「中国大会で二位か……」
ソチのトイレで啖呵を切り、一方的にライバル視しているユーリと同じ名前のスケーターが勝ち上がってきた。
ユーリの目に留まったにも関わらず、情けなくめそめそ泣いていたあの豚野郎。今度はロシアで共に戦うことになる。次に情けない真似をしたら容赦なく叩き潰してやる。
それと同時に、口にしはしないが楽しみにもしていた。勝生勇利は新しいコーチとの相性がいいのか……というか一体あのコーチは何者なのか、ヴィクトル級の凄まじいプロを勝生のために用意した。動画で見たが、前年度と違って高難易度のプロをノーミスで滑りきり、見事なスケーティングを見せつけられた。
それはいいのだが、なぜかロシアに帰ったヴィクトルが浮かれ返っている。
「もー、日本のゆうりはそれは可愛くてトレヴィアンで俺は痺れてしまったよ」
「やかましい、ニタニタするなヴィーチャ!!」
このところ浮かない顔ばかりしていた兄弟子をこっそり心配していたユーリだが、あれはあれで面白くない。自分ではヴィクトルにあんな顔はさせられないから……させたいとも思わないが、とにかく面白くないのだ。
確かにヴィクトルに念願のプロを貰い、その指導もしてもらったが、ヴィクトルはずっと上の空だった。それがどうだ。
酔っ払った勝生勇利にバンケットでコーチをねだられたものの、結局はロシアに残った。そのことに心の何処かで優越感を抱いていたのに、今は……
リリアの屋敷へと戻る途中、いつもの道を通っていたユーリだが、見慣れない妙な店を見つけた。
「なんだ……? カフェか?」
蔦の這う古い建物だった。昨日今日建ったはずはないのに、なぜかそこにある。元が何の店だったかは忘れたが、とにかくこんな建物は存在しなかったはずなのだ。
腐っていたこともあり、気晴らしに店の戸を推してみると、DVDやブルーレイの並ぶ棚がひしめいている。
かなり種類が豊富なようだが、不思議なのは映画などはなく、有名人がピンで写ったパッケージばかりだということ。
ユーリは薄気味悪さを覚えたが、興味も引かれ、店内をおそるおそる歩いていると……フィギュアスケーターの棚があった。ヴィクトルはもちろん、クリスや勝生勇利のパッケージもあり、更にはユーリ自身のDVDまで飾られていた。
「お気に召しましたでしょうか」
急に背後から声をかけられ、ユーリはぎょっとして振り返る。しかし慌て過ぎだったと決まり悪く居住まいを直す。
「この店なんなんだよ。俺はこんなのに出演した覚えはねえ。去年まではジュニアだったしな」
その店主とおぼしき黒尽くめの男は喧嘩腰のユーリになど構わず、優雅に一礼した。
「歓迎します、ユーリ・プリセツキー選手。
当店は神に愛された方をおもてなしするために存在します」
「はあ……?」
「当店が扱う商品は、再生してから一年間、その人物のコピーを現実へ呼び出すことが可能です。
初恋の人、憧れの人物……誰でも一人、選ぶことが出来ます」
一体なんのことだ。こいつは頭がおかしいのか?
逃げる算段を立て始めたユーリに「ですが」と続けた。
「実はお願いがございます」
「はあ? 初対面で図々しいな」
「承知の上でございます。貴方の兄弟子様に関わることで……」
事情を聞くうち、ユーリの目がみるみる見開かれていく。信じがたい。しかし、それならあのコーチの正体も、納得がいく……
ヴィクトルも言っていたのだ。あのコーチはどうもおかしいと首をかしげて。
「俺にしか作れないようなプロを作るんだ」
そう、ヴィクトルの感性やクセまでもトレースしたようなプロ。そして、勝生勇利がいくらヴィクトルをリスペクトしているといっても、特定の……ヴィクトルの指導でもなければ、あんなスケーティングやジャンプにならない。
「アレは不良品だったのです。このままでは勝生選手のためにも、ニキフォロフ選手のためにもなりません」
「……わかった。協力してやる。その話が本当だってんならな」
どちらもユーリの興味の対象だった。それがわけのわからないものに潰されるというなら溜まったものではない。あの二人は今度のGPFで潰してやる予定だからだ。決して親切心などではない。
問題は誰を具現化するか、だったが……悩んだ末に自分自身を選んだ。そのほうが扱いやすいと思ったのだ。
2018年4月10日火曜日
2018年4月9日月曜日
ヴィク勇:ピアニスト全編
久々に練習も仕事もなく、ヴィクトルはマッカチンを連れてピーテルを散策していた。
大通りを歩くと無駄に注目を集めるため、何気ない小道や裏路地を探検するのが乙だ。
こんな些細な日常にも昔は心踊らせていたっけな、と懐かしむ。これが年を取るということだろうか。
シーズンに入れば世界中を飛び回り、オフシーズンにはアイスショーや撮影。息つく暇もなく一年が過ぎて、また過ぎて、とうとうフィギュアスケーター最年長になってしまった。
そろそろ転身を考えるべき時期だ。だが、踏ん切りがつかない。不完全燃焼なのだ。このままプロに転向したとして、果たして喜びを得られるだろうか。与えられるだろうか。
(本当に年をとったなあ)
スケート以外のことなど考えてもみなかった。二十年以上もラブとライフを放置して、スケート靴を脱いだ後の人生が見えて来ない。
いつかはこの時が来ると分かりきっていたはずなのに。
―――――と。
ヴィクトルの耳にピアノの音が届いた。曲はキャラバンの到着。軽快で高音、ジャズにしても独特のリズム。
思わず振り返った先にあったのは、隠れ家のような外装の暗いジャズバー。ネオンの看板に天使の止まり木、とある。
(ピアノってこんな音が出るんだ……)
ヴィクトルが知らないタイプの、特殊なピアノかとすら疑った。
だが、そんなはずもなく。
クセの強い奏者だ。的確に人間の胸の「いいところ」を突いてくる。欲しいと思ったところに音がくる。
ぶる、と寒気に似た震えが走った。
音楽を聞いて体が歓喜したのも久々だ。思わず窓に寄り、中を見る。
店内は薄暗く、よく見えないが雰囲気はよさそうだ。奥のピアノの前にいるのが奏者だろうと分かるが、ちょうど影になっている。
マッカチンがいるので酒を出す店に長々といるわけにはいかないが………
「ちょっと待っててね」
少しだけ、ほんのすこしだけ。
あのピアニストの手元が見たい。
ヴィクトルが店に入ると、バーテンが少し目を上げたが、構わずにいてくれた。ヴィクトルと気付かなかったのか、気付いてそっとしてくれたのか。
「カツキ! 踊りたいから景気いいの頼むよ」
酔った客がフロアに出て、ピアニストが了解とばかりにカデンツァを流す。
えらく多彩な音色でスピード感のあるマック・ザ・ナイフが流れ始めた。ヴィクトルはまたも度肝を抜かれる。
鮮やかで強い演奏もだが、ピアノに隠れて見えないだろうに、踊る客のステップに合わせてハメている。もともとのシンプルな曲をこれだけアレンジして、指が回る回る。
本来なら酒を注文すべきだろうが、ヴィクトルは吸い寄せられるようにピアノの傍に寄った。
激しく鍵盤を叩きつけているのは若い東洋人。オールバックにしてジャズスーツに身を包んでいるが、やけに幼く見える。
それより気になったのは、彼が目を瞑って演奏していることだった。
曲が終えてひと息ついた彼は、やはり目を閉じたまま此方に首を向ける。ただし、本当にただ横を向いただけで、顔を見上げる素振りすらなかった。
「えっと、リクエストですか?」
演奏と違い、気弱そうな声。ヴィクトルは返答せず、鍵盤をひとつぽんと鳴らす。
やっぱり普通のピアノだ。なぜあんな音が出る?
「お客さん。冷やかしは困るよ」
ようやくバーテンから注意され、ヴィクトルは苦笑した。
「今日はたまたま通りがかって、犬連れなんだ。また改めてくるよ。これで彼に何かサービスしてほしい」
紙幣をピアノの上に置き、立ち去ろうとするが、ピアニストが「えっあっ」と慌てたような声を上げる。
「その声……もしかしてヴィクトル・ニキフォロフ!?」
彼が叫ぶと店内から苦笑が漏れる。せっかく言わないでおいたのに……とでも言いたげだ。
それで、ああ、と理解する。
(見えないのか……)
目が不自由な身の上で、あれだけ演奏出来ることも驚愕だが、初対面のヴィクトルを声で判別するのにも驚きだ。
「君はいつこの店にいるの?」
「えっと、いつも……います?」
「他の奏者がいる時も、大体カツキはここにいる」
他の客が教えてくれた。そう、とヴィクトルは微笑んだ。
「また来るよ」
そう言って次にこの店のことを思い出したのは、更に一年後になる。
***
忘れた、というよりは多忙だった。
自宅やスポーツクラブから少し遠いここに立ち寄るだけの時間がなく、また息つく暇もない一年で、あのジャズバーでの出会いが昨日のことのように思えた。
久方ぶりに現れたヴィクトルに「アンタ酷い奴だな」とカウンター席の客に詰られた。
「カツキはずっとアンタを待ってたよ。この一年、可哀想で見てられなかった。店に入るたびヴィクトルじゃない…ってガッカリされるこっちの身にもなってみろ」
「カツキ……ってあのピアニストの少年」
「ああ見えても二十四だぜ」
驚いた。ここに来ると驚きの連続だ。いくら東洋人が若く見えると言っても、あれは幼い。
ともあれカウンターに腰かけると、バーテンとは別の従業員らしき人物が奥へ引っ込んだ。
おすすめのを、と頼んだところで誰かが慌ただしく出てきた。バーテンが眉を顰め、ひょいと腕を伸ばしてそれを受け止める。
「カツキ。杖はどうした」
「えぇえと、あの、だってヴィクトル来たって」
「すぐそこの席にいるよ」
「えええええ」
ぱか、と少年……改めカツキ青年は目を開いた。チョコレート色したきらきら輝く大きな瞳。目が見えると余計に幼く感じる。
見えていないと分かっていても、彼に手をあげて笑顔を向けた。
「はあい。ヴィクトル・ニキフォロフです」
「ふぁあああ」
耳まで真っ赤に染めてのけぞろうとするもので、バーテンがまた嘆息しながら彼を支えている。
「まあ、このとおりアンタのファンで、そそっかしい所のある奴でして」
「ボックス! ボックス席来てください! 演奏するから……!」
「カツキ、落ち着け」
宥められても聞いていない。えと、えと、とカウンターを出ようとして手をわたわたさせている。奥から出てきた従業員が苦笑まじりに彼の肩を抱いて、ピアノまで誘導してやった。
ボックス席にと言われたのでヴィクトルも出された酒を持ってついてゆく。
「ああああの、リクエスト…ありますか?」
「君の好きな曲が聞きたいな」
「…………!」
暗い店内でもわかるほど、ボンッと真っ赤に膨れてしまった。あんなにガチゴチで演奏できるんだろうかと見守っていたところ、案の定でだしが調律しそこねたピアノのように酷い。
ブラインドタッチで弾いているため、指の位置を間違うと惨事になるようだ。
「~~~~~~!!」
顔を覆い、暫くピアノの前で悶えてから。
すぅ、ふぅ、と何度か大きく息をつく。
柔らかなタッチからゆったりした音が流れ出し、メロディが乗ってヴィクトルは目を瞬く。
離れずにそばにいて――――今シーズンのヴィクトルのプロだ。
この曲をピアノでやるのか。できるものなのか。
緩やかで叙情的な音律が店内を満たす。
美しい。掛け値なしに美しい。原曲とはテンポもリズムも微妙に違うアレンジ。だというのに、アリアが聞こえてくる。
酒を口に運ぶのも忘れ、ヴィクトルは呆けたように吐息を漏らす。
演奏を終えてピアノから手を離し、余韻に浸ってから……彼は両手で顔を覆ってしまった。例によって耳まで真っ赤だ。
「カツキ。今日は他の奏者がくるから引っ込め」
「え、もう!?」
「他に仕事がないなら、こっちにおいでよ」
誘ってみると、カツキはうさぎのように飛び上がって椅子から転げ落ちた。もう笑うしかない。
歩み寄って彼の手をとり、優しくエスコートして席へ導いた。他の客が口笛を吹き、カツキは不思議そうに首を傾げている。
彼は知らないのだ。男がレディをエスコートする姿など。
彼にも飲み物を、と注文し、改めて盲目のピアニストに向き直る。
「カツキ……だっけ?」
「ユウリです。ユウリ・カツキ」
「珍しいね。東洋人がロシアでピアニストをやってるなんて」
「あ、えと、親の仕事の関係で子供の頃にロシアにきたんですけど、みんな死んじゃって」
悪いことを聞いてしまったかな、と酒を煽る。だが、ユウリの顔に暗さはない。
「物心付く前からオモチャのピアノいじって育ったので……雇ってくれそうなお店さがして頑張りました」
「十五の東洋人の子供が演奏を聞いてくれと頼み込んでくるから、何事かと思ったさ」
気難しそうなバーテンだが、思い出話をする彼の口調は柔らかい。あえて口に出さなかったが、十五の、それも目の見えない子供が、必死に食い扶持を探す姿は痛ましいものだったろう。
「オモチャのピアノって……レッスンは受けたことないの?」
「あ、六歳の時にキーボードは買って貰ったんですけど。イヤホンつけられるやつ。でもまともな勉強はしたことないんです」
「こいつ、ここの他にもリサイタルとかで呼ばれるんだぜ。一度なんかは有名なマエストロに惚れ込まれてオーケストラとやらないかって誘われたんだが……」
「楽譜の読み方も専門用語も知らないのに、オーケストラなんて無理だよ!」
そのマエストロも、それだけユウリのピアノに惚れ込んだのだろう。それほどの魅力はある。
「……すこし失礼な質問になるかもしれないけど。どうして俺のファンなの? というか、ファン……でいいんだよね」
「あ、はい! 小さい頃にアイスショーにつれていって貰って、そのときから………」
「えぇと、その。スケート、わかるの、かな。うまく言えないけど」
「はい! 氷を切る音が優雅で………」
「カツキは足音やスケート靴の音を聞けば頭の中で立体が浮かぶらしい」
それは凄い特技だ。それでピアノに隠れていても、踊る客にあわせて演奏できたのか。いや、そもそもステップにあわせて音をつくるスキルも信じがたいほどだ。
「テレビだと氷を切る音が聞こえないんで……生で見ないと分からないんですけど。それでもずっと憧れてて」
「ヴィクトルが滑った曲は全部演奏できるんだよな」
「バラさないで!!」
ソファに倒れて蹲ってしまった。あんまり勢いよく動くものだから、見ているこっちがハラハラする。テーブルに頭を打ったらどうするつもりだ。
「ユウリ」
向かいの席のソファに突っ伏してしまったピアニストの名を甘くささやき、覗き込む。
「今まで色んなファンに好きだ、応援してるって言われてきたけど―――こんなに感激したのは初めてだ。ありがとう」
音や気配で物を立体的に捉えられるとしても、彼は色を知らない。ヴィクトルとは生きている世界が違う。それでもヴィクトルのスケートが彼には「わかる」と言う。
彼の中にだけある世界は、きっと美しい。その世界の住人になれたことが心から嬉しかった。
「君の演奏をもっと聞きたいんだ。でも、俺は滅多にこの店には来れなくてね。どうしたらいい? もちろん店には仲介料を払うし、君にも演奏料を払うよ」
「え? えと……どうしたら、って………」
「じゃあ、アンタが望む時にカツキを貸し出してやるよ」
バーテンから鶴の一声。ええ、とユウリは起き上がろうとして、テーブルに頭を打ち付けた。本当にそそっかしい子だ。
「その代わり、送迎はちゃんとやれよ。そんなんでもウチの看板だからな」
「そんなんでもって………」
ユウリは落ち込んでいるが、バーテンの言葉を意訳するなら「怪我させたら承知しねえぞ」というところだろう。
ヴィクトルはユウリのレンタル料などの話を詰め、浮かれ気分で帰宅した。
***
ユウリを呼び出せたのは、幸いにも次の週だった。
事情を話してハイヤーに足を頼み、チムピオーンスポーツクラブの前で待っていたヴィクトルは、現れたユウリの姿に意表を突かれた。
「あ、あの。私服で……って言われたので。ちゃんとスーツ持ってきてるんですけど」
前髪を下ろし、やぼったいコートにマフラー。
幼く見えるとはいえ、艶っぽい黒のジャズスーツで演奏する姿はなかなか凛と麗しかった。人はこんなに化けるものかと感心するほどだ。
だが、これはこれで愛嬌があっていい。
「今日はそのほうがいいんだ。おいで」
腕をとって彼の歩幅に合わせながら、ゆっくりとスポーツクラブに入る。
ユウリは冷やりとした空気と、スケーターたちが削る氷の音に「え、え?」と驚いていた。
「あの、演奏……」
「残念ながらピアノは持ち込めなかったんだけどねー」
ユウリの手を導いてリンクサイドに設置したシンセサイザーにそっと触れさせる。
「三年前のプロ、ピアノ協奏曲だったけどソロでいける?」
そもそも連弾でなければ不可能な曲だが、彼はヴィクトルの滑った曲を全て弾けると聞いた。ユウリならできる、という確信もある。
「できます、けど……」
また縮こまってしまった。
「も、もしかして僕の演奏で滑ってくれるんですか?」
「うん」
「…………………!!」
「ユウリ。危ないからここで悶絶するのはやめようね」
顔を覆ってへたりこんでしまったユウリ。いわゆる女の子座りだ。放っておくとそのまま転げ回りそうだったので、腕をとって立ち上がらせる。
「ヴィクトル。そいつ誰だ?」
休憩で上がったらしいユーリがキーボードの前に立つ東洋人を睨みつけている。が、睨んだところで意味がない。ユウリには見えていないのだから。
「この子はユウリ・カツキ。ユーリとは同じ名前で、ピアニストだよ」
「あ? ピアニストって……」
目を閉じた状態の東洋人をじろじろ見、ユーリはそれ以上を語らなかった。ユーリは口の悪い子だが、根は優しい子だ。
そして何を思ったか知れないが、ユウリはキーボードに向き直って指をキーに軽く滑らせた。
ジャン、と激しい和音の後、凄まじい指捌きでアレグロ・アパッショナートを演奏し始めた。ユーリがの口が顎が外れたように開く。
「ユーリの曲も弾けるんだねえ」
「一回聞いたら大体覚えます。原曲とは違うものになるし、同じ演奏は二度と出来ないんですけど……」
半端なところで演奏をやめ、ユウリは苦笑する。
ヴィクトルは銀盤に降り立ち、中央まで緩やかな軌跡を描いて「いいよ」と合図する。
すぅはぁ、と何度も深呼吸を繰り返すユウリを、ユーリがじろじろと見ている。気になって仕方がないらしい。
やがてユウリは珍しく目を開いた。きっと鋭く鍵盤を睨み、腕を伸ばして黒盤を端からスライドさせ、ハープのようなグリッサンドから入った。
音階を上げながらディレイをかけ、音で尾を引かせるように深みを持たせながら演奏を始める。
えらくキラキラしい曲にアレンジされたものだ。だが、これは気持ちいい。音にハメるのではなく、音が追ってくる。まるでこちらの呼吸まで捉えるかのような演奏だった。
ところが、ここからが佳境、と漕ぎ出したところで、音が止んでしまう。
ヴィクトルだけでなく、いつの間にか見入っていた周囲も突然とまった音楽に拍子抜けし、ユーリが「おい!」と叫んでいる。
「むり……しあわせすぎて………もぅむり…………」
気づくとユウリは鼻水垂らしてぼろぼろ泣いていた。慌てて滑り寄ると、どうもかなり冷えているようで、指先も赤い。
「ユーリ、ティッシュ!」
「ねえよ」
「じゃあタオル!」
「俺のタオルでコイツの鼻水拭く気か!」
兄弟弟子がコントしている間に、本人がポケットからティッシュを出して顔を拭っていた。
泣かれるのは苦手だ。名を呼びながら肩を抱くと、また大きな瞳から大粒の涙が大量に溢れる。
「こんなの僕のほうがお金払わなきゃいけないじゃないですか……」
「君の演奏を聞きたくて無理に呼び出したのは俺だから。思ったとおり素晴らしかったよ」
まともな教育を受けていないとは思えない、高度なテクニックまで習得していた。子供の頃からピアノばかり弾いて育ったといっても、あの独特のセンスは一流のピアニストにひけをとらない。
ピアノは最もポピュラーで最も残酷な楽器だ。巧拙に関わらず、奏者のセンス次第で全く別の楽器に変貌する。どれほど技巧に優れていても、ピアノの音しか引き出せない奏者は人の心を打たない。
「次シーズンの曲の演奏をユウリにお願いしたいんだ。それと、エキシの生演奏も……無理かな?」
ユウリとはイマジネーションが死にかけて迷走していた頃に出会えた。窓越しに聞いたキャラバンの到着で横殴りにされ、アリアの演奏を聞いた瞬間、彼のピアノに惚れ込んだ。
しかし、この調子だと無理そう……だな! 無理だな! ぼろ泣きのユウリをハグして懸命にあやす。
同時に愛しくも思う。こんなファンがいるヴィクトルは幸せ者だ。
「や、やりたい…です。やります!」
乱暴に目をこすりながら、それでもユウリはしっかり強い目でヴィクトルを見返す。見えていないはずの瞳に、ヴィクトルの顔がしっかり映り込んでいた。
***
作曲家に原曲を受け取ってから、スタジオを借りて幾度か勇利に弾いてもらったところ、本当に勇利は同じ曲を二度弾けないらしい。
時々は遊び心が起きるのか、がらっと雰囲気を変えてアレンジしてしまう。
そのすべてを録音して、どれをプロに使うべきか吟味した。
ところが、どの録音で滑っても、あまりに独特なクセある演奏のため、うまくリズムを合わせることができない。
一番いいのはヴィクトルが滑っている音を聞いて貰いながら演奏してもらい、録音することだが……それではノイズが混じってしまう。
やはり無理な注文だったろうか。諦めかけもしたが、それを彼にどう伝えていいか分からない。あれほど「弾きたい」と熱望し、ヴィクトルも彼の演奏で滑りたいと強く願っている。
しかし、現実は厳しい。
何度も繰り返される録音の最中、ふうっと勇利が顔を上げた。
「ヴィクトル。誰もいない静かな環境で滑ることはできる?」
「ん? そうだね、夜に貸し切れば可能だよ」
「なら、イヤホンで原曲を聞きながら滑って、氷を切る音を録音してください」
なるほど妙案だ。音から立体が動く様を脳内に浮かべることのできる勇利なら、ダンスのステップ音に演奏を合わせることのできる勇利なら、闇雲に原曲をアレンジするよりそのほうがいい。
数日後に誰もいないアイスリンクでプロの滑走音を録音したヴィクトルは、改めて勇利を呼び出し、収録したMP3とイヤホンを勇利の手に握らせる。
勇利は音楽に聞き惚れるように少し俯いて集中していた。何度も繰り返し再生し、時には同じ箇所ばかりリピートする。
こんなに長くかかるとは思わなかった。いっそ勇利をいったん帰らせるべきかと悩んだほどだ。勇利は三時間もたっぷり聞いた後でほー……と長いため息をつく。
「いつもノイズや歓声や拍手が交じるから……こんなに間近でヴィクトルのスケートを聞いたのは初めて」
まるで僕のためだけのアイスショーみたい、と頬を染めて語る勇利の姿がヴィクトルも嬉しく、時間を見つけて過去のプロの「特等席」も用意しようと心に決める。
暫く余韻に浸っていた勇利は、ぱちっと瞼を開いてMP3の再生ボタンを押した。
「行きます」
指を弾ませて力強く軽妙なトリルの導入。原曲とまるで違う……というか、
(ディキシーランドジャズ……!?)
古きよきアメリカを彷彿とさせるクラシックジャズアレンジ。いまにもジュークボックスから流れてきそうな曲調だ。
だが、アンサンブルやビッグバンドが主流だったディキシーランドジャズとは違い、ピアノソロで賑やかで華やかに、かつ丁寧に積み上げてゆく。どこか怪しげで愉快で……
まるで童心に帰って悪戯を企む大人の悪ふざけを思わせる。
そして、恐らくそれは――――今のヴィクトルが一番やりたいと思っていることだ。
この曲のテーマは「リボーン」。
今までの己を殺し、新しく生まれ、初心に還る。
原曲はそれを厳格かつ荘厳に演出しているが、勇利はそれを面白おかしく、古めかしいジャズで見事に表現しきった。
新しく生まれるという演目を、わざわざ古い手法で。
これも一種のリバイバルと呼べるだろうか。斬新で新鮮だった。
この子は音楽理論など知らない。存在すら知らないかもしれない。
だが、物語の起承転結を紡ぐようにメロディを組む。天性のバランス感覚と呼ぶべきか……
弾き終わり、音の尾が空間に霧散する。
ふいーと息をついた勇利が額の汗を拭って一息ついてから、はっとしたようにわたわたし始める。
「あ、ごめ、ごめんなさい! なんか貴方のスケートを聞いていたら、こういうふうにしたくなって、それで、あの」
ヴィクトルが黙っているので怒られると思ったのだろうか。
勇利の言い訳の声がどんどんしぼんでゆく。
ヴィクトルは録音室の扉を開け、思い切り勇利に抱きついた。
「ひ、うひゃ」
「いいんだ。これでいいんだよ!!」
少し硬い丈夫な髪に頬ずりし、ヴィクトルは喜びを声とハグとで勇利に伝えた。
どうして俺の心の奥底の声が聞こえたの?
君にだけ聞こえる特別な音があるの?
ゆうり。ゆうり。
この感情をどう表現していいか、分からないくらいだ。
[newpage]
完成した曲を流してご機嫌のヴィクトルを、ユーリがちらちら見ている。ヤコフに怒鳴られながら。
休憩時間になってから、狙ったようにそそっと寄ってきた。
「さっきの、あいつのか」
「あいつって?」
分かっていながら満面の笑顔で首を傾げた。ユーリが口をひんまげる。
「だ、だだ、だから……あいつ、その、ヘンテコなピアノ弾くやつ!」
あの一件でよっぽど気に入ったらしい。ヴィクトルとユーリは琴線が近いのかもしれない。
「実は今日、彼の店に行くつもりなんだけど」
「!」
「でも、ユーリは未成年だしなー。ヤコフとリリアに聞いておいで」
言うと、ユーリは何も返事せずぴゅっと小魚のように氷上を滑っていってしまう。
早めに切り上げることと、酒を飲まないこと、ヴィクトルがきちんと監督することを条件にユーリの外出が許可された。
タクシーの後部座席で運ばれる間、ユーリはずっと落ち着かなかった。ジャズバーに行くのも初めてなら、あの時の彼に会いに行くのが嬉し恥ずかしい年頃なのだろう。微笑ましさの塊のような子だ。
乱暴にジャズバーの扉を開き、来てやったぞとばかりふんぞり返る。
バーテンも常連客も、突然現れた未成年―――それもヴィクトルに次ぐロシアのスケーターが現れたもので、背後のヴィクトルに「何をつれてきてんだ」という目を向ける。
勇利は演奏中だった。本日のナンバーはイングリッシュマン・イン・ニューヨークのジャズアレンジ。ジャンルとしてはポップに入るが、ジャズとの相性は抜群だった。勇利のドラマチックな演奏によく栄える。
慣れない内装の店に落ち着かないユーリをボックス席に座らせ、酒とミルクを注文した。
その声で分かったのだろう。急にピアノが不協和音を喚かせた。
「え、あ、もしかしてヴィクトル来てます!?」
「来てる。が、仕事をしろ。干すぞ」
「すみませ……あれ、どこまで弾いたっけ」
「マヌケ」
ユーリがニヤニヤしながら呟いた。
ユーリが来ていることも、今ので分かったのだろう。勇利は先程の曲を諦めて、アガペーを弾きはじめた。不意打ちを食らったユーリの耳が赤く染まる。
一曲終わらせてから、勇利はもじもじしながらヴィクトルが「いるであろう方向」を気にしている。バーテンがため息つき、店内に録音された過去の演奏が流れ始めた。
お許し頂けたようなので、ヴィクトルは以前と同じように勇利を優しくエスコートし、ボックス席に連れてきた。わざわざユーリの隣に座らせ、自分は向かいに腰かける。
「えぇと、プリセツキー…さん。来てくれたんですか」
「べつに。深い意味はねーよ」
「深い意味でこの店に来る人なんかいませんよ」
笑う勇利に、ユーリのほうは不機嫌そうだ。今この店の中で一番「深い意味で」来店しているのは彼だ。ヴィクトルとてただ勇利の顔が見たかったのと、演奏を聞いて軽く呑みたいという気楽な理由できた。
「もう少ししたら、ちょっと有名なサックス奏者の方がきますよ」
「どうでもいいし。ジャズとか興味ねえし」
「ジャズ嫌い?」
「ききききらいではねーし! 眠たいのは嫌いだけど」
ユーリのことだ。ジャズなんて退屈なジジイの音楽、とでも考えていたのだろう。彼の演奏を知るまでは。
「あの、ヴィクトル。完成した曲どうでしたか?」
「最高だったよ。その報告に来たんだ。もうあのプロはあの曲しか考えられない」
「はー……よかった」
ふにゃん、と輪郭が溶けるほど緩みきる勇利。ああ、可愛い。可愛いったらない。
「僕の演奏が全世界に流れるなんて信じられないなあ。テレビで流れるんだよね?」
「当たり前だろ。ヴィクトルのプロだぞ」
「ヴィクトルのファンに怒られたりしないかな? 大丈夫かな」
「プロの曲演奏してる奴に興味持つ奴なんかいねーよ」
「そう? ならよかった」
でも恥ずかしくてテレビつけらんないかも……と縮こまっている。本当に緊張しぃだ。リサイタルを開くこともあるらしいが、ちゃんと演奏出来ているのだろうか。
頬杖をついて二人のユーリを眺めていたヴィクトルを、勇利が急に目を開けて見つめた。
「どうかした?」
「あ、あの……厚かましいかもしれないけど。ほ、報酬のことでちょっと……えと、お金いらないので、代わりにお願いがあるっていうか」
「なに?」
お金の代わりにおねだりなど、いじらしいこと言う。
それも、その内容が「顔に触れさせてもらいたい」というものだった。
「あ、僕、目がこうだから、直接触らないと人の顔もわからなくて……ヴィクトルってよくテレビで凄くカッコいいって聞くから、どんな顔してるのかなって」
指を弄りながら一生懸命主張するのが可愛くて可愛くて、ヴィクトルは向かいの席に移動した。奥へ追いやられたユーリが「せめーよ」と文句を言っている。
「はい、どうぞ」
勇利の手を自分の顔に導き、目を閉じる。少し緊張して震える指が、遠慮がちにヴィクトルの輪郭をなぞった。そんなに恐る恐る触れられては、かえってくすぐたい。
「うわぁ、なんか、凄い。磨いた彫刻みたい。あ、おでこ広い?」
「………そんなに危険か」
「あ、いやそんなじゃなくて!! えと、えと、あと……あ、鼻が高い。目も彫りが深くて……きれい」
目を細めてうっとり微笑む勇利の顔。抱きしめてキスしてやりたいほど愛しい。
そう考えてから、ヴィクトルはずいぶん彼のことを気に入っている、というより惹かれてやまないことに今更気づく。
もとより興味はあった。彼というピアニストに。
だが、今の感情はもう、彼個人に―――恋をしている。
「ありがとうございました」
手を離し、照れに照れ、満足そうな顔。
だが、ヴィクトルは再び彼の手をとって、笑う唇に触れさせた。
「ここ、まだだよ?」
「………!」
あえて唇には触れないようにしていたのだろう。暗い店内でも分かるほど顔を真っ赤に染め、きつく目を瞑ってしまう。その様子が思いの外ブサイクだ。だが、そこも可愛い。
「おいヴィクトル、もう時間だ」
「あれ、早いな。ゆうり、また来るよ」
「あ、はい!」
勇利を引き起こし、ユーリを席の外に出してから、二人は店を後にした。
「ピアノ買おうかなあ。俺の家に置きたい」
「あ? まさか呼ぶ気か」
「うん。俺の家でケータリングと美味しいお酒用意して、勇利に演奏してもらう」
「手ぇ出すなよ」
釘を刺されたが、それは雰囲気と流れ次第だなーと口には出さず返事もしない。
だってこんな気持ちは初めてなんだ。
あの子はたぶん、ヤコフ以上にヴィクトルのスケートを深く見てくれる、世界で一番の理解者だ。
[newpage]
まだ心臓がどきどきと煩い。
あの人が来ると、いつもこうだ。いや、来ていない時もか。いつ来るか、また来てくれるかと、一年前から期待が絶えない。
人の顔に触ってまで形を確認することは、滅多にない。不躾だし、相手だって顔をべたべた触られるのは嫌だろう。
せいぜい勇利が触れるのは、人形や彫刻、あるいは自分の顔くらいだ。人間というのはこういう顔をしている、と把握するために行う作業で、深い意味はない。あとは店員やバーテンなど、長い付き合いの人だけだ。
それにしても整った顔立ちだった。ふつう、生の人間はどこかデコボコしていたり、曲がっていたりするのに、どこもなだらかで完璧な造形をしていた。睫毛が長くて、すっと切れ長の目をしていたのが瞼から分かった。
「ユウリ、気が済んだならもう一曲弾け」
「あ、はい」
サボってばかりでは給料が減る。慌ててピアノに戻り、鍵盤に指を置いた。
――――と。
誰かが近寄ってきた。リクエストだろうか。
「お客さん、なんでアンタ、酒瓶なんか持って………」
バーテンが訝しんだ声を上げる。
彼が質問しきる前に、強い衝撃がこめかみを襲う。
なに、と思う前にピアノと、次いで床に頭が叩きつけられ、痛みにうめき声を上げた―――と思う。
「――――、――――」
叫ぶ。何も聞こえない。
痛みに苦しみながら耳に触れる。ぬっとりとした液体の感触。
「―――――!?」
なんで。なんで。
何も聞こえない? 自分の声も、周囲の音も。
なんで。
[newpage]
勇利が暴漢に襲われて入院した、という知らせをヤコフから聞かされた。
あの店のバーテンがこのスポーツクラブのアドレスを調べて連絡を入れてくれたらしい。
練習を放り捨てて教えられた病院に駆けつけ、ナースに注意を受けながら病室に飛び込んだ。
そこには、背中を丸くした私服姿のバーテンと、頭に包帯を巻きベッドで上体を起こす勇利の姿があった。
とりあえず勇利の意識があることにほっとする。
「………アンタか」
振り返ったバーテンに頷き、勇利に歩み寄る。
「勇利。俺だ。ヴィクトルだよ。怪我は大丈夫?」
「…………」
下を向いたままの勇利。反応もしない。いつもヴィクトルの声を聞くと、子犬のように喜んで笑うのに。
暴漢に襲われたことで心に傷を負ったのだろうか。様子がおかしい。不安になり、声をかけながら勇利の手に触れようとするが……
バーテンがハッと顔を上げた。
「だめだ、さわるな!」
警告を聞き入れる前に、ヴィクトルは勇利の手を握ってしまった。
それまで大人しかった勇利が、びくっと過剰に震えて身を捩る。
「なに!!!!! だれ!!!!! だれかいるの!!!!」
「ゆ………」
「だれ!!!!!!」
病室の外まで響き渡るほどの大声を張り上げる勇利。気圧され、手を離した。
「耳をやられたんだ」
バーテンが消沈した声で言う。
「この前アンタが店に来て帰った後、酔っ払った客が勇利の耳のあたりを酒瓶で思い切りぶん殴った。理由はアンタにべたべた触るとこがゲイみたいで気持ち悪かったから、だとよ。
一見の客で、勇利の目が見えないことすら知らなかった」
バーテンも、常連客も、暴漢を取り押さえて勇利を介抱しようとした。
勇利は搬送される間もずっと叫び続けていたらしい。自分の声も、なにも聞こえないことに恐怖して。
聞こえないから過剰に叫ぶ。人は、自分の耳にちょうどいいボリュームで話すのだ。耳が遠くなったベートベンが、大声で話していたという逸話が残っているように。
ヴィクトルは呆然と、怯える勇利を見下ろしていた。
(この子は、音の世界で生きていて………)
生まれつき光に見放され。
音の世界で生きて、ピアノを愛し、スケートを耳で感じていた。
「なんだってこんな事に………十五でコイツを雇ってから、ずっと息子みたいに面倒見てきたんだ。常連客の殆どだってそうさ。
どうして神はあんなヤツに、コイツのピアノを奪う権利を与えたんだ」
いまになって気づいたが、バーテンは泣いていた。悔しさに泣いていた。ヴィクトルが来るずっと前から。
ヴィクトルはそのシーズン、勇利の演奏を録音したプロで優勝し、競技生活を終えた。
***
鼓膜が破れただけならよかった。鼓膜はすぐに再生してくれる。
だが、勇利の場合、高次脳機能障害による聴力の喪失らしい。骨振動による音も拾えないとのことだ。
医者が掌に文字を書いて意思疎通した為、現在は自分の状態を把握し、なるべく声を出さないよう息を潜めて生きている。
何度めかの見舞いに来たヴィクトルは、勇利がついた手の傍のシーツをトントン、と指で叩く。
そうすると勇利は手探りでヴィクトルの手を探し当て、きゅうと握る。勇利とヴィクトルだけの合図だ。
『お は よ』
掌に文字を書く。勇利はこっくんと頷いた。
『た い ち ょ う』
再び勇利が頷く。
勇利はもう殆ど回復している。身体的には―――
だが、もう彼はピアノを弾くことはできない。唯一の特技を失い、生きる糧を稼ぐ手段がなかった。
本来なら施設に行くべきなのだろう。
『お れ の い え』
勇利が首を傾げた。
ヴィクトルは続けて文字を描く。
『 ぼ う お ん に し た 。
ぴ あ の 、 あ る 。
う ち に お い で 』
勇利が眉を寄せ、首を傾げ、頭を振る。
ヴィクトルはプロの演奏を依頼されたことがある程度で、そう親しい仲ではなかった。こんなことをする義理も理由もない。
それでも。
『 お れ の こ え 、 お ぼ え て る ? 』
勇利はすぐに頷いた。力強く、速く。
だが、それだけにもう聞こえないことが悲しいと、そう言いたげに涙を零す。
ヴィクトルはその頬にキスをした。急に感じた柔らかな感触に、勇利がびくっと身を竦ませる。
『 ぴ あ の 、 ま た ひ け る
お れ は し ん じ て る 』
「なんで」
思わず声を上げた勇利が、口を覆う。自分の声が煩くて、他の患者の迷惑になっているのを散々注意されたからだ。
『 お れ は プ ロ に な る
ゆ う り の え ん そ う で す べ り た い
う ち に お い で 』
勇利の喉から嗚咽が漏れた。
ぽん、ぽん、とその身を覆うように肩を抱きながら、勇利が泣き止むのを待つ。
いいの、と勇利が潰れそうに囁いた。
勇利にはヴィクトルの顔は見えない。
勇利にはもうヴィクトルの声も聞こえない。
それでも彼の手を両手で包み、一番の笑顔で、声に出して言った。
「いいんだよ!」
大通りを歩くと無駄に注目を集めるため、何気ない小道や裏路地を探検するのが乙だ。
こんな些細な日常にも昔は心踊らせていたっけな、と懐かしむ。これが年を取るということだろうか。
シーズンに入れば世界中を飛び回り、オフシーズンにはアイスショーや撮影。息つく暇もなく一年が過ぎて、また過ぎて、とうとうフィギュアスケーター最年長になってしまった。
そろそろ転身を考えるべき時期だ。だが、踏ん切りがつかない。不完全燃焼なのだ。このままプロに転向したとして、果たして喜びを得られるだろうか。与えられるだろうか。
(本当に年をとったなあ)
スケート以外のことなど考えてもみなかった。二十年以上もラブとライフを放置して、スケート靴を脱いだ後の人生が見えて来ない。
いつかはこの時が来ると分かりきっていたはずなのに。
―――――と。
ヴィクトルの耳にピアノの音が届いた。曲はキャラバンの到着。軽快で高音、ジャズにしても独特のリズム。
思わず振り返った先にあったのは、隠れ家のような外装の暗いジャズバー。ネオンの看板に天使の止まり木、とある。
(ピアノってこんな音が出るんだ……)
ヴィクトルが知らないタイプの、特殊なピアノかとすら疑った。
だが、そんなはずもなく。
クセの強い奏者だ。的確に人間の胸の「いいところ」を突いてくる。欲しいと思ったところに音がくる。
ぶる、と寒気に似た震えが走った。
音楽を聞いて体が歓喜したのも久々だ。思わず窓に寄り、中を見る。
店内は薄暗く、よく見えないが雰囲気はよさそうだ。奥のピアノの前にいるのが奏者だろうと分かるが、ちょうど影になっている。
マッカチンがいるので酒を出す店に長々といるわけにはいかないが………
「ちょっと待っててね」
少しだけ、ほんのすこしだけ。
あのピアニストの手元が見たい。
ヴィクトルが店に入ると、バーテンが少し目を上げたが、構わずにいてくれた。ヴィクトルと気付かなかったのか、気付いてそっとしてくれたのか。
「カツキ! 踊りたいから景気いいの頼むよ」
酔った客がフロアに出て、ピアニストが了解とばかりにカデンツァを流す。
えらく多彩な音色でスピード感のあるマック・ザ・ナイフが流れ始めた。ヴィクトルはまたも度肝を抜かれる。
鮮やかで強い演奏もだが、ピアノに隠れて見えないだろうに、踊る客のステップに合わせてハメている。もともとのシンプルな曲をこれだけアレンジして、指が回る回る。
本来なら酒を注文すべきだろうが、ヴィクトルは吸い寄せられるようにピアノの傍に寄った。
激しく鍵盤を叩きつけているのは若い東洋人。オールバックにしてジャズスーツに身を包んでいるが、やけに幼く見える。
それより気になったのは、彼が目を瞑って演奏していることだった。
曲が終えてひと息ついた彼は、やはり目を閉じたまま此方に首を向ける。ただし、本当にただ横を向いただけで、顔を見上げる素振りすらなかった。
「えっと、リクエストですか?」
演奏と違い、気弱そうな声。ヴィクトルは返答せず、鍵盤をひとつぽんと鳴らす。
やっぱり普通のピアノだ。なぜあんな音が出る?
