを告げる冬。
色鮮やかな風景をリンクの上に描くヴィクトルに見惚れながら、しかしユウリは違和感を覚えた。
(ヴィクトル、すこしぎこちない………?)
記憶にある滑らかなスケーティング、それこそ雲の上で空飛ぶようなヴィクトルの滑りではない。他は指先に至るまで美しいのに、スケーティングやステップはわずかながら至らぬ箇所がある。そんな馬鹿な、あのヴィクトルが?
「ヴィクトル、まだ捻挫治ってないんじゃないの?」
汗を流してリンクサイドへ戻ってきたヴィクトルに問い詰めると、ヴィクトルは困ったように笑っていた。
「治ったけど、捻挫ってクセになりやすいからね。微妙な感覚が残ってて」
「無理させちゃった?」
「だからっていつまでも滑らないと、カンが戻らない」
スケーターは少し滑らないだけで色んな感覚が鈍る。ヴィクトルの言っていることは理解できる。
(なんだろう、もやもやする……ヘンな感じ。なんだろう)
掻き毟りたくなるような、泣き叫びたくなるような、嫌な感情。
「さ、ユウリ。次は君の番。今日こそフリップをクリーンに決めて見せてよね」
ぱちんとウインクするヴィクトルに頷きながら、リンクへ降りる。
「ヴィクトル……僕、今年こそヴィクトルを超えて見せるから」
宣言すると、ヴィクトルは満面の笑顔を浮かべた。
「そういうの、大好きだよ!」
***
オフシーズンは長いようで短い。
アイスショーやスポンサー関連の諸用を片付けているうちに、あっという間に終わる。
「ユリオ、アサイン来たよ! カナダ大会で当たるね」
「またJJかよ……あいつどうせファイナルでも会うだろ。何度もあの濃い顔見るハメになるとかウンザリする」
「今回、ピチットくんと当たらないなあ。ファイナルで会えるかな? えっと、クリスとは中国で会えるね。ヴィクトル……は…………」
アサインのリストを何度も見る。何度も確認する。ユウリが記憶を取りこぼしているうちにデビューしたらしい選手の名前がいくつかある。顔は思い出せないが、名前を見ると記憶の琴線に触れる選手もいる。
だが、どこにもヴィクトルの名前がなかった。スケートの神様。リビングレジェンド。誰が除外されても彼だけはアサインされるであろうはずの名前がどこにもない。
「ゆうり!」
いつの間に側に来ていたのか、ヴィクトルがユウリを後ろから抱きしめた。
なんでふにゃふにゃした顔で笑ってるの。スケ連が大ミスしてるよ?
「カナダでオタベックもいるねえ。また皆でご飯食べにいこーか」
「はあ!? お前らもついてくんのかよ!」
「ユウリにオタベック会わせないつもり?」
「じゃあハゲだけ留守番してろ!」
「のけものは酷いよ。ねー、ユウリ」
ぐりぐりと頭に頬ずりされる。よかった。ヴィクトルは来るんだ。カナダ大会に出場するのかな。名前が載ってないのはやっぱりミスで――――
ユリオがちらちらとユウリとヴィクトルを見る。モノ言いたげに。
耳元でヴィクトルの、笑うような、悲しげな吐息が聞こえた。
「遅かれ早かれ、この時点でどうしても分かっちゃうことだから、言うよ。
ユウリ。俺はもう競技者じゃないんだ」
目の前が白く染まった。
***
当然と言えば当然の結果だった。
ヴィクトルは既に28歳、フィギュアスケーターとしては最高齢。
ユウリと共に練習を欠かしていなかったとはいえ、八ヶ月のブランク。コーチ業と選手の兼業。
死ぬつもりか、とヤコフに怒鳴られた。だから答えた。
「そうだよ」
日本ではアイラブユーを「死んでもいい」なんて訳すんだろう? そうさ、俺は死んだっていい。