「お客さん。冷やかしは困るよ」
ようやくバーテンから注意され、ヴィクトルは苦笑した。
「今日はたまたま通りがかって、犬連れなんだ。また改めてくるよ。これで彼に何かサービスしてほしい」
紙幣をピアノの上に置き、立ち去ろうとするが、ピアニストが「えっあっ」と慌てたような声を上げる。
「その声……もしかしてヴィクトル・ニキフォロフ!?」
彼が叫ぶと店内から苦笑が漏れる。せっかく言わないでおいたのに……とでも言いたげだ。
それで、ああ、と理解する。
(見えないのか……)
目が不自由な身の上で、あれだけ演奏出来ることも驚愕だが、初対面のヴィクトルを声で判別するのにも驚きだ。
「君はいつこの店にいるの?」
「えっと、いつも……います?」
「他の奏者がいる時も、大体カツキはここにいる」
他の客が教えてくれた。そう、とヴィクトルは微笑んだ。
「また来るよ」
そう言って次にこの店のことを思い出したのは、更に一年後になる。
***
忘れた、というよりは多忙だった。
自宅やスポーツクラブから少し遠いここに立ち寄るだけの時間がなく、また息つく暇もない一年で、あのジャズバーでの出会いが昨日のことのように思えた。
久方ぶりに現れたヴィクトルに「アンタ酷い奴だな」とカウンター席の客に詰られた。
「カツキはずっとアンタを待ってたよ。この一年、可哀想で見てられなかった。店に入るたびヴィクトルじゃない…ってガッカリされるこっちの身にもなってみろ」
「カツキ……ってあのピアニストの少年」
「ああ見えても二十四だぜ」
驚いた。ここに来ると驚きの連続だ。いくら東洋人が若く見えると言っても、あれは幼い。
ともあれカウンターに腰かけると、バーテンとは別の従業員らしき人物が奥へ引っ込んだ。
おすすめのを、と頼んだところで誰かが慌ただしく出てきた。バーテンが眉を顰め、ひょいと腕を伸ばしてそれを受け止める。
「カツキ。杖はどうした」
「えぇえと、あの、だってヴィクトル来たって」
「すぐそこの席にいるよ」
「えええええ」
ぱか、と少年……改めカツキ青年は目を開いた。チョコレート色したきらきら輝く大きな瞳。目が見えると余計に幼く感じる。
見えていないと分かっていても、彼に手をあげて笑顔を向けた。
「はあい。ヴィクトル・ニキフォロフです」
「ふぁあああ」
耳まで真っ赤に染めてのけぞろうとするもので、バーテンがまた嘆息しながら彼を支えている。
「まあ、このとおりアンタのファンで、そそっかしい所のある奴でして」
「ボックス! ボックス席来てください! 演奏するから……!」
「カツキ、落ち着け」
宥められても聞いていない。えと、えと、とカウンターを出ようとして手をわたわたさせている。奥から出てきた従業員が苦笑まじりに彼の肩を抱いて、ピアノまで誘導してやった。
ボックス席にと言われたのでヴィクトルも出された酒を持ってついてゆく。
「ああああの、リクエスト…ありますか?」
「君の好きな曲が聞きたいな」
「…………!」
暗い店内でもわかるほど、ボンッと真っ赤に膨れてしまった。あんなにガチゴチで演奏できるんだろうかと見守っていたところ、案の定でだしが調律しそこねたピアノのように酷い。
ブラインドタッチで弾いているため、指の位置を間違うと惨事になるようだ。
「~~~~~~!!」
顔を覆い、暫くピアノの前で悶えてから。
すぅ、ふぅ、と何度か大きく息をつく。
柔らかなタッチからゆったりした音が流れ出し、メロディが乗ってヴィクトルは目を瞬く。
離れずにそばにいて――――今シーズンのヴィクトルのプロだ。
この曲をピアノでやるのか。できるものなのか。
緩やかで叙情的な音律が店内を満たす。
美しい。掛け値なしに美しい。原曲とはテンポもリズムも微妙に違うアレンジ。だというのに、アリアが聞こえてくる。
酒を口に運ぶのも忘れ、ヴィクトルは呆けたように吐息を漏らす。
演奏を終えてピアノから手を離し、余韻に浸ってから……彼は両手で顔を覆ってしまった。例によって耳まで真っ赤だ。
「カツキ。今日は他の奏者がくるから引っ込め」
「え、もう!?」
「他に仕事がないなら、こっちにおいでよ」
誘ってみると、カツキはうさぎのように飛び上がって椅子から転げ落ちた。もう笑うしかない。
歩み寄って彼の手をとり、優しくエスコートして席へ導いた。他の客が口笛を吹き、カツキは不思議そうに首を傾げている。
彼は知らないのだ。男がレディをエスコートする姿など。
彼にも飲み物を、と注文し、改めて盲目のピアニストに向き直る。
「カツキ……だっけ?」
「ユウリです。ユウリ・カツキ」
「珍しいね。東洋人がロシアでピアニストをやってるなんて」
「あ、えと、親の仕事の関係で子供の頃にロシアにきたんですけど、みんな死んじゃって」
悪いことを聞いてしまったかな、と酒を煽る。だが、ユウリの顔に暗さはない。
「物心付く前からオモチャのピアノいじって育ったので……雇ってくれそうなお店さがして頑張りました」
「十五の東洋人の子供が演奏を聞いてくれと頼み込んでくるから、何事かと思ったさ」
気難しそうなバーテンだが、思い出話をする彼の口調は柔らかい。あえて口に出さなかったが、十五の、それも目の見えない子供が、必死に食い扶持を探す姿は痛ましいものだったろう。
「オモチャのピアノって……レッスンは受けたことないの?」
「あ、六歳の時にキーボードは買って貰ったんですけど。イヤホンつけられるやつ。でもまともな勉強はしたことないんです」
「こいつ、ここの他にもリサイタルとかで呼ばれるんだぜ。一度なんかは有名なマエストロに惚れ込まれてオーケストラとやらないかって誘われたんだが……」
「楽譜の読み方も専門用語も知らないのに、オーケストラなんて無理だよ!」
そのマエストロも、それだけユウリのピアノに惚れ込んだのだろう。それほどの魅力はある。
「……すこし失礼な質問になるかもしれないけど。どうして俺のファンなの? というか、ファン……でいいんだよね」
「あ、はい! 小さい頃にアイスショーにつれていって貰って、そのときから………」
「えぇと、その。スケート、わかるの、かな。うまく言えないけど」
「はい! 氷を切る音が優雅で………」
「カツキは足音やスケート靴の音を聞けば頭の中で立体が浮かぶらしい」
それは凄い特技だ。それでピアノに隠れていても、踊る客にあわせて演奏できたのか。いや、そもそもステップにあわせて音をつくるスキルも信じがたいほどだ。
「テレビだと氷を切る音が聞こえないんで……生で見ないと分からないんですけど。それでもずっと憧れてて」
「ヴィクトルが滑った曲は全部演奏できるんだよな」
「バラさないで!!」
ソファに倒れて蹲ってしまった。あんまり勢いよく動くものだから、見ているこっちがハラハラする。テーブルに頭を打ったらどうするつもりだ。
「ユウリ」
向かいの席のソファに突っ伏してしまったピアニストの名を甘くささやき、覗き込む。
「今まで色んなファンに好きだ、応援してるって言われてきたけど―――こんなに感激したのは初めてだ。ありがとう」
音や気配で物を立体的に捉えられるとしても、彼は色を知らない。ヴィクトルとは生きている世界が違う。それでもヴィクトルのスケートが彼には「わかる」と言う。
彼の中にだけある世界は、きっと美しい。その世界の住人になれたことが心から嬉しかった。
「君の演奏をもっと聞きたいんだ。でも、俺は滅多にこの店には来れなくてね。どうしたらいい? もちろん店には仲介料を払うし、君にも演奏料を払うよ」
「え? えと……どうしたら、って………」
「じゃあ、アンタが望む時にカツキを貸し出してやるよ」
バーテンから鶴の一声。ええ、とユウリは起き上がろうとして、テーブルに頭を打ち付けた。本当にそそっかしい子だ。
「その代わり、送迎はちゃんとやれよ。そんなんでもウチの看板だからな」
「そんなんでもって………」
ユウリは落ち込んでいるが、バーテンの言葉を意訳するなら「怪我させたら承知しねえぞ」というところだろう。
ヴィクトルはユウリのレンタル料などの話を詰め、浮かれ気分で帰宅した。
***
ユウリを呼び出せたのは、幸いにも次の週だった。
事情を話してハイヤーに足を頼み、チムピオーンスポーツクラブの前で待っていたヴィクトルは、現れたユウリの姿に意表を突かれた。
「あ、あの。私服で……って言われたので。ちゃんとスーツ持ってきてるんですけど」
前髪を下ろし、やぼったいコートにマフラー。
幼く見えるとはいえ、艶っぽい黒のジャズスーツで演奏する姿はなかなか凛と麗しかった。人はこんなに化けるものかと感心するほどだ。
だが、これはこれで愛嬌があっていい。
「今日はそのほうがいいんだ。おいで」
腕をとって彼の歩幅に合わせながら、ゆっくりとスポーツクラブに入る。
ユウリは冷やりとした空気と、スケーターたちが削る氷の音に「え、え?」と驚いていた。
「あの、演奏……」
「残念ながらピアノは持ち込めなかったんだけどねー」
ユウリの手を導いてリンクサイドに設置したシンセサイザーにそっと触れさせる。
「三年前のプロ、ピアノ協奏曲だったけどソロでいける?」
そもそも連弾でなければ不可能な曲だが、彼はヴィクトルの滑った曲を全て弾けると聞いた。ユウリならできる、という確信もある。
「できます、けど……」
また縮こまってしまった。
「も、もしかして僕の演奏で滑ってくれるんですか?」
「うん」
「…………………!!」
「ユウリ。危ないからここで悶絶するのはやめようね」
顔を覆ってへたりこんでしまったユウリ。いわゆる女の子座りだ。放っておくとそのまま転げ回りそうだったので、腕をとって立ち上がらせる。
「ヴィクトル。そいつ誰だ?」
休憩で上がったらしいユーリがキーボードの前に立つ東洋人を睨みつけている。が、睨んだところで意味がない。ユウリには見えていないのだから。
「この子はユウリ・カツキ。ユーリとは同じ名前で、ピアニストだよ」
「あ? ピアニストって……」
目を閉じた状態の東洋人をじろじろ見、ユーリはそれ以上を語らなかった。ユーリは口の悪い子だが、根は優しい子だ。
そして何を思ったか知れないが、ユウリはキーボードに向き直って指をキーに軽く滑らせた。
ジャン、と激しい和音の後、凄まじい指捌きでアレグロ・アパッショナートを演奏し始めた。ユーリがの口が顎が外れたように開く。
「ユーリの曲も弾けるんだねえ」
「一回聞いたら大体覚えます。原曲とは違うものになるし、同じ演奏は二度と出来ないんですけど……」
半端なところで演奏をやめ、ユウリは苦笑する。
ヴィクトルは銀盤に降り立ち、中央まで緩やかな軌跡を描いて「いいよ」と合図する。
すぅはぁ、と何度も深呼吸を繰り返すユウリを、ユーリがじろじろと見ている。気になって仕方がないらしい。
やがてユウリは珍しく目を開いた。きっと鋭く鍵盤を睨み、腕を伸ばして黒盤を端からスライドさせ、ハープのようなグリッサンドから入った。
音階を上げながらディレイをかけ、音で尾を引かせるように深みを持たせながら演奏を始める。
えらくキラキラしい曲にアレンジされたものだ。だが、これは気持ちいい。音にハメるのではなく、音が追ってくる。まるでこちらの呼吸まで捉えるかのような演奏だった。
ところが、ここからが佳境、と漕ぎ出したところで、音が止んでしまう。
ヴィクトルだけでなく、いつの間にか見入っていた周囲も突然とまった音楽に拍子抜けし、ユーリが「おい!」と叫んでいる。
「むり……しあわせすぎて………もぅむり…………」
気づくとユウリは鼻水垂らしてぼろぼろ泣いていた。慌てて滑り寄ると、どうもかなり冷えているようで、指先も赤い。
「ユーリ、ティッシュ!」
「ねえよ」
「じゃあタオル!」
「俺のタオルでコイツの鼻水拭く気か!」
兄弟弟子がコントしている間に、本人がポケットからティッシュを出して顔を拭っていた。
泣かれるのは苦手だ。名を呼びながら肩を抱くと、また大きな瞳から大粒の涙が大量に溢れる。
「こんなの僕のほうがお金払わなきゃいけないじゃないですか……」
「君の演奏を聞きたくて無理に呼び出したのは俺だから。思ったとおり素晴らしかったよ」
まともな教育を受けていないとは思えない、高度なテクニックまで習得していた。子供の頃からピアノばかり弾いて育ったといっても、あの独特のセンスは一流のピアニストにひけをとらない。
ピアノは最もポピュラーで最も残酷な楽器だ。巧拙に関わらず、奏者のセンス次第で全く別の楽器に変貌する。どれほど技巧に優れていても、ピアノの音しか引き出せない奏者は人の心を打たない。
「次シーズンの曲の演奏をユウリにお願いしたいんだ。それと、エキシの生演奏も……無理かな?」
ユウリとはイマジネーションが死にかけて迷走していた頃に出会えた。窓越しに聞いたキャラバンの到着で横殴りにされ、アリアの演奏を聞いた瞬間、彼のピアノに惚れ込んだ。
しかし、この調子だと無理そう……だな! 無理だな! ぼろ泣きのユウリをハグして懸命にあやす。
同時に愛しくも思う。こんなファンがいるヴィクトルは幸せ者だ。
「や、やりたい…です。やります!」
乱暴に目をこすりながら、それでもユウリはしっかり強い目でヴィクトルを見返す。見えていないはずの瞳に、ヴィクトルの顔がしっかり映り込んでいた。
***
作曲家に原曲を受け取ってから、スタジオを借りて幾度か勇利に弾いてもらったところ、本当に勇利は同じ曲を二度弾けないらしい。
時々は遊び心が起きるのか、がらっと雰囲気を変えてアレンジしてしまう。
そのすべてを録音して、どれをプロに使うべきか吟味した。
ところが、どの録音で滑っても、あまりに独特なクセある演奏のため、うまくリズムを合わせることができない。
一番いいのはヴィクトルが滑っている音を聞いて貰いながら演奏してもらい、録音することだが……それではノイズが混じってしまう。
やはり無理な注文だったろうか。諦めかけもしたが、それを彼にどう伝えていいか分からない。あれほど「弾きたい」と熱望し、ヴィクトルも彼の演奏で滑りたいと強く願っている。
しかし、現実は厳しい。
何度も繰り返される録音の最中、ふうっと勇利が顔を上げた。
「ヴィクトル。誰もいない静かな環境で滑ることはできる?」
「ん? そうだね、夜に貸し切れば可能だよ」
「なら、イヤホンで原曲を聞きながら滑って、氷を切る音を録音してください」
なるほど妙案だ。音から立体が動く様を脳内に浮かべることのできる勇利なら、ダンスのステップ音に演奏を合わせることのできる勇利なら、闇雲に原曲をアレンジするよりそのほうがいい。
数日後に誰もいないアイスリンクでプロの滑走音を録音したヴィクトルは、改めて勇利を呼び出し、収録したMP3とイヤホンを勇利の手に握らせる。
勇利は音楽に聞き惚れるように少し俯いて集中していた。何度も繰り返し再生し、時には同じ箇所ばかりリピートする。
こんなに長くかかるとは思わなかった。いっそ勇利をいったん帰らせるべきかと悩んだほどだ。勇利は三時間もたっぷり聞いた後でほー……と長いため息をつく。
「いつもノイズや歓声や拍手が交じるから……こんなに間近でヴィクトルのスケートを聞いたのは初めて」
まるで僕のためだけのアイスショーみたい、と頬を染めて語る勇利の姿がヴィクトルも嬉しく、時間を見つけて過去のプロの「特等席」も用意しようと心に決める。
暫く余韻に浸っていた勇利は、ぱちっと瞼を開いてMP3の再生ボタンを押した。
「行きます」
指を弾ませて力強く軽妙なトリルの導入。原曲とまるで違う……というか、
(ディキシーランドジャズ……!?)
古きよきアメリカを彷彿とさせるクラシックジャズアレンジ。いまにもジュークボックスから流れてきそうな曲調だ。
だが、アンサンブルやビッグバンドが主流だったディキシーランドジャズとは違い、ピアノソロで賑やかで華やかに、かつ丁寧に積み上げてゆく。どこか怪しげで愉快で……
まるで童心に帰って悪戯を企む大人の悪ふざけを思わせる。
そして、恐らくそれは――――今のヴィクトルが一番やりたいと思っていることだ。
この曲のテーマは「リボーン」。
今までの己を殺し、新しく生まれ、初心に還る。
原曲はそれを厳格かつ荘厳に演出しているが、勇利はそれを面白おかしく、古めかしいジャズで見事に表現しきった。
新しく生まれるという演目を、わざわざ古い手法で。
これも一種のリバイバルと呼べるだろうか。斬新で新鮮だった。
この子は音楽理論など知らない。存在すら知らないかもしれない。
だが、物語の起承転結を紡ぐようにメロディを組む。天性のバランス感覚と呼ぶべきか……
弾き終わり、音の尾が空間に霧散する。
ふいーと息をついた勇利が額の汗を拭って一息ついてから、はっとしたようにわたわたし始める。
「あ、ごめ、ごめんなさい! なんか貴方のスケートを聞いていたら、こういうふうにしたくなって、それで、あの」
ヴィクトルが黙っているので怒られると思ったのだろうか。
勇利の言い訳の声がどんどんしぼんでゆく。
ヴィクトルは録音室の扉を開け、思い切り勇利に抱きついた。
「ひ、うひゃ」
「いいんだ。これでいいんだよ!!」
少し硬い丈夫な髪に頬ずりし、ヴィクトルは喜びを声とハグとで勇利に伝えた。
どうして俺の心の奥底の声が聞こえたの?
君にだけ聞こえる特別な音があるの?
ゆうり。ゆうり。
この感情をどう表現していいか、分からないくらいだ。
[newpage]
完成した曲を流してご機嫌のヴィクトルを、ユーリがちらちら見ている。ヤコフに怒鳴られながら。
休憩時間になってから、狙ったようにそそっと寄ってきた。
「さっきの、あいつのか」
「あいつって?」
分かっていながら満面の笑顔で首を傾げた。ユーリが口をひんまげる。
「だ、だだ、だから……あいつ、その、ヘンテコなピアノ弾くやつ!」
あの一件でよっぽど気に入ったらしい。ヴィクトルとユーリは琴線が近いのかもしれない。
「実は今日、彼の店に行くつもりなんだけど」
「!」
「でも、ユーリは未成年だしなー。ヤコフとリリアに聞いておいで」
言うと、ユーリは何も返事せずぴゅっと小魚のように氷上を滑っていってしまう。
早めに切り上げることと、酒を飲まないこと、ヴィクトルがきちんと監督することを条件にユーリの外出が許可された。
タクシーの後部座席で運ばれる間、ユーリはずっと落ち着かなかった。ジャズバーに行くのも初めてなら、あの時の彼に会いに行くのが嬉し恥ずかしい年頃なのだろう。微笑ましさの塊のような子だ。
乱暴にジャズバーの扉を開き、来てやったぞとばかりふんぞり返る。
バーテンも常連客も、突然現れた未成年―――それもヴィクトルに次ぐロシアのスケーターが現れたもので、背後のヴィクトルに「何をつれてきてんだ」という目を向ける。
勇利は演奏中だった。本日のナンバーはイングリッシュマン・イン・ニューヨークのジャズアレンジ。ジャンルとしてはポップに入るが、ジャズとの相性は抜群だった。勇利のドラマチックな演奏によく栄える。
慣れない内装の店に落ち着かないユーリをボックス席に座らせ、酒とミルクを注文した。
その声で分かったのだろう。急にピアノが不協和音を喚かせた。
「え、あ、もしかしてヴィクトル来てます!?」
「来てる。が、仕事をしろ。干すぞ」
「すみませ……あれ、どこまで弾いたっけ」
「マヌケ」
ユーリがニヤニヤしながら呟いた。
ユーリが来ていることも、今ので分かったのだろう。勇利は先程の曲を諦めて、アガペーを弾きはじめた。不意打ちを食らったユーリの耳が赤く染まる。
一曲終わらせてから、勇利はもじもじしながらヴィクトルが「いるであろう方向」を気にしている。バーテンがため息つき、店内に録音された過去の演奏が流れ始めた。
お許し頂けたようなので、ヴィクトルは以前と同じように勇利を優しくエスコートし、ボックス席に連れてきた。わざわざユーリの隣に座らせ、自分は向かいに腰かける。
「えぇと、プリセツキー…さん。来てくれたんですか」
「べつに。深い意味はねーよ」
「深い意味でこの店に来る人なんかいませんよ」
笑う勇利に、ユーリのほうは不機嫌そうだ。今この店の中で一番「深い意味で」来店しているのは彼だ。ヴィクトルとてただ勇利の顔が見たかったのと、演奏を聞いて軽く呑みたいという気楽な理由できた。
「もう少ししたら、ちょっと有名なサックス奏者の方がきますよ」
「どうでもいいし。ジャズとか興味ねえし」
「ジャズ嫌い?」
「ききききらいではねーし! 眠たいのは嫌いだけど」
ユーリのことだ。ジャズなんて退屈なジジイの音楽、とでも考えていたのだろう。彼の演奏を知るまでは。
「あの、ヴィクトル。完成した曲どうでしたか?」
「最高だったよ。その報告に来たんだ。もうあのプロはあの曲しか考えられない」
「はー……よかった」
ふにゃん、と輪郭が溶けるほど緩みきる勇利。ああ、可愛い。可愛いったらない。
「僕の演奏が全世界に流れるなんて信じられないなあ。テレビで流れるんだよね?」
「当たり前だろ。ヴィクトルのプロだぞ」
「ヴィクトルのファンに怒られたりしないかな? 大丈夫かな」
「プロの曲演奏してる奴に興味持つ奴なんかいねーよ」
「そう? ならよかった」
でも恥ずかしくてテレビつけらんないかも……と縮こまっている。本当に緊張しぃだ。リサイタルを開くこともあるらしいが、ちゃんと演奏出来ているのだろうか。
頬杖をついて二人のユーリを眺めていたヴィクトルを、勇利が急に目を開けて見つめた。
「どうかした?」
「あ、あの……厚かましいかもしれないけど。ほ、報酬のことでちょっと……えと、お金いらないので、代わりにお願いがあるっていうか」
「なに?」
お金の代わりにおねだりなど、いじらしいこと言う。
それも、その内容が「顔に触れさせてもらいたい」というものだった。
「あ、僕、目がこうだから、直接触らないと人の顔もわからなくて……ヴィクトルってよくテレビで凄くカッコいいって聞くから、どんな顔してるのかなって」
指を弄りながら一生懸命主張するのが可愛くて可愛くて、ヴィクトルは向かいの席に移動した。奥へ追いやられたユーリが「せめーよ」と文句を言っている。
「はい、どうぞ」
勇利の手を自分の顔に導き、目を閉じる。少し緊張して震える指が、遠慮がちにヴィクトルの輪郭をなぞった。そんなに恐る恐る触れられては、かえってくすぐたい。
「うわぁ、なんか、凄い。磨いた彫刻みたい。あ、おでこ広い?」
「………そんなに危険か」
「あ、いやそんなじゃなくて!! えと、えと、あと……あ、鼻が高い。目も彫りが深くて……きれい」
目を細めてうっとり微笑む勇利の顔。抱きしめてキスしてやりたいほど愛しい。
そう考えてから、ヴィクトルはずいぶん彼のことを気に入っている、というより惹かれてやまないことに今更気づく。
もとより興味はあった。彼というピアニストに。
だが、今の感情はもう、彼個人に―――恋をしている。
「ありがとうございました」
手を離し、照れに照れ、満足そうな顔。
だが、ヴィクトルは再び彼の手をとって、笑う唇に触れさせた。
「ここ、まだだよ?」
「………!」
あえて唇には触れないようにしていたのだろう。暗い店内でも分かるほど顔を真っ赤に染め、きつく目を瞑ってしまう。その様子が思いの外ブサイクだ。だが、そこも可愛い。
「おいヴィクトル、もう時間だ」
「あれ、早いな。ゆうり、また来るよ」
「あ、はい!」
勇利を引き起こし、ユーリを席の外に出してから、二人は店を後にした。
「ピアノ買おうかなあ。俺の家に置きたい」
「あ? まさか呼ぶ気か」
「うん。俺の家でケータリングと美味しいお酒用意して、勇利に演奏してもらう」
「手ぇ出すなよ」
釘を刺されたが、それは雰囲気と流れ次第だなーと口には出さず返事もしない。
だってこんな気持ちは初めてなんだ。
あの子はたぶん、ヤコフ以上にヴィクトルのスケートを深く見てくれる、世界で一番の理解者だ。
[newpage]
まだ心臓がどきどきと煩い。
あの人が来ると、いつもこうだ。いや、来ていない時もか。いつ来るか、また来てくれるかと、一年前から期待が絶えない。
人の顔に触ってまで形を確認することは、滅多にない。不躾だし、相手だって顔をべたべた触られるのは嫌だろう。
せいぜい勇利が触れるのは、人形や彫刻、あるいは自分の顔くらいだ。人間というのはこういう顔をしている、と把握するために行う作業で、深い意味はない。あとは店員やバーテンなど、長い付き合いの人だけだ。
それにしても整った顔立ちだった。ふつう、生の人間はどこかデコボコしていたり、曲がっていたりするのに、どこもなだらかで完璧な造形をしていた。睫毛が長くて、すっと切れ長の目をしていたのが瞼から分かった。
「ユウリ、気が済んだならもう一曲弾け」
「あ、はい」
サボってばかりでは給料が減る。慌ててピアノに戻り、鍵盤に指を置いた。
――――と。
誰かが近寄ってきた。リクエストだろうか。
「お客さん、なんでアンタ、酒瓶なんか持って………」
バーテンが訝しんだ声を上げる。
彼が質問しきる前に、強い衝撃がこめかみを襲う。
なに、と思う前にピアノと、次いで床に頭が叩きつけられ、痛みにうめき声を上げた―――と思う。
「――――、――――」
叫ぶ。何も聞こえない。
痛みに苦しみながら耳に触れる。ぬっとりとした液体の感触。
「―――――!?」
なんで。なんで。
何も聞こえない? 自分の声も、周囲の音も。
なんで。
[newpage]
勇利が暴漢に襲われて入院した、という知らせをヤコフから聞かされた。
あの店のバーテンがこのスポーツクラブのアドレスを調べて連絡を入れてくれたらしい。
練習を放り捨てて教えられた病院に駆けつけ、ナースに注意を受けながら病室に飛び込んだ。
そこには、背中を丸くした私服姿のバーテンと、頭に包帯を巻きベッドで上体を起こす勇利の姿があった。
とりあえず勇利の意識があることにほっとする。
「………アンタか」
振り返ったバーテンに頷き、勇利に歩み寄る。
「勇利。俺だ。ヴィクトルだよ。怪我は大丈夫?」
「…………」
下を向いたままの勇利。反応もしない。いつもヴィクトルの声を聞くと、子犬のように喜んで笑うのに。
暴漢に襲われたことで心に傷を負ったのだろうか。様子がおかしい。不安になり、声をかけながら勇利の手に触れようとするが……
バーテンがハッと顔を上げた。
「だめだ、さわるな!」
警告を聞き入れる前に、ヴィクトルは勇利の手を握ってしまった。
それまで大人しかった勇利が、びくっと過剰に震えて身を捩る。
「なに!!!!! だれ!!!!! だれかいるの!!!!」
「ゆ………」
「だれ!!!!!!」
病室の外まで響き渡るほどの大声を張り上げる勇利。気圧され、手を離した。
「耳をやられたんだ」
バーテンが消沈した声で言う。
「この前アンタが店に来て帰った後、酔っ払った客が勇利の耳のあたりを酒瓶で思い切りぶん殴った。理由はアンタにべたべた触るとこがゲイみたいで気持ち悪かったから、だとよ。
一見の客で、勇利の目が見えないことすら知らなかった」
バーテンも、常連客も、暴漢を取り押さえて勇利を介抱しようとした。
勇利は搬送される間もずっと叫び続けていたらしい。自分の声も、なにも聞こえないことに恐怖して。
聞こえないから過剰に叫ぶ。人は、自分の耳にちょうどいいボリュームで話すのだ。耳が遠くなったベートベンが、大声で話していたという逸話が残っているように。
ヴィクトルは呆然と、怯える勇利を見下ろしていた。
(この子は、音の世界で生きていて………)
生まれつき光に見放され。
音の世界で生きて、ピアノを愛し、スケートを耳で感じていた。
「なんだってこんな事に………十五でコイツを雇ってから、ずっと息子みたいに面倒見てきたんだ。常連客の殆どだってそうさ。
どうして神はあんなヤツに、コイツのピアノを奪う権利を与えたんだ」
いまになって気づいたが、バーテンは泣いていた。悔しさに泣いていた。ヴィクトルが来るずっと前から。
ヴィクトルはそのシーズン、勇利の演奏を録音したプロで優勝し、競技生活を終えた。
***
鼓膜が破れただけならよかった。鼓膜はすぐに再生してくれる。
だが、勇利の場合、高次脳機能障害による聴力の喪失らしい。骨振動による音も拾えないとのことだ。
医者が掌に文字を書いて意思疎通した為、現在は自分の状態を把握し、なるべく声を出さないよう息を潜めて生きている。
何度めかの見舞いに来たヴィクトルは、勇利がついた手の傍のシーツをトントン、と指で叩く。
そうすると勇利は手探りでヴィクトルの手を探し当て、きゅうと握る。勇利とヴィクトルだけの合図だ。
『お は よ』
掌に文字を書く。勇利はこっくんと頷いた。
『た い ち ょ う』
再び勇利が頷く。
勇利はもう殆ど回復している。身体的には―――
だが、もう彼はピアノを弾くことはできない。唯一の特技を失い、生きる糧を稼ぐ手段がなかった。
本来なら施設に行くべきなのだろう。
『お れ の い え』
勇利が首を傾げた。
ヴィクトルは続けて文字を描く。
『 ぼ う お ん に し た 。
ぴ あ の 、 あ る 。
う ち に お い で 』
勇利が眉を寄せ、首を傾げ、頭を振る。
ヴィクトルはプロの演奏を依頼されたことがある程度で、そう親しい仲ではなかった。こんなことをする義理も理由もない。
それでも。
『 お れ の こ え 、 お ぼ え て る ? 』
勇利はすぐに頷いた。力強く、速く。
だが、それだけにもう聞こえないことが悲しいと、そう言いたげに涙を零す。
ヴィクトルはその頬にキスをした。急に感じた柔らかな感触に、勇利がびくっと身を竦ませる。
『 ぴ あ の 、 ま た ひ け る
お れ は し ん じ て る 』
「なんで」
思わず声を上げた勇利が、口を覆う。自分の声が煩くて、他の患者の迷惑になっているのを散々注意されたからだ。
『 お れ は プ ロ に な る
ゆ う り の え ん そ う で す べ り た い
う ち に お い で 』
勇利の喉から嗚咽が漏れた。
ぽん、ぽん、とその身を覆うように肩を抱きながら、勇利が泣き止むのを待つ。
いいの、と勇利が潰れそうに囁いた。
勇利にはヴィクトルの顔は見えない。
勇利にはもうヴィクトルの声も聞こえない。
それでも彼の手を両手で包み、一番の笑顔で、声に出して言った。
「いいんだよ!」
【書き直す予定の後編】
目が見えないことで不自由じゃないか、不便じゃないかと聞かれたことが何度かあった。
しかし、勇利にとっては当たり前のこと。自分が何かをする時に踏む余計な手順を省いて動けることについては羨ましく思うが、それだけでもあった。
視覚という概念自体が人とズレていた。勇利は空間把握能力に優れており、頭の中で座標地図を作って、気配や音で大体の物の位置を察することが出来たので、余計にだ。
あるとき、家族に観光地へ連れていって貰ったとき、近場にいた観光客らしき誰かが言った。
「見えないのにこんな所に来ても意味ないんじゃない?」
確かにその宮殿に行った時は、あまり意味がなかったかもしれない。金色で丸い屋根があって~と説明されたもピンとこない。
けれど、もし「どうせ見えないから意味がない」という理由でアイスショーにつれていって貰えなかったら、勇利がヴィクトルに出会うことはなかった。
ロシアに来てから、何度かスケートをしたことはある。細い鉄の板みたいなもので支えられた靴で氷の上を滑るなんて、手を引かれてても怖くて怖くて出来なかった。
だというのに、スケーターはあんな靴を履いて凄まじい勢いで硬い氷の上を走る。
とりわけヴィクトルは凄かった。いろんなスケーターが登場したが、ヴィクトルが一番きれいな音で氷を切った。
間近でシュゴッと音を立てて「消え」、着地の音も優雅で。
浮いてる時間が長くてびっくりしたけど、回転しながら跳んでいると教えられてもっと驚いた。
なによりも、勇利が大好きな音楽でこんなに全身と氷で「奏でる」ことに心を奪われた。
アイスショーも前の方の、よく音が聞こえる席でないと聴覚に頼って観戦する勇利には意味がなく、めったには行けなかった。
テレビで放送されていると知ったとき、初めて見えないことが寂しいと思った。勇利には、音楽プレイヤーとテレビの区別がつかない。映像がどんなものかも想像がつかない。勇利の頭の中にある位置関係と、感触から想像した立体以上の何かがあるらしい。色とはどんなものだろう。空と海は青いとか、木の幹は茶色とか、知識でしか知らない。
だが、ヴィクトルは雲色の髪と空色の瞳をしているという。
それを聞いて初めて「色って凄い!」と思った。
ヴィクトルはロシアで有名人ゆえに、何かと耳にすることが多かったのも憧れの一因。
彼が選ぶ音楽はいつも素晴らしかった。ヴィクトルが滑っているつもりで何度も彼の演目を演奏した。
勇利がピアノで食べていけるようになったのは、ヴィクトルのおかげもある。
家族が勇利を遺していなくなってしまった時、悲しみより先に「これからどうしよう」という不安のほうが先だった。
いつも助けてくれた家族の手、声がなくなってしまったことへの寂しさはあっても、死という概念は実感から遠い存在だったのだ。
施設に、と言われたものの、勇利は一人で生きていきたいと飛び出した。
ロシアに来ることになったとき、言葉が通じないことへの恐怖はあったが、音楽に国境はなかった。ピアノさえあればきっと何とかなると信じていた。
人に話しかけることは苦手だったけれど、音楽で食べていける場所を探して、運良くジャズバーに拾われた。
最初は優しくなどされなかった。うちも余裕はないから、客にウケなかったら雇えないと言われ、必死で演奏し続けた。
少しずつ、勇利の演奏を聞きに来るお客さんが増えて。
リサイタルをやらないか、と誘われるようになって。
マスターがあれこれ面倒見てくれるようになって。
そうして生活が落ち着いたころ、勇利はやっと家族を失って一人になったということを思い出し、初めて泣いた。
その時もラジオではヴィクトルのインタビューが流れていた。
『貴方は挫折を感じたことなんてきっとないんでしょうね』
『そうかもしれない。上手く跳べない時期や、怪我をしたことはあったし、経済的に苦しい時期もあった。
ただ、俺はそれらを気に病んだことがないんだ』
彼の言葉は勇利を励ましてくれた。
助けてくれる手がない生活は、不便なんてものではなかった。家から店は遠くて、マスターの好意で近くのアパートに引っ越すまで、毎日何時間も歩いた。
火を使うのは難しいから、自宅ではそのままで食べられる食料ばかり食べて。これは今もそうだだが。
どこかが極端に汚れても、匂いが酷くなるまで気づかなかったりする。
「なぜ施設に入らず、一人で生きていこうと思ったんだ?」
マスターに問われて初めて気がついた。なんでだろう?
「だって、ヴィクトルはそうしていたし」
ロシアではスケート支援でそうやって家計を支えている子供は沢山いる。なら自分だって出来るはずだと信じていた。
大変といえば大変な人生だったけれど、勇利は恵まれていた。
勇利には音楽とピアノがあった。
そのおかげで仕事も出来たし、ヴィクトルに出会うこともできた。
音が、あったから。
[newpage]
目が見えないのって不自由じゃないの?
そう聞く人たちの意図が、やっとわかった。
見えている人たちが急に見えなくなったら、きっとこんなふうに感じる。
見えない。音も聞こえない。
自分しかいない世界の檻に閉じ込められた絶望感。
触れてくる相手が誰かも分からない。もしかしたら、またあの酔っ払いみたいに暴力を振るうために触れてきたのかもしれない。そう思うと怖くて怖くてたまらなかった。
もう、ピアノを弾けない。
スケートの音を聞くこともできない。
ヴィクトルの澄んだ声も聞こえない。
虚ろに寝込む日々の中、マスターやお店の常連さん、ヴィクトルが何度か御見舞に来てくれた。
こんな状況になっても、手に文字を書いてくれれば意思の疎通ができることが、なんだか泣けるほど嬉しくて、悲しかった。嬉しいと思えることが悲しかった。
生きる気力を失いかけていた時、ヴィクトルが言った。
「うちにおいで」
ヴィクトルは勇利がまたピアノを弾けようになると信じているという。
勇利自身が諦めていたのに、ヴィクトルは勇利を信じてくれた。
なぜ僕を、と聞くと、ヴィクトルはこう書いた。
「奇跡はね、起こるんじゃなくて起こすんだ。俺はいつもそうしてきたよ!」
[newpage]
ヴィクトルはもともと引退したら一年は休養するつもりだったらしい。
「今まで目が回るくらい忙しく生きてきた。ゆっくり暮らしてみたい」
ゆっくり休みたいのに、勇利がいては意味ないんじゃないかな、とは言えなかったけれど。
ヴィクトルは自分の家をどんどんバリアフリーに改造していった。
勇利が動きやすいように家具を移動させて、時には家具自体を入れ替えて。
迷惑じゃないか、そんなにお金を使って大丈夫かと不安を覚えたが。
「新しい家に住むとき、食器や家具、必要なものをそろえるのにワクワクしなかった? 俺はいま、そのときと同じくらいワクワクしてる」
どの壁にもある手すり、角という角にあるクッション。
棚という棚に点字のラベルがつけられて、いたれりつくせり。
あんまり凝るので、この人は本当に楽しくてやっているんだろうな、と伝わってきた。
勇利のために空けたというピアノ部屋の扉には「宝箱」というプレートがつけられて、点字だけではなく普通の文字も刻まれていることに驚いた。なんでここが宝箱なんだろう?
ヴィクトルはローマ字式指文字を覚えてくれて、意思疎通はかなり楽になった。
勇利とヴィクトルの距離はいつの間にか近くなって、よくヴィクトルに後ろから抱っこされる形でお互いの指を握りながら色んな話をした。
何も聞こえない状態でピアノに触れることすら怖くて、部屋を作って貰ったのに何ヶ月も入らなかったが、ある日とつぜん弾いてみよう、と思い立ってピアノの前に座った。
―――すると誰もいないピアノが、ひとりでに鍵盤を下ろしていることに気づく。
驚いて指を鍵盤に這わせる。ピアノは自分で演奏を続けていた。
数分ほど理解が追いつかず、まさか幽霊、とまで思い詰めてから、もっと現実的な理由に気がついた。
ピアノ周辺を探ってみると、やはりある。
そのピアノは自動演奏装置がついていた。
いつかマスターが導入を検討していたのを覚えている。あのときは「僕の仕事とる気?」と怒ったものだけれど。
自動演奏、それも勇利の演奏だった。
無我夢中で演奏を追いかける。
鍵盤を押しても、やはり感触しかない。音を返してはくれない。勇利の外の世界では鳴っているのかもしれないが、実は鳴らないピアノだったり、調律してないピアノでも、勇利にはもう分からない。
幸い、記憶障害や運動障害は起こさず、鍵盤の位置やリズム、どう押してどこを叩けばどう音が響くのかは体が覚えていたが、記憶とズレが起きれば矯正する手段はなかった。
少なくとも今まではそう思い込んでいた。
『俺はね、挫折を気に病んだことがないんだ』
堂々と言ってのけたヴィクトルを凄いと感心しつつも、心のどこかで「天才さまは言うことが違う」と遠く考えていた。
(こういうことか………)
鍵盤に置いた指にぽつぽつ、涙の雨が降る。
あの人は、ヴィクトルは、本当に凄い人だ。
自動演奏で感覚のズレを直しながらキーを打つうち、脳裏に鮮やかな音が蘇ってきて、本当に弾いているように錯覚した。
錯覚だけでなく、聞こえていないのが嘘のように綺麗に弾けているらしい。
もう一度ピアノを弾くことができた。
ヴィクトルの言うとおりだった。
***
あるとき、勇利と同じ名前のプリセツキーが現れて「次のプロの曲を弾け!」と依頼しに来たときは驚いた。
点字の楽譜を渡されて。だから楽譜読めないってば、と文句を言ったら「じゃあ覚えろ」とのこと。
そういえば、もう耳で音楽を聞いて覚えることが出来ないから、点字楽譜がないと新しい曲は弾けないことにその時に気づいた。
少し前の自分なら、そのことを気に病んだろう。
だが今は「来シーズンまでに間に合うかな?」という焦りのほうが強い。なんとしてでも間に合わせねば。
プリセツキー(面倒くさいのであだ名はユリオ)はそれからしょっちゅうやって来て、ああでもないこれでもない、ああしろこうしろと勇利の掌に注文つけていく。
ついでにピロシキや美味しいと評判のお菓子をお土産に持ってきたり、人使いと言葉使いは荒いが妙に優しい。
隣にユリオの体温を感じながらお菓子を食べると、そういえば僕にはまだ味覚もあった、なんてことを思い出す。これまでだって食事はしていたのに、なぜ気づかなかったのだろう?
あって当たり前のものほど忘れてしまう。
その頃の勇利にとって、いつの間にかヴィクトルは居てくれるのが当たり前の存在になりつつあった。
憧れの遠い人だったヴィクトル。
縁も所縁もない勇利を引き取って、全面的に世話してくれる奇特な人だ。
その晩、ベッドで向かい合いながら手を握り合い、いつものように寝る前のおしゃべりをしている時、改めて伝えた。
「ありがとう、ヴィクトル」
どのことをどう感謝していいかすら悩むくらい、ヴィクトルによくして貰っている。
ヴィクトルは返事の代わりに、きゅうっと抱きしめてくれた。
勇利は彼以外と一緒に同じベッドで眠ったことはない。
最初は戸惑ったが、このほうが補助しやすいからと言われて納得した……というよりせざるをえなかった。一方的に負担をかけているのは此方だ。
今ではすっかり慣れて、寧ろヴィクトルの帰りが遅い夜はマッカチンがいてくれないと寂しくて眠れない。
「アイツにヘンなことされてねーか?」
ある日、ヴィクトルの留守中に遊びにきた……もしかしたらヴィクトルに頼まれて留守番に来たのかもしれないユリオが、勇利の手にそう書いた。
「ヘンって、なに?」
「服の下に触られたり、舐められたりしてねーか?」
「それって変なことなの?」
最初はくすぐたくて、じゃれて遊んでるのかと思っていた。
そういえば途中から何とも言えない気分や感覚に変わっていったかもしれない。あれを「変」というなら、そうなんだろう。
ユリオは隣に座ったまま、もぞもぞ動いてる。何をしてるんだろうと腕を触ってみると、スマホで電話をかけてるようで。
「けっきょく手ぇ出したのか、このスケベジジイ!!」
[newpage]
勇利と暮らすようになってから半年も経つ。
ヤコフにこの話をした時、当然のように反対された。
「お前は盲ろう者についての専門的な知識を持っているのか? 赤の他人を支え続けることがどれほど大変なのかを分かっているのか?」
引退宣言した直後にも関わらず、親のように叱ってくれたことが嬉しくて、思わず抱きついてしまった。ヤコフは余計に怒ったけれど。
「分からないからダメだムリだって諦めてたら、スケーターはジャンプなんか跳べないよ!」
何事も最初は思い切りが一番。
その後のことはその時考えればいい。そのせいで大ケガして死ぬかもしれなくとも、それでもスケーターは勢いをつけて高く跳ぶ。
勇利は退院前後、うつ状態にあると医者に聞かされた。
唯一の生きがいであり、生きる糧であるピアノを失ったことで、勇利は気力を失っていた。
気持ちはわかる。ヴィクトルもこの足を失ったとすれば、二度と氷の上に立てないことをきっと嘆く。
それでも自分のスケートを伝える術がなくなる訳ではない。そのことを勇利にも分かって欲しい。
ヴィクトルはまず、自宅を完全バリアフリー化計画を進め、点字ラベルプリンターを購入。部屋中にべたべたとメモやメッセージを貼り付けてゆく。
場所によっては勇利が気付かずに終わるかもしれない。でも、いつか何かの拍子に気がついて、クスっと笑ってくれればいい。
「こういうの、不思議の国のアリスであったよね」
マッカチンを撫でながら、ラベルまみれの部屋に満悦。
次に―――というより、同時進行でジャズバーのマスターから受け取った勇利の演奏を録音したCDを受け取り、専門家にMIDI化してもらった。
これを自動演奏できるよう業者に依頼し、たところ、大変食いつきがよかった。
「もしや、これはユウリ・カツキの演奏では?」
まさか言い当てられるとは思わず驚いた。
勇利はピーテルを中心に知る人ぞ知る人気のピアニストだったらしい。そういえばリサイタルもやっていたし、何処ぞのマエストロに気に入られたとか、結婚式やパーティーに呼ばれてピアノを弾くことも多かったそうな。
加えてヴィクトルの最後のシーズンのフリーを飾った曲を演奏し、業界人からすれば垂涎ものの一品だったようで、ぜひ商品化を、とせがまれた。
「自動演奏だけでなく、音源があるならCD化を。かのマエストロが愛したピアニスト、ヴィクトル・ニキフォロフの最後を飾った演奏者とあれば、世界中に売り出せます」
鼻息荒く口説かれ、ヴィクトルは苦笑した。
ひとまず勇利の状況を説明する。暴漢に襲われて聴力を失ったこと、今はそれを受け入れることに精一杯だということ。
まさかこのピアニストがそのような目に遭っているとは知らず、彼はショックを受けていた。ただでさえブラインドピアニストであった勇利が、過失事故などではなく悪意によってあの素晴らしい音楽を奪われたことに心を痛めていた。
「そういうことだから、勇利に許可を求める為にもう少し時間が欲しい。
それと、売り出すのにマエストロの名前が必要なのは分かるけど、キャッチコピーにはヴィクトル・ニキフォロフが愛したと入れてほしいな」
そのマエストロとて勇利を口説いてフラレただけで、勇利の音楽に惚れ込んでここまでしているのはヴィクトルだ。そこだけは譲れない。
とにかくその日は自動演奏化だけを頼み、自宅に戻ったところ、扉を開けて「ヴィクトル!」と勇利の嬉しそうな声に出迎えられた。
(なぜ?)
勇利には扉を開ける音など聞こえないはず。
だというのに、勇利は点字の本を投げ出してソファから立ち上がり、真っ直ぐにヴィクトルに向かってやってきた。
そんなバカな!?
視覚も聴覚もなく、ヴィクトルが帰ったのに気づき、方向を誤らず躊躇もなく部屋の中を歩く。そんなことが可能なのか?
ヴィクトルの腕の中にぱふんとおさまる勇利を抱きとめて、彼の手をとった。
「ゆうり、俺が帰ったの分かったの」
「空気が変わったし、気配があったし、マッカチンが反応したから」
ヴィクトルは指文字、勇利は普通に口で発言している。
「ユリオが来ることもあるけど、マッカチン反応しないから」
マッカチンは新しい住人である勇利を家族として迎え入れ、よく彼の足元にいる。
まるで勇利の状況が分かっているかのような動作をする。当然ながら盲導犬の訓練など受けさせていない。賢い犬だとは思っていたが、これほどまでとは知らなかったと感心する次第だ。
自動演奏のことは、伏せておいた。
勇利はまだピアノ部屋に近づこうともしない。彼が受けた傷は、脳以上に心に深く痕が残っている。
彼にはまず新しい世界での生活に慣れてもらうことと、ピアノがなくとも生きていることは楽しいと知ってもらうことが先決だった。
ピアノが生き甲斐なのはいい。だが、ピアノだけが生きる意味になっては駄目だ。
勇利は、ヴィクトルが引き取らなければ、おそらく預けられた施設で命を断っていたと思われる。それほど最初のころは酷かった。
自動演奏のCDが完成した日、勇利がいつものソファにおらず、部屋を見て回るとクローゼットで服をひっくり返している現場で。それも夢中になっていてヴィクトルの気配にも気づいていない。
「わー、凄い。色々ついてる。ひだがある。ふりふり」
どうも現役時代の衣装をほじくっているらしい。一人はしゃいで衣装をぺたぺた触れていた。
その姿が可愛らしかったので、思わずカメラに収めてから、とんとん、と肩を叩いた。
「ひえっ!? ヴィクトル帰ってる!?」
まるで悪戯が見つかった子供のように(実際、悪戯の現行犯)勇利は慌てて手をわたわたさせた。
「ごめんなさい、つい出来心で! 最初はただ、僕の持ち物どうなったかなって確認しに来ただけなんだけど………ヴィクトルのものかなって思ったら」
尻すぼみになっていく言い訳に「怒ってないよ」と後ろから抱き込んで手をにぎにぎしながら伝えた。
「ほんとに?」
「楽しんで頂けたなら何よりだ」
「ねえ、これなに? ふつうの服とは違うよね。ヴィクトルが着るの? スケーターってみんなこういう服で歩いてるの」
思わず笑ってしまった。震えが伝わって笑われたことが分かるのか、勇利は小さくなって赤面している。
「大会やアイスショーで着る衣装だよ」
「そうなんだ。アイスショーでも何着てるかまでは分かんないから、知らなかった。こういうの着るんだ……
ぼく、スケーターはみんなこういう近未来的っていうか前衛的なファッションなのかなって思った」
これで外を歩いたら完全にコスプレだ。
勇利は慌ててぐちゃぐちゃになった衣装の山から手探りで一着を取り出し「これ着て!」と叫んだ。聞こえていない分、熱が入ると声が大きくなる。
リクエストに応えてファッションショー。着替えると、勇利が大興奮でまふんと抱きついて立体を頭の中で描く為にあちこちをペタペタ触る。
「すごいすごい、カッコいい! これはいつの?」
「離れずに傍にいて、をやった時のだね」
「あー、あのヴィクトルと会ってから一年目のー………」
そう言って勇利は目の前で手を揃え、指を動かすような素振りを見せたが、少し眉を寄せて手を下ろしてしまった。
(そろそろ、かな?)
ピアノから離れて数ヶ月、恋しくなってくる頃だろう。
彼が音を失くしてから暫く経っているので、音の記憶が曖昧になってはいないかと不安もある。こればかりはヴィクトルも助けてやれない。
ヴィクトルはその日から毎日、こっそりピアノに勇利の曲を自動演奏させることにした。
さて、勇利がいつ気づくことやら?
***
実際のところ、そうかからなかった。
買い物から帰ると、それまであの部屋の付近にすら寄らなかった勇利が、扉を開けたまま熱心にピアノに触れており、自分の演奏を指で追いかけていた。
自動演奏が切れると、勇利は背筋を伸ばして鍵盤の位置を確かめ、そして――――
鮮やかな音色が鳴り始めた。
(アメイジング)
勇利に抱きつきたい衝動をこらえ、瞳を揺らす。
思った通りだ。勇利は音そのものよりも、リズムで演奏する。体が覚えているならきっとまた弾ける、と踏んではいたものの、予想以上の演奏だ。自分の音を聞けていないとは思えないほどの。
しかし、ピアノの位置が惜しい。配置を間違えた。
いや、勇利のためにはこのほうがいいのだが……ピアノを壁につけたせいで、彼の顔が見えない。
ジャズバーで演奏する勇利の姿はそれは麗しく、音楽をより魅力的にするスパイスになっていた。
一曲弾き終えて放心する勇利の肩を指で叩き、彼の手をとる。
「素晴らしい演奏だったよ!」
「ぼく、ちゃんと弾けてた?」
「パーフェクトさ。勇利は最高のピアニストだよ」
「褒めすぎ」
照れてそっぽ向かれてしまった。最近、こういう素っ気ない態度もとる。ヴィクトルとの生活に慣れてきた証拠だろう。
今までは、遠慮や憧れが強く良い顔ばかり見てきたが、これからは軽口も言い合いたいし、喧嘩だってしたい。
喧嘩しても離れることができない存在だと、勇利に知ってほしかった。
勇利がピアノを弾けるようになると知って、ちゃっかりユリオが演奏依頼をした。勇利は生まれて初めて、楽譜から新しい曲を弾くべく勉強している。
ピアノには音階の点字ラベルを張ることにした。
CD発売と復帰祝いでリサイタルを開くと、予想以上の予約が殺到したらしい。ジャズバーの関係者や常連、ピーテルのファン、そして業界人が押し寄せて、ついには例のマエストロが最前列でおいおい泣きながら勇利の演奏を聞いていた。他の連中も似たようなものだった。
「ヴィクトル・ニキフォロフ。彼にピアノを取り戻してくれてありがとう」
口々に感謝を述べられたが、全く身に覚えがない。
ヴィクトルは環境を整えて彼を支えただけ。
ピアノを再び弾きはじめたのは、勇利の力だ。
[newpage]
ヴィクトルが引退して初めてのアイスショーが開催された。
題してピアノ・オン・アイス。
全ての楽曲を勇利が担当している。
引退したシーズンで演じた「リボーン」からの開幕。
これは、生ける伝説ではなく、ロシアの皇帝などという大層な存在でもなく、ただのサプライズ好きでいたずら者のヴィクトルに戻してくれる原点回帰の曲。
プロ転向第一回目としてこれほど相応しい演目はない。
次に氷上のピアノに勇利をエスコートし、勇利を残してヴィクトルは退場する。
曲はYURI ON ICE。初めてヴィクトルが勇利をスケートに誘った日、勇利が即興で弾いた曲をプロの作曲家に頼んでブラッシュアップしてもらったもの。
この曲を滑るのは、もう一人のユーリが相応しい。二人のユーリが奏でる氷の上の愛。
だが、実は勇利はこの曲を演奏していない。自動演奏だ。
何しろスケート靴を履いているので、ペダルを踏めないのだ。
曲が終了してから、再びヴィクトルが現れ、勇利の手をとり中央まで移動する。
自動演奏のピアノから流れる「離れずに傍にいて」。素人ながらリズム感のある勇利は、教えれば案外とすんなり氷上を走るようになった。
もちろん、プロのスケーター並の鮮やかさはない。
彼をエスコートしながらのアイスダンス。
二人の薬指に嵌った指輪がライトに照らされて星のように瞬いた。
曲が終わってから、ヴィクトルは勇利をピアノへ誘導し、今度はスケートシューズを脱がせる。
何曲か招待したスケーターたちの曲をメドレーで演奏し、そして最後にもう一度、アレンジ違いの「リボーン」を。
生まれ変わって、生まれ変わって、また、始まる。
勇利には、スケーターたちがどのような演技をしているか、観客の反応がどうかも分からない。
音のしないピアノをリズムだけで演奏している。
冷えた氷の上でひたすら鍵盤を叩く。
それでも今は閉じられた檻のような世界だとは思わない。勇利は広い世界にいる。ヴィクトルと一緒に。
僕は、勝生勇利。
どこにでもいる、ふつうのピアニストです。
end.
しかし、勇利にとっては当たり前のこと。自分が何かをする時に踏む余計な手順を省いて動けることについては羨ましく思うが、それだけでもあった。
視覚という概念自体が人とズレていた。勇利は空間把握能力に優れており、頭の中で座標地図を作って、気配や音で大体の物の位置を察することが出来たので、余計にだ。
あるとき、家族に観光地へ連れていって貰ったとき、近場にいた観光客らしき誰かが言った。
「見えないのにこんな所に来ても意味ないんじゃない?」
確かにその宮殿に行った時は、あまり意味がなかったかもしれない。金色で丸い屋根があって~と説明されたもピンとこない。
けれど、もし「どうせ見えないから意味がない」という理由でアイスショーにつれていって貰えなかったら、勇利がヴィクトルに出会うことはなかった。
ロシアに来てから、何度かスケートをしたことはある。細い鉄の板みたいなもので支えられた靴で氷の上を滑るなんて、手を引かれてても怖くて怖くて出来なかった。
だというのに、スケーターはあんな靴を履いて凄まじい勢いで硬い氷の上を走る。
とりわけヴィクトルは凄かった。いろんなスケーターが登場したが、ヴィクトルが一番きれいな音で氷を切った。
間近でシュゴッと音を立てて「消え」、着地の音も優雅で。
浮いてる時間が長くてびっくりしたけど、回転しながら跳んでいると教えられてもっと驚いた。
なによりも、勇利が大好きな音楽でこんなに全身と氷で「奏でる」ことに心を奪われた。
アイスショーも前の方の、よく音が聞こえる席でないと聴覚に頼って観戦する勇利には意味がなく、めったには行けなかった。
テレビで放送されていると知ったとき、初めて見えないことが寂しいと思った。勇利には、音楽プレイヤーとテレビの区別がつかない。映像がどんなものかも想像がつかない。勇利の頭の中にある位置関係と、感触から想像した立体以上の何かがあるらしい。色とはどんなものだろう。空と海は青いとか、木の幹は茶色とか、知識でしか知らない。
だが、ヴィクトルは雲色の髪と空色の瞳をしているという。
それを聞いて初めて「色って凄い!」と思った。
ヴィクトルはロシアで有名人ゆえに、何かと耳にすることが多かったのも憧れの一因。
彼が選ぶ音楽はいつも素晴らしかった。ヴィクトルが滑っているつもりで何度も彼の演目を演奏した。
勇利がピアノで食べていけるようになったのは、ヴィクトルのおかげもある。
家族が勇利を遺していなくなってしまった時、悲しみより先に「これからどうしよう」という不安のほうが先だった。
いつも助けてくれた家族の手、声がなくなってしまったことへの寂しさはあっても、死という概念は実感から遠い存在だったのだ。
施設に、と言われたものの、勇利は一人で生きていきたいと飛び出した。
ロシアに来ることになったとき、言葉が通じないことへの恐怖はあったが、音楽に国境はなかった。ピアノさえあればきっと何とかなると信じていた。
人に話しかけることは苦手だったけれど、音楽で食べていける場所を探して、運良くジャズバーに拾われた。
最初は優しくなどされなかった。うちも余裕はないから、客にウケなかったら雇えないと言われ、必死で演奏し続けた。
少しずつ、勇利の演奏を聞きに来るお客さんが増えて。
リサイタルをやらないか、と誘われるようになって。
マスターがあれこれ面倒見てくれるようになって。
そうして生活が落ち着いたころ、勇利はやっと家族を失って一人になったということを思い出し、初めて泣いた。
その時もラジオではヴィクトルのインタビューが流れていた。
『貴方は挫折を感じたことなんてきっとないんでしょうね』
『そうかもしれない。上手く跳べない時期や、怪我をしたことはあったし、経済的に苦しい時期もあった。
ただ、俺はそれらを気に病んだことがないんだ』
彼の言葉は勇利を励ましてくれた。
助けてくれる手がない生活は、不便なんてものではなかった。家から店は遠くて、マスターの好意で近くのアパートに引っ越すまで、毎日何時間も歩いた。
火を使うのは難しいから、自宅ではそのままで食べられる食料ばかり食べて。これは今もそうだだが。
どこかが極端に汚れても、匂いが酷くなるまで気づかなかったりする。
「なぜ施設に入らず、一人で生きていこうと思ったんだ?」
マスターに問われて初めて気がついた。なんでだろう?
「だって、ヴィクトルはそうしていたし」
ロシアではスケート支援でそうやって家計を支えている子供は沢山いる。なら自分だって出来るはずだと信じていた。
大変といえば大変な人生だったけれど、勇利は恵まれていた。
勇利には音楽とピアノがあった。
そのおかげで仕事も出来たし、ヴィクトルに出会うこともできた。
音が、あったから。
[newpage]
目が見えないのって不自由じゃないの?
そう聞く人たちの意図が、やっとわかった。
見えている人たちが急に見えなくなったら、きっとこんなふうに感じる。
見えない。音も聞こえない。
自分しかいない世界の檻に閉じ込められた絶望感。
触れてくる相手が誰かも分からない。もしかしたら、またあの酔っ払いみたいに暴力を振るうために触れてきたのかもしれない。そう思うと怖くて怖くてたまらなかった。
もう、ピアノを弾けない。
スケートの音を聞くこともできない。
ヴィクトルの澄んだ声も聞こえない。
虚ろに寝込む日々の中、マスターやお店の常連さん、ヴィクトルが何度か御見舞に来てくれた。
こんな状況になっても、手に文字を書いてくれれば意思の疎通ができることが、なんだか泣けるほど嬉しくて、悲しかった。嬉しいと思えることが悲しかった。
生きる気力を失いかけていた時、ヴィクトルが言った。
「うちにおいで」
ヴィクトルは勇利がまたピアノを弾けようになると信じているという。
勇利自身が諦めていたのに、ヴィクトルは勇利を信じてくれた。
なぜ僕を、と聞くと、ヴィクトルはこう書いた。
「奇跡はね、起こるんじゃなくて起こすんだ。俺はいつもそうしてきたよ!」
[newpage]
ヴィクトルはもともと引退したら一年は休養するつもりだったらしい。
「今まで目が回るくらい忙しく生きてきた。ゆっくり暮らしてみたい」
ゆっくり休みたいのに、勇利がいては意味ないんじゃないかな、とは言えなかったけれど。
ヴィクトルは自分の家をどんどんバリアフリーに改造していった。
勇利が動きやすいように家具を移動させて、時には家具自体を入れ替えて。
迷惑じゃないか、そんなにお金を使って大丈夫かと不安を覚えたが。
「新しい家に住むとき、食器や家具、必要なものをそろえるのにワクワクしなかった? 俺はいま、そのときと同じくらいワクワクしてる」
どの壁にもある手すり、角という角にあるクッション。
棚という棚に点字のラベルがつけられて、いたれりつくせり。
あんまり凝るので、この人は本当に楽しくてやっているんだろうな、と伝わってきた。
勇利のために空けたというピアノ部屋の扉には「宝箱」というプレートがつけられて、点字だけではなく普通の文字も刻まれていることに驚いた。なんでここが宝箱なんだろう?
ヴィクトルはローマ字式指文字を覚えてくれて、意思疎通はかなり楽になった。
勇利とヴィクトルの距離はいつの間にか近くなって、よくヴィクトルに後ろから抱っこされる形でお互いの指を握りながら色んな話をした。
何も聞こえない状態でピアノに触れることすら怖くて、部屋を作って貰ったのに何ヶ月も入らなかったが、ある日とつぜん弾いてみよう、と思い立ってピアノの前に座った。
―――すると誰もいないピアノが、ひとりでに鍵盤を下ろしていることに気づく。
驚いて指を鍵盤に這わせる。ピアノは自分で演奏を続けていた。
数分ほど理解が追いつかず、まさか幽霊、とまで思い詰めてから、もっと現実的な理由に気がついた。
ピアノ周辺を探ってみると、やはりある。
そのピアノは自動演奏装置がついていた。
いつかマスターが導入を検討していたのを覚えている。あのときは「僕の仕事とる気?」と怒ったものだけれど。
自動演奏、それも勇利の演奏だった。
無我夢中で演奏を追いかける。
鍵盤を押しても、やはり感触しかない。音を返してはくれない。勇利の外の世界では鳴っているのかもしれないが、実は鳴らないピアノだったり、調律してないピアノでも、勇利にはもう分からない。
幸い、記憶障害や運動障害は起こさず、鍵盤の位置やリズム、どう押してどこを叩けばどう音が響くのかは体が覚えていたが、記憶とズレが起きれば矯正する手段はなかった。
少なくとも今まではそう思い込んでいた。
『俺はね、挫折を気に病んだことがないんだ』
堂々と言ってのけたヴィクトルを凄いと感心しつつも、心のどこかで「天才さまは言うことが違う」と遠く考えていた。
(こういうことか………)
鍵盤に置いた指にぽつぽつ、涙の雨が降る。
あの人は、ヴィクトルは、本当に凄い人だ。
自動演奏で感覚のズレを直しながらキーを打つうち、脳裏に鮮やかな音が蘇ってきて、本当に弾いているように錯覚した。
錯覚だけでなく、聞こえていないのが嘘のように綺麗に弾けているらしい。
もう一度ピアノを弾くことができた。
ヴィクトルの言うとおりだった。
***
あるとき、勇利と同じ名前のプリセツキーが現れて「次のプロの曲を弾け!」と依頼しに来たときは驚いた。
点字の楽譜を渡されて。だから楽譜読めないってば、と文句を言ったら「じゃあ覚えろ」とのこと。
そういえば、もう耳で音楽を聞いて覚えることが出来ないから、点字楽譜がないと新しい曲は弾けないことにその時に気づいた。
少し前の自分なら、そのことを気に病んだろう。
だが今は「来シーズンまでに間に合うかな?」という焦りのほうが強い。なんとしてでも間に合わせねば。
プリセツキー(面倒くさいのであだ名はユリオ)はそれからしょっちゅうやって来て、ああでもないこれでもない、ああしろこうしろと勇利の掌に注文つけていく。
ついでにピロシキや美味しいと評判のお菓子をお土産に持ってきたり、人使いと言葉使いは荒いが妙に優しい。
隣にユリオの体温を感じながらお菓子を食べると、そういえば僕にはまだ味覚もあった、なんてことを思い出す。これまでだって食事はしていたのに、なぜ気づかなかったのだろう?