ヴィクトルがユウリのコーチを始めた時、世界が「コーチごっこ」と揶揄した。コーチとして未熟で、何も知らなかったのは認める。
だが、ヴィクトルは本気だった。たとえ二度と選手に戻れずとも、それでいいと思った。ごっこ遊びで結果が出るなら世話がない。
ヴィクトル・ニキフォロフは死んだ。いつかユーリに言われた言葉だ。
ヴィクトルはカツキユウリのスケートに殉ずるつもりで挑んだ。はじめはコーチ業の練習として。だが、最後はカツキユウリという存在のためだけに。
ユウリが望むなら、それに応えよう。
ヴィクトルであるために。お前が望むヴィクトル・ニキフォロフであるために。
自分がワールドレコードを塗り替えたことよりも、ヴィクトルの復帰を目を輝かせて喜んだあの子。
あの子のためなら全てを捧げたって構わない。
ただ、問題は――――肝心のユウリが何も分かっていなかったことだ。
どれほどの覚悟をもってヴィクトルに愛されていたか、ユウリは自覚していなかった。スケートと弟子なら弟子を捨てるだろうとタカを括っていた。
自分にそれほどの価値があるはずもないと、この期に及んで思い込んでいた。
翌シーズン、全てを賭けてヴィクトル・ニキフォロフの最後の大舞台を披露した。あの子は泣いて、泣いて、表彰台の上でヴィクトルにしがみついて嗚咽を漏らしていた。嬉しさで。
でも、それで最後。
酷使した足はぼろぼろ。無理が祟って内臓もずたぼろ。インタビュー中に血を吐いて緊急入院。
完全に選手生命は絶たれた。
ヴィクトルは満足だった。見たか、世界よ。あれこそが本物の、真実の、ヴィクトル・ニキフォロフだ。ユウリの望んだリビングレジェンドだ。
あんなに自分を褒めてやりたいと、誇りに思ったことはない。
金メダルなんかじゃとても足りない。星のように輝くあの子の瞳と涙がヴィクトルの勲章だ。
―――ユウリ、どうだった? 俺、すごかったでしょ?
いつかの中国大会のフリーの後みたいに、病室ではしゃいで、ユウリのハグを求めて腕を広げた。
けれども、ユウリは目を見開いたまま立ち尽くすばかりで。
「あ……あ…………、う」
頭を抱えて蹲る。悲鳴を上げてユウリの名を呼んだ。
病院だった為にすぐにナースや医者が駆けつけて、処置を施される。様子を見に生きたかったが、ヴィクトル自身が入院患者だった為に許されなかった。生きた心地がしなかった。
幸い、ユウリはすぐに目覚め、体に異常はないという。首から下には。
「ところどころ、記憶を失っています。昨日覚えていたものを今日忘れることがあります」
幸い、スケートのことは体が覚えているようで、支障がなかった。それだけが救いだった。
そして、ヴィクトルの名前も忘れない。
思い出すように親しい人たちを新しく覚えることもできる。日常生活に支障はない。
だが、ヴィクトルが引退したことを知ると、全て元通り。ヴィクトルとスケートのことしか覚えていない、まっさらなユウリになってしまう。
できるだけ長くユウリが記憶を保てるように、毎年あたらしい自分のプロを考えた。ユウリはきらきらした目で見つめる。
だが、スケーティングは昔のようにはならず、ジャンプや構成の難易度も大幅に下げていた。
これはリビングレジェンドの遺産。君にだけ捧げるエキシビジョン。
毎年毎年イマジネーションに満ちていた。選手生活を送っていた頃よりもずっと。自分が滑るユウリのためだけのプロも、ユウリのためのプロも。ときにはユリオのプロだって!
だからユウリ、俺を勝手に殺さないで。
俺は生きている。お前の中で生きてるんだよ。
ユウリ、もう―――自分を責めないで。
俺のラブとライフは、とっくにお前に捧げたんだ。
スリーピングビューティーは、未だ悪夢の中、目覚めない。
実家じゃない。それどころか日本じゃない……と思う。外は異世界みたいに真っ白、洋風の家並みが闇夜に浮かんでいる。
デトロイドでもない。もっとノスタルジックな印象を受ける。
こじゃれたインテリアが並ぶ、さっぱりした寝室。足元にはふかふかの大きな犬が丸くなっていた。
「起きたの、ゆうり」
呼ばれて振り返る。銀髪に青い瞳の、寒色に包まれた男。だが、その目は優しく、表情は柔らかく、声には愛しさが滲み出ていた。
この男のことを知っている。
「ヴぃく……とる?」
たどたどしく名を呼ぶと、男は悪戯っぽく目を細めて「オフコース」と囁いた。
「座って。ココアを入れるよ。バレーニエはいる?」
反射的に首を振った。すこし、気分が悪い。
ソファに腰をおろし、顔を両手で覆う。
(――――何も思い出せない)
起きたときに夢の内容を思い出せそうで思い出せないような、ふわふわした不思議な感覚。
自分が日本人だ、という認識はあった。自分がどんな顔をしているかも。スケートのことも。家族の顔は思い出せないが、みんな息災で、あたたかくて優しく、母と、父と、姉がいて、そして親戚の子のように一家ぐるみで親切にしてくれる人々や、女性の先生がいることも。
そして、キッチンで鼻歌を歌いながら湯を沸かしている男。ヴィクトル・ニキフォロフ。ヴィーチャ。ヴィーチェニカ。
少し移動しても、甘えるようにすりついてくる可愛い犬。マッカチン。
思い出せそうで何も思い出せない。どうして、自分はここにいて、さっきまで何をしていた?
「ゆうり、思いつめないで。大丈夫だから」
テーブルにグリーンティのカップを置き、ヴィクトルが隣に腰掛けて肩を抱き寄せてくれた。
その体温にほっとして、彼のセーターに凭れ掛かる。ここは安全だ。この世の何処よりも。
「ゆうり、どこまで思い出せる? ひとつひとつでいいから、ゆっくり話してごらん」
「ゆうり……僕の名前?」
「おっと、そこからか。君の名前はカツキユウリ。漢字ではこう」
テーブルに載っていた雑誌―――きらびやかな衣装を纏ったヴィクトルと、金髪の美しい少年。そしてその真ん中ではにかむアジア系の青年が表紙の、ロシア語の雑誌。
その真中、アジア系の青年の胸元あたりに、ヴィクトルは「勝生勇利」と習字の先生みたいな綺麗な日本語で名を書いた。
「これ、真ん中の、僕?」
「そうだよ」
「鏡見せて」
ヴィクトルはパチンと手鏡を開いてユウリに渡した。そこに映っているのは、情けない表情にぼっさぼさの髪をした、平凡すぎる男―――しいて言うなら童顔すぎることが特徴の顔だった。
美形二人の間に挟まれて微笑んでいる男とは似ても似つかない。が、眉毛だけは、へろっとした太めの眉毛だけは似ているかもしれない。
「ヴィクトル」
ユウリは雑誌の左にいる男、そして今現在自分の左にいる男を指差した。
ヴィクトルは嬉しそうに頬を染めて微笑む。まるで花が咲いたようだ。綺麗なひと。なんで僕といるんだろう。