あって当たり前のものほど忘れてしまう。
その頃の勇利にとって、いつの間にかヴィクトルは居てくれるのが当たり前の存在になりつつあった。
憧れの遠い人だったヴィクトル。
縁も所縁もない勇利を引き取って、全面的に世話してくれる奇特な人だ。
その晩、ベッドで向かい合いながら手を握り合い、いつものように寝る前のおしゃべりをしている時、改めて伝えた。
「ありがとう、ヴィクトル」
どのことをどう感謝していいかすら悩むくらい、ヴィクトルによくして貰っている。
ヴィクトルは返事の代わりに、きゅうっと抱きしめてくれた。
勇利は彼以外と一緒に同じベッドで眠ったことはない。
最初は戸惑ったが、このほうが補助しやすいからと言われて納得した……というよりせざるをえなかった。一方的に負担をかけているのは此方だ。
今ではすっかり慣れて、寧ろヴィクトルの帰りが遅い夜はマッカチンがいてくれないと寂しくて眠れない。
「アイツにヘンなことされてねーか?」
ある日、ヴィクトルの留守中に遊びにきた……もしかしたらヴィクトルに頼まれて留守番に来たのかもしれないユリオが、勇利の手にそう書いた。
「ヘンって、なに?」
「服の下に触られたり、舐められたりしてねーか?」
「それって変なことなの?」
最初はくすぐたくて、じゃれて遊んでるのかと思っていた。
そういえば途中から何とも言えない気分や感覚に変わっていったかもしれない。あれを「変」というなら、そうなんだろう。
ユリオは隣に座ったまま、もぞもぞ動いてる。何をしてるんだろうと腕を触ってみると、スマホで電話をかけてるようで。
「けっきょく手ぇ出したのか、このスケベジジイ!!」
[newpage]
勇利と暮らすようになってから半年も経つ。
ヤコフにこの話をした時、当然のように反対された。
「お前は盲ろう者についての専門的な知識を持っているのか? 赤の他人を支え続けることがどれほど大変なのかを分かっているのか?」
引退宣言した直後にも関わらず、親のように叱ってくれたことが嬉しくて、思わず抱きついてしまった。ヤコフは余計に怒ったけれど。
「分からないからダメだムリだって諦めてたら、スケーターはジャンプなんか跳べないよ!」
何事も最初は思い切りが一番。
その後のことはその時考えればいい。そのせいで大ケガして死ぬかもしれなくとも、それでもスケーターは勢いをつけて高く跳ぶ。
勇利は退院前後、うつ状態にあると医者に聞かされた。
唯一の生きがいであり、生きる糧であるピアノを失ったことで、勇利は気力を失っていた。
気持ちはわかる。ヴィクトルもこの足を失ったとすれば、二度と氷の上に立てないことをきっと嘆く。
それでも自分のスケートを伝える術がなくなる訳ではない。そのことを勇利にも分かって欲しい。
ヴィクトルはまず、自宅を完全バリアフリー化計画を進め、点字ラベルプリンターを購入。部屋中にべたべたとメモやメッセージを貼り付けてゆく。
場所によっては勇利が気付かずに終わるかもしれない。でも、いつか何かの拍子に気がついて、クスっと笑ってくれればいい。
「こういうの、不思議の国のアリスであったよね」
マッカチンを撫でながら、ラベルまみれの部屋に満悦。
次に―――というより、同時進行でジャズバーのマスターから受け取った勇利の演奏を録音したCDを受け取り、専門家にMIDI化してもらった。
これを自動演奏できるよう業者に依頼し、たところ、大変食いつきがよかった。
「もしや、これはユウリ・カツキの演奏では?」
まさか言い当てられるとは思わず驚いた。
勇利はピーテルを中心に知る人ぞ知る人気のピアニストだったらしい。そういえばリサイタルもやっていたし、何処ぞのマエストロに気に入られたとか、結婚式やパーティーに呼ばれてピアノを弾くことも多かったそうな。
加えてヴィクトルの最後のシーズンのフリーを飾った曲を演奏し、業界人からすれば垂涎ものの一品だったようで、ぜひ商品化を、とせがまれた。
「自動演奏だけでなく、音源があるならCD化を。かのマエストロが愛したピアニスト、ヴィクトル・ニキフォロフの最後を飾った演奏者とあれば、世界中に売り出せます」
鼻息荒く口説かれ、ヴィクトルは苦笑した。
ひとまず勇利の状況を説明する。暴漢に襲われて聴力を失ったこと、今はそれを受け入れることに精一杯だということ。
まさかこのピアニストがそのような目に遭っているとは知らず、彼はショックを受けていた。ただでさえブラインドピアニストであった勇利が、過失事故などではなく悪意によってあの素晴らしい音楽を奪われたことに心を痛めていた。
「そういうことだから、勇利に許可を求める為にもう少し時間が欲しい。
それと、売り出すのにマエストロの名前が必要なのは分かるけど、キャッチコピーにはヴィクトル・ニキフォロフが愛したと入れてほしいな」
そのマエストロとて勇利を口説いてフラレただけで、勇利の音楽に惚れ込んでここまでしているのはヴィクトルだ。そこだけは譲れない。
とにかくその日は自動演奏化だけを頼み、自宅に戻ったところ、扉を開けて「ヴィクトル!」と勇利の嬉しそうな声に出迎えられた。
(なぜ?)
勇利には扉を開ける音など聞こえないはず。
だというのに、勇利は点字の本を投げ出してソファから立ち上がり、真っ直ぐにヴィクトルに向かってやってきた。
そんなバカな!?
視覚も聴覚もなく、ヴィクトルが帰ったのに気づき、方向を誤らず躊躇もなく部屋の中を歩く。そんなことが可能なのか?
ヴィクトルの腕の中にぱふんとおさまる勇利を抱きとめて、彼の手をとった。
「ゆうり、俺が帰ったの分かったの」
「空気が変わったし、気配があったし、マッカチンが反応したから」
ヴィクトルは指文字、勇利は普通に口で発言している。
「ユリオが来ることもあるけど、マッカチン反応しないから」
マッカチンは新しい住人である勇利を家族として迎え入れ、よく彼の足元にいる。
まるで勇利の状況が分かっているかのような動作をする。当然ながら盲導犬の訓練など受けさせていない。賢い犬だとは思っていたが、これほどまでとは知らなかったと感心する次第だ。
自動演奏のことは、伏せておいた。
勇利はまだピアノ部屋に近づこうともしない。彼が受けた傷は、脳以上に心に深く痕が残っている。
彼にはまず新しい世界での生活に慣れてもらうことと、ピアノがなくとも生きていることは楽しいと知ってもらうことが先決だった。
ピアノが生き甲斐なのはいい。だが、ピアノだけが生きる意味になっては駄目だ。
勇利は、ヴィクトルが引き取らなければ、おそらく預けられた施設で命を断っていたと思われる。それほど最初のころは酷かった。
自動演奏のCDが完成した日、勇利がいつものソファにおらず、部屋を見て回るとクローゼットで服をひっくり返している現場で。それも夢中になっていてヴィクトルの気配にも気づいていない。
「わー、凄い。色々ついてる。ひだがある。ふりふり」
どうも現役時代の衣装をほじくっているらしい。一人はしゃいで衣装をぺたぺた触れていた。
その姿が可愛らしかったので、思わずカメラに収めてから、とんとん、と肩を叩いた。
「ひえっ!? ヴィクトル帰ってる!?」
まるで悪戯が見つかった子供のように(実際、悪戯の現行犯)勇利は慌てて手をわたわたさせた。
「ごめんなさい、つい出来心で! 最初はただ、僕の持ち物どうなったかなって確認しに来ただけなんだけど………ヴィクトルのものかなって思ったら」
尻すぼみになっていく言い訳に「怒ってないよ」と後ろから抱き込んで手をにぎにぎしながら伝えた。
「ほんとに?」
「楽しんで頂けたなら何よりだ」
「ねえ、これなに? ふつうの服とは違うよね。ヴィクトルが着るの? スケーターってみんなこういう服で歩いてるの」
思わず笑ってしまった。震えが伝わって笑われたことが分かるのか、勇利は小さくなって赤面している。
「大会やアイスショーで着る衣装だよ」
「そうなんだ。アイスショーでも何着てるかまでは分かんないから、知らなかった。こういうの着るんだ……
ぼく、スケーターはみんなこういう近未来的っていうか前衛的なファッションなのかなって思った」
これで外を歩いたら完全にコスプレだ。
勇利は慌ててぐちゃぐちゃになった衣装の山から手探りで一着を取り出し「これ着て!」と叫んだ。聞こえていない分、熱が入ると声が大きくなる。
リクエストに応えてファッションショー。着替えると、勇利が大興奮でまふんと抱きついて立体を頭の中で描く為にあちこちをペタペタ触る。
「すごいすごい、カッコいい! これはいつの?」
「離れずに傍にいて、をやった時のだね」
「あー、あのヴィクトルと会ってから一年目のー………」
そう言って勇利は目の前で手を揃え、指を動かすような素振りを見せたが、少し眉を寄せて手を下ろしてしまった。
(そろそろ、かな?)
ピアノから離れて数ヶ月、恋しくなってくる頃だろう。
彼が音を失くしてから暫く経っているので、音の記憶が曖昧になってはいないかと不安もある。こればかりはヴィクトルも助けてやれない。
ヴィクトルはその日から毎日、こっそりピアノに勇利の曲を自動演奏させることにした。
さて、勇利がいつ気づくことやら?
***
実際のところ、そうかからなかった。
買い物から帰ると、それまであの部屋の付近にすら寄らなかった勇利が、扉を開けたまま熱心にピアノに触れており、自分の演奏を指で追いかけていた。
自動演奏が切れると、勇利は背筋を伸ばして鍵盤の位置を確かめ、そして――――
鮮やかな音色が鳴り始めた。
(アメイジング)
勇利に抱きつきたい衝動をこらえ、瞳を揺らす。
思った通りだ。勇利は音そのものよりも、リズムで演奏する。体が覚えているならきっとまた弾ける、と踏んではいたものの、予想以上の演奏だ。自分の音を聞けていないとは思えないほどの。
しかし、ピアノの位置が惜しい。配置を間違えた。
いや、勇利のためにはこのほうがいいのだが……ピアノを壁につけたせいで、彼の顔が見えない。
ジャズバーで演奏する勇利の姿はそれは麗しく、音楽をより魅力的にするスパイスになっていた。
一曲弾き終えて放心する勇利の肩を指で叩き、彼の手をとる。
「素晴らしい演奏だったよ!」
「ぼく、ちゃんと弾けてた?」
「パーフェクトさ。勇利は最高のピアニストだよ」
「褒めすぎ」
照れてそっぽ向かれてしまった。最近、こういう素っ気ない態度もとる。ヴィクトルとの生活に慣れてきた証拠だろう。
今までは、遠慮や憧れが強く良い顔ばかり見てきたが、これからは軽口も言い合いたいし、喧嘩だってしたい。
喧嘩しても離れることができない存在だと、勇利に知ってほしかった。
勇利がピアノを弾けるようになると知って、ちゃっかりユリオが演奏依頼をした。勇利は生まれて初めて、楽譜から新しい曲を弾くべく勉強している。
ピアノには音階の点字ラベルを張ることにした。
CD発売と復帰祝いでリサイタルを開くと、予想以上の予約が殺到したらしい。ジャズバーの関係者や常連、ピーテルのファン、そして業界人が押し寄せて、ついには例のマエストロが最前列でおいおい泣きながら勇利の演奏を聞いていた。他の連中も似たようなものだった。
「ヴィクトル・ニキフォロフ。彼にピアノを取り戻してくれてありがとう」
口々に感謝を述べられたが、全く身に覚えがない。
ヴィクトルは環境を整えて彼を支えただけ。
ピアノを再び弾きはじめたのは、勇利の力だ。
[newpage]
ヴィクトルが引退して初めてのアイスショーが開催された。
題してピアノ・オン・アイス。
全ての楽曲を勇利が担当している。
引退したシーズンで演じた「リボーン」からの開幕。
これは、生ける伝説ではなく、ロシアの皇帝などという大層な存在でもなく、ただのサプライズ好きでいたずら者のヴィクトルに戻してくれる原点回帰の曲。
プロ転向第一回目としてこれほど相応しい演目はない。
次に氷上のピアノに勇利をエスコートし、勇利を残してヴィクトルは退場する。
曲はYURI ON ICE。初めてヴィクトルが勇利をスケートに誘った日、勇利が即興で弾いた曲をプロの作曲家に頼んでブラッシュアップしてもらったもの。
この曲を滑るのは、もう一人のユーリが相応しい。二人のユーリが奏でる氷の上の愛。
だが、実は勇利はこの曲を演奏していない。自動演奏だ。
何しろスケート靴を履いているので、ペダルを踏めないのだ。
曲が終了してから、再びヴィクトルが現れ、勇利の手をとり中央まで移動する。
自動演奏のピアノから流れる「離れずに傍にいて」。素人ながらリズム感のある勇利は、教えれば案外とすんなり氷上を走るようになった。
もちろん、プロのスケーター並の鮮やかさはない。
彼をエスコートしながらのアイスダンス。
二人の薬指に嵌った指輪がライトに照らされて星のように瞬いた。
曲が終わってから、ヴィクトルは勇利をピアノへ誘導し、今度はスケートシューズを脱がせる。
何曲か招待したスケーターたちの曲をメドレーで演奏し、そして最後にもう一度、アレンジ違いの「リボーン」を。
生まれ変わって、生まれ変わって、また、始まる。
勇利には、スケーターたちがどのような演技をしているか、観客の反応がどうかも分からない。
音のしないピアノをリズムだけで演奏している。
冷えた氷の上でひたすら鍵盤を叩く。
それでも今は閉じられた檻のような世界だとは思わない。勇利は広い世界にいる。ヴィクトルと一緒に。
僕は、勝生勇利。
どこにでもいる、ふつうのピアニストです。
end.
2018年4月7日土曜日
ヴィク勇:電影レジェンド
初のGPF出場で最下位。全日本での大失態を経て、僕は地元ハセツに帰ってきた。
家族や地元の皆の優しさはありがたかったけど、スケートを続けるかは決めてなかった。コーチとも契約解消しちゃったしね。
部屋中に囲まれた各年代別ヴィクトルポスターを眺めながら、深々ため息つく。
なんかもう駄目。このままじゃ腐る。
滑りに行くのも悪くないけど、気分転換をしたかったんでランニングがてらハセツを回った。
昔はそれなりに華やかだったアーケードは半分シャッター街になってる。あったはずの店がなかったり、見慣れない店があったり。
五年って、長いなあ。
赤ちゃんだった三つ子がスケート靴履いてスイスイ滑るくらいには長いんだ。
「ふあぁ……」
ちょっと走りすぎた。
とある店舗の前に設置された自販機でスポーツドリンクを買って一気に半分煽り、ぷはっと口を離してから店の看板がやっと目についた。
「ビデオショップGOKURAKU………?」
あからさまに田舎の片隅にありがちな、いかがわしいAVの店だ。
ただ、そっと覗いてみると割と普通のコーナーもあるみたいで、僕はそっちに向かった。
珍しい。フィギュアスケートのコーナーがあるよ。日本人選手のものも多かったし、有名どころの選手は殆ど押さえてある。ぼ……僕のもある、ね。怖くて手に取れなかったけど。
ただ、あんな仕事を受けた記憶はない。何処かの業者が勝手に出したとか? 世の中には物好きがいるんだね。
ということは、もしかして………
僕はソワッソワしながら外国人選手の棚に並んだパッケージに指を流しながら調べた。
探すまでもなくあったよね! 見たことないヴィクトルのDVD!!
え、でもこれやっぱ違法もの? スケ連ちゃんと通してる? 借りて大丈夫なやつ?
タイトルは単純に「ヴィクトル・ニキフォロフ」。シャンパンゴールドの上品な装丁にノーブルなスーツ姿のヴィクトルが優雅に微笑んでいる。
制作会社なんかの情報は一切ないな……これ、ホントに大丈夫なのかな。
「ようこそ、GOKURAKUへ」
急に背後から声をかけられて「へぁっひ!」と妙な声を上げて飛び上がった。
振り返った先にいたのは、こんな辺鄙な場所に店を構えているとは思えない黒髪の紳士。ヴィクトルとは違うタイプの美形だ。
彼は優美に微笑み、一礼した。
「歓迎します、勝生選手。ご来店をお待ちしておりました」
「へ、あ…え?」
「当店は神に愛された方をおもてなしするために存在します。勝生選手は今、人生の転機を迎えているとか。
ぜひ当店をご利用ください。きっとご満足頂けるでしょう」
はあ。
神に愛された……っていうのは、それこそヴィクトルに相応しい表現じゃない? よくこのフィギュアスケーターとしてあるまじき太り方をした豚っ腹を見てそんなこと言えるなこの人。営業文句だろうけど。
「当店が扱う商品は、再生してから一年間、その人物のコピーを現実へ呼び出すことが可能です。
初恋の人、憧れの人物……誰でも一人、選ぶことが出来ます」
僕の初恋の人、人妻のうえに一般人なんですけど。
ユウちゃんのDVDがアダルコトーナーにありそうで青ざめた。そんなところにユウちゃんのパッケージを見つけたら立ち直れない。
この人の言うことがどこまで本当か分からないけれど、僕はヴィクトルのDVDを借りることにした。
何かを期待したわけじゃない。見たことないヴィクトルのDVDがどんなものか気になっただけだった。
ノートパソコンにディスクをセットして、ファイルをダブルクリック。
再生ソフトに映ったヴィクトルが「やあ」とウインクした。
ヴィクトルか……そういえばGPFの帰りに「記念写真?」と聞かれたのが初コンタクトだった。
スケートを辞めるならあれが最初で最後のチャンスだったんだから、撮っておけばよかったかなあ。あの時は、精神的にそれどころじゃなかったけど。
『悲しそうな顔をしているね。不安かな?』
まるでこっちの様子が分かってるみたいな台詞。
僕は椅子の上で膝を抱えながら、眉を下げて画面の中のヴィクトルを見つめていた。
ずっと、彼と同じ舞台で戦うことを夢見てた。認められたかった。彼の視界に入りたかった。
だけど、ヴィクトルは僕をスケーターとしてすら認識してなかったんだ。
涙が浮かんで眼鏡を外した。もう画面の中のヴィクトルの顔すらぼんやりとしか見えない。
なんか、かえってダメージ大きいな……消そうかな。
タッチパッドに触れた瞬間「まって」と画面の中のヴィクトルが言った。え、最近のDVDは途中で閉じようとするとそんなこと言うプログラムでも組み込まれてるの?
液晶の中から、ヴィクトルがカメラに向かって手を伸ばす。その指先が、にゅる、と画面から質感を伴って現れた。
ファ――――――!!!! サダコ! サダフォロフ!!!?
ついにはビカッと画面がフラッシュして椅子ごとひっくり返った。
めっちゃ痛い。けど、不安定な姿勢で倒れた割にはそれほどでもない……?
「大丈夫?」
そっと頬を撫でられて、至近距離にあるアイスブルーの瞳に目を見開いた。
びくとる、と囁くと目の前の人物が笑って小首を傾げた。
どうやら頭を支えてくれたみたいで、思ったより衝撃がなかったのはそのせいらしい。
だけど、感謝より先に恐怖が先だった。
「だ、だれ……ど…どこから………?」
どう見ても目の前にいるのはヴィクトル・ニキフォロフその人だけど、こんなところにいるはずないし、第一ここ僕の部屋だし。さっきまで誰もいなかったし!!
ヴィクトルらしき人物がふっと笑うと銀色の前髪が浮かぶ。
「説明聞いてなかったの? あのDVDを再生するとパッケージの人物が一年間そばにいるって」
「え、え」
「つまり、オレはヴィクトル・ニキフォロフのコピーだよ! 性格も行動も容姿も記憶まで完備! ゆうりだけのヴィクトルさ!」
夢でしょうか。
むい、ともっちもちのほっぺたを自分で捻ってみた。痛い。
そもそもくっついてるヴィクトルのあったかさが……ていうかいい匂い………いやそうじゃなくて、ですね。
現実を受け止めきれない僕の顎をとって、ヴィクトル(偽)は目を覗き込んできた。
「ゆうりはオレに何を望む? 恋人? それとも恋人?」
恋人しか選択肢がないのは仕様ですか!?
性格も完コピしてるんだよね!? ねえ! ヴィクトルそんなこと言わないよね!?
僕の中のヴィクトルは「望みはなに? 記念写真?」って言う人なんだけども!!
「望んでくれないと、俺としても困っちゃうんだけどな。一年間どうやって過ごせばいいの?」
「あう、あうあうああ……」
「すっごいねえ、この部屋。俺のポスターとか雑誌だらけ。ゆうりはよっぽど俺のファ」
「もうやめてぇええええええ!!!!」
女の子みたいに叫んで顔を両手で覆った。
ところで、椅子から転げ落ちてヴィクトルにのしかかられた姿勢なので、大股開きでヴィクトルの胴体挟んでる状態なんだ。
し に た い
「そんなに怖がらないで」
顔を隠す指先にちゅっと唇の感触とリップ音。夢にしても何なの? 僕こういう願望でもあったの?
「俺はゆうりだけのヴィクトルだから、何を望むのも何をさせるのも勇利の自由さ。まあ、前提条件が心が綺麗で神様に選ばれた人間だから、あんまり酷いことすると資格を失っちゃうけど、そもそも神様に選ばれた人間がそういうことするケース今までないから」
「その神様に選ばれた……ってなんですか」
殆ど涙声で尋ねる。選ばれたんなら才能ください。自力でヴィクトルに会いに行くから!!
偽フォロフは「んー」と人差し指を口に当てて、少し考えこんでる。
「ええとね、あの店は……神様のお気に入りの中でも挫けそうになったり人生の転機にあったりする人の前に現れるんだ。
神様はまだ君にスケートをやめてほしくないんだね。
要約するとヴィクトルやるから頑張れ! ってとこかな」
ぜんっぜん現実は受け止め切れてないけど。
おそるおそるヴィクトルの顔や髪にぺたぺた触れてみると、やっぱり感触があるし、幻じゃない。
逆に、逆にさ。これがリアルな夢ならさ。
それこそ何でもお願いできるんじゃない……!?
「あ、あの。ほんとにヴィクトルの完全なコピーなの」
「そうだよ! ヴィクトルしか知らないこともなーんでも知ってるよ」
「それって、来シーズンのプロの構想とかも?」
「うん」
「す、滑ってって言ったら、滑ってくれる……!?」
「もちろん!!」
マジですか?
感激しすぎて涙出てきた。ふおぉお、夢でも神様に感謝したい。
ただ、いちおう変装してもらった。マスクつけて、昔使ってた黒縁メガネのレンズ抜いて、ニット帽被らせて。うん、これなら誰だか分かんないね。
一階に降りるとマリ姉ちゃんに「誰ソイツ」と見咎められた。
ほ、ほんとにリアルな夢ですね神様。変装させといてよかった。
「ハァイ、ヴィクトル・ニキ………」
「ビッキー! スケート仲間のビッキーっていうんだ! ハセツに遊びに来てくれたんだよ」
「ふーん………?」
「ちょっとスケートリンク行ってくるね」
偽フォロフの手を引いて慌ただしく家を出………
しまったヴィクトルの靴ない。どころかスケート靴もない。
玄関先で呆然とする僕に、偽フォロフが黒縁メガネの奥でばちこんとウインク。
「心配しないでゆうり! オプションが一つまで選べるよ!」
「じゃあスケート靴で」
「オーケー!」
次の瞬間、ヴィクトルはスケート靴を履いた状態だった。やめて! 廊下削れる!!
靴はしょうがないのでフリーサイズのゴムサンダルを履かせたよ……何処かで靴入手しなくちゃ。
とにかく目が覚める前にヴィクトルが滑ってる姿が見たくて、一生懸命ヴィクトルの手を引いた。
「ゆうりぃー、サンダルだと走りにくいよー」
「あ、ごめん! そうだいいものがあるよ」
ちょっと家に戻って自転車引いてきた。これならサンダルでも問題ない。ついでに僕はダイエットがてら走る。
行き先を口頭でナビゲートしながらアイスキャッスルまで向かった。ゆうちゃんと会うのはこの前のヴィクトル完コピ以来。
スケオタ三姉妹に録画されてたから即データ削除させたっけ。そんなに経ってないのに凄く前の気がする。
「あ、ゆうりく………あれ、その人、まさかヴィクトル?」
なんでいきなりバレたの!?
と思ったらヴィクトル、ニット帽脱いでた。
「自転車漕いだら暑くて被ってられないよー。頭皮にも悪いし」
た、確かに僕のせいでヴィクトルがてっぺんハゲになるのだけは嫌だ。もっと別の帽子を選ぶべきだった……
「え、えぇとね、ゆうちゃん。この人はロシア人のスケート仲間でビッキーって言うんだ。ハセツに遊びに来てくれたんだよ」
「ハァイ」
「どう聞いてもヴィクトルの声じゃなかと!?」
「ロシア人だから同じように聞こえるんだよ!! 大体、ヴィクトルは今、ロシアでアイスショー出てるから!!!!」
「あ、そうか。そうよね。ヴィクトルがいるはずないよね」
数分前のヴィクトル(本物)のインスタを見てゆうちゃんは納得してくれた。夢なのにヘンなところばっかリアル。
夢フォロフはしっかりアップしてから氷上に降りる。
「ゆうりは駄目だよ。そんな体型で滑ったら怪我するからね、子豚ちゃん」
あ、はい。ほんとありえない体重ですよね。子豚どころか出荷直前くらいに肥えてる自覚はある。
で、夢フォロフは僕の希望通り来シーズン用のプロを見せてくれた。構想ってかほとんど出来てるじゃないですか……!
どこからダウンロードしたやら、僕のスマホをちょいちょい弄って曲を流し始める。
ラテンギターからのキメ顔でゆうちゃんが死んだ。黒ぶちメガネにマスクしてるのに!! そして男の僕でも妊娠しそうなエロス! ブヒィイイイ神様ありがとぉおおおお!! この夢だけで来シーズン頑張れそうです!!!!!!!
ラストのポーズで昇天しかける僕らに、ヴィクトルは「うーん」と言ってる。
「なんかしっくり来ないと思わない?」
「へぁひ?」
「エロスって言ったらクリスの専売特許だしー、今更オレがエロエロダンスしても誰も驚かないよね。もうひとつアレンジ違いのもあるけど、ああいう透明感ある奴は若い頃にさんざんやったし」
急にダメ出し始めちゃった。
ものすっごい高難易度のすんばらしいプロだと思うけど、何が不服なんでしょうか。
「まあ、本物は来シーズン、エロスやると思うよ。フリーのほうはまだ決めてないけど……たぶん、また飢えて乾いたような曲を選ぶんだろうね」
自嘲するように目を伏せるヴィクトルに、僕もゆうちゃんもなんて言ったらいいか分からない。
ただ、すぐにぱっと表情を輝かせて顔を上げた。
「それで、次は何を望むの?」
「へ、ふえ?」
「一年間は消えたくても消えらんないんだよ? 何か望んで貰わないと。恋人? それともやっぱり恋人?」
だからなんで恋人の選択肢しかないんですか。
「ね、ねえ勇利くん………」
ゆうちゃんが不安そうにひそ、と耳打ちしてきた。
「あの人がヴィクトルじゃないのは分かったけど、どう見ても世界選手権五連覇はできそうなほど凄くない?」
あっ、ハイ。たぶん出来るというか達成済だと思います。
「ヴィクトルじゃないにしても有名な選手だよね?」
「えーと、訳あってビッキーは競技者ではないので……」
「プロの人?」
「そ、そんなところ」
プロであれだけ滑れる人がいたら、均衡が崩壊するレベルだけども。
シャッとリンクサイドに戻ってきたヴィクトル・夢フォロフがじっと僕を見つめてる。何かと思って戸惑ってたけど―――そうか、答えを待ってるのか。
顔を近づけられて真っ赤になりながらオタオタして。
「じゃ、じゃあえっとあの、一年、僕のコーチ………なんてどうですか」
「えっ」
「駄目………ですか。ですよね!? ぼぼぼぼ僕なんかがその」
「というか、俺でいいの?」
俺でいいのというか貴方がいいですっていうか!!
何でも願いを言えっていうから、ものすっごく勇気を振り絞ったのに、夢フォロフはすっごく不思議そうにしてる。
「まあ……ゆうりがそう言うなら」
なんで妙にがっかりしてるんだろ。
ただ、僕と違って切り替えが早い。うん、と頷いて笑う。
「そういうことなら、いっそ俺をビックリさせてやらない?」
「えっと?」
「俺のモットーは世界を驚かせること! だけど、俺自身を驚かせてくれる人ってあんまりいないんだ。だから、ゆうりが俺をビックリさせてくれたら、きっと本物もゆうりにめろめろだよ!」
めろめろ………ですか!
本物のヴィクトルを驚かせたら、せめてスケーターとして認識してもらえますかね!
「やります!」
「オーケー、そうこなくっちゃ!」
かくして夢フォロフと僕のコーチ契約が交わされた訳ですが。
まあ、どうせ夢だし目が覚めたらもう………
そう思っていた時期が、僕にもありました。
[newpage]
家族にコーチになってくれたビッキーさんですと紹介して。
カツ丼をご機嫌でたいらげて温泉に入ってビール飲んで。
朝になったらなぜか僕のベッドで絡み合うようにして一緒に寝てた。
夢なのに……夢じゃなかったフォロフ!!
「び、び、びくとる、さん?」
裸の腕に抱かれて裸の胸に顔押し付けてる状態で目覚めて、パニック状態。
なんで裸なの? なんで僕のベッドで僕を抱きしめて寝てんの? そしてなんでまだいるの?
動く範囲で何とかぺしぺし起こすと、鼻から抜けるような色っぽい呻き声をあげてゆっくり銀色の睫毛に縁取られた目を開ける。
「おはよー、ゆうり」
躊躇いも迷いもなく唇にむっちゅりキスされた。
子豚ちゃん唇もぷりぷりー、と笑いながら、裸フォロフさんはベッドから出て体を伸ばしている。
「朝風呂いってこようかな!」
「服着てください!!」
フリーダムすぎるでしょう! 本物のヴィクトルもこうなの? ねえほんとに?
天真爛漫な人だってのは知ってたけど、いくらなんでもここまでとは思わなかった。さすが公式スケートの妖精……人間界の常識が一切通用しない。
朝風呂の後、朝ごはんにアジの開きを食べながら、
「ショートのプロどうしようかー。たぶん来シーズンはエロス大会になると思うんだよね」
「ええ……」
「クリスは確定でエロに走るでしょ。そこに俺が乱入するでしょ。そしたら毎年ひとりふたりは男の色気で挑む選手って出てくるから……」
なるほど、お色気のインフレだ。
「その中にあえてエロスで飛び込むのはどう?」
「意外性なくて驚かれないんじゃない? クリスに勝てる気しないし」
「わかってないな、ゆうりは。いいかい、みんなエロスはエロスでも男の色気をぶっこんでくるんだ。
そんな中で一人だけ透明感のあるエロスをやれば、まるでドレスコードが黒タキシードのパーティに現れた華やかなドレスの姫君みたいに際立つんだよ」
エロスがゲシュタルト崩壊しそうだし、中性的なエロスとか言われても僕、豚です。顔もフツメンです。あと姫は流石に気持ち悪いので辞退します。
「ショートは俺が俺をびっくりさせたいから、プロデュース任せてくれる?」
「むしろ大歓迎です」
「で、フリーは俺を驚かせるためにゆうりが頑張って」
「ふぇ……えええ!!!」
「大丈夫、ゆうりは俺を驚かせる天才だから!」
どういう意味!?
そもそもヴィクトルに声をかけられた最初で最後の言葉は「記念写真とる?」ですよ。どこに何の驚きがあると?
「ちょっとネタバレしちゃうと、あれっだけスキルあるのに今までファイナルに残ってなかったのも最下位に沈み込んだのにもかなり驚かされた!」
「え、ヴィクトルって僕のこと知ってるの?」
「世界大会に出て来られる選手なんて限られてるからね。まあ、その数少ないトップスケーターでも興味ない選手のことはぜんっぜん覚えてないけど」
ちょっとは記憶に残ってた……と自惚れていいんでしょうか。
「コレオについては心配しなくていいよ。一緒にやろう。ただし、曲はゆうりが輝く最高のものを選んでね」
むり。。。まぢむり。。。
輝く僕ってなんだ? 電飾巻きつけて滑ればいいの?
とにかく僕が痩せるまでスケートは一切禁止だったので、その間に二人で選曲することになった。
「俺が全面プロデュースと言っても、ゆうりが嫌いな曲でやりたくはないから、いくつか候補を選んだよ」
仕事早いなぁ。
「来シーズンでオリジナルの俺が選ぶのは多分エロスのほうだけど、アレンジ違いのほうで来る可能性もある。
ゆうりに滑ってもらいたい曲の第一候補がややアレンジ違いのほうと被る曲調なんだよね」
エロスの対になるアガペーという曲を聞かせてもらった。魂が浄化されそうな神曲……これ、ヴィクトルが滑るの? っていうか後で滑って貰おう。あーもう神様、本当にありがとう!!
で、僕のほうの曲。
アガペーの女性ボーカルが成熟した女性の賛美歌であるのに対し、透明感のある妖精かセイレーンのような可憐で清楚なウィスパーボイスの女性ボーカル。ケルティックな曲調だ。
神聖なアガペーとは違って、求めるような誘うような、胸を締め付けられるような不思議なエロスがある。
ただフェミニンというだけでなく、女性が歌う男性視点の歌詞で、英語だから一人称に差異はないけど和訳するなら「ぼく」がしっくりくる。
「それでね、ゆうりはこの曲の一人称になってる人物が追い求める『何か』を演じるんだ。それはエルフかもしれないし、死んだ恋人の霊かもしれない。
曲のタイトルはガラテアだ」
なるほど意味深な……
ガラテアというと理想の女性(アニマ)を人形として作ったピグマリオンのほうが有名だけど、美しい女性から神の力で性転換した娘の名前もガラテアだ。
そして今回のテーマは「ヴィクトル・ニキフォロフびっくり大作戦」なので、ヴィクトルのガラテアを演じることになる。
「え……ヴィクトルのアニマってどんなんですか」
「アニマと決まってない。女性とも男性ともつかない、ヴィクトルを魅了するガラテアだ」
「だから、それどんなの? 僕、本物のヴィクトルに会ったことないし……インタビューなんかでも好みのタイプとかごまかして答えるし」
「俺が胸きゅんしたらヴィクトルの好みだよ!」
だからそれを教えてくださいと言ってるんでしょうが!!
僕の中で浮かぶガラテア像はゆうちゃん。彼女だって僕が思うより色んな一面があるはずだけど(三つ子を叱ったりする時はけっこうガミガミして怖い顔してる)、僕にとってのゆうちゃんはそれこそ妖精みたいな存在だ。
それからいつまでも若くて綺麗なミナコ先生。お母さんも……実の母親を女性として見るのは何とも言えないけど、可愛らしい性格だと思う。
女性じゃないけど、ピチットくんも人として本当に魅力的だと思うし……
そして、ヴィクトル。
僕がこの世で最も魅力的だと思う、男性でも女性でもない存在。
僕はたぶん、彼のことを人とも思っていない。別次元の、それこそ神様側の世界の何か。
何となくガラテア像をつかめてきたところで、夢フォロフと話を詰めながら振り付けを決めていく。
紆余曲折を経てフリーの曲もなんとかなりました。
それにしても、今ここにいる彼が本当のヴィクトルじゃなくてよかったと思ってたりする。多分、本物にはもっと遠慮したり敬遠したりしちゃう。
だってヴィクトルは世界のヴィクトルだけど、彼は僕だけのヴィクトルだから。
[newpage]
オフシーズン、練習してたというより海やスケートリンクでヴィクトルと遊び倒した記憶しかない。本当に夢のような夏でした。神様ありがとう。
とはいえ、まさかGPSの中国大会でいきなりヴィクトルとぶち当たるとは思わなかったよね。
ピチットくんがいるのは救いだけど……ヴィクトルとクリスいますよ……? いきなりのエロス大会じゃないですか。
最悪ファイナルに残れないとしても、ヴィクトルと当たるからサプライズ作戦も決行できるからラッキーと思っておこうかな。
夢フォロフの変装には力を入れた。まず髪はオフシーズン中に伸ばして貰ってたので項で軽く括って、色は金に染めて貰って……ロンゲ金髪フォロフはそれはそれでカッコよかったので激写しました。
そしてサングラスにマスク。
どっかのエージェントみたい。
何よりも、ここまで僕に付き合ってくれた夢フォロフに応えたい。
ちょっと意気込みが強すぎてカチコチになってたところ、急にお尻をなで上げられた。
「ひぃっ、クリス!!」
「やあ勇利。相変わらずいいお尻してる」
クリスにお尻揉まれたの初めてだと思うけど!?