僕なんかと。
「このこ―――しってる。口が悪い子」
「うん」
「でも、誰よりやさしい子」
「うん」
カメラを睨みつけるように映る美しい少年。
「この子はユーリ・プリセツキー。君と同じ名前で、あだなはユリオだよ」
険悪な表情で今にも罵詈雑言を吐き出しそうだが、ユウリは目を細めてその子の部分を指で撫でた。
どうしてか、この態度の悪い少年がいとおしくて胸が締め付けられる。
「かわいい」
かわいい、という言葉に反応したのか、プードルが一声吠えて、ユウリの膝に前足を載せた。
「マッカチン」
へっ、へっと舌を出しながらじゃれついてくる毛玉のような犬を撫で、抱きしめる。
「わかるのは、俺の名前と、マッカチン。それから?」
「あとはわかんないや」
「――――そっか」
ヴィクトルはマッカチンごとユウリを抱きしめた。
その瞬間、脳裏にきらりと青い光が瞬いた。
「うみ」
「うん?」
「うみ、はまべ。あおいそら。ちいさくて茶色い友達。おんせん。満開のさくらに積もる雪。スケートリンク。黒い肌の男の子。笑顔。小さな三つ子。おまつり。それから、カツ丼」
「カツ丼」
「カツ丼」
オウム返しに応えてユウリはくすくす笑った。ヴィクトルも笑っている。
「ぼく、滑りたい」
「今日は無理だな。夜だし、外は吹雪だ」
「じゃあ、踊りたい」
「踊ろうか」
立ち上がったヴィクトルが手を差し伸べてくる。ユウリはその手を取った。
スタイルも様式も音楽もない。二人で気のむくままに踊った。マッカチンが尻尾を振っている。最高のステージだ。
笑いながらターンして、そこで―――ヴィクトルが僅かに眉をしかめた。
「どうしたの?」
「ああ、いや。実は少し、捻挫をしていたのを忘れてた」
「じゃあ暴れないで大人しくしてないと!」
「ごめんごめん。大したことないから自分でも忘れてたくらいなんだ」
どんなに軽症でもスケーターが捻挫を甘く見ていい理由にはならない。そんなこと、ヴィクトルならよく知っているだろうに。逆の立場なら、カンカンに怒ってユウリをベッドに押し込めただろう。
子供みたいに抱っこして。
「………――――」
当たり前のようにそんな風景を思い描いて、ユウリは頭を抱えた。
「大丈夫、ユウリ」
「ぼく、なんか………へん、みたい。事故にでも遭った? 思い出せそうで何も思い出せない」
「あせらないで」
ヴィクトルはもう一度ユウリをソファに座らせ、ハグをする。
「事故には遭ってない。でも、ちょっと病気にかかってる」
「どんな?」
「健忘症の一種。ちょっとずつ、ちょっとだけ忘れちゃう。でも、スケートのことや俺のことを忘れたことは一度もない」
「思い出せる?」
「それはすこし難しい。でも、みんなはゆうりのことを覚えてるし、新しく覚えていくことは出来る。それってきっと、悲しいことじゃないよ」
そうかもしれない。ユウリは笑った。ヴィクトルがいれば、きっと悲しいことなんて何もない。
それに、どうも体のほうは色々覚えているらしい。歯ブラシの場所。いつも使っているボディオイル。おいしいボルシチとポトフの作り方。
スマートフォンがピロリと鳴る。黒い肌の男の子。ピチットくん。
"ユウリ、またグランプリシリーズで会おう!"