「―――ゆうりぃっ」
お花とお星様とハートをちらしたような、聞き慣れた声がして思わず横にいる夢フォロフを見上げたんだけど。
なぜか正面から抱きつかれて目を白黒させた。
ん……ヴィクトルだ。でも夢フォロフは変装してて隣にいるし。え、これ、誰? 第三のフォロフ?
ヴィクトル……? らしき人物は僕に頬ずりしてから少し離れた。ご機嫌から一転、むすんと膨れている。
「なんで世界選手権にいない? 引退したのかと思ってショックだった。
あの夜、あんなに激しく俺を求めたのに、音沙汰もなくて……ワンナイトラブ? 俺のことは遊びだったの?」
なんかすっごく詰られてる。
夢フォロフと数ヶ月暮らしてたんでお馴染みのノリだけど、えぇとこれ、本物のヴィクトルでいいんだよね? コーチを見上げたらコクン、と頷いてる。
ていうかあの夜っていつの夜? 激しく求めた? どゆこと?
なぜかヴィクトルにぎゅうぎゅう抱きつかれるし、めっちゃクリスにお尻揉みしだかれるし、その図をピチットくんに激写されるし地獄絵図。
何がなんだか分からないけど、チャンスだと思ってぐっと顔を上げた。
「あ、あ、あの。今日、ヴィクトルのためにプロ、作ってきたので………見てください」
ヴィクトル(本物)はそれは大きく目を見開いて―――
瞳を揺らして乙女みたいに拳を握った。な、なんか凄く嬉しそうだ。
「いいね! そういうの大好きだよ!! すっごく楽しみにしてる!」
「ヴィーチャ!! いい加減にせんかぁ!」
「あ、ヤコフ。それじゃあ、勇利もクリスもまた後でね」
すっごく笑顔で手を振って、ヴィクトルはヤコフコーチのところへ戻っていった。
クリスとも別れてから、夢フォロフにこそっと話かける。
「あの……ヴィクトルあれどうしたの? あの夜とか激しく求めたとか。最後に会ったの記念写真の時だったような」
「むしろ記念撮影なんてしたっけ? 俺はゆうりを一杯撮ったけど、ゆうりは踊りっぱなしだったろ」
…………?
あ、ピチットくんの滑走始まってる。前からやりたかったって言ってた曲だ!
すっごいカッコいい……衣装もスケーティングも。王子様だ。王子様がいる。
そしてヴィクトルのエロス! やっぱりエロスで来た!
はわわわブラックに赤の刺繍の入ったボレロ衣装……練習着の夢フォロフが滑ったのを何度か見たけど、構想時より洗練されてる。これはやばい。
クリスとは違う、情熱的だけどノーブルで優雅な色気。
「あー、やっぱり微妙に失敗してるねー」
夢フォロフに抱き込まれながら観戦してたけど、何言ってるのかわかんないよ。
「インパクト弱いー」
「そう? エロス過ぎて僕しにそうですけど」
「いつものニキフォロフって感じじゃない?」
ヴィクオタからすればいつまでもヴィクトルでいてほしいと思うけど、本人的には色々思うところあるのかな。
続いてクリスのむせ返るようなドエロス。
これから僕はアップだけど、エロス三連続で最後とかキツい……ヴィクトルに大口叩いた直後だし。
ナーバスってほどじゃないけどぷるぷるしてたら夢フォロフにきゅっと手を握られた。
よくわかんないけど、夢フォロフの傍にいると安心する。ベ◯マックス……そう、ベイ◯ックス的な安心感がある。
本物の前に立つとあんなに緊張するのにね。
「行ってきます」
[newpage]
(けっきょく、新しいコーチと契約しちゃったんだなあ)
二階の観客席の手すりに頬杖ついて、ヴィクトルは拍手とともにリンクへ出る勝生勇利を見守った。
GPSに彼以外の日本人が参戦していないことや、世界選手権で日本の代表選手が下位だったことから、現在彼が日本のエースであることは間違いないのに、世界選手権で会えなかった。
あのバンケットで連絡先を交換しておかなかったのは手落ちだった。このネット社会、SNSですぐ連絡はつくと思ったのに、勇利ときたらアカウントがどこにあるかさえ分からない。今どきそんなスケーターがいるなんて驚きだ。
だが、同時に胸が高鳴っていた。
あの子のリズム感とステップは世界最高峰だ。ヴィクトルと並んで遜色なく、ヴィクトルにも真似できない唯一無二のもの。
もし今シーズン、彼のコーチを引き受けていたら、この高揚感は味わえなかっただろう。
衣装は、ガーリーなボレロを思わせるショート丈のジャケットと、腰の両側から下方に切り込むような花柄の刺繍が入るシャツをマニッシュに纏めており、男性が男装の麗人に扮しているという倒錯的な美を感じさせる着こなし。
ボトムに下着やドレスを彷彿とさせる黒レースのラインが入っているのも心憎い。
これは男臭いタイプがすれば滑稽だし、逆にユーリのような正統派美少年では単なる女装になってしまう。勇利でなければ鼻につく、難しいコーディネートだ。
あの金髪コーチ、やりよる。
同時に胸の奥にもやもやした黒い感情が湧き上がった。
ヴィクトルは嫉妬を知らない。する必要がない恵まれた環境にあった。
だが、彼はロシア人の男で、本来ならコーチを引き受けるつもりでいたほど勇利を気にいっていた。
目を付けた好みの子を好みで着飾らせるのはロシア男のサガだというのに、あれほどヴィクトル好みのコーディネイトを他の男に見せつけられ、面白くないのに惹きつけられるという悔しさを覚えていた。
ヴィクトルが拗ねているうち、会場に弾くようなケルティッシュなアコースティックギターから可憐なウィスパーボイスが響く。曲名はガラテア。
ユーリにあげたプロとちょっと被ったかな、と感じたのはほんの一瞬。
神聖で禁欲的なアガペーとは何もかも違う。
水たまりで遊ぶようなステップ、秘密めいた清楚な色香。
それは香る乙女のようであり、アシェンバッハが魅入られた少年のようでもあった。
ピグマリオンが愛した人形。
女性から男性になった神の娘。
玉虫色のアニムとアニムス。
無色透明のガラテア―――――
ヴィクトル、クリスと続いた強烈なエロスの後であるがゆえに、初恋のときめきを思い出させる叙情的な魅力が際立った。
むきだしの情欲よりも、秘めた情事は胸をくすぐる。
何よりも、あの清潔な色気ときたら……
(狡い………)
ずるずるとその場にへたりこむ。
その気にさせるだけさせて、この俺をフッて、俺の為に滑ると嘯き、誰のものでもない偶像を踊ってかき乱された。
ヴィクトルはもう、完成してしまったがゆえにあんなものにはなれない。ヴィクトル・ニキフォロフ以外の何者にもなれない。
きっと誰もが自分だけの綺麗な何かを抱いてあのガラテアに恋をする。
ヴィクトルのためと言いながら、誰のものにでもなるのだ。
***
出来栄えは上々。
苦手なサルコウを取り入れながら、勇利はノーミスで滑りきった。
どこで見ているかは知らないが、今頃ヴィクトル・ニキフォロフのオリジナルは悶絶している頃だろう。
(バンケットでコーチになってって言われたとき、もう既に半分落ちていたようなものなんだ。
他ならぬ俺自身が俺好みのスケーティングをする俺好みの子に俺好みの衣装で俺好みのプロを見せつけられたらたまったもんじゃないよねえ)
手に届くようで届かないもの。
何もかもを容易く手に入れてきた男が、月に手を伸ばして空振った。
ちょっとだけ、いい気味だ。
「ヴィ……コーチ! 僕、よかったでしょ?」
帰ってきた勇利をぱふんと抱きとめ、マスクの下で微笑んだ。
「ヴィクトル、気に入ってくれたかな」
「もちろん! 勇利は最高の生徒だよ」
「へへ……」
滑走後の興奮で上気し、滑りきった満足感で緩みきったこの顔。
役割を果たすために出現した偽物に過ぎないけれど。
あと数ヶ月で消えてしまうこの身だけれど。
今だけ、この瞬間だけは、この輝く笑顔は自分のものだ。
このような感情を抱く自分が、コピーとして欠陥品であると知りながら。
[newpage]
ショートの試合が終わって、コーチと歩いてたら誰かが僕の隣に滑り込んできた。
ピチットくんかな、と振り返ったらめっちゃ近くにヴィクトルの顔があって、思わず顔を正面に戻した。
「ゆうり?」
「は、はひ………」
「今日の試合、とてもよかった」
耳元でやめてさぁあああああ!!!
身を竦めてビクンビクン震える。
こういうのコーチフォロフもするけど、ある意味慣 れてるけど、本物だと思うと辛い。嬉しいとか通り越して辛い。
肩越しにちらっと見ると、やっぱり顔めっちゃ近……もう僕の肩に顎乗せる勢い!! うっかり振り返るとキスできる。
近眼の僕でも睫毛の一本一本が見える至近距離で、ヴィクトルは微笑んだ。
「今晩、食事に行こう」
しょ………
しょくじ!?
ていうかあの、なんでヴィクトルこんなグイグイくるの? 去年会ったときこんなんじゃなかったよね。
コーチフォロフなんかした? って思わず見たけど、グラサンマスクの金髪からは何の表情も読み取れない……読み取れるはずもない。
ただ、彼は親指をグッと立てた。行け、ということだろう。
***
「というわけで、おめかしだよ勇利!」
部屋に戻ってグラサンとマスクを剥いだコーチフォロフがニコパーっと笑う。
おめかしって言われても、僕ジャージとかモサい服しか持ってきてな……
コーチフォロフのスーツケースから色んな服が出てきたよ!?
「通販で買っておいたんだー。試着できないし実際のイメージと違うことあるから、通販で服買うの嫌いなんだけどね。
あ、お金は気にしなくていーよ。お店の経費だから」
なんでお店の経費で僕の服が落ちるの。どういう仕組なのホント。
あれやこれや出してベッドの上で組み合わせてるコーチフォロフ。
「あの……聞きそびれたんだけど、一年したら貴方はどうなるの?」
「ん? そりゃ元の場所に戻るよ」
当たり前じゃない、みたいな顔で振り返るコーチフォロフ。
「元いた場所って、どんなところ?」
「どんなも何もないなー。俺はデータ上の存在だから」
「一年したらデータに戻っちゃうってこと?」
「そうだね」
あえなくなるんだ……
そりゃ最初から一年って聞かされてたけど。夢だと思ってたけど。
今こうして触れると温かいし、確かにここにいるのに、いなくなって二度と会えないんだ。
「ゆうり」
笑うような声で、コーチフォロフは僕の名前を呼ぶ。
「本物のヴィクトルがいれば、俺はいらないんだよ」
「い……いらなくなんてない!!」
「そりゃ、俺はゆうりに都合のいい存在だから、寂しいかもしれない。現実のヴィクトルとうまくいかないことだってあるかもしれない。
でも、ずっと俺がいたら、ゆうりはダメになっちゃう」
そうかもしれない。
彼には物凄く助けられてる。それは、僕のためだけに存在してるからって何度も説明された。
だけど、そうじゃなくて……たとえ僕のためじゃなくても、世界の何処かにはいてほしいよ。彼がこの世から消えちゃうなんて寂しい。そんなの、死んじゃうのと何が違うの?
そんな僕を振り返って抱きしめてくれた。
「ありがとう、ゆうり。ヴィクトルは幸せものだねえ」
ちがうよ。
こんなのちがう。
コーチフォロフは僕のメガネを外して、そっと指先で涙を拭ってくれた。
神様
僕が望んだのは、こんなことじゃない
[newpage]
コーチフォロフが選んでくれたのは、腿まで隠れるニットセーターとジャケット。ボトムはスリムに見える黒のスキニーだった。
眼鏡は没収されて、前髪を軽くワックスで整えられた。
よく見えないけどたぶん人生で一番オシャレしてる。
「んー、かわいい。食べちゃいたい」
ほっぺたぷにぷにされながら。
彼が選んだってことは、ヴィクトルも気に入ってくれるんだろう。
ほんと対ヴィクトル最強兵器だよね。
「あの、ぜんっぜん見えないんだけど。そりゃ試合中も眼鏡は外すけど……」
「かえって見えないほうがいいよ。ヴィクトルと向かい合ったらどうせ緊張するだろ?」
ああはい、まあそうですね。あの超絶美貌は多少ぼやけてるほうがいいのかもしれない。
コーチフォロフと別れて、約束のロビーでそわそわしながらヴィクトルを待ってた。
口約束だし忘れてすっぽかされるとか、実はからかわれただけ、なんてないよね?
「―――勝生選手?」
中国だけど英語で話しかけられて思わず顔を上げた。よくわかんないけど白人。スケーターじゃないな。関係者かも。
「はい。勝生勇利ですけど」
「本物! へえぇ、普段はこんなに可愛いんだね」
言われたことないですけど……モサ眼鏡の豚野郎ですので。スケ連HPではバナー詐欺師と名高いです。
大体、男子スケーターにキュートってさ。コーチフォロフも言ってたけど。どうせならクールファッションにしてほしかった。たぶん童顔が際立ってる。
「どう? 食事でも。奢るよ」
たぶん、自分の容姿に自信があるんだろうな。よく見えないけど。
自分イケメンなんですーって言いたげな、たぶん笑顔。馴れ馴れしく肩を抱かれてびくっと震えた。え、え、なんで?
忍ばなくても気づかれない程度にモブ顔だから、スケーターとバレてもこんなの初めてだった。せいぜいサインくださいーとか記念写真ーとかさ。
デトロイド時代でもこんなの無かった。
あ、ヤクの売人とか?
豆腐メンタルなのは有名だから、いい薬あるよー的な? スケーターが試合前にそんな人と関わったって噂になるだけで大問題だよ!
「こ…困ります」
「何もしないよ。食事だけ。ね」
歯を見せて笑ってるけど、何もしないって何? 何かあるって前提で何もしないって言ってるの? 内臓売られちゃうとか? ちゅうごくこわいある……!!
女の人が絡まれてるならロビーだし誰か助けてくれるだろうけど、男が男に絡まれてても気にされない。
あうあう言ってビビりまくってたら、横からぐいっと強い力で腕を引かれた。ばふんと何かにぶちあたる。
「ごめんねえ。先約なんだ。またにしてくれるかな?」
あーヴィクトル! いいところに来てくれた、内臓ほじくりかえされるところだった!!
さすがの内臓バイヤーもロシアの皇帝を前にそそくさ立ち去っていった。はー、助かった。僕の腎臓が。
「ありがとうございます。危うく売られるところでした」
「あはは、ゆうりは面白いなー。いくら中国だってそんなこと……え、そういう話だったの? 俺はてっきりナンパされてるだけかと」
男は男にナンパされません。
あーでもグァンホンくんとかされそうだな……ピチットくんと仲良くてインスタでたまに見かけるけど、やたら可愛いよね、あの子。まあ未成年だから夜は大人の人がちゃんとついてるだろう(※一人で出歩いて買い食いする子)。
ヴィクトルは僕の手首をとって歩き出した。
「さて、どこいこうか! 食べたいものはある? 火鍋いく?」
「あ、えと。試合前に生物はちょっと……あと減量中です」
「そんなに太ってる?」
「太りやすくて」
そう言うと納得してくれたみたい。スケーターとウェイトコントロールは切って離せない。ヴィクトルはよく食べるみたいだけどね。食事の写メよくアップされるし。
ヴィクトルが連れていってくれたのは、落ち着いた雰囲気で野菜中心、油少なめのお店だった。中国の野菜怖いアルが大丈夫アルか……そんなこと言い出すと中国で何も食べられなくなるけどさ。
そして、ヴィクトルって思ったより子供みたいにはぐはぐ食べるなあ。コーチフォロフがそうだから、予想はついてた。
「昨日のプロはよかったよ。本当に俺のために?」
「き、気に入ってもらえたなら、えと、その……コーチと一緒にヴィクトルをびっくりさせようって」
「ふーん?」
頬杖ついて、僕の顔を覗き込んでいるらしいヴィクトル。笑ってる、と思うけどその機微までは窺えない。
「あのコーチは誰? ずいぶん俺に似たプロを作るね。いや、俺と似た発想のプロ……かな」
そりゃヴィクトルのコピーでおすしね?
困った、ヴィクトルはスケーターだから下手な言い訳が通じないぞ。あれはバレエダンサーのコレオじゃないし、あのレベルのコレオが作れる振付師だと調べがつかないと却って不自然かも。
「え、と……たまたま僕のバレエの先生に紹介されて。ヴィクトルのファンなんだそうです。僕も……そうなので。じゃあ今シーズンだけ一緒にやろうかって」
「へえ。今シーズンだけの契約なの?」
「はい。たぶん僕、今年がラストシーズンになると思いますから」
「………?」
ヴィクトルの顔から笑顔が消えた、気がする。
「引退、するの」
「え、はい。そのつもり……です。コーチとも一年だけ、という約束なので」
あ、あれ………?
なんかヴィクトル、もしかして怒ってる?
「あ、もしかして彼に依頼したかったんですか?」
「うん?」
「彼のコレオが気になるのかなって。でも、たぶん無理です。すみません。彼も今年だけとのことで。ちょっと事情のある人なんです」
「いや。俺は自分の振り付けは自分でやるから」
「ですよね! 毎年凄いです。いつかヴィクトルみたいにできたらって、思ってるうちに引退………」
言ってるうちに悲しくなってきた。
そういえば、いつかヴィクトルみたいに自分で曲を選んで振り付けもやってみたいって思ってたっけ。なのに、まともな成績も残せないまま夢も叶えず崖っぷちにいる。
ショートも、二位だった……クリスに初めて勝てたけど。でも、シーズン序盤だから難易度下げてただけだし。
ヴィクトルには全然敵わなくて。ショート114点だよ。ほんとむり。コーチフォロフがオニチク構成で作ってくれたプロでも基礎点で全く敵わない。
「―――どうして引退するの? 怪我?」
「あー……まあ、ピークきてますし。潮時ですね。いい成績残せるスケーターなら話は別だけど」
「彼、いい振付師だね。君の良さをよく理解して、とても趣向を凝らしてる。フリーも期待できそうだ。
彼のコレオを滑るスキルがあるなら、故障でもない限りこれからもっといいスケートができるんじゃない?
俺をびっくりさせたいだけじゃないよ。君というスケーターをよく見てる。愛がなければ作れない」
愛………
何か、むずっとした。神様の使いだもん、愛だよねえ。
「彼が引き出した魅力を、そのまま終わらせてしまうのは勿体ないと俺は思うな」
「そう……かな」
「少なくとも彼はそう望んでないと、俺は思うよ」
………そっか。
聞いてみようかな、帰ったら。
僕、彼に願い事を聞いてもらうばかりで、彼に何かしてあげるってなかった。何をしてあげていいか分からなかったし。
ええ、いいやでも、彼の望みってヴィクトルの望みだよね。僕ごときが叶えてあげられるかな。
「ゆうり」
本日何度目か、歌うように名前を呼ぶ声。
「去年のバンケットでコーチになってって言われた時、俺すごく嬉しかったんだ」
「ふぁ………ふげあ!?」
「まあ、酒の席の話だしねえ。でも、だから彼にコーチとられてショックだった。俺をびっくりさせてくれたから、プラマイゼロだけど。
ゆうりにコーチになってって言われてからね、もし勇利のコーチになったらどんなプロにしようってあれこれ考えた。ぽろぽろ、断片的にゆうりに関するインスピレーションが湧いて、でもゆうりのことよくしらないから途切れ途切れでね。
でも、消えないし終わらないんだ。瞬く光みたいにアイデアが浮かんで弾ける。
だから、フリーはそれを繋げてみた。ゆうりのことを想って作ったプロだよ」
…………………。
まって。情報処理追いつかない。酒ぐび。
実は食前酒からけっこう呑んでる。ほんのすこしのつもりだったけど、緊張してていつの間にかくぴくぴと……
バンケットでコーチ? 何のこと? え、去年……チェレスティーノにつれてかれて。えーと、すごいシャンパン呑んだ。
まさかその時? 嘘。記念写真? とか聞いてきたヴィクトルにコーチになれって。嘘だと言って。
しかも僕のためって……僕の。
酒でも呑んでないと持たない。
いつもならそろそろ暴れ始める頃合いだけど、試合で疲れてたのと緊張でぐったりしてきた。
明らかに飲み過ぎだ。
[newpage]
ロシア人のヴィクトルにとって酒はよき友である。ここはそう寒くないので深酒まではしないが、それでも他人種よりはよく呑む。
一方で様々な国の人間と呑むことが多く、他国はロシア人ほど呑まないのも知っていた。
勇利がヴィクトルと同じペースで酒を口にする姿と、去年の大暴れを知るだけに、大丈夫かな、と見守っていると案の定、頭をフラフラさせ始めた。
「ゆうり。そろそろ帰ろうか」
「やだ……」
「嫌なの?」
「びくとるといたい」
「………」
苦笑した。困った子だ。デートに誘われて口説かれて、酒に酔ってそんなことを言う。
会うたび違う顔を見せてくれる。はじめはジュニアの選手かと思った。ヴィクトルに声をかけられて無視する選手は初めてで、かと思えば次に会ったら型破りの大胆な姿。
翌年に会ったと思えばやけにシャイで控えめ、その直後にあのガラテア。酒を飲めば今度も暴れるかと思えば、この調子だ。
「じゃあ、俺の部屋にくる?」
誘ってみると、コックンと頷く。
困った子を通り越していけない子だ。ナンパされていた時、いかにも慣れていません、というウブな顔をしていたくせに。
手を引くと、おぼつかないながら自分の足で歩く。どこにいるのかも分かっていなさそうだ。
部屋までお持ち帰りすると、自分でよたよたベッドに転がってしまった。酒に染まった顔でくったりしている。
(むぅー)
何だか全てを段取り良くお膳立てされているような。
もちろん、勇利にその気は一切ないのだろうが、問題はあのコーチ。
これがいいんだろ? これが好みだろ? こういうふうにしたいんだろ? という声が聞こえてくるようだ。
まあ、頂けるものは頂く。
ゆるく開かれた指に指を絡め、柔らかそうな唇を合わせる。軽く吸って離れると、勇利がキャラメル色の瞳をうっすら覗かせて、不思議そうにヴィクトルを見返した。
何も知らないんだな、と感じた。酔っているからだけではない。人肌を知らないのだ。
瞼はまたとろとろと落ちている。ニットの中に手を差し込んだ。ひくっと反応する体。
大きく開いた首元に唇を寄せ、そして――――
ノック。
(なんとなく、予想はしていたよ)
ひとまず首筋を啄んで、離れた。
来客は案の定、勇利のコーチだ。扉を開けたらなぜかダブルピースで迎えられた。
「来ると思ってたよ。あの子を俺に渡す気なんてさらさらないんだろ」
無視して続けることも出来た。だが、この男は何らかの方法で扉をこじあけるか、勇利の気を引いて起こせるだろう。
男は何も言わず、部屋の中へ入っていく。
すれ違いざまの足運び、姿勢。そして体型。ダンサーじゃない。やはりスケーターだ。それも現役。
決して軽くはない勇利を抱え、苦もなく立ち上がる。
道を空けたヴィクトルは、彼が立ち去る前に「ねえ」と声をかけた。
「君、眉毛が銀色だね」
不自然にきつい金髪。
眉だけが銀色。たぶん、睫毛や他の体毛も。
男は一言も口を利かずに立ち去った。
(耳は聞こえてるみたいだ。音に反応する。喉に異常がある可能性はあるが―――意図的に喋らない、というほうが正確かな)
嫌悪や敵意は感じない。関心もないが、かといって無関心でもない。
勇利は彼をヴィクトルのファンと言った。そうでもなければ説明のつかない振り付けだ。少なくとも彼はヴィクトルのスケートを深く理解している。あるいはヤコフよりもずっと。
だが、彼にあるのは勇利への愛だけだ。
あの師弟をどう捉えてよいか分からず、ヴィクトルは珍しく困惑していた。
今シーズンで引退するという勇利。
今シーズンだけコーチを引き受けたというあの男。
ヴィクトルのためのプロ。お膳立てするだけして横から掻っ攫う。
明日のフリーを見れば答えは出るだろうか。
***
割と、順当。
スケーターの寿命は短く、若くして様々な理由で諦めざるをえない選手は多い。入れ替わりが激しい中、ヴィクトルはこんな試合を幾度も目にしてきた。
クリスの調子は割といいらしい。まあ、いつだって大きく崩れることのないスケーターだが。
対して勇利だが、どうも眠れていないらしく、会場で見かけた時にコーチに肩をゆさゆさされていた。昨日の公開練習でも緊張気味、今日に至ってはジャンプを失敗して目が死んでいた。
ただ、出番の前には持ち直したらしい。
美しく始まるピアノの螺旋。
ショートと違って何かを演じるつもりはないらしい。演目は彼自身。衣装も彼を最も美しく見せるものだ。
誰のものでもない理想を演じた後に、これが僕ですと、強く主張するようなプロだった。
だからこそもったいないミスも多かったが、相変わらずステップシークエンスの美麗さは頭ひとつ抜けている。あのコーチが手がけただけはあり、息をするのも忘れる。
まずあのステップを踏めるスケーターが世界にもそういない。ヴィクトルならやろうと思えばやれるかもしれないが、クリスにもおそらく無理だ。
やはりあのコーチ、やりよる。
会場に歓声が響き渡った。
転倒はしたものの、クワドフリップ。ヴィクトルは目を見開いた。
今まで自分以外が成功させたことのないジャンプ。
なぜ、この演目の最後に……? 自分自身を精一杯に氷の上で描いたその最後に。
飢えと乾きを感じる。
窒息しそうだ。
なぜこんなに掻き乱される?
確かに勇利を気に入ってはいた。コーチをしてやりたいとも思っていた―――「してやってもいい」と思っていた、というほうが正しいか。
今は、なぜ全てを出し切ったあの子を迎えるあの場所に自分がいないのか、そんな思いで胸を焼かれていた。
[newpage]
ヴィクトルのフリーの前ということで、勇利はかなり緊張していた。眠れなかったらしい。
どうしたものか悩んだ末に、本物のヴィクトルならこの時点で飽きてコーチを辞めるかもしれない、と発破かけるつもりで言ったところ、大泣きされた。
それが功を奏したらしく、とりあえず立ち直り、予定にないフリップを跳ぶ気構えまで見せてくれた。
(コーチをやるつもりだったくせに、全く知識も気構えもないんだよね。俺の身にもなってよ)
思わずヴィクトルに文句をつける始末。
そしてキスクラでは自分の点数もそっちのけでヴィクトルを真剣に見つめている。このまま観戦するつもりらしい。
(さて、沈没寸前の皇帝。今年はどうするのかな?)
データから現実に構成された時点で、ヴィクトルとは分離し、記憶は別々になっている。
ヴィクトルのコピーにも、今年のプロは予測できなかった。大方、自分自身も飽きたようなアイデアを捻り出してくるのだろう、と思われたが―――
(ボサノヴァ?)
まさかの選曲。何パターンかある愛についてのアレンジよりも意表を突かれた。
『 カラメルの星の尾 深海の宇宙服 オールトの虚
割れる水面 溺れる魚 波の泡
瞬く棘 逆さまの楕円 卵の息吹 』
意味もない単語の羅列をなぞって滑る。
水遊びをする子供のように。
決して構成上の大きな盛り上がりはない。ストーリー性もない。心浮き立つ暖かなボサノバの曲調でヴィクトル・ニキフォロフが楽しげに滑っているだけ。
たったそれだけのことが、これほどまでに人の心を打つのか。
額をおさえた。少なくとも今までのヴィクトルでは考えつかない表現。染み付いたイメージを捨て去っている。
(俺と分離した後に、何か心境の変化でも………?)
訝しんだが、隣の勇利の様子ですぐに分かった。
おにぎりのぬいぐるみに半分顔を埋めて、甘そうな色の目から涙を零して震えている。
それはまるで、カラメルで出来た星のようだった。
そう。そうか。
思わずキスクラで脱力。
(神様も意地悪だなあ)
嘆かずにいられようか。
勝生勇利の為に作られたヴィクトルの模造品。
そんなものの居場所なんて最初から何処にもなかったろうに。
続こうかな、どうしようかな、でやめてしまったシリーズ
2018年4月6日金曜日
プリザーブドペイン
※かなり辛くて切ない話です
薄氷の上を裸足で歩き、氷のガラスが貫いた
花が咲く、割れた氷の跡に
その花を伸ばしたつま先で踏みにじる
壊死した足裏はもう痛みを感じない
[newpage]
勝生勇利という男子フィギュアスケーターがGPFで銀メダルを取得した次の年に失踪してから五年の月日が経過しようとしている。
現役続行の意を表明し、コーチであるヴィクトル・ニキフォロフのホームへ活動拠点を移して、何もかもこれからという段階だった。
勝生勇利はリンクメイトのユーリ・プリセツキーと道で別れ、その後に忽然と姿を消した。
不慣れな異国のため、コーチと共同生活を送っていた勝生勇利の荷物は、本人が所持していたリュックやスケートシューズの他はパスポートも含め全て自宅にあり、自主的な失踪とは考えにくい状況だった。
また、リンクメイト及びコーチとの関係はすこぶる良好、最後に会っていたユーリ・プリセツキーと仲睦まじくショッピングをしていた姿が地元住民に目撃されている。
愛弟子を失ったヴィクトル・ニキフォロフは精彩を欠き、その状態でも勝生勇利が戻るまではと競技生活を続け、頂点に君臨した。
しかし、その彼も今年で33歳、引退を決意する。
勝生勇利の生存を諦めたともメディアで発言した。
その途端に―――――
匿名の文書がヴィクトル・ニキフォロフ宅に届いた。
「ユウリ・カツキの身柄と引き換えに引退をとりやめろ」
勝生勇利が行方不明になって五年、一切の痕跡が見つからなかった事件の手がかりだ。
それからは早かった。誘拐された勝生勇利の居所は瞬く間に割り出され、犯人は逮捕された。
犯人は熱狂的なヴィクトル・ニキフォロフのファンであり、ジョン・レノンの音楽性を歪めたオノ・ヨーコのような存在である勝生勇利が許せなかったから犯行に及んだと供述している。
勝生勇利生還の知らせを受け、彼の復帰を望む声もあったが、彼は日常生活もままらない状態にあることが正式に発表された。
事実上の引退表明であり、彼がどのような仕打ちを受けて五年間を過ごしたかを暗喩する報告だった。
[newpage]
カツ丼。勝生勇利。
初めて見た時にその唯一無二のステップに憧れた。あのヴィクトルさえ持っていない何かに惹かれた。
なのに情けない奴だった。なのにアイツに負けた。だから勝ってやろうと思った。そうしたら勝手に引退するらしい。ムカついて絶対負かしてやると思った。
現役続行するらしい。しかもロシアに来るとか。リンクメイトになるらしい。ロシア語もしゃべれないくせに。しょうがねえから面倒見てやる。俺は先輩だからな。
……ホントのこと言うと。
オレは家族と離れて暮らしてたし、ヴィクトルに憧れてた。ハセツで過ごした時間は短かったけど楽しくて、あったかくて、そこにヴィクトルとカツ丼がいた。
今思うとジジイはあの時点のオレがカツ丼に負けること、たぶん分かってた。オレはガキだったし、まだシニアの大会経験すらなかった。思い出すとマジむかつく。
あいつらは二人っきりの世界作って、オレはそん中に入れなかった。
だからカツ丼がロシアに来て、オレにも居場所があるんだってわかった時、すげえ嬉しかったし、アイツがいなくなるまでの間はめちゃくちゃ楽しかった。
練習とか嫌いだったけど、張り合い出るし。帰りとか、オフの日とか遊んだりして。足んなかったもんが満たされた気分だった。
いつまでかは分かんないけど、暫くずっとこの生活。
ユーロと四大陸終わって、世界選手権を控えてたしな。まだシーズンも終わってなかった。
あいつらは、いつもどおりアホみたいに距離近くて、笑い合ってて、幸せ一杯ですーって面で毎日毎日スケートしてて。たまにヤコフに怒鳴られたりミラに笑われたり、ギオルギーが「愛……」とか囁いたりしてて。
たまにオレに気がついて「ユリオー」とかアホ面そろえて接近してくる。
あの日は確か、サイフがぶっ壊れたから店に連れてってくれ、とか言われたんだっけな。ヴィクトルに言うとブランドもんのバカ高いのを買われるからって。
適当な店連れてって、適当なもん買って、そんで別れた。また明日って言ってたな。
笑ってた。
そのあと、ヴィクトルが帰ったら待ってたのは犬だけで、カツ丼どこにもいなくって。
妙だとは思ったけど、昨日の様子じゃ家出とかねーし。ジジイとなんかあったのかって聞いたけど、そもそもリンクで別れてから連絡してなかったらしいから、なんかある訳もねえし。
そもそも帰宅した痕跡自体なかったそうな。
三日して警察に届けた。けど、ロシアの警察はまともに働かねえ。それでも他国のトップスケーターだったしな。動かなかったとは思えない。一応、オレも事情聴取には付き合った。
マスコミのほうが熱心だったな。あれこれ根掘り葉掘り聞かれて、リンクメイトに苛められてたとか、コーチと不和とか憶測ばっか書かれて、基本的には「自主的な失踪」として扱われてた。
なら、残されたパスポートや、実家にさえ連絡入れてなかったのは何なんだよ。
スケ連になんも言わねえのもおかしいだろ。大会控えてたんだぞ。
あいついなくなってから、ヴィクトルと話す機会が減った。てか、ジジイの口数が減った。話しかけられる空気じゃなかった。
ヴィクトルにとってアイツがどんだけデケェ存在だったのか、一番知ってるのオレだったし。
大会出てたのは、有名で在り続ける為だった。
『ゆうり、もしいまこれを見ているなら連絡を』
『ユウリ・カツキを見かけた方はどうかご連絡を……』
ほとんどはガセネタだったろうし、実際そうだった。
犯行声明が出て、カツ丼が見つかったって聞いた時はぶっとんだぜ。まさか生きてるとは思ってなかったからな。
病院に呼びつけられて、予定全部キャンセルして駆け込んで。
病室のベッドの上に女がいると思った。
痩せこけてて、ろくに切ってねえ髪が背中まで伸びてたからな。トレードマークの眼鏡もしてなかったし。
ただ、ヴィクトルが傍にいたから、ああ……って。
コイツがあのカツ丼かあって。
「ゅり…ぉ?」
聞き取るのも困難な蚊の鳴くような声で、ここ五年だれも呼ばなかった愛称でオレを呼ぶ。
東洋人てのは、ホントに年とらねえんだな。いや、五年前に時間止めちまったのか。オレは背もデカくなったし、あの頃の面影はあんま残してねえ。
「ぉ…きく、なった、ねぇ……」
詰まりながらそのくらい言うのが精一杯で、噎せこんじまう。ヴィクトルが「無理しないで」と、それこそ五年のあいだ聞いたこともねえ優しい声でカツ丼の背を撫でてた。
アイツを見る目も、昔に戻ったみたいでよ。
足の筋肉衰えてて、スケートはもうまともに出来ねえってよ。ほとんどしゃべらないで暮らしてたから喉弱ってて、それで声が小せえんだと。
とにかく死んだと思ってたから、最悪マフィアの事件に巻き込まれたとかよ。
どんなでも生きててよかったって。
―――よかったんだよな?
[newpage]
引退したヴィクトルは元よりハセツに居を移すつもりで、海の傍に家をひとつ購入していた。
勇利のことは半分諦めていたから、マッカチンと暮らすための家だ。
そのマッカチンも先年、ヴィクトルを置いていってしまった。今いるのは二代目の子犬だ。
「どう、ゆうり。気に入ったかな」
大きな窓を開き、振り返る。
車椅子に座る勇利が目を閉じてすうっと空気を吸い込んだ。
「海のにおいがする」
「きゃう!」
勇利の膝の上にいるマッカチン二世が可愛い声で吠える。
勇利はもう眼鏡をしない。ほとんど視力がないので必要がなくなってしまった。
「もうヴィクトルのスケートを見られないのが残念」
と言って微笑んでいたが、その実、そこまで悔しいようには見えなかった。むしろ、清々しささえ感じるような―――
(ゆうり……)
海の風を受けながら子犬の頭を撫でる姿に目を細める。
何があればそこまで急激に視力を失う?