そうだね、また会おうね、ピチットくん。今度は二人で観光しよう。
音楽を聞く。今年のプロ。振り付けは覚えている。体が勝手に動く。
(悲しい曲だ)
タイトルは思い出せない。悲しくて力強く、決意を感じさせる。この何を訴えるつもりで振り付けたのだろう? 思い出せもしないのに、体は勝手に表現を続ける。
休憩室に入ると、隣にどっかり腰を下ろす金髪の少年。ふてくされたような顔。
「ゆりお?」
だよね、と恐る恐る呼びかけると「ユリオじゃねー!」と噛みつかれた。やっぱりユリオじゃないか。思わず笑ってしまった。
「ユリオは、僕の病気のこと知ってる?」
「チムピオーンのヤツらも、お前の家族も、それどころか全世界が知ってる」
「そんな大事になってんの……」
「一時期大騒ぎだった。世界選手権一位、ヴィクトルニキフォロフの愛弟子カツキユウリが不治の病! ってな。悲劇に仕立て上げようとして、カスゴミが大勢押しかけてヤコフがブチギレてた」
「申し訳ないことしちゃったなあ」
自分のせいでただでさえ面積が広いフロンティアが、更に開拓されてしまったに違いない。
「悲劇なんかじゃないってのにな」
悪戯を企む子供みたいに笑うユリオに、ユウリも笑って返した。
そう、これは悲劇なんかじゃない。勝手に悲劇のヒーローにしないでほしい。こんなに幸せな悲劇の主人公がいたら、シェイクスピアの登場人物に申し訳ない。
「おい、ステップを教えろよ」
「基礎だよ基礎。何はともあれコンパルソリー。僕とユリオじゃ積み上げてきた時間が違う」
「あの地味な作業を朝から晩までやってられるテメーのメンタルのほうが病気より深刻なんじゃねーの?」
「だって楽しいだろ」
むしろ、ユリオがなぜそうまで面倒がるのか分からない。
「氷をするーって滑ってる時って、飛んでる感じしない?」
「ジャンプじゃなくてか?」
「ジャンプは跳ぶでしょ。そうじゃなくて、空飛んでる感じ」
「………」
なぜかユリオは不貞腐れた。なぜ不機嫌になったのか分からない。
そんな彼を、頬杖ついて見つめた。
「なんだよ。きもちわりーな」
「ユリオはこれから成長期がくるね」
「ああ……気の重い話だけど、くるもんはくるし仕方ねえ」
「痛いし思い通りに滑れないし、しんどいよ」
「余計気が重くなるよーなこと言うんじゃねえ!」
「でも、そこを抜けたらユリオは誰より高く飛べるようになるんだろうね」
ロシア人だから、ユウリの身長など簡単に超えてしまうだろう。力強く跳んで、誰よりも美しく。
「いいなあ」
「ざまーみろヤポンスキー。テメーのつむじを見下ろす日が楽しみだぜ」
「違うよ。ユリオの成長を見られる皆が羨ましい」
「…………」
「僕はまた忘れちゃうんだろ?」
そうしたら、ユウリの中のユリオは最初から大きなユリオになってしまう。
細い体でいろんなものを背負って跳び、成長し続ける小さなユリオのことを忘れてしまう。
ユリオは舌打ちして乱暴に椅子を蹴った。
「おい、そこの柱に立て」
「なんでマジックペン持ってんの?」
「セークラベだ、セークラベ。日本じゃこういうのやるんだろ。ユウコが三つ子にやってた」
「こんなとこに印つけたらヤコフコーチに怒られるよ!」
「いいからそこに立てってんだよ!!!」
押し切られて立つ。後で何を言われるやら。眉を八の字にするユウリの頭上に手を伸ばし、ユリオはきゅっと線を引いた。
「どけ」
乱暴にユウリを突き飛ばし、柱に背を当てて自分の頭上にマークを引くユリオ。年齢を書いた。17。
「来年も再来年もやってやる。そんで、いかにして自分が俺に抜かれたか噛み締めろ。バーカ」
得意げに笑う顔が子供っぽくて、ユウリは笑いを噛み殺しながら「そうだね」と返した。
「なになに、何してるのふたりとも」
「ヴィクトル」
「うっせー、くんなハゲ」
「二人ともいつまでも来ないからヤコフが怒ってたよ?」
もうそんな時間だったか。慌てて紙パックをゴミ箱に捨てる。
「そういえばヴィクトル、今年のプロは? 僕まだ見てないよ」
見せてよ、とせがむとヴィクトルは曖昧に微笑む。ユリオも苦い顔だ。何かそんなにヘンなことを言ったろうか? 捻挫はもう治ったはずなのに。
「オーケー、いいよ。ちょっとリンクを開けて貰おう」
世界中の誰より少し早く見られる、ヴィクトルのプロ。これだけでもロシアに来た甲斐はあった。
曲はいつもどおりオリジナル。うららかな春の陽を思わせる出だし。夏の木漏れ日。少し寒い秋。何かが終わって、そして始まりを告げる冬。
色鮮やかな風景をリンクの上に描くヴィクトルに見惚れながら、しかしユウリは違和感を覚えた。
(ヴィクトル、すこしぎこちない………?)
記憶にある滑らかなスケーティング、それこそ雲の上で空飛ぶようなヴィクトルの滑りではない。他は指先に至るまで美しいのに、スケーティングやステップはわずかながら至らぬ箇所がある。そんな馬鹿な、あのヴィクトルが?
「ヴィクトル、まだ捻挫治ってないんじゃないの?」
汗を流してリンクサイドへ戻ってきたヴィクトルに問い詰めると、ヴィクトルは困ったように笑っていた。
「治ったけど、捻挫ってクセになりやすいからね。微妙な感覚が残ってて」
「無理させちゃった?」
「だからっていつまでも滑らないと、カンが戻らない」
スケーターは少し滑らないだけで色んな感覚が鈍る。ヴィクトルの言っていることは理解できる。
(なんだろう、もやもやする……ヘンな感じ。なんだろう)
掻き毟りたくなるような、泣き叫びたくなるような、嫌な感情。
「さ、ユウリ。次は君の番。今日こそフリップをクリーンに決めて見せてよね」
ぱちんとウインクするヴィクトルに頷きながら、リンクへ降りる。
「ヴィクトル……僕、今年こそヴィクトルを超えて見せるから」
宣言すると、ヴィクトルは満面の笑顔を浮かべた。
「そういうの、大好きだよ!」
***
オフシーズンは長いようで短い。
アイスショーやスポンサー関連の諸用を片付けているうちに、あっという間に終わる。
「ユリオ、アサイン来たよ! カナダ大会で当たるね」
「またJJかよ……あいつどうせファイナルでも会うだろ。何度もあの濃い顔見るハメになるとかウンザリする」
「今回、ピチットくんと当たらないなあ。ファイナルで会えるかな? えっと、クリスとは中国で会えるね。ヴィクトル……は…………」
アサインのリストを何度も見る。何度も確認する。ユウリが記憶を取りこぼしているうちにデビューしたらしい選手の名前がいくつかある。顔は思い出せないが、名前を見ると記憶の琴線に触れる選手もいる。
だが、どこにもヴィクトルの名前がなかった。スケートの神様。リビングレジェンド。誰が除外されても彼だけはアサインされるであろうはずの名前がどこにもない。
「ゆうり!」
いつの間に側に来ていたのか、ヴィクトルがユウリを後ろから抱きしめた。
なんでふにゃふにゃした顔で笑ってるの。スケ連が大ミスしてるよ?
「カナダでオタベックもいるねえ。また皆でご飯食べにいこーか」
「はあ!? お前らもついてくんのかよ!」
「ユウリにオタベック会わせないつもり?」
「じゃあハゲだけ留守番してろ!」
「のけものは酷いよ。ねー、ユウリ」
ぐりぐりと頭に頬ずりされる。よかった。ヴィクトルは来るんだ。カナダ大会に出場するのかな。名前が載ってないのはやっぱりミスで――――
ユリオがちらちらとユウリとヴィクトルを見る。モノ言いたげに。
耳元でヴィクトルの、笑うような、悲しげな吐息が聞こえた。
「遅かれ早かれ、この時点でどうしても分かっちゃうことだから、言うよ。
ユウリ。俺はもう競技者じゃないんだ」
目の前が白く染まった。
***
当然と言えば当然の結果だった。
ヴィクトルは既に28歳、フィギュアスケーターとしては最高齢。
ユウリと共に練習を欠かしていなかったとはいえ、八ヶ月のブランク。コーチ業と選手の兼業。
死ぬつもりか、とヤコフに怒鳴られた。だから答えた。
「そうだよ」
日本ではアイラブユーを「死んでもいい」なんて訳すんだろう? そうさ、俺は死んだっていい。
ヴィクトルがユウリのコーチを始めた時、世界が「コーチごっこ」と揶揄した。コーチとして未熟で、何も知らなかったのは認める。
だが、ヴィクトルは本気だった。たとえ二度と選手に戻れずとも、それでいいと思った。ごっこ遊びで結果が出るなら世話がない。