どんな扱いを受ければああまで喉や足を弱らせる。
監禁された先で何があったのか、まだ聞いていない。聞けるはずもない。話したくも思い出したくもないだろう。
皮肉なことに、ヴィクトルが完全に勇利の生存を諦めた矢先に犯人の手がかりを掴んだ。
もっと早くにあきらめていれば、こうなる前に勇利を助け出せていたのだろうか。
「何か食べたいものはある? これからはカツ丼だって毎日おなかいっぱい食べられるよ」
「ん……カツ丼はいいかな」
(カツ丼は、じゃないだろう)
好物のカツ丼なら少しだけでも口にしてくれるかと思ったが、やはり駄目だった。そもそも、ヒロコがゆーとぴあ勝生でもカツ丼を出してくれたのに箸をつけようともしなかったのだ。
この五年というもの、勇利はジャンクフードや粗悪な缶詰だけで生き延びていたらしい。
飢餓状態と栄養失調。それらは病院で治療を受けたが、拒食の気があった。今でも時折、病院に点滴を受けに行かねばならない。
「……ねえ、ヴィクトル。怒らないで聞いてほしいんだけど」
躊躇いがちに口を開く勇利に「なに」と返す。これはたぶん、よくないことを聞く前兆だと覚悟しながら。
「なんで、僕と暮らそうと思ったの? 僕とヴィクトルは一年も一緒にいなかったし、あれから五年経ってるのに」
「ゆうりは、俺と暮らすのイヤ?」
「イヤじゃないよ。僕……狭い部屋の中で暮らしてて、娯楽とかなんにもなくて。頭のなか、五年前で止まってる。
だけど、いっそ死んでたほうがヴィクトルのためだったのかも」
「なんてことを……」
「五年も信じてくれてありがとう。凄く嬉しかった。だけど、やっとヴィクトルが新しい人生を歩もうとしたのに……帰ってきちゃった。これから結婚したり、幸せな第二の人生が待っていたかもしれないのに」
「俺はゆうりが生きて帰ってきてくれたことが何より嬉しいんだよ?」
「ヴィクトルほどの人が、その年で結婚してないなんておかしいよ。それが五年も生死不明だった僕のせいだなんて悲しい。もし同情や感傷なら――――」
このやりとり、昔もやったなあと思いを馳せる。
勇利からペアリングを貰って、勇利のコーチとして生きていく決意をしたその翌日に「僕のことはいいから復帰して」と彼は言った。
身勝手と済ませるには悲しいほどヴィクトルの為を願っている。いつも。
「ゆうり。俺はもうリビングレジェンドでもスケーターでもない。ただのハセツのヴィクトルだ。籍も日本に移しちゃったし」
マッカチンを撫でる勇利の手をとり、指先にキスをした。昔のように。
「みんなのヴィクトルはもうおしまいだ。俺は、俺が望むままに生きたい。それがゆうりの隣。どうか俺を拒否しないで。ずっとお前を待っていた。諦めきれなかった。やっとゆうりがこの腕に帰ってきたんだ。このうえでお前に拒絶されたら、俺は生きていけない」
抜け殻のように生きてきた。
この体と心を満たしてくれるラブとライフをわけも分からず奪われて。
世間が口さがなく悲劇のストーリーを捏造するたびに勇利がそんな目に遭っているのではないかと想像して苦しんだ。
「僕、たぶん今、ヴィクトルを拒否するべきなんだろうね。酷いことを言ってでも」
「ゆうり!」
「ヴィクトルの為にも、たぶん僕のためにも。でも、怖くて言えない。アイツの言ったこと、全部ほんとになりそうで」
(あいつ)
ヴィクトルは目を伏せた。
ヴィクトルの熱狂的なファンで、勇利を五年もの月日を暗く狭い部屋の中に閉じ込めていたあの男。
ジョン・レノンを狂わせたオノ・ヨーコ? そんなこと、ビートルズのメンバーはみんな否定している。それを未だに信じている輩がいて、ヴィクトルと勇利の関係に重ねていたとは笑い草だ。
狂った男が勇利に何を吹き込んだのか、想像に難くない。
勇利も、全てを鵜呑みにしたわけではなかろう。だが、飢餓と栄養失調と運動不足、異常な環境でお前のせいだ、お前が悪いと罵倒され続ければ、誰だっておかしくなる。
いま、勇利の頭の中や心の中がどうなってしまっているのか。自分を極悪人だと思いこんでいるかもしれない。ヴィクトルの障害と思い込んでいるかもしれない。
以前はそれでも、勇利にはスケートという寄す処があった。スケートで愛を語り、スケートでヴィクトルを繋ぎ止める。
それさえ奪われてしまった彼は、ヴィクトルに愛される自信を失っている。どれほどヴィクトルが訴えたとしても。
一生消えない。頭で理解していても、繰り返し言われたであろう言葉は勇利の中からなくならない。
閉じ込められた恐怖も、短く貴重な競技人生を奪われた悲しみも、スケートを失くした喪失感も。
「ゆうり、お前が余計なことを考えると昔からろくなことがないよ。今は今を楽しもう。ハセツの海と、温泉と、俺とマッカチンのいる生活を。夢だとでも思って」
「夢かあ。夢だとしたら、いい夢………!?」
おかしそうに笑う、あるいは自嘲気味に笑う勇利を抱きしめた。
「ヴィクトル。汚いから触らないで。ヴィクトルが汚れちゃう」
「勇利は汚くないよ。汚れたとしても洗えばいい」
「でも………」
「夢が覚めたら汚れなんてなくなってる」
早く悪い夢から醒めて。
あれは全部悪い夢だったと言えるようになるくらい、幸せな現実を生きようよ。
腕の中の勇利は、強張ったまま緊張を解くことはなかった。
[newpage]
これが夢だとしたら、いつか醒めてしまうんだろう。
ヴィクトルは一人で暮らすつもりだったから、ベッドはひとつ。サンクトの家でも最初はそうだった。
今は単純に、勇利から目を離すことが怖いとヴィクトルは言っていた。また急に勇利が消えてしまったらと。
勇利の失踪は、勇利だけでなく多くの人の心に傷を残した。
ヴィクトルがハセツに家まで買って、勇利と暮らしたがるのも、傷の名残に過ぎない。
スケートがなければ縋るものもない絆で結ばれていた。氷の上にしかない愛の欠片を拾い集めるようにして。
ヴィクトルは勇利に事件のことを忘れてほしいと願っているようだが、忘れるべきなのはヴィクトルのほうだ。勇利という存在ごと忘れるべきだった。
あの男は本当に余計なことをしてくれた。最後の最後でヴィクトルに勇利の生存をわざわざ本人に知らせるような真似をして。五年見つからなかったから油断をしたのか。それともヴィクトルの引退がそれほど衝撃だったのか。
これは勇利が墓まで持っていくつもりの秘密だが、あの男は異常性愛者だった―――ヴィクトルをそういう目で見ていた。ヴィクトルを犯したいと。
ヴィクトルが抱いた体だからと言い張って勇利に幾度となく暴行を働いた。実際にはそんな関係ではなかったというのに、男は耳を貸さなかった。
あの男の狂気の矛先がヴィクトルではなく自分に向いたのは僥倖だったと言える。
自分が犠牲になることでヴィクトルが救われるなら、いくらでも耐えられた。時には嘲笑を浴びせ、挑発し、ヴィクトルから意識を逸らすことでヴィクトルを守ろうとした。
勇利もいくらか――――いや、だいぶおかしくなっていたに違いない。ヴィクトルを守っているという矜持が、自己満足だけが壊れそうな精神を守る全てだった。
その必要がなくなり、ヴィクトルの愛に包まれたいま、あの日々の悪夢が重くのしかかってくる。
(ヴィクトル。僕、あの男の興味を自分に向けるために自分から跨ったこともあるよ。女の子とも、ましてヴィクトルともしたことないのに。
そうしたらお前はやっぱり魔性の悪魔だって言われた。ヴィクトルを誑かした魔女だって。おかしいね。僕、女の子と手も繋いだことない童貞野郎なのに、魔性の魔女だって)
目と鼻の先で眠るヴィクトルの顔を見つめながら、とりとめもないことを考える。寝付けないので、頭の中でごちゃごちゃ、ごちゃごちゃと、思考が止まらない。
眠りに落ちかけても、ときおりふっと浮かぶフラッシュバックに叩き起こされるのだ。
眼前に迫りくる酒瓶だとか。
鼻孔をつく生臭い吐息だとか。
爪の間が垢で真っ黒になった歪な指だとか――――
(洗わなくちゃ)
ふらりと立ち上がり、壁づたいに歩く。まだ支えがなくては一人で動けない。
トイレの前の洗面台。水を流す。石鹸があるけれど、それでは足りない気がした。
ちょうど、足元に洗濯用の漂白剤があった。ちょうどいい。洗面台に栓をしてボトルを逆さにして中身を注ぐ。その中に手を浸した。
手を合わせてこすってみる。落ちない。漂白剤だから少し時間がかかるかもしれない。手首にもかける。どうせなら風呂場を漂白剤でいっぱいにしてその中に浸かりたい。
体の中も汚い気がする。これを飲んだら綺麗になるだろうか。
歯ブラシの立ったカップをとり、水と漂白剤の混合液をくむ。
だが、そのカップは満たされた洗面器に落ちた。
「………乳児並に目が離せないな」
絞り出すような溜息を漏らしながら、ヴィクトルが勇利の手首を掴んでいた。
「ヴィクトル、手が爛れるよ」
「それはゆうりだよ!」
風呂場に連れていかれ、着衣のままシャワーをかけられた。
「漂白剤に手を浸すところまではまだ理解できるけど、なぜ飲もうとした? そんなことをすれば死ぬことくらい分かってるよね」
「いや……ちょっと寝ぼけてたかも。眠いのに眠れなくて」
今も頭はぼーっとしている。
濡れた寝間着はそのままバスケットに入れて、新しいシャツをシャツを差し出される。
「ゆうりは嫌がるけど、こんなことがあるんじゃ安心できない。俺の安眠のためにがっちり抱いて寝るからね」
「でも汚れちゃ、」
「汚れと安眠なら安眠のほうが大事」
少し怒らせてしまったようだ。
有無を言わさずマッカチンごと抱き込まれてしまう。身動きもできないほどに。
ヴィクトルとわんこの混ざった匂いがする。昔よく嗅いだにおいのはずなのに、思い出せない。
ろくにゴミも捨てず、換気もしないあの部屋の匂いしか覚えていない。
それでも、ヴィクトルの腕のあたたかさや、その中にいるときの安心感はかろうじて覚えていた。
(痛い。痛いよ、ヴィクトル)
これが夢ならいつか醒めてしまうんだろう。
そしてあの悪夢のような現実が待っているに違いない。
「昔ね、スケートをやっていたんだ」
ベッドの上から見える、粗末な椅子に腰掛けた背中。灰色の壁。テーブルに遮られ、チカチカと光るテレビ。
いつまで続くのか、永遠に続くのかと思うほど見飽きた景色。
「君と違って才能に恵まれなかった。それでもスケートは好きでね。ヴィクトルは僕の憧れであり、理想だった」
勇利にとってもそうだ。あるいは多くのスケーター、この道を諦めた人々にとって。
「その理想が汚された気持ちが分かるか? 比類なき王様の隣にみすぼらしい東洋人がいる絵面の醜さを自分で確認したことはあるか?
せめてユーリ・プリセツキーなら納得も我慢もできた。だが、なぜお前なんだ。同じ名前でもユーリ・プリセツキーとお前は違う。なぜそれが分からない? 弁えなかった? 大勢の批判と嘆きを見なかったのか。彼らの苦しみを見てみぬフリをしてまでヴィクトルの隣に居座った気分はどうだ」
男が椅子を引いて立ち上がる。
『ヴィクトル・ニキフォロフ、今シーズンのテーマは奇跡―――』
「ほら、ヴィクトルはお前がいなくたって奇跡を起こす」
ちがう。
ヴィクトルは奇跡を起こしたくてあのプロを滑っているんじゃない。奇跡を求めて一縷の望みにすがっているだけだ。ただただ神様に救いを求めて天に手を伸ばしているだけだ。
「ころして」
枯れた喉で訴えた。
「ころして。ぼくの首でも目でもヴィクトルに送りつけて。そうしたらヴィクトルは解放される」
「お前のそういうところがなあ………」
男はかつて勇利の使用していたスケート靴を振りかぶる。
白銀のブレードが肩口に突き刺さった。
[newpage]
――――勝生勇利になりたかった
その後の調べでカツ丼を監禁してた犯人がそう言ったらしい。大見出しで新聞に載った。
犯人はアマスケーター出身で、志半ばでスケートの道を諦めた。
そんなやつ、ロシアに、いや世界にどれくらいいるんだろうな。
ヴィクトルに憧れ、才能のなさを呪って、勝生勇利になりたいと願った奴が。
いるんだろう、と想像はつくけど、オレから言わせりゃバッカバカしい話。
ヴィクトルに憧れたんなら、ヴィクトルになりたいって思えばいいだろうが。大体、ヴィクトルを超える気もねえ輩が勝生勇利を妬む資格はねえ。
あいつは弱虫ですぐクヨクヨする奴だったが、ヴィクトルを超えようとしてた。実際に超えた。あのままスケートを続けていれば、ヴィクトルから金をもぎとることだって夢じゃない、そのくらいの実力がある奴だった。
勝生勇利になりたい? そりゃなれるもんだったらなりたいだろうよ。自分の身ひとつで世界に喧嘩売る気概のない奴なら。
あいつの後に日本代表として台頭してきた南だって「ゆうりくんみたいに」「ゆうりくんの分まで」としつこいくらい言っていた。
あいつの後輩にあたる日本のスケーターのどのくらいが勝生勇利の背を追ったか、考えたことがあるのか?
氷上の勝生勇利は美しかった。トップが集うヤコフ門下生が揃ってその美しさを認めてた。その筆頭格なんかはアポなしでコーチに押しかけてちゃっかりその隣をキープするくらいにな。
勝生勇利は美しかった。日本の、一国のエースだった。オレやヴィクトルと同じでガキの頃から国しょって戦ってた。
それに「なりたい」? おこがましいにも程がある。
なぜ、ヴィクトルから、南から、日本から、世界から―――オレから、お前に勝生勇利を奪う資格があると思ったんだ。
だけど、もしかしたら。
あのクソ犯罪者が一番認めてたのかもな。
勝生勇利は美しいと。
[newpage]
勇利の全身には太い切り傷が無数に刻まれている。
そのせいで実家の温泉に入ることはできない。もちろん、家族はせめて内風呂だけでも、とすすめたが、勇利はそれさえ嫌がった。
スケートを見るのを怖がる。スケート靴を見るのを怖がる。包丁やナイフ、ハサミも苦手だ。髪を切る時はすこし我慢してもらわねばならないから、極力散髪は控えている。
「あいつ、どうして僕の顔を傷つけなかったんだろう」
自分の手足に残る傷跡を眺めながら、勇利は首を傾げる。
「だめだよ、犯罪者の考えることを理解しようとしちゃ。そもそも俺たちとは思考が違うんだ」
「思うに、顔には興味がなかったんじゃなかったかな」
ヴィクトルの声が耳に届いていないかのように、勇利は独り言を続けている。
「ヴィクトルをそそのかした体、スケートをする体が羨ましくて憎かったんだろうね」
「勇利は顔もキュートだよ。俺は勇利の全部が大好きだ」
「そう言ってやればよかった。そしたら顔もズタズタにしたろうから」
「ゆうり、お願いだからそんなことを言わないで」
「どのくらいの人が、この五年のヴィクトルを生きてるかどうかも分からない僕が束縛して独占したって感じたかな。五体満足で帰ってきてがっかりしたよね。せっかく邪魔なのがいなくなったのに、生死不明のせいで………」
「ゆうり」
「なんで、あいつ、僕を殺さなかったんだろう」
何度も殺してって言ったのに。
ヒロコやマリや、ミナコやユウコに同じこと言えるの? ユリオに言えるの。親友のピチットには?
そう尋ねたかったが口には出来なかった。
勇利は死んだ方が楽だったような拷問を受け続けてきた。それでも何処ぞのマフィアや猟奇殺人犯よりはマシな扱いではあったが、程度の差の問題ではない。
「―――どうしても死にたいなら一緒に死のうか」
指を絡ませ、唇が触れるほど至近距離で口説くように囁く。
「ゆうり、汚いからって触るのも嫌がるし、キスもさせてくれなさそうだ。そんなに辛いなら、いいよ。ゆうりとなら、いいよ」
「………」
それまで淡々と語っていた勇利の顔が悲しげに歪んだ。
「ごめん、ヴィクトル……別に死にたい訳じゃないんだ。ヴィクトルが死ぬのはもっと嫌だ。ただ、ずっとずっと殺せって思ってたから。こんな状況なら死んだほうがいいって思ってたから、すぐ頭を切り替えられないだけなんだ」
「うん」
きゅうと愛しい人を抱き上げ、海の見えるバルコニーに出る。ハセツの海が夕日を反射して煌めいていた。
[newpage]
ヴィクトルにはまだ話していないこと。
あの忌まわしい五年間とは別のことだ。
庭先で小さく弾ける音がした。立ち上る煙。舞う火の粉。ゆらめく炎がヴィクトルの物憂げな顔を照らしている。
「ヴィクトル、何をしてるの?」
「ああ―――過激なファンからの贈り物をね」
眉を下げて苦笑する。
ヴィクトルは周知の通り、ファンを大切にする。ファンからの贈り物は連盟やエージェントを通して届けられるだろう。
つまり、そこにある「箱」の中身は―――そういうことだ。
モーツァルトが死ぬ前に犬の首が届けられたという逸話を知を思い出す。
呪いだったのか、嫌がらせだったのか。モーツァルトの死因は、実のところ病死だったとされているが、何にせよ不吉な話だ。
(行き過ぎたファンかあ。それを言うなら、僕もそうかな)
覚えはいないが、よりによってヴィクトルにコーチを乞い、今はこうしてヴィクトルの家に住まわせて貰っている。
いつか、クリスが言った。
ヴィクトルを独り占めした罪は重いと。
「ゆうり?」
考え事をして俯く勇利の頬にヴィクトルの指先が触れた。
「つっ」
ちりっとした痛みが迸り、思わず身を引く。
「なに? どうした」
「え、うーん。今一瞬、痛くて。静電気かな」
それにしては妙な、冷たい硝子の破片が刺さるような痛みではあったが、傷も痣もなく、すぐに忘れてしまった。
その翌日、一緒に練習を上がったユリオと雑談をしながら、汗に濡れたシャツを着替え、カバンを担いだそのとき、ヴィクトルに「ねえ」といつもの調子で手首を掴まれた。
「―――――!?」
痛い。
今度は静電気で済まされなかった。ヴィクトルに掴まれた箇所、指の形に添うように、怜悧な刃が食い込む痛みがある。
思わず手首を見ても、ヴィクトルがさほど力を入れずに触れているに過ぎない。振りほどけばすぐに外せるだろう。
「なんだカツ丼。ヘンな顔して」
「あ、また静電気? ごめんごめん、忘れてた」
ヴィクトルはすぐに離れてくれたが、逆にユリオは悪戯小僧の顔して両手を開閉させ、にじり寄ってくる。
「ちょっとやめてよユリオ、ほんとに痛いんだから!」
「安心しろよ、死にはしねえ」
「もおおー!」
「うりゃ」
覚悟を決めて両頬を襲う手を受け入れた。
が、ユリオのほかほかしたぬくもりしか感じない。
「なんだ、痛くねーのか。ジジイが帯電してるだけか?」
「ひひゃい、引っ張らないで」
静電気がなくとも引っ張られれば普通に痛い。ユリオはつまらなさそうに手を離した。
「それでゆうり、帰りなんだけど、マッカチンのごはんを買いにね……」
何事もなかったかのように話を続けるヴィクトルにうなずきながら、一抹の不安を覚えていた。
あの痛みは何だったのか。
二度目は静電気ではありえない感覚だった。触れられている間、接面の皮膚が切り刻まれたのかと疑うほどの激痛。悲鳴をおさえるのを苦労するほどに。
もちろん、ヴィクトルが掌に刃物を仕込んでいたわけではない。そんなことをすれば、ヴィクトルの手だって傷つく。それに、切られたと思った箇所には、血のひと雫も、うっ血の痕ひとつなかったのだ。
その後も、
ヴィクトルがいつものようにスキンシップで触れるたびに、その箇所に激痛が走った。
それも、ヴィクトルだけだ。他の誰かに触れられてもこのようにはならない。
一度は競技生活を諦め、ヴィクトルの傍にいることを諦めた。
その覚悟を覆し、今はロシアでヴィクトルと共に生活をしながらスケートをしている……一番の理由はマッカチンだ。今まで多忙な時期は人を雇ってマッカチンを預けていたが、二人で世話をするほうが寂しい思いをさせずに済む。
とても幸せで、夢のような日々。
ヴィクトルも今まで以上に楽しそうだし、勇利を見る目はとても優しい。サンクトペテルブルクで勇利やマッカチンといることが幸せで堪らないのだと隠すこともせず、無邪気な笑顔を見せてくれる。
彼の笑顔を曇らせたくない一心で、勇利は激痛に耐え続けた。
しかし、これがスケートに響くようでは困る。
そう思い、一念発起して診察を受けることにした。もちろん、ヴィクトルに悟られぬよう、彼が一週間ほど留守にした時の、オフの日にだ。
まだロシア語は不自由だった。外国人であるがゆえに医療を受けにくい立場にもある。
そんな中で、英語を話せる医者を探し、必死に事情を説明する。
冷たそうな印象のあるその医者は、見た目に反して真摯に話を聞いてくれた。
「痛むんです。特定の人に触れられた時に、その箇所が。不意打ちだと悲鳴をこらえるのが一苦労なくらい」
「ふむ……失礼ですが、フィギュアスケーターのカツキ選手ですね。詮索するつもりはありませんが、重要なことですので確認させてください。もちろん他言はしません」
勇利は頷いた。これがメディアに漏れたとしても、他の誰かに打ち明けたことがないので、情報源は彼だと分かる。そんなことは医者も承知だろう。
「これも失礼な質問になってしまいますが、特定の方とは恋人ですか? それともコーチですか」
「………コーチです」
「有難うございます。カツキさん。私はこの分野の専門医ではありませんが、この症状が何に由来するかは検討がつきます。
コーチに対しての感情をお教えくださいませんか。ざっくりとで構いません」
「それは………」
「もちろん診断に関わることです。非常に重要なことで、詮索のためではありません。また、詳細に話す必要もありません。
憧れていた、とか何年ほど、などの情報でお願いします」
それ以上を言われても困るという態度に、かえって安心した。
「僕のコーチが誰かはご存知ですよね」
「ロシアで知らない者はいないでしょう」
「僕はコーチに長年憧れていました。子供の頃から。彼がコーチになってくれたことは青天の霹靂で、とても僕の人生において重要な……なんて言ったら分からないけど、大きな意味がありました」
「はい、結構です。貴方の中で、コーチの存在は大きい。人並み外れて、と感じますか」
「そうでしょうね。人生の半分以上、彼に憧れて生きてきました」
憧れだけでは済まない。
世間が騒ぐような関係ではないが、確かに師弟以上ではある。家族のようで、友人のようで、とても愛しい人。
彼は、勇利の人生や、勇利そのものを構成する殆どだ。
そんな相手を何と呼ぶのか、勇利には分からない。
「その思いが最近大きくなった、と感じることはありましたか」
「………分からないです。ただ、一度は離れることを覚悟したので、嬉しいんだと思います。まだ彼と競技を続けられることが。彼が競技を続けてくれることが。彼が、そのことで幸せそうに笑ってくれていることが」
「はい。大体わかりました―――カツキさん」
カルテを眺めながら、医者は椅子を此方に向けた。
「異性同性関係なく、好きな人や憧れの相手に触れられると、その箇所が熱い、と感じたりしますよね。これは普通のことです。
要するに現在、それが顕著になり、刺激過敏になっているんですよ」
「過敏………」
「特別に、大切に思うがあまり、意識しすぎてしまう。これはそういう病気です」
グラスボディ症候群。
それがこの症状の名前だそうだ。
死ぬことはない。今以上に痛みが強くなることもない。
そう聞いて心底安心した。なんだ、大したことがなくてよかったと。
「カツキさん。この症状が出た殆どの方が通院を拒否します。自分が我慢すればそれでいいと。相手に知られるなど迷惑がかかる、と口を揃えて言うのです」
医者の警告など右から左。
これでよしとばかりに病院を後にした。
次の予約など取るはずもなかった。
病院を出て近道に人気のないアパートが立ち並ぶ住宅街をゆく。サンクトのアパート地帯は日本の旧い団地のような雰囲気だが、あまり高い建物はなく、汚れていてもそれぞれ可愛らしい印象を受けるのが好きだった。
その道を抜けて角を曲がろうとしたとき、コートの男が目の前にぬっと現れた。出会い頭に思わず謝ろうとしたが、胸ぐらを掴まれて息を呑む。
「ユウリ・カツキ。ヴィクトル・ニキフォロフから離れろ」
意外と思われるかもしれないが、勇利がロシアにきてこのような警告を受けるのは初めてだった。それも、女性ならとにかく壮年の男に言われるとは。
男は言いたいことだけ言って乱暴に勇利の衣服を離し、立ち去る。
(ユリオの時を思い出すなあ)
今でこそ気安い仲になったユリオだが、最初はトイレまで文句を言いに来たのだ。引退しろとか何とか。
その一年後に「俺に黙って引退するとか何事だ」と怒られたのだが。ロシア人、難しい。
[newpage]
ダンサーやスケーターは、常に足や体の痛みを抱えて生きている。
膝を故障したままジャンプをするスケーターに至っては、跳ぶたびに地獄を見るとのことだ。
スケーターにとって痛みや負荷は切って切り離せぬ友人のようなものであり、勇利はそれに慣れきっていた。
悲しいとは思った。
ヴィクトルに触れられること、抱きしめられることを幸せと感じられないことが。
(要するに、意識しすぎなんだよ。痛みを感じるほど特別視って我ながら怖いよ)
自分がその対象になったらドン引きだ。
ヴィクトルがそこまで特定の一人を特別視することはないだろうから、ヴィクトルは除外。
(ヴィクトルはただのコーチ。同居人。それ以上の意味はない。ないったらない)
四六時中、自己暗示のように言いかせ、幾度となく痛みをやり過ごした。
(やっと終わったぁ)
ロッカーに向かい、週末のサラリーマンのように溜息が漏れる。
そんな勇利を、ユリオが不審そうに見ていた。
「なに」
「お前、最近ヘンじゃね?」
本当に妙なところで鋭い。
言葉に詰まる勇利を鼻で笑い、アイスキャットは金色の髪を翻して背を向けた。
「お前がそんなんなら、次の大会は俺の勝ちだな」
ざまあ、と可愛げのない捨て台詞を吐く。
そう、自己暗示に必死でスケートに集中しきれていない。ヴィクトルにも注意された。
勝たなければ意味がない。現役を続行する意味も、ヴィクトルの時間を奪う意味も。
眠れなかったから、大切なものを失ったから、緊張していたから。
そんな言い訳は通用しない段階にあった。
「………消えて」
誰もいないロッカールームで呟く。
消えて、早く消えて。こんなスケートに関係ない感情は無駄なんだ。
消えろ。消えろ。
お前なんか必要ない!!
「ゆうり?」
背後からの声にはっとして顔を上げる。
スポーツドリンクのボトルを持ったヴィクトルが、目を丸くして勇利を見つめていた。そしてひょいとロッカーの中を覗き込む。
背中に彼の胸元が触れるか触れないかの位置にどぎまぎした。もう少し近寄られたら、またあの痛みが襲ってくる。
「……僕のロッカーなんか何もないよ」
「いや、ゆうりが開いたままのロッカー睨んでるから、イジメにでも遭ったのかなーって」
「ああ」
ないない、と手を振る。
「直接的なのは全然ないよ。デトロイドにいた頃のほうが激しかったくらい。ロシア語勉強してないから嫌味言われてもわかんないしね」
「……そういえば、こっちに来たころは熱心に勉強してたよね。やめちゃったの?」
「日常会話さえ出来ればいいから」
だって覚えたら分かってしまう。
自分が悪く言われるだけならいい。だが、必ず勇利の陰口はヴィクトルも話題に出る。何を言っているかは分からずとも、彼の名前がのぼるのだ。
ヴィクトルに関するゴシップ。無神経なマスコミの、勇利との関係を邪推した記事やインタビュー。
ロシア語が分からなければいい。英語が話せる人もいるが、それでも数は減る。
何より、ここはヴィクトルのホームで、ハセツ以上にヴィクトルを慕う人が大勢いる。ヴィクトルを昔から知っている人も。
(知りたくないし見たくない。ヴィクトルが誰かと楽しげに話してるところも、内容も)
こんな根暗な自分を知られるのも。
意識しすぎて病気になったことも。
「ゆうり」
ふわりと良い香りとぬくもりに包まれた。
ただし、背から何から茨で締め付けられたような痛みが走り、喉が引きつった。
「あ」
生理的な涙が溢れる。
それを指で掬い取る仕草は美しかったが、勇利にとっては目元の薄い皮膚をカミソリで剥がれるような激痛だった。
「不安な時はちゃんと言って。ゆうりは溜め込みすぎるから心配だよ。たまには吐き出さなきゃパンクする」
「………っ、………!」
「よし、よし」
悶絶するほどの激痛に息も出来ない勇利を、ヴィクトルは慰める。
いつからだろう、ヴィクトルがこんなに優しくなったのは。
泣かれるのは苦手、と言っていた彼が優しい声で宥めてくれるようになったのは。
いつからだろう、生ける伝説ヴィクトル・ニキフォロフではなく、彼そのものを愛しく思うようになったのは。
(消えろ。こんなものは無駄だ。ヴィクトルに対する裏切り行為だ。消えろ、消えてしまえ。邪魔だ。
消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ!!)
お願いだから、死んで。
[newpage]
「ルイスキャロルの著作に、FEEDING THE MINDといういう題がある」
マッカチンを撫でながら寝る前の読書をしていたヴィクトルが唐突にそんな話を始める。
風呂上がりに髪をタオルで拭っていた勇利は、ぼんやりそちらへ首をめぐらせた。
「心を、やしなう?」
「そうだよ。体はとても正直で、エネルギーが足りなくなるとお腹が減ったり、怪我をすると痛みを覚えたりする。
心を養うというのは、美しいものに思いを馳せることだ。美しいもので心を満たすということだ
決して心を飢えさせててはいけない。俺たちは表現者なんだから」
本を閉じ、アイスブルーの瞳で真っ向から勇利を見据える。
「最近、自分のスケートをどう思う?」
「え……うーん、むしろ調子はいいかな」
無心になったからか、不思議なほどジャンプはよく跳べるようになった。演技中に考えごとをする悪いクセも抜けて一石二鳥。
問題がないわけではなかった。
何を食べても味がしない。
それどころか、五感そのものが薄れているようだった。匂い、触覚……流石にこれ以上目が悪くなることはなかったものの、景色が色あせて見せる。
ヴィクトルの笑顔を魅力的に感じない。
彼のスケートの意味が分からない。
どうだカツ丼、と嬉しそうに高難易度の技を見せつけて誇らしげにするユリオに何も感じない。
ただ空虚な笑みを浮かべて返す。
「スケートに感情が乗ってない。試行錯誤してるんだと思ってたけど、自覚がないようなら困るな」
「………そう」
勇利は俯き「努力はしてみる」と言った。
(僕ってどんなだったっけ)
改めて自分というものに意識を向けると、これがますます迷子になる。
仕方なしに過去のプロやキスクラでの様子をネットにある動画で確認してみることにした。
(うわ、すごい緊張してる……壁に激突。そんなこともあったなあ。鼻血出しながらヴィクトルにアイキャンフライ。そりゃヴィクトル避けるよ)
(中国大会のエロス。まあふつう? 舌舐めてるけど、唇乾いてたんだっけ。覚えてないや。フリーの……なんだっけ。ヴィクトルと喧嘩したんだっけ。ああそうだ、初フリップ。
それで……ヴィクトルがアイキャンフライ。ヴィクトルが怪我したらどうするんだよ)
その後、GPFのラストまで見たが、過去のプロから得られるものはなさそうだった。そういえばヴィクトルを泣かせてしまったなあ、とか、このあと現役続行を決めたんだっけ、とか。
総評として、本当にヴィクトルのことが好きで堪らないという顔をしている。
(いいなあ……好きでいられて)
今の勇利には、ただ胸の内に秘めていることさえ許されないのに。
ベッドの上で寝返りをうち、ふと。
(あ、あれ……?)
痛い。指を押さえる。
痛い。薬指が痛い。右手の薬指が。
ヴィクトルとおそろいの指輪に針でもついているかのように、その下が痛む。食い込むような痛みだ。
(なんで!?)
久々の激しい動揺だった。いや、今まで押さえ込んでいたものが噴き出したかのように、涙が溢れ出る。
せめて指輪で繋がっていたいのに、なんでこれまで取り上げるの。何でこんな症状が出るの。
殺さなければ。もっともっと根っこまで殺さなければ。
拳を握りしめて震え、泣き疲れて眠る頃には痛みは綺麗に消えていた。
勇利が再びあのコートの男に出会い、拉致されたのは、その翌日のことである。
[newpage]
グラスボディ症候群
対象に触れられた箇所にまるで氷のナイフで傷つけられたような冷たい痛みがあると訴える
発症例:
内向型で自己完結しやすい性格
夢のようだと繰り返し発言している
相手が人より異性にもてる、あるいは有名人である
相手を神聖視しており、本人の中だけの理想像がある
その中に自分がいることを想像出来ないので排除しようとする
周囲からの批判で悪化する
悪化した場合、痛覚そのものが鈍くなる。
発症した時は「ヴィクオタこじらせすぎ僕キモイ」としか思わなかったものだが、もしかしたら先を見越して神様が授けてくれたのかもしれない。
おかげであの男の癇癪でスケートシューズのブレードで傷つけられても、苛立ち紛れに手ひどく犯されても、大した痛みを感じずに済んだ。
ヴィクトルを思う硝子の痛みに比べれば、あんなもの。
男は五年間も勇利を罵り続けてくれたから「周囲からの批判で悪化」という項目に該当し、痛みはどんどん薄れていく。
それより閉じ込められていること自体に頭がおかしくなりそうではあった。
だが、ヴィクトルと再会してあの痛みが復活しつつある。
汚いから触らないで、と言うのは方便だ。本当は抱きしめられるたびに、愛おしげに撫でられるたびに皮膚と肉を切り裂く痛みに耐えねばならないからだ。
「ゆうり。たまには散歩にいこうよ。少しだけでいいから」
きゅうと勇利の手をしっかり握り、ヴィクトルが微笑む。昔よりすこし年をとり、やつれたその顔で。
指先と心臓がずたずたにされるほどの愛しい激痛を感じながら、勇利は微笑んで頷いた。
もう逃げない。
痛みと共に生きていくと決めた。
この痛みはヴィクトルを想う気持ちそのものなのだから。
薄氷の上を裸足で歩き、氷のガラスが貫いた
花が咲く、割れた氷の跡に
その花を伸ばしたつま先で踏みにじる
壊死した足裏はもう痛みを感じない
[newpage]
勝生勇利という男子フィギュアスケーターがGPFで銀メダルを取得した次の年に失踪してから五年の月日が経過しようとしている。
現役続行の意を表明し、コーチであるヴィクトル・ニキフォロフのホームへ活動拠点を移して、何もかもこれからという段階だった。
勝生勇利はリンクメイトのユーリ・プリセツキーと道で別れ、その後に忽然と姿を消した。
不慣れな異国のため、コーチと共同生活を送っていた勝生勇利の荷物は、本人が所持していたリュックやスケートシューズの他はパスポートも含め全て自宅にあり、自主的な失踪とは考えにくい状況だった。
また、リンクメイト及びコーチとの関係はすこぶる良好、最後に会っていたユーリ・プリセツキーと仲睦まじくショッピングをしていた姿が地元住民に目撃されている。
愛弟子を失ったヴィクトル・ニキフォロフは精彩を欠き、その状態でも勝生勇利が戻るまではと競技生活を続け、頂点に君臨した。
しかし、その彼も今年で33歳、引退を決意する。
勝生勇利の生存を諦めたともメディアで発言した。
その途端に―――――
匿名の文書がヴィクトル・ニキフォロフ宅に届いた。
「ユウリ・カツキの身柄と引き換えに引退をとりやめろ」
勝生勇利が行方不明になって五年、一切の痕跡が見つからなかった事件の手がかりだ。
それからは早かった。誘拐された勝生勇利の居所は瞬く間に割り出され、犯人は逮捕された。
犯人は熱狂的なヴィクトル・ニキフォロフのファンであり、ジョン・レノンの音楽性を歪めたオノ・ヨーコのような存在である勝生勇利が許せなかったから犯行に及んだと供述している。
勝生勇利生還の知らせを受け、彼の復帰を望む声もあったが、彼は日常生活もままらない状態にあることが正式に発表された。
事実上の引退表明であり、彼がどのような仕打ちを受けて五年間を過ごしたかを暗喩する報告だった。
[newpage]
カツ丼。勝生勇利。
初めて見た時にその唯一無二のステップに憧れた。あのヴィクトルさえ持っていない何かに惹かれた。
なのに情けない奴だった。なのにアイツに負けた。だから勝ってやろうと思った。そうしたら勝手に引退するらしい。ムカついて絶対負かしてやると思った。
現役続行するらしい。しかもロシアに来るとか。リンクメイトになるらしい。ロシア語もしゃべれないくせに。しょうがねえから面倒見てやる。俺は先輩だからな。
……ホントのこと言うと。
オレは家族と離れて暮らしてたし、ヴィクトルに憧れてた。ハセツで過ごした時間は短かったけど楽しくて、あったかくて、そこにヴィクトルとカツ丼がいた。
今思うとジジイはあの時点のオレがカツ丼に負けること、たぶん分かってた。オレはガキだったし、まだシニアの大会経験すらなかった。思い出すとマジむかつく。
あいつらは二人っきりの世界作って、オレはそん中に入れなかった。
だからカツ丼がロシアに来て、オレにも居場所があるんだってわかった時、すげえ嬉しかったし、アイツがいなくなるまでの間はめちゃくちゃ楽しかった。
練習とか嫌いだったけど、張り合い出るし。帰りとか、オフの日とか遊んだりして。足んなかったもんが満たされた気分だった。
いつまでかは分かんないけど、暫くずっとこの生活。
ユーロと四大陸終わって、世界選手権を控えてたしな。まだシーズンも終わってなかった。
あいつらは、いつもどおりアホみたいに距離近くて、笑い合ってて、幸せ一杯ですーって面で毎日毎日スケートしてて。たまにヤコフに怒鳴られたりミラに笑われたり、ギオルギーが「愛……」とか囁いたりしてて。
たまにオレに気がついて「ユリオー」とかアホ面そろえて接近してくる。
あの日は確か、サイフがぶっ壊れたから店に連れてってくれ、とか言われたんだっけな。ヴィクトルに言うとブランドもんのバカ高いのを買われるからって。
適当な店連れてって、適当なもん買って、そんで別れた。また明日って言ってたな。
笑ってた。
そのあと、ヴィクトルが帰ったら待ってたのは犬だけで、カツ丼どこにもいなくって。
妙だとは思ったけど、昨日の様子じゃ家出とかねーし。ジジイとなんかあったのかって聞いたけど、そもそもリンクで別れてから連絡してなかったらしいから、なんかある訳もねえし。
そもそも帰宅した痕跡自体なかったそうな。
三日して警察に届けた。けど、ロシアの警察はまともに働かねえ。それでも他国のトップスケーターだったしな。動かなかったとは思えない。一応、オレも事情聴取には付き合った。
マスコミのほうが熱心だったな。あれこれ根掘り葉掘り聞かれて、リンクメイトに苛められてたとか、コーチと不和とか憶測ばっか書かれて、基本的には「自主的な失踪」として扱われてた。
なら、残されたパスポートや、実家にさえ連絡入れてなかったのは何なんだよ。
スケ連になんも言わねえのもおかしいだろ。大会控えてたんだぞ。
あいついなくなってから、ヴィクトルと話す機会が減った。てか、ジジイの口数が減った。話しかけられる空気じゃなかった。
ヴィクトルにとってアイツがどんだけデケェ存在だったのか、一番知ってるのオレだったし。
大会出てたのは、有名で在り続ける為だった。
『ゆうり、もしいまこれを見ているなら連絡を』
『ユウリ・カツキを見かけた方はどうかご連絡を……』
ほとんどはガセネタだったろうし、実際そうだった。
犯行声明が出て、カツ丼が見つかったって聞いた時はぶっとんだぜ。まさか生きてるとは思ってなかったからな。
病院に呼びつけられて、予定全部キャンセルして駆け込んで。
病室のベッドの上に女がいると思った。
痩せこけてて、ろくに切ってねえ髪が背中まで伸びてたからな。トレードマークの眼鏡もしてなかったし。
ただ、ヴィクトルが傍にいたから、ああ……って。
コイツがあのカツ丼かあって。
「ゅり…ぉ?」
聞き取るのも困難な蚊の鳴くような声で、ここ五年だれも呼ばなかった愛称でオレを呼ぶ。
東洋人てのは、ホントに年とらねえんだな。いや、五年前に時間止めちまったのか。オレは背もデカくなったし、あの頃の面影はあんま残してねえ。
「ぉ…きく、なった、ねぇ……」
詰まりながらそのくらい言うのが精一杯で、噎せこんじまう。ヴィクトルが「無理しないで」と、それこそ五年のあいだ聞いたこともねえ優しい声でカツ丼の背を撫でてた。
アイツを見る目も、昔に戻ったみたいでよ。
足の筋肉衰えてて、スケートはもうまともに出来ねえってよ。ほとんどしゃべらないで暮らしてたから喉弱ってて、それで声が小せえんだと。
とにかく死んだと思ってたから、最悪マフィアの事件に巻き込まれたとかよ。
どんなでも生きててよかったって。
―――よかったんだよな?
[newpage]
引退したヴィクトルは元よりハセツに居を移すつもりで、海の傍に家をひとつ購入していた。
勇利のことは半分諦めていたから、マッカチンと暮らすための家だ。
そのマッカチンも先年、ヴィクトルを置いていってしまった。今いるのは二代目の子犬だ。
「どう、ゆうり。気に入ったかな」
大きな窓を開き、振り返る。
車椅子に座る勇利が目を閉じてすうっと空気を吸い込んだ。
「海のにおいがする」
「きゃう!」
勇利の膝の上にいるマッカチン二世が可愛い声で吠える。
勇利はもう眼鏡をしない。ほとんど視力がないので必要がなくなってしまった。
「もうヴィクトルのスケートを見られないのが残念」
と言って微笑んでいたが、その実、そこまで悔しいようには見えなかった。むしろ、清々しささえ感じるような―――
(ゆうり……)
海の風を受けながら子犬の頭を撫でる姿に目を細める。
何があればそこまで急激に視力を失う?
どんな扱いを受ければああまで喉や足を弱らせる。
監禁された先で何があったのか、まだ聞いていない。聞けるはずもない。話したくも思い出したくもないだろう。
皮肉なことに、ヴィクトルが完全に勇利の生存を諦めた矢先に犯人の手がかりを掴んだ。
もっと早くにあきらめていれば、こうなる前に勇利を助け出せていたのだろうか。
「何か食べたいものはある? これからはカツ丼だって毎日おなかいっぱい食べられるよ」
「ん……カツ丼はいいかな」
(カツ丼は、じゃないだろう)
好物のカツ丼なら少しだけでも口にしてくれるかと思ったが、やはり駄目だった。そもそも、ヒロコがゆーとぴあ勝生でもカツ丼を出してくれたのに箸をつけようともしなかったのだ。
この五年というもの、勇利はジャンクフードや粗悪な缶詰だけで生き延びていたらしい。
飢餓状態と栄養失調。それらは病院で治療を受けたが、拒食の気があった。今でも時折、病院に点滴を受けに行かねばならない。
「……ねえ、ヴィクトル。怒らないで聞いてほしいんだけど」
躊躇いがちに口を開く勇利に「なに」と返す。これはたぶん、よくないことを聞く前兆だと覚悟しながら。
「なんで、僕と暮らそうと思ったの? 僕とヴィクトルは一年も一緒にいなかったし、あれから五年経ってるのに」
「ゆうりは、俺と暮らすのイヤ?」
「イヤじゃないよ。僕……狭い部屋の中で暮らしてて、娯楽とかなんにもなくて。頭のなか、五年前で止まってる。
だけど、いっそ死んでたほうがヴィクトルのためだったのかも」
「なんてことを……」
「五年も信じてくれてありがとう。凄く嬉しかった。だけど、やっとヴィクトルが新しい人生を歩もうとしたのに……帰ってきちゃった。これから結婚したり、幸せな第二の人生が待っていたかもしれないのに」
「俺はゆうりが生きて帰ってきてくれたことが何より嬉しいんだよ?」
「ヴィクトルほどの人が、その年で結婚してないなんておかしいよ。それが五年も生死不明だった僕のせいだなんて悲しい。もし同情や感傷なら――――」
このやりとり、昔もやったなあと思いを馳せる。
勇利からペアリングを貰って、勇利のコーチとして生きていく決意をしたその翌日に「僕のことはいいから復帰して」と彼は言った。
身勝手と済ませるには悲しいほどヴィクトルの為を願っている。いつも。
「ゆうり。俺はもうリビングレジェンドでもスケーターでもない。ただのハセツのヴィクトルだ。籍も日本に移しちゃったし」
マッカチンを撫でる勇利の手をとり、指先にキスをした。昔のように。
「みんなのヴィクトルはもうおしまいだ。俺は、俺が望むままに生きたい。それがゆうりの隣。どうか俺を拒否しないで。ずっとお前を待っていた。諦めきれなかった。やっとゆうりがこの腕に帰ってきたんだ。このうえでお前に拒絶されたら、俺は生きていけない」
抜け殻のように生きてきた。
この体と心を満たしてくれるラブとライフをわけも分からず奪われて。
世間が口さがなく悲劇のストーリーを捏造するたびに勇利がそんな目に遭っているのではないかと想像して苦しんだ。
「僕、たぶん今、ヴィクトルを拒否するべきなんだろうね。酷いことを言ってでも」
「ゆうり!」
「ヴィクトルの為にも、たぶん僕のためにも。でも、怖くて言えない。アイツの言ったこと、全部ほんとになりそうで」
(あいつ)
ヴィクトルは目を伏せた。
ヴィクトルの熱狂的なファンで、勇利を五年もの月日を暗く狭い部屋の中に閉じ込めていたあの男。
ジョン・レノンを狂わせたオノ・ヨーコ? そんなこと、ビートルズのメンバーはみんな否定している。それを未だに信じている輩がいて、ヴィクトルと勇利の関係に重ねていたとは笑い草だ。
狂った男が勇利に何を吹き込んだのか、想像に難くない。
勇利も、全てを鵜呑みにしたわけではなかろう。だが、飢餓と栄養失調と運動不足、異常な環境でお前のせいだ、お前が悪いと罵倒され続ければ、誰だっておかしくなる。
いま、勇利の頭の中や心の中がどうなってしまっているのか。自分を極悪人だと思いこんでいるかもしれない。ヴィクトルの障害と思い込んでいるかもしれない。
以前はそれでも、勇利にはスケートという寄す処があった。スケートで愛を語り、スケートでヴィクトルを繋ぎ止める。
それさえ奪われてしまった彼は、ヴィクトルに愛される自信を失っている。どれほどヴィクトルが訴えたとしても。
一生消えない。頭で理解していても、繰り返し言われたであろう言葉は勇利の中からなくならない。
閉じ込められた恐怖も、短く貴重な競技人生を奪われた悲しみも、スケートを失くした喪失感も。
「ゆうり、お前が余計なことを考えると昔からろくなことがないよ。今は今を楽しもう。ハセツの海と、温泉と、俺とマッカチンのいる生活を。夢だとでも思って」
「夢かあ。夢だとしたら、いい夢………!?」
おかしそうに笑う、あるいは自嘲気味に笑う勇利を抱きしめた。
「ヴィクトル。汚いから触らないで。ヴィクトルが汚れちゃう」
「勇利は汚くないよ。汚れたとしても洗えばいい」
「でも………」
「夢が覚めたら汚れなんてなくなってる」
早く悪い夢から醒めて。
あれは全部悪い夢だったと言えるようになるくらい、幸せな現実を生きようよ。
腕の中の勇利は、強張ったまま緊張を解くことはなかった。
[newpage]
これが夢だとしたら、いつか醒めてしまうんだろう。
ヴィクトルは一人で暮らすつもりだったから、ベッドはひとつ。サンクトの家でも最初はそうだった。
今は単純に、勇利から目を離すことが怖いとヴィクトルは言っていた。また急に勇利が消えてしまったらと。
勇利の失踪は、勇利だけでなく多くの人の心に傷を残した。
ヴィクトルがハセツに家まで買って、勇利と暮らしたがるのも、傷の名残に過ぎない。
スケートがなければ縋るものもない絆で結ばれていた。氷の上にしかない愛の欠片を拾い集めるようにして。
ヴィクトルは勇利に事件のことを忘れてほしいと願っているようだが、忘れるべきなのはヴィクトルのほうだ。勇利という存在ごと忘れるべきだった。
あの男は本当に余計なことをしてくれた。最後の最後でヴィクトルに勇利の生存をわざわざ本人に知らせるような真似をして。五年見つからなかったから油断をしたのか。それともヴィクトルの引退がそれほど衝撃だったのか。
これは勇利が墓まで持っていくつもりの秘密だが、あの男は異常性愛者だった―――ヴィクトルをそういう目で見ていた。ヴィクトルを犯したいと。
ヴィクトルが抱いた体だからと言い張って勇利に幾度となく暴行を働いた。実際にはそんな関係ではなかったというのに、男は耳を貸さなかった。
あの男の狂気の矛先がヴィクトルではなく自分に向いたのは僥倖だったと言える。
自分が犠牲になることでヴィクトルが救われるなら、いくらでも耐えられた。時には嘲笑を浴びせ、挑発し、ヴィクトルから意識を逸らすことでヴィクトルを守ろうとした。
勇利もいくらか――――いや、だいぶおかしくなっていたに違いない。ヴィクトルを守っているという矜持が、自己満足だけが壊れそうな精神を守る全てだった。
その必要がなくなり、ヴィクトルの愛に包まれたいま、あの日々の悪夢が重くのしかかってくる。
(ヴィクトル。僕、あの男の興味を自分に向けるために自分から跨ったこともあるよ。女の子とも、ましてヴィクトルともしたことないのに。
そうしたらお前はやっぱり魔性の悪魔だって言われた。ヴィクトルを誑かした魔女だって。おかしいね。僕、女の子と手も繋いだことない童貞野郎なのに、魔性の魔女だって)
目と鼻の先で眠るヴィクトルの顔を見つめながら、とりとめもないことを考える。寝付けないので、頭の中でごちゃごちゃ、ごちゃごちゃと、思考が止まらない。
眠りに落ちかけても、ときおりふっと浮かぶフラッシュバックに叩き起こされるのだ。
眼前に迫りくる酒瓶だとか。
鼻孔をつく生臭い吐息だとか。
爪の間が垢で真っ黒になった歪な指だとか――――
(洗わなくちゃ)
ふらりと立ち上がり、壁づたいに歩く。まだ支えがなくては一人で動けない。
トイレの前の洗面台。水を流す。石鹸があるけれど、それでは足りない気がした。
ちょうど、足元に洗濯用の漂白剤があった。ちょうどいい。洗面台に栓をしてボトルを逆さにして中身を注ぐ。その中に手を浸した。
手を合わせてこすってみる。落ちない。漂白剤だから少し時間がかかるかもしれない。手首にもかける。どうせなら風呂場を漂白剤でいっぱいにしてその中に浸かりたい。
体の中も汚い気がする。これを飲んだら綺麗になるだろうか。
歯ブラシの立ったカップをとり、水と漂白剤の混合液をくむ。
だが、そのカップは満たされた洗面器に落ちた。
「………乳児並に目が離せないな」
絞り出すような溜息を漏らしながら、ヴィクトルが勇利の手首を掴んでいた。
「ヴィクトル、手が爛れるよ」
「それはゆうりだよ!」
風呂場に連れていかれ、着衣のままシャワーをかけられた。
「漂白剤に手を浸すところまではまだ理解できるけど、なぜ飲もうとした? そんなことをすれば死ぬことくらい分かってるよね」
「いや……ちょっと寝ぼけてたかも。眠いのに眠れなくて」
今も頭はぼーっとしている。
濡れた寝間着はそのままバスケットに入れて、新しいシャツをシャツを差し出される。
「ゆうりは嫌がるけど、こんなことがあるんじゃ安心できない。俺の安眠のためにがっちり抱いて寝るからね」
「でも汚れちゃ、」
「汚れと安眠なら安眠のほうが大事」
少し怒らせてしまったようだ。
有無を言わさずマッカチンごと抱き込まれてしまう。身動きもできないほどに。
ヴィクトルとわんこの混ざった匂いがする。昔よく嗅いだにおいのはずなのに、思い出せない。
ろくにゴミも捨てず、換気もしないあの部屋の匂いしか覚えていない。
それでも、ヴィクトルの腕のあたたかさや、その中にいるときの安心感はかろうじて覚えていた。
(痛い。痛いよ、ヴィクトル)
これが夢ならいつか醒めてしまうんだろう。
そしてあの悪夢のような現実が待っているに違いない。
「昔ね、スケートをやっていたんだ」
ベッドの上から見える、粗末な椅子に腰掛けた背中。灰色の壁。テーブルに遮られ、チカチカと光るテレビ。
いつまで続くのか、永遠に続くのかと思うほど見飽きた景色。
「君と違って才能に恵まれなかった。それでもスケートは好きでね。ヴィクトルは僕の憧れであり、理想だった」
勇利にとってもそうだ。あるいは多くのスケーター、この道を諦めた人々にとって。
「その理想が汚された気持ちが分かるか? 比類なき王様の隣にみすぼらしい東洋人がいる絵面の醜さを自分で確認したことはあるか?
せめてユーリ・プリセツキーなら納得も我慢もできた。だが、なぜお前なんだ。同じ名前でもユーリ・プリセツキーとお前は違う。なぜそれが分からない? 弁えなかった? 大勢の批判と嘆きを見なかったのか。彼らの苦しみを見てみぬフリをしてまでヴィクトルの隣に居座った気分はどうだ」
男が椅子を引いて立ち上がる。
『ヴィクトル・ニキフォロフ、今シーズンのテーマは奇跡―――』
「ほら、ヴィクトルはお前がいなくたって奇跡を起こす」
ちがう。
ヴィクトルは奇跡を起こしたくてあのプロを滑っているんじゃない。奇跡を求めて一縷の望みにすがっているだけだ。ただただ神様に救いを求めて天に手を伸ばしているだけだ。
「ころして」
枯れた喉で訴えた。
「ころして。ぼくの首でも目でもヴィクトルに送りつけて。そうしたらヴィクトルは解放される」
「お前のそういうところがなあ………」
男はかつて勇利の使用していたスケート靴を振りかぶる。
白銀のブレードが肩口に突き刺さった。
[newpage]
――――勝生勇利になりたかった
その後の調べでカツ丼を監禁してた犯人がそう言ったらしい。大見出しで新聞に載った。
犯人はアマスケーター出身で、志半ばでスケートの道を諦めた。
そんなやつ、ロシアに、いや世界にどれくらいいるんだろうな。
ヴィクトルに憧れ、才能のなさを呪って、勝生勇利になりたいと願った奴が。
いるんだろう、と想像はつくけど、オレから言わせりゃバッカバカしい話。
ヴィクトルに憧れたんなら、ヴィクトルになりたいって思えばいいだろうが。大体、ヴィクトルを超える気もねえ輩が勝生勇利を妬む資格はねえ。
あいつは弱虫ですぐクヨクヨする奴だったが、ヴィクトルを超えようとしてた。実際に超えた。あのままスケートを続けていれば、ヴィクトルから金をもぎとることだって夢じゃない、そのくらいの実力がある奴だった。
勝生勇利になりたい? そりゃなれるもんだったらなりたいだろうよ。自分の身ひとつで世界に喧嘩売る気概のない奴なら。
あいつの後に日本代表として台頭してきた南だって「ゆうりくんみたいに」「ゆうりくんの分まで」としつこいくらい言っていた。
あいつの後輩にあたる日本のスケーターのどのくらいが勝生勇利の背を追ったか、考えたことがあるのか?
氷上の勝生勇利は美しかった。トップが集うヤコフ門下生が揃ってその美しさを認めてた。その筆頭格なんかはアポなしでコーチに押しかけてちゃっかりその隣をキープするくらいにな。
勝生勇利は美しかった。日本の、一国のエースだった。オレやヴィクトルと同じでガキの頃から国しょって戦ってた。
それに「なりたい」? おこがましいにも程がある。
なぜ、ヴィクトルから、南から、日本から、世界から―――オレから、お前に勝生勇利を奪う資格があると思ったんだ。
だけど、もしかしたら。
あのクソ犯罪者が一番認めてたのかもな。
勝生勇利は美しいと。
[newpage]
勇利の全身には太い切り傷が無数に刻まれている。
そのせいで実家の温泉に入ることはできない。もちろん、家族はせめて内風呂だけでも、とすすめたが、勇利はそれさえ嫌がった。
スケートを見るのを怖がる。スケート靴を見るのを怖がる。包丁やナイフ、ハサミも苦手だ。髪を切る時はすこし我慢してもらわねばならないから、極力散髪は控えている。
「あいつ、どうして僕の顔を傷つけなかったんだろう」
自分の手足に残る傷跡を眺めながら、勇利は首を傾げる。
「だめだよ、犯罪者の考えることを理解しようとしちゃ。そもそも俺たちとは思考が違うんだ」
「思うに、顔には興味がなかったんじゃなかったかな」
ヴィクトルの声が耳に届いていないかのように、勇利は独り言を続けている。
「ヴィクトルをそそのかした体、スケートをする体が羨ましくて憎かったんだろうね」
「勇利は顔もキュートだよ。俺は勇利の全部が大好きだ」
「そう言ってやればよかった。そしたら顔もズタズタにしたろうから」
「ゆうり、お願いだからそんなことを言わないで」
「どのくらいの人が、この五年のヴィクトルを生きてるかどうかも分からない僕が束縛して独占したって感じたかな。五体満足で帰ってきてがっかりしたよね。せっかく邪魔なのがいなくなったのに、生死不明のせいで………」
「ゆうり」
「なんで、あいつ、僕を殺さなかったんだろう」
何度も殺してって言ったのに。
ヒロコやマリや、ミナコやユウコに同じこと言えるの? ユリオに言えるの。親友のピチットには?
そう尋ねたかったが口には出来なかった。
勇利は死んだ方が楽だったような拷問を受け続けてきた。それでも何処ぞのマフィアや猟奇殺人犯よりはマシな扱いではあったが、程度の差の問題ではない。
「―――どうしても死にたいなら一緒に死のうか」
指を絡ませ、唇が触れるほど至近距離で口説くように囁く。
「ゆうり、汚いからって触るのも嫌がるし、キスもさせてくれなさそうだ。そんなに辛いなら、いいよ。ゆうりとなら、いいよ」
「………」
それまで淡々と語っていた勇利の顔が悲しげに歪んだ。
「ごめん、ヴィクトル……別に死にたい訳じゃないんだ。ヴィクトルが死ぬのはもっと嫌だ。ただ、ずっとずっと殺せって思ってたから。こんな状況なら死んだほうがいいって思ってたから、すぐ頭を切り替えられないだけなんだ」
「うん」
きゅうと愛しい人を抱き上げ、海の見えるバルコニーに出る。ハセツの海が夕日を反射して煌めいていた。
[newpage]
ヴィクトルにはまだ話していないこと。
あの忌まわしい五年間とは別のことだ。
庭先で小さく弾ける音がした。立ち上る煙。舞う火の粉。ゆらめく炎がヴィクトルの物憂げな顔を照らしている。
「ヴィクトル、何をしてるの?」
「ああ―――過激なファンからの贈り物をね」
眉を下げて苦笑する。
ヴィクトルは周知の通り、ファンを大切にする。ファンからの贈り物は連盟やエージェントを通して届けられるだろう。
つまり、そこにある「箱」の中身は―――そういうことだ。
モーツァルトが死ぬ前に犬の首が届けられたという逸話を知を思い出す。
呪いだったのか、嫌がらせだったのか。モーツァルトの死因は、実のところ病死だったとされているが、何にせよ不吉な話だ。
(行き過ぎたファンかあ。それを言うなら、僕もそうかな)
覚えはいないが、よりによってヴィクトルにコーチを乞い、今はこうしてヴィクトルの家に住まわせて貰っている。
いつか、クリスが言った。
ヴィクトルを独り占めした罪は重いと。
「ゆうり?」
考え事をして俯く勇利の頬にヴィクトルの指先が触れた。
「つっ」
ちりっとした痛みが迸り、思わず身を引く。
「なに? どうした」
「え、うーん。今一瞬、痛くて。静電気かな」
それにしては妙な、冷たい硝子の破片が刺さるような痛みではあったが、傷も痣もなく、すぐに忘れてしまった。
その翌日、一緒に練習を上がったユリオと雑談をしながら、汗に濡れたシャツを着替え、カバンを担いだそのとき、ヴィクトルに「ねえ」といつもの調子で手首を掴まれた。
「―――――!?」
痛い。
今度は静電気で済まされなかった。ヴィクトルに掴まれた箇所、指の形に添うように、怜悧な刃が食い込む痛みがある。
思わず手首を見ても、ヴィクトルがさほど力を入れずに触れているに過ぎない。振りほどけばすぐに外せるだろう。
「なんだカツ丼。ヘンな顔して」
「あ、また静電気? ごめんごめん、忘れてた」
ヴィクトルはすぐに離れてくれたが、逆にユリオは悪戯小僧の顔して両手を開閉させ、にじり寄ってくる。
「ちょっとやめてよユリオ、ほんとに痛いんだから!」
「安心しろよ、死にはしねえ」
「もおおー!」
「うりゃ」
覚悟を決めて両頬を襲う手を受け入れた。
が、ユリオのほかほかしたぬくもりしか感じない。
「なんだ、痛くねーのか。ジジイが帯電してるだけか?」
「ひひゃい、引っ張らないで」
静電気がなくとも引っ張られれば普通に痛い。ユリオはつまらなさそうに手を離した。
「それでゆうり、帰りなんだけど、マッカチンのごはんを買いにね……」
何事もなかったかのように話を続けるヴィクトルにうなずきながら、一抹の不安を覚えていた。
あの痛みは何だったのか。
二度目は静電気ではありえない感覚だった。触れられている間、接面の皮膚が切り刻まれたのかと疑うほどの激痛。悲鳴をおさえるのを苦労するほどに。
もちろん、ヴィクトルが掌に刃物を仕込んでいたわけではない。そんなことをすれば、ヴィクトルの手だって傷つく。それに、切られたと思った箇所には、血のひと雫も、うっ血の痕ひとつなかったのだ。
その後も、
ヴィクトルがいつものようにスキンシップで触れるたびに、その箇所に激痛が走った。
それも、ヴィクトルだけだ。他の誰かに触れられてもこのようにはならない。
一度は競技生活を諦め、ヴィクトルの傍にいることを諦めた。
その覚悟を覆し、今はロシアでヴィクトルと共に生活をしながらスケートをしている……一番の理由はマッカチンだ。今まで多忙な時期は人を雇ってマッカチンを預けていたが、二人で世話をするほうが寂しい思いをさせずに済む。
とても幸せで、夢のような日々。
ヴィクトルも今まで以上に楽しそうだし、勇利を見る目はとても優しい。サンクトペテルブルクで勇利やマッカチンといることが幸せで堪らないのだと隠すこともせず、無邪気な笑顔を見せてくれる。
彼の笑顔を曇らせたくない一心で、勇利は激痛に耐え続けた。
しかし、これがスケートに響くようでは困る。
そう思い、一念発起して診察を受けることにした。もちろん、ヴィクトルに悟られぬよう、彼が一週間ほど留守にした時の、オフの日にだ。
まだロシア語は不自由だった。外国人であるがゆえに医療を受けにくい立場にもある。
そんな中で、英語を話せる医者を探し、必死に事情を説明する。
冷たそうな印象のあるその医者は、見た目に反して真摯に話を聞いてくれた。
「痛むんです。特定の人に触れられた時に、その箇所が。不意打ちだと悲鳴をこらえるのが一苦労なくらい」
「ふむ……失礼ですが、フィギュアスケーターのカツキ選手ですね。詮索するつもりはありませんが、重要なことですので確認させてください。もちろん他言はしません」
勇利は頷いた。これがメディアに漏れたとしても、他の誰かに打ち明けたことがないので、情報源は彼だと分かる。そんなことは医者も承知だろう。
「これも失礼な質問になってしまいますが、特定の方とは恋人ですか? それともコーチですか」
「………コーチです」
「有難うございます。カツキさん。私はこの分野の専門医ではありませんが、この症状が何に由来するかは検討がつきます。
コーチに対しての感情をお教えくださいませんか。ざっくりとで構いません」
「それは………」
「もちろん診断に関わることです。非常に重要なことで、詮索のためではありません。また、詳細に話す必要もありません。
憧れていた、とか何年ほど、などの情報でお願いします」
それ以上を言われても困るという態度に、かえって安心した。
「僕のコーチが誰かはご存知ですよね」
「ロシアで知らない者はいないでしょう」
「僕はコーチに長年憧れていました。子供の頃から。彼がコーチになってくれたことは青天の霹靂で、とても僕の人生において重要な……なんて言ったら分からないけど、大きな意味がありました」
「はい、結構です。貴方の中で、コーチの存在は大きい。人並み外れて、と感じますか」
「そうでしょうね。人生の半分以上、彼に憧れて生きてきました」
憧れだけでは済まない。
世間が騒ぐような関係ではないが、確かに師弟以上ではある。家族のようで、友人のようで、とても愛しい人。
彼は、勇利の人生や、勇利そのものを構成する殆どだ。
そんな相手を何と呼ぶのか、勇利には分からない。
「その思いが最近大きくなった、と感じることはありましたか」
「………分からないです。ただ、一度は離れることを覚悟したので、嬉しいんだと思います。まだ彼と競技を続けられることが。彼が競技を続けてくれることが。彼が、そのことで幸せそうに笑ってくれていることが」
「はい。大体わかりました―――カツキさん」
カルテを眺めながら、医者は椅子を此方に向けた。
「異性同性関係なく、好きな人や憧れの相手に触れられると、その箇所が熱い、と感じたりしますよね。これは普通のことです。
要するに現在、それが顕著になり、刺激過敏になっているんですよ」
「過敏………」
「特別に、大切に思うがあまり、意識しすぎてしまう。これはそういう病気です」
グラスボディ症候群。
それがこの症状の名前だそうだ。
死ぬことはない。今以上に痛みが強くなることもない。
そう聞いて心底安心した。なんだ、大したことがなくてよかったと。
「カツキさん。この症状が出た殆どの方が通院を拒否します。自分が我慢すればそれでいいと。相手に知られるなど迷惑がかかる、と口を揃えて言うのです」
医者の警告など右から左。
これでよしとばかりに病院を後にした。
次の予約など取るはずもなかった。
病院を出て近道に人気のないアパートが立ち並ぶ住宅街をゆく。サンクトのアパート地帯は日本の旧い団地のような雰囲気だが、あまり高い建物はなく、汚れていてもそれぞれ可愛らしい印象を受けるのが好きだった。
その道を抜けて角を曲がろうとしたとき、コートの男が目の前にぬっと現れた。出会い頭に思わず謝ろうとしたが、胸ぐらを掴まれて息を呑む。
「ユウリ・カツキ。ヴィクトル・ニキフォロフから離れろ」
意外と思われるかもしれないが、勇利がロシアにきてこのような警告を受けるのは初めてだった。それも、女性ならとにかく壮年の男に言われるとは。
男は言いたいことだけ言って乱暴に勇利の衣服を離し、立ち去る。
(ユリオの時を思い出すなあ)
今でこそ気安い仲になったユリオだが、最初はトイレまで文句を言いに来たのだ。引退しろとか何とか。
その一年後に「俺に黙って引退するとか何事だ」と怒られたのだが。ロシア人、難しい。
[newpage]
ダンサーやスケーターは、常に足や体の痛みを抱えて生きている。
膝を故障したままジャンプをするスケーターに至っては、跳ぶたびに地獄を見るとのことだ。
スケーターにとって痛みや負荷は切って切り離せぬ友人のようなものであり、勇利はそれに慣れきっていた。
悲しいとは思った。
ヴィクトルに触れられること、抱きしめられることを幸せと感じられないことが。
(要するに、意識しすぎなんだよ。痛みを感じるほど特別視って我ながら怖いよ)
自分がその対象になったらドン引きだ。
ヴィクトルがそこまで特定の一人を特別視することはないだろうから、ヴィクトルは除外。
(ヴィクトルはただのコーチ。同居人。それ以上の意味はない。ないったらない)
四六時中、自己暗示のように言いかせ、幾度となく痛みをやり過ごした。
(やっと終わったぁ)
ロッカーに向かい、週末のサラリーマンのように溜息が漏れる。
そんな勇利を、ユリオが不審そうに見ていた。
「なに」
「お前、最近ヘンじゃね?」
本当に妙なところで鋭い。
言葉に詰まる勇利を鼻で笑い、アイスキャットは金色の髪を翻して背を向けた。
「お前がそんなんなら、次の大会は俺の勝ちだな」
ざまあ、と可愛げのない捨て台詞を吐く。
そう、自己暗示に必死でスケートに集中しきれていない。ヴィクトルにも注意された。
勝たなければ意味がない。現役を続行する意味も、ヴィクトルの時間を奪う意味も。
眠れなかったから、大切なものを失ったから、緊張していたから。
そんな言い訳は通用しない段階にあった。
「………消えて」
誰もいないロッカールームで呟く。
消えて、早く消えて。こんなスケートに関係ない感情は無駄なんだ。
消えろ。消えろ。
お前なんか必要ない!!
「ゆうり?」
背後からの声にはっとして顔を上げる。
スポーツドリンクのボトルを持ったヴィクトルが、目を丸くして勇利を見つめていた。そしてひょいとロッカーの中を覗き込む。
背中に彼の胸元が触れるか触れないかの位置にどぎまぎした。もう少し近寄られたら、またあの痛みが襲ってくる。
「……僕のロッカーなんか何もないよ」
「いや、ゆうりが開いたままのロッカー睨んでるから、イジメにでも遭ったのかなーって」
「ああ」
ないない、と手を振る。
「直接的なのは全然ないよ。デトロイドにいた頃のほうが激しかったくらい。ロシア語勉強してないから嫌味言われてもわかんないしね」
「……そういえば、こっちに来たころは熱心に勉強してたよね。やめちゃったの?」
「日常会話さえ出来ればいいから」
だって覚えたら分かってしまう。
自分が悪く言われるだけならいい。だが、必ず勇利の陰口はヴィクトルも話題に出る。何を言っているかは分からずとも、彼の名前がのぼるのだ。
ヴィクトルに関するゴシップ。無神経なマスコミの、勇利との関係を邪推した記事やインタビュー。
ロシア語が分からなければいい。英語が話せる人もいるが、それでも数は減る。
何より、ここはヴィクトルのホームで、ハセツ以上にヴィクトルを慕う人が大勢いる。ヴィクトルを昔から知っている人も。
(知りたくないし見たくない。ヴィクトルが誰かと楽しげに話してるところも、内容も)
こんな根暗な自分を知られるのも。
意識しすぎて病気になったことも。
「ゆうり」
ふわりと良い香りとぬくもりに包まれた。
ただし、背から何から茨で締め付けられたような痛みが走り、喉が引きつった。
「あ」
生理的な涙が溢れる。
それを指で掬い取る仕草は美しかったが、勇利にとっては目元の薄い皮膚をカミソリで剥がれるような激痛だった。
「不安な時はちゃんと言って。ゆうりは溜め込みすぎるから心配だよ。たまには吐き出さなきゃパンクする」
「………っ、………!」
「よし、よし」
悶絶するほどの激痛に息も出来ない勇利を、ヴィクトルは慰める。
いつからだろう、ヴィクトルがこんなに優しくなったのは。
泣かれるのは苦手、と言っていた彼が優しい声で宥めてくれるようになったのは。
いつからだろう、生ける伝説ヴィクトル・ニキフォロフではなく、彼そのものを愛しく思うようになったのは。
(消えろ。こんなものは無駄だ。ヴィクトルに対する裏切り行為だ。消えろ、消えてしまえ。邪魔だ。
消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ!!)