ヴィクトル・ニキフォロフは死んだ。いつかユーリに言われた言葉だ。
ヴィクトルはカツキユウリのスケートに殉ずるつもりで挑んだ。はじめはコーチ業の練習として。だが、最後はカツキユウリという存在のためだけに。
ユウリが望むなら、それに応えよう。
ヴィクトルであるために。お前が望むヴィクトル・ニキフォロフであるために。
自分がワールドレコードを塗り替えたことよりも、ヴィクトルの復帰を目を輝かせて喜んだあの子。
あの子のためなら全てを捧げたって構わない。
ただ、問題は――――肝心のユウリが何も分かっていなかったことだ。
どれほどの覚悟をもってヴィクトルに愛されていたか、ユウリは自覚していなかった。スケートと弟子なら弟子を捨てるだろうとタカを括っていた。
自分にそれほどの価値があるはずもないと、この期に及んで思い込んでいた。
翌シーズン、全てを賭けてヴィクトル・ニキフォロフの最後の大舞台を披露した。あの子は泣いて、泣いて、表彰台の上でヴィクトルにしがみついて嗚咽を漏らしていた。嬉しさで。
でも、それで最後。
酷使した足はぼろぼろ。無理が祟って内臓もずたぼろ。インタビュー中に血を吐いて緊急入院。
完全に選手生命は絶たれた。
ヴィクトルは満足だった。見たか、世界よ。あれこそが本物の、真実の、ヴィクトル・ニキフォロフだ。ユウリの望んだリビングレジェンドだ。
あんなに自分を褒めてやりたいと、誇りに思ったことはない。
金メダルなんかじゃとても足りない。星のように輝くあの子の瞳と涙がヴィクトルの勲章だ。
―――ユウリ、どうだった? 俺、すごかったでしょ?
いつかの中国大会のフリーの後みたいに、病室ではしゃいで、ユウリのハグを求めて腕を広げた。
けれども、ユウリは目を見開いたまま立ち尽くすばかりで。
「あ……あ…………、う」
頭を抱えて蹲る。悲鳴を上げてユウリの名を呼んだ。
病院だった為にすぐにナースや医者が駆けつけて、処置を施される。様子を見に生きたかったが、ヴィクトル自身が入院患者だった為に許されなかった。生きた心地がしなかった。
幸い、ユウリはすぐに目覚め、体に異常はないという。首から下には。
「ところどころ、記憶を失っています。昨日覚えていたものを今日忘れることがあります」
幸い、スケートのことは体が覚えているようで、支障がなかった。それだけが救いだった。
そして、ヴィクトルの名前も忘れない。
思い出すように親しい人たちを新しく覚えることもできる。日常生活に支障はない。
だが、ヴィクトルが引退したことを知ると、全て元通り。ヴィクトルとスケートのことしか覚えていない、まっさらなユウリになってしまう。
できるだけ長くユウリが記憶を保てるように、毎年あたらしい自分のプロを考えた。ユウリはきらきらした目で見つめる。
だが、スケーティングは昔のようにはならず、ジャンプや構成の難易度も大幅に下げていた。
これはリビングレジェンドの遺産。君にだけ捧げるエキシビジョン。
毎年毎年イマジネーションに満ちていた。選手生活を送っていた頃よりもずっと。自分が滑るユウリのためだけのプロも、ユウリのためのプロも。ときにはユリオのプロだって!
だからユウリ、俺を勝手に殺さないで。
俺は生きている。お前の中で生きてるんだよ。
ユウリ、もう―――自分を責めないで。
俺のラブとライフは、とっくにお前に捧げたんだ。
スリーピングビューティーは、未だ悪夢の中、目覚めない。
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