お願いだから、死んで。
[newpage]
「ルイスキャロルの著作に、FEEDING THE MINDといういう題がある」
マッカチンを撫でながら寝る前の読書をしていたヴィクトルが唐突にそんな話を始める。
風呂上がりに髪をタオルで拭っていた勇利は、ぼんやりそちらへ首をめぐらせた。
「心を、やしなう?」
「そうだよ。体はとても正直で、エネルギーが足りなくなるとお腹が減ったり、怪我をすると痛みを覚えたりする。
心を養うというのは、美しいものに思いを馳せることだ。美しいもので心を満たすということだ
決して心を飢えさせててはいけない。俺たちは表現者なんだから」
本を閉じ、アイスブルーの瞳で真っ向から勇利を見据える。
「最近、自分のスケートをどう思う?」
「え……うーん、むしろ調子はいいかな」
無心になったからか、不思議なほどジャンプはよく跳べるようになった。演技中に考えごとをする悪いクセも抜けて一石二鳥。
問題がないわけではなかった。
何を食べても味がしない。
それどころか、五感そのものが薄れているようだった。匂い、触覚……流石にこれ以上目が悪くなることはなかったものの、景色が色あせて見せる。
ヴィクトルの笑顔を魅力的に感じない。
彼のスケートの意味が分からない。
どうだカツ丼、と嬉しそうに高難易度の技を見せつけて誇らしげにするユリオに何も感じない。
ただ空虚な笑みを浮かべて返す。
「スケートに感情が乗ってない。試行錯誤してるんだと思ってたけど、自覚がないようなら困るな」
「………そう」
勇利は俯き「努力はしてみる」と言った。
(僕ってどんなだったっけ)
改めて自分というものに意識を向けると、これがますます迷子になる。
仕方なしに過去のプロやキスクラでの様子をネットにある動画で確認してみることにした。
(うわ、すごい緊張してる……壁に激突。そんなこともあったなあ。鼻血出しながらヴィクトルにアイキャンフライ。そりゃヴィクトル避けるよ)
(中国大会のエロス。まあふつう? 舌舐めてるけど、唇乾いてたんだっけ。覚えてないや。フリーの……なんだっけ。ヴィクトルと喧嘩したんだっけ。ああそうだ、初フリップ。
それで……ヴィクトルがアイキャンフライ。ヴィクトルが怪我したらどうするんだよ)
その後、GPFのラストまで見たが、過去のプロから得られるものはなさそうだった。そういえばヴィクトルを泣かせてしまったなあ、とか、このあと現役続行を決めたんだっけ、とか。
総評として、本当にヴィクトルのことが好きで堪らないという顔をしている。
(いいなあ……好きでいられて)
今の勇利には、ただ胸の内に秘めていることさえ許されないのに。
ベッドの上で寝返りをうち、ふと。
(あ、あれ……?)
痛い。指を押さえる。
痛い。薬指が痛い。右手の薬指が。
ヴィクトルとおそろいの指輪に針でもついているかのように、その下が痛む。食い込むような痛みだ。
(なんで!?)
久々の激しい動揺だった。いや、今まで押さえ込んでいたものが噴き出したかのように、涙が溢れ出る。
せめて指輪で繋がっていたいのに、なんでこれまで取り上げるの。何でこんな症状が出るの。
殺さなければ。もっともっと根っこまで殺さなければ。
拳を握りしめて震え、泣き疲れて眠る頃には痛みは綺麗に消えていた。
勇利が再びあのコートの男に出会い、拉致されたのは、その翌日のことである。
[newpage]
グラスボディ症候群
対象に触れられた箇所にまるで氷のナイフで傷つけられたような冷たい痛みがあると訴える
発症例:
内向型で自己完結しやすい性格
夢のようだと繰り返し発言している
相手が人より異性にもてる、あるいは有名人である
相手を神聖視しており、本人の中だけの理想像がある
その中に自分がいることを想像出来ないので排除しようとする
周囲からの批判で悪化する
悪化した場合、痛覚そのものが鈍くなる。
発症した時は「ヴィクオタこじらせすぎ僕キモイ」としか思わなかったものだが、もしかしたら先を見越して神様が授けてくれたのかもしれない。
おかげであの男の癇癪でスケートシューズのブレードで傷つけられても、苛立ち紛れに手ひどく犯されても、大した痛みを感じずに済んだ。
ヴィクトルを思う硝子の痛みに比べれば、あんなもの。
男は五年間も勇利を罵り続けてくれたから「周囲からの批判で悪化」という項目に該当し、痛みはどんどん薄れていく。
それより閉じ込められていること自体に頭がおかしくなりそうではあった。
だが、ヴィクトルと再会してあの痛みが復活しつつある。
汚いから触らないで、と言うのは方便だ。本当は抱きしめられるたびに、愛おしげに撫でられるたびに皮膚と肉を切り裂く痛みに耐えねばならないからだ。
「ゆうり。たまには散歩にいこうよ。少しだけでいいから」
きゅうと勇利の手をしっかり握り、ヴィクトルが微笑む。昔よりすこし年をとり、やつれたその顔で。
指先と心臓がずたずたにされるほどの愛しい激痛を感じながら、勇利は微笑んで頷いた。
もう逃げない。
痛みと共に生きていくと決めた。
この痛みはヴィクトルを想う気持ちそのものなのだから。
誘い方のレッスン
中国四国大会を終え、グランプリシリーズ間際の調整中、リンクの脇で考え込んでいたヴィクトルが「どうもなあ」と呟いた。
「予選会の時も思ったけど、温泉onアイスの時のほうがよかった」
「ええ!?」
一曲滑り終わって汗だくの勇利は悲鳴に近い叫び声を上げる。
フリーのプログラムはとにかく、ショートのエロスは技術的にかなり仕上がっている。今更ここで路線変更は無理だ。
しかし、ヴィクトルのほうもそんなつもりではなかったらしく、ノンノンと人差し指を振った。
「ゆうり、エロスの曲を聞いて物語を話してくれたよね?」
「ええと、色男がやってきて………」
「そう。確かその物語、ゆうりの中で二転三転している。ゆうりの中で定まりきってないんじゃないの?」
言われてみれば……初めは色男が美女を落とす物語を想像したが、これはあくまでヴィクトルの滑りを見て浮かんだイメージ。
そしてエロスを追求するために選んだ題材はカツ丼。
色男から突如のカツ丼。
それはそれとして、最終的に勇利が選んだのは「街一番の美女」に焦点を当てた物語だった。
「勇利はアガペーを聞いた時も、すぐにイメージを述べてくれたね。エロスの物語に対するインスピレーションも速かった。音楽性と物語性に長けているのはゆうりの強みだよ」
「あ、ありがとうございます………」
未だにヴィクトルに褒められるのは慣れない。何しろこの皇帝さま、決まって蕩けるような甘い声で囁くように褒める。ときどき、口説かれているのかと錯覚するほどに。
しかし、スケートの話をする彼はあくまでストイックで真摯である。
「でも、そのゆうりの強みである音楽性と物語がごちゃごちゃに散らかっている。それって問題だよね」
「あー………そうかも」
「今日の練習はこれで終わり。帰りながらちょっと物語を固めよう」
そういう訳で早めに切り上げた師弟は、海沿いの橋を渡りながら先程の話を続ける。
「まず、最初の物語を聞かせてくれるかい?」
「えっと、とある街に色男が現れるんです。彼は女たちを次々に虜にしていくけど、見向きもしない。やがて男は街一番の美女に狙いを定めるけど、女はなびかない。かけひきをするうちに女は正常な判断が出来なくなり、ついには溺れる……でも、色男は手に入れたら飽きたとばかりに女を捨てて、次の街へ旅立つんです」
「俺の滑りでそこまで感じてくれたなんて、嬉しいな。俺でもそこまで考えてなかった。………でも」
ヴィクトルは笑顔で勇利を見下ろした。あ、これ怒ってるやつや。
「なんで手に入れた女性をポイ捨てしちゃうの?」
「え、なんかそういう軽薄なイメージ……あ、すいません!!」
これではヴィクトルが軽薄な男であると言ったも同然だ。
ため息つき、ヴィクトルは不満げにしながらも「次の物語を聞かせて」と言う。
「えーと、筋書きは大体同じなんですけど……ある街に色男がやってきて、街一番の美女に狙いを定める。でも彼女は……うーん」
「もうそこで詰まっちゃうの? いまゆうりが演じているのは美女のほうなんだろう」
「そういえば、そうだよね。最初の物語のイメージが強すぎて……」
「もっと美女の気持ちにならないと。彼女はどんな女性なの? なぜ男を拒んだのかな?」
改めて問われると、どんな………?
勇利は真剣に考え込んだ。あまりに深く考えすぎて、帰宅しても、温泉に入って食事をして寝間着に着替えても、まだ沈黙していた。
寝るにはまだ早かったし、イメージが固まらないまま明日の練習はできない。ヴィクトルの部屋の大きなベッドにちょこんと正座して「あの」と改めて切り出した。
「考えてたんだけど」
「もうそれは俺の言葉が聞こえないくらい考え込んでたね」
「え? 話かけてた? 気づかなかった……」
「それだけ真剣だったんだろう? 構わないよ。それで、答えは出たかな?」
「まだ固まりきってないんだけど……」
色男の物語はとにかく、街一番の美女のほうは自分が演じねばならない立場なので、気恥ずかしい。膝の上で拳を握りながらうつむいた。
「とにかく、彼女は魅力的なんだ。だから、男という生き物そのものを信じてない」
「パードゥン?」
「すごくもてるから、言いよってくる男が体目当てだったり、美女を側に置くことをステータスみたいに考える不実な男か、わからないんだ。しかも男たちはみんな最初だけは誠実に口説く」
「うん。男という生き物は口先ばかりで、実際にしてくれることを見るまでは信用できないって有名な台詞もあるね」
「彼女にとってはやって来た色男も、今までの男も同じなんだ。だから最初は信じられない。でも、心の底では彼女も男に惹かれてる………」
「その気持ち、ちょっとわかるなあ」
苦笑しながら、ヴィクトルはマッカチンを撫でている。
「ゆうりは意外とそういう、人間の深いところを見てるね」
「そうかなあ? 目の前の人が何を考えてるかもわからないよ」
「心理学者が恋愛上手とは限らない。人間性の深層を感じ取れることと人付き合いは別なんだよ。
むしろ、そんなこと分からないほうが気楽に人と接することができる。ゆうりが繊細なのも、そのせいかもしれないね」
全くピンとこないので、勇利は首をかしげるばかりだ。
「ちょっと話の腰を折ってしまうけど、美女の気持ちが俺にも少しわかったよ。俺に近づいてくる人間は色んな種類がいる。カネ目当てだったり、それこそステータスのためだったり、功名心のためだったり………ゆうりにもあるだろう? 恋愛に関係なく、この業界はどろどろだ」
「…………うん」
ただ楽しく美しくスケートをしたい。その気持ちを踏みにじるようなことが、この世界には多すぎる。
どこにでもいるスケーターの自分がそうなのだから、世界規模のトップスケーターであるヴィクトルの苦悩は計り知れない。
「だけど、美女はたぶん、生まれて初めて………引き止めたいと思ったんだ」
「なるほど」
「だから拒みきれない。でも自分だって安くない。甘い顔して安い女だと思われたら、すぐ捨てられることは彼女もわかってる。
だから男を誘惑するんだ。彼女は、気安く男に触らせないし、心を許さない。でも、蠱惑的な笑みや目線、仕草で挑発する。ほしいなら全力で捕まえてみなさいって」
「いいねえ! 直接的な快楽がないのにとってもエロスだ。そういうの大好きだよ!!」
「あはは。このあたりはミナコ先生の受け売りなんだけどね」
さすがに男の勇利に女性の恋愛の駆け引きは難しすぎる。経験豊富で美人のミナコだからこそのアドバイスだ。
ヴィクトルは目をきらきらさせて身を乗り出してきた。
「それでそれで、そのあとは?」
「あ、その……うーん、ここまでなんだ。でも、今日中に決めなきゃ練習にならないよね」
「オーケー、じゃあここからは一緒に考えよう。最初の物語なら、女は正常な判断が出来なくなるくだりだね」
「でも、こっちのバージョンだとまだ溺れきってない、かな。もしかしたら最後まで溺れることはないのかもしれない。男を情を交わしても、最後には別れがくるってわかってるから」
「不思議なんだけど……どうして男は女を捨てるんだい?」
「え!? えーと、なんでだろ。実はこのバージョンでも最後に美女が手に入れた男をぽいっと捨てて次の男へ……あれおかしいな」
貞淑で警戒心の強い美女が、慎重に手に入れた男を捨てた直後にまた別の男? これではつじつまが合わない。
ヴィクトルが言っていた違和感はここにあったのだ。
「不思議なんだけど……ゆうり、なんで男視点でも女視点でも、最後に捨てるんだ?」
「え? う、うーん」
「今季のテーマは愛! それも愛について、エロスだよ。なんで離別が前提なの!?」
「それはこう……刹那的な、ワンナイトラブ的なイメージが」
「じゃあ、世の中の恋人はみんなワンナイトラブかい? 夫婦はどうなっちゃうの?」
「それはエロスじゃなくてこう……まあエロスだけど、愛情が先立つから」
「どうしてエロスから始まって真実の愛にたどり着かない?」
ヴィクトルがゆうりの手をとり、息がかかるほど顔を近づけてくる。間近に迫った美しい顔に思わず身を引いた。
「男は遊び半分で美女に近づいた。でも男はなかなか靡かない彼女を手に入れるのに躍起になって、溺れる。男はもう彼女に夢中になるんだ」
「そうなの?」
「そのくらいの演技してくれなきゃ困るよ! 俺も、観客も、ジャッジも! 夢中にさせなきゃ意味がない」
ヴィクトルの言い分は尤もで、考えの甘さに恥じた。
「女を弄んで次々に捨ててきた男が、情けないくらい彼女に夢中になって、やっと彼女は男に手を差し伸べて微笑む―――そのとき、男は真実の愛に気づくんだよ」
ゆうりの手を己の頬に引き寄せ、目を閉じるヴィクトル。
もう、なんの話をしているのか分からなくなってきた。勇利の口はひきつるし顔は真っ赤。
しかし、飲み込まれそうな色香を放つヴィクトルは一変して険しい表情になり、勇利を睨んだ。
「練習でいつも言ってるよねえ? 俺を誘惑してって。俺のことも誘惑できないで、世界を魅了できるの? その程度の覚悟なのかい?」
「っ、そんなことない!!」
「じゃあ、見せて。最初からおさらいしよう。照れたり誤魔化したりしたら承知しないよ」
ヴィクトルも姿勢を正し、真っ向から勇利を見据える。勇利も目を逸らさず真剣に頷いた。
ヴィクトルに貰った最高のプロ。ヴィクトルの貴重な時間を奪っておきながら、世界も魅了できないでスケート人生は終われない。
「まず、色男がやってくる―――どこから来たのか素性は分からない、次々に女を虜にする男。自分が誰かに袖にされるなんて考えてもみない傲慢な男だ。彼は女たちを尻目に、街一番の美女に目をつける。さぞ目を引く美女なんだろうね。どんな女性なんだい、勇利」
「…………」
もうこの時点でハードルが高いが、いま、勇利は試されている。照れている場合ではないのだ。
眼鏡を外し、横髪を少し耳にかけて、顎を上げてヴィクトルに目線を送る。初めは誘惑でもなんでもない。つまらない男、とでも言うように気怠げな視線。
ヴィクトルはうん、と頷いた。
「実にいいね。男は彼女の価値を知る。もっと彼女のことを知りたい。男は彼女に近づき、手を伸ばすが――――」
「まだ早い。出直してらっしゃい、と彼女は蠱惑的な笑みを浮かべる」
ミナコにそう教わったように、右肩を上げて首を左側に寄せ、斜めに睨むようにしながらヴィクトルへ挑発的な笑みを唇に乗せる。
「男はますます彼女に興味を持った。なんとしてでも彼女を手に入れたい」
「女も心の底では彼のことが気になってる。他の女に目移りはさせない。もっと私を見て。私だけを愛しなさい。そうしたら触れることくらいは許してあげる」
体のラインに指をそわせ、エロスのふりつけの一部を再現する。
「男は彼女の思惑どおり、彼女の虜だ。取り繕った気障な笑みは消え、余裕がなくなる。ときには強硬手段に出るかもしれない」
ヴィクトルは勇利の両手首を掴み、ベッドの上に組み伏せた。
流石に驚いたが、ここで崩れたら元も子もない。男を手玉にとらなければ―――世界一の男を跪かせなければ、意味がない。
勇利は唇を舐め、ヴィクトルの足の間で片膝を立て、彼の首にするりと腕を回す。
ヴィクトルは勇利の腰の下に腕を回して僅かに浮かせ、勇利の首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に柔らかな唇の感触。はぁ、と艶めかしいため息を漏らして身を捩り――――――
ふたりとも正気に戻った。
「ちょっと入り込みすぎたね」
「うん」
二人とも熱を込めたせいか、ぼんやりしながら身を離した。
頭のどこかで、いつものじゃれ合いならもっと先までやったかもしれないな……と考える。ヴィクトルとはそういう関係ではないが、空気が完全にアレだった。
しかし、勇利もヴィクトルもあくまで真剣だ。演目はエロスだが、エロスどころではない。グランプリシリーズがもうそこまで迫っている。
「ゆうりの構想だと、このあと男は捨てられるんだね」
「そう。彼女はわかってるんだ。男が自分の手の中に収まっていられるような人間じゃないって。いっときだけでも自分のものにしたかった。だから、捨てる。そして自分一人を抱きしめて、エンド」
「でもそれって辛いよ。俺は嫌だ」
「ええ…………」
あくまで勇利のプロなのだから、自分の意見を押し通したいが、かといって振付師が遺憾だという展開では禍根が残る。
勇利はもぞもぞ居住まいを正した。
「ええと……物語って、切り取ったワンシーンじゃない?」
「うん?」
「でも人生には続きがあるよね。もしかしたら男は女を諦めないかもしれないし、女は男を迎え入れるかもしれない。でも、エロスという物語はここまでなんだ。情熱的で刹那的で快楽の愛は。
えと、それで、そのですね。実はまだヴィクトルに相談してなくて、許可とりそびれてたことがあるんだけど………」
「またゆうりはそうやって! コーチにちゃんと相談してって言ってるでしょ!」
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだ。
あのね、エキシビジョンのプロなんだけど、もう僕はいっぱいいっぱいだから、新しいのはちょっと無理っていうか………それもあって、シーズンオフに練習したヴィクトルの離れずに側にいてを滑りたいんだ」
「わお!」
きらん、と目を輝かせてヴィクトルはぎゅうと抱きついてきた。
「ひえっ、ヴィクトル………」
「もちろんいいよ! どうして早く言わないかなあ!! そのときはもちろん、持ち込み:ヴィクトルニキフォロフだよね!!」
「世界一豪華な小道具だねえ!?」
「じゃあそっちの練習もしなきゃじゃないか! でも、それとエロスに関係あるのかい?」
「だからね………」
とりあえずしがみつく師匠を引き剥がし、眼鏡をかけた。
「エロスは、刹那的に別れて終わる。でも、男にとっても女にとっても切ないラストなんだ。
そこで、離れずに側にいての歌詞だよ」
「……………!!」
「愛に敗れ、こんな自分をさしおいて愛を歌う恋人たちの喉を引き裂いてしまいたいほど、悲しみに暮れる。かなうことならあの情熱をもう一度―――でも、あの日々は何の価値もない物語と化してしまった。
もし、もう一度、この愛を見出してくれたなら、永遠の栄光が待っているはず。
失うのが怖い。離れずに側にいて。共に生きて…………」
自分で語りながら目が潤んでしまった。もう、本当に最高の曲だと思う。
そしてエロスと繋がるとも思ってもみなかった。ヴィクトルにしてもそうだろう。
乙女のように拳を合わせてぶるぶる震えるヴィクトルは「最高だよ!!」と叫んだ。
「ちょっ、ヴィクトル、夜中だから」
「それでいこう!! ゆうりが金メダルをとって、グランプリファイナルのエキシビジョンで滑るのが楽しみで仕方ないよ!!」
「う、うん………」
もちろんそのつもりではあるが、予選会のフリーの散々な出来を思うと即答できない自分が悔しい。
いや、これからもっとジャンプの精度を上げて、ヴィクトルも世界も驚かせかねば。
ハートを散らすほどご機嫌のヴィクトルに抱きしめられながら、勇利は視線を落とす。
(本当にそんなふうになれればいいのにな………あのフリーの歌詞みたいに、ずっと、離れずに側に)
それが叶わないことを知っていながら、今だけはと目を閉じてヴィクトルを抱きしめ返した。
「予選会の時も思ったけど、温泉onアイスの時のほうがよかった」
「ええ!?」
一曲滑り終わって汗だくの勇利は悲鳴に近い叫び声を上げる。
フリーのプログラムはとにかく、ショートのエロスは技術的にかなり仕上がっている。今更ここで路線変更は無理だ。
しかし、ヴィクトルのほうもそんなつもりではなかったらしく、ノンノンと人差し指を振った。
「ゆうり、エロスの曲を聞いて物語を話してくれたよね?」
「ええと、色男がやってきて………」
「そう。確かその物語、ゆうりの中で二転三転している。ゆうりの中で定まりきってないんじゃないの?」
言われてみれば……初めは色男が美女を落とす物語を想像したが、これはあくまでヴィクトルの滑りを見て浮かんだイメージ。
そしてエロスを追求するために選んだ題材はカツ丼。
色男から突如のカツ丼。
それはそれとして、最終的に勇利が選んだのは「街一番の美女」に焦点を当てた物語だった。
「勇利はアガペーを聞いた時も、すぐにイメージを述べてくれたね。エロスの物語に対するインスピレーションも速かった。音楽性と物語性に長けているのはゆうりの強みだよ」
「あ、ありがとうございます………」
未だにヴィクトルに褒められるのは慣れない。何しろこの皇帝さま、決まって蕩けるような甘い声で囁くように褒める。ときどき、口説かれているのかと錯覚するほどに。
しかし、スケートの話をする彼はあくまでストイックで真摯である。
「でも、そのゆうりの強みである音楽性と物語がごちゃごちゃに散らかっている。それって問題だよね」
「あー………そうかも」
「今日の練習はこれで終わり。帰りながらちょっと物語を固めよう」
そういう訳で早めに切り上げた師弟は、海沿いの橋を渡りながら先程の話を続ける。
「まず、最初の物語を聞かせてくれるかい?」
「えっと、とある街に色男が現れるんです。彼は女たちを次々に虜にしていくけど、見向きもしない。やがて男は街一番の美女に狙いを定めるけど、女はなびかない。かけひきをするうちに女は正常な判断が出来なくなり、ついには溺れる……でも、色男は手に入れたら飽きたとばかりに女を捨てて、次の街へ旅立つんです」
「俺の滑りでそこまで感じてくれたなんて、嬉しいな。俺でもそこまで考えてなかった。………でも」
ヴィクトルは笑顔で勇利を見下ろした。あ、これ怒ってるやつや。
「なんで手に入れた女性をポイ捨てしちゃうの?」
「え、なんかそういう軽薄なイメージ……あ、すいません!!」
これではヴィクトルが軽薄な男であると言ったも同然だ。
ため息つき、ヴィクトルは不満げにしながらも「次の物語を聞かせて」と言う。
「えーと、筋書きは大体同じなんですけど……ある街に色男がやってきて、街一番の美女に狙いを定める。でも彼女は……うーん」
「もうそこで詰まっちゃうの? いまゆうりが演じているのは美女のほうなんだろう」
「そういえば、そうだよね。最初の物語のイメージが強すぎて……」
「もっと美女の気持ちにならないと。彼女はどんな女性なの? なぜ男を拒んだのかな?」
改めて問われると、どんな………?
勇利は真剣に考え込んだ。あまりに深く考えすぎて、帰宅しても、温泉に入って食事をして寝間着に着替えても、まだ沈黙していた。
寝るにはまだ早かったし、イメージが固まらないまま明日の練習はできない。ヴィクトルの部屋の大きなベッドにちょこんと正座して「あの」と改めて切り出した。
「考えてたんだけど」
「もうそれは俺の言葉が聞こえないくらい考え込んでたね」
「え? 話かけてた? 気づかなかった……」
「それだけ真剣だったんだろう? 構わないよ。それで、答えは出たかな?」
「まだ固まりきってないんだけど……」
色男の物語はとにかく、街一番の美女のほうは自分が演じねばならない立場なので、気恥ずかしい。膝の上で拳を握りながらうつむいた。
「とにかく、彼女は魅力的なんだ。だから、男という生き物そのものを信じてない」
「パードゥン?」
「すごくもてるから、言いよってくる男が体目当てだったり、美女を側に置くことをステータスみたいに考える不実な男か、わからないんだ。しかも男たちはみんな最初だけは誠実に口説く」
「うん。男という生き物は口先ばかりで、実際にしてくれることを見るまでは信用できないって有名な台詞もあるね」
「彼女にとってはやって来た色男も、今までの男も同じなんだ。だから最初は信じられない。でも、心の底では彼女も男に惹かれてる………」
「その気持ち、ちょっとわかるなあ」
苦笑しながら、ヴィクトルはマッカチンを撫でている。
「ゆうりは意外とそういう、人間の深いところを見てるね」
「そうかなあ? 目の前の人が何を考えてるかもわからないよ」
「心理学者が恋愛上手とは限らない。人間性の深層を感じ取れることと人付き合いは別なんだよ。
むしろ、そんなこと分からないほうが気楽に人と接することができる。ゆうりが繊細なのも、そのせいかもしれないね」
全くピンとこないので、勇利は首をかしげるばかりだ。
「ちょっと話の腰を折ってしまうけど、美女の気持ちが俺にも少しわかったよ。俺に近づいてくる人間は色んな種類がいる。カネ目当てだったり、それこそステータスのためだったり、功名心のためだったり………ゆうりにもあるだろう? 恋愛に関係なく、この業界はどろどろだ」
「…………うん」
ただ楽しく美しくスケートをしたい。その気持ちを踏みにじるようなことが、この世界には多すぎる。
どこにでもいるスケーターの自分がそうなのだから、世界規模のトップスケーターであるヴィクトルの苦悩は計り知れない。
「だけど、美女はたぶん、生まれて初めて………引き止めたいと思ったんだ」
「なるほど」
「だから拒みきれない。でも自分だって安くない。甘い顔して安い女だと思われたら、すぐ捨てられることは彼女もわかってる。
だから男を誘惑するんだ。彼女は、気安く男に触らせないし、心を許さない。でも、蠱惑的な笑みや目線、仕草で挑発する。ほしいなら全力で捕まえてみなさいって」
「いいねえ! 直接的な快楽がないのにとってもエロスだ。そういうの大好きだよ!!」
「あはは。このあたりはミナコ先生の受け売りなんだけどね」
さすがに男の勇利に女性の恋愛の駆け引きは難しすぎる。経験豊富で美人のミナコだからこそのアドバイスだ。
ヴィクトルは目をきらきらさせて身を乗り出してきた。
「それでそれで、そのあとは?」
「あ、その……うーん、ここまでなんだ。でも、今日中に決めなきゃ練習にならないよね」
「オーケー、じゃあここからは一緒に考えよう。最初の物語なら、女は正常な判断が出来なくなるくだりだね」
「でも、こっちのバージョンだとまだ溺れきってない、かな。もしかしたら最後まで溺れることはないのかもしれない。男を情を交わしても、最後には別れがくるってわかってるから」
「不思議なんだけど……どうして男は女を捨てるんだい?」
「え!? えーと、なんでだろ。実はこのバージョンでも最後に美女が手に入れた男をぽいっと捨てて次の男へ……あれおかしいな」
貞淑で警戒心の強い美女が、慎重に手に入れた男を捨てた直後にまた別の男? これではつじつまが合わない。
ヴィクトルが言っていた違和感はここにあったのだ。
「不思議なんだけど……ゆうり、なんで男視点でも女視点でも、最後に捨てるんだ?」
「え? う、うーん」
「今季のテーマは愛! それも愛について、エロスだよ。なんで離別が前提なの!?」
「それはこう……刹那的な、ワンナイトラブ的なイメージが」
「じゃあ、世の中の恋人はみんなワンナイトラブかい? 夫婦はどうなっちゃうの?」
「それはエロスじゃなくてこう……まあエロスだけど、愛情が先立つから」
「どうしてエロスから始まって真実の愛にたどり着かない?」
ヴィクトルがゆうりの手をとり、息がかかるほど顔を近づけてくる。間近に迫った美しい顔に思わず身を引いた。
「男は遊び半分で美女に近づいた。でも男はなかなか靡かない彼女を手に入れるのに躍起になって、溺れる。男はもう彼女に夢中になるんだ」
「そうなの?」
「そのくらいの演技してくれなきゃ困るよ! 俺も、観客も、ジャッジも! 夢中にさせなきゃ意味がない」
ヴィクトルの言い分は尤もで、考えの甘さに恥じた。
「女を弄んで次々に捨ててきた男が、情けないくらい彼女に夢中になって、やっと彼女は男に手を差し伸べて微笑む―――そのとき、男は真実の愛に気づくんだよ」
ゆうりの手を己の頬に引き寄せ、目を閉じるヴィクトル。
もう、なんの話をしているのか分からなくなってきた。勇利の口はひきつるし顔は真っ赤。
しかし、飲み込まれそうな色香を放つヴィクトルは一変して険しい表情になり、勇利を睨んだ。
「練習でいつも言ってるよねえ? 俺を誘惑してって。俺のことも誘惑できないで、世界を魅了できるの? その程度の覚悟なのかい?」
「っ、そんなことない!!」
「じゃあ、見せて。最初からおさらいしよう。照れたり誤魔化したりしたら承知しないよ」
ヴィクトルも姿勢を正し、真っ向から勇利を見据える。勇利も目を逸らさず真剣に頷いた。
ヴィクトルに貰った最高のプロ。ヴィクトルの貴重な時間を奪っておきながら、世界も魅了できないでスケート人生は終われない。
「まず、色男がやってくる―――どこから来たのか素性は分からない、次々に女を虜にする男。自分が誰かに袖にされるなんて考えてもみない傲慢な男だ。彼は女たちを尻目に、街一番の美女に目をつける。さぞ目を引く美女なんだろうね。どんな女性なんだい、勇利」
「…………」
もうこの時点でハードルが高いが、いま、勇利は試されている。照れている場合ではないのだ。
眼鏡を外し、横髪を少し耳にかけて、顎を上げてヴィクトルに目線を送る。初めは誘惑でもなんでもない。つまらない男、とでも言うように気怠げな視線。
ヴィクトルはうん、と頷いた。
「実にいいね。男は彼女の価値を知る。もっと彼女のことを知りたい。男は彼女に近づき、手を伸ばすが――――」
「まだ早い。出直してらっしゃい、と彼女は蠱惑的な笑みを浮かべる」
ミナコにそう教わったように、右肩を上げて首を左側に寄せ、斜めに睨むようにしながらヴィクトルへ挑発的な笑みを唇に乗せる。
「男はますます彼女に興味を持った。なんとしてでも彼女を手に入れたい」
「女も心の底では彼のことが気になってる。他の女に目移りはさせない。もっと私を見て。私だけを愛しなさい。そうしたら触れることくらいは許してあげる」
体のラインに指をそわせ、エロスのふりつけの一部を再現する。
「男は彼女の思惑どおり、彼女の虜だ。取り繕った気障な笑みは消え、余裕がなくなる。ときには強硬手段に出るかもしれない」
ヴィクトルは勇利の両手首を掴み、ベッドの上に組み伏せた。
流石に驚いたが、ここで崩れたら元も子もない。男を手玉にとらなければ―――世界一の男を跪かせなければ、意味がない。
勇利は唇を舐め、ヴィクトルの足の間で片膝を立て、彼の首にするりと腕を回す。
ヴィクトルは勇利の腰の下に腕を回して僅かに浮かせ、勇利の首筋に顔を埋めた。
薄い皮膚に柔らかな唇の感触。はぁ、と艶めかしいため息を漏らして身を捩り――――――
ふたりとも正気に戻った。
「ちょっと入り込みすぎたね」
「うん」
二人とも熱を込めたせいか、ぼんやりしながら身を離した。
頭のどこかで、いつものじゃれ合いならもっと先までやったかもしれないな……と考える。ヴィクトルとはそういう関係ではないが、空気が完全にアレだった。
しかし、勇利もヴィクトルもあくまで真剣だ。演目はエロスだが、エロスどころではない。グランプリシリーズがもうそこまで迫っている。
「ゆうりの構想だと、このあと男は捨てられるんだね」
「そう。彼女はわかってるんだ。男が自分の手の中に収まっていられるような人間じゃないって。いっときだけでも自分のものにしたかった。だから、捨てる。そして自分一人を抱きしめて、エンド」
「でもそれって辛いよ。俺は嫌だ」
「ええ…………」
あくまで勇利のプロなのだから、自分の意見を押し通したいが、かといって振付師が遺憾だという展開では禍根が残る。
勇利はもぞもぞ居住まいを正した。
「ええと……物語って、切り取ったワンシーンじゃない?」
「うん?」
「でも人生には続きがあるよね。もしかしたら男は女を諦めないかもしれないし、女は男を迎え入れるかもしれない。でも、エロスという物語はここまでなんだ。情熱的で刹那的で快楽の愛は。
えと、それで、そのですね。実はまだヴィクトルに相談してなくて、許可とりそびれてたことがあるんだけど………」
「またゆうりはそうやって! コーチにちゃんと相談してって言ってるでしょ!」
「ごめん! そういうつもりじゃなかったんだ。
あのね、エキシビジョンのプロなんだけど、もう僕はいっぱいいっぱいだから、新しいのはちょっと無理っていうか………それもあって、シーズンオフに練習したヴィクトルの離れずに側にいてを滑りたいんだ」
「わお!」
きらん、と目を輝かせてヴィクトルはぎゅうと抱きついてきた。
「ひえっ、ヴィクトル………」
「もちろんいいよ! どうして早く言わないかなあ!! そのときはもちろん、持ち込み:ヴィクトルニキフォロフだよね!!」
「世界一豪華な小道具だねえ!?」
「じゃあそっちの練習もしなきゃじゃないか! でも、それとエロスに関係あるのかい?」
「だからね………」
とりあえずしがみつく師匠を引き剥がし、眼鏡をかけた。
「エロスは、刹那的に別れて終わる。でも、男にとっても女にとっても切ないラストなんだ。
そこで、離れずに側にいての歌詞だよ」
「……………!!」
「愛に敗れ、こんな自分をさしおいて愛を歌う恋人たちの喉を引き裂いてしまいたいほど、悲しみに暮れる。かなうことならあの情熱をもう一度―――でも、あの日々は何の価値もない物語と化してしまった。
もし、もう一度、この愛を見出してくれたなら、永遠の栄光が待っているはず。
失うのが怖い。離れずに側にいて。共に生きて…………」
自分で語りながら目が潤んでしまった。もう、本当に最高の曲だと思う。
そしてエロスと繋がるとも思ってもみなかった。ヴィクトルにしてもそうだろう。
乙女のように拳を合わせてぶるぶる震えるヴィクトルは「最高だよ!!」と叫んだ。
「ちょっ、ヴィクトル、夜中だから」
「それでいこう!! ゆうりが金メダルをとって、グランプリファイナルのエキシビジョンで滑るのが楽しみで仕方ないよ!!」
「う、うん………」
もちろんそのつもりではあるが、予選会のフリーの散々な出来を思うと即答できない自分が悔しい。
いや、これからもっとジャンプの精度を上げて、ヴィクトルも世界も驚かせかねば。
ハートを散らすほどご機嫌のヴィクトルに抱きしめられながら、勇利は視線を落とす。
(本当にそんなふうになれればいいのにな………あのフリーの歌詞みたいに、ずっと、離れずに側に)
それが叶わないことを知っていながら、今だけはと目を閉じてヴィクトルを抱きしめ返した。
2018年4月4日水曜日
創作】アリオーソ「悪魔の謝肉祭」
サルベージできた二作のうち一作
煙たがられることの多いフロステンだが、決して底意地の悪い教師ではない……むしろ、かなり性格のいい部類に入るだろう。
少しばかり、研究のこととなると他人を省みなくなるだけで。
アリオーソほど酷い目に遭う例も稀だが、知らず知らずの内にフロステンの実験台になって、トラウマが出来たという生徒は少ない。
しかし、それ以外は……授業のとき、補習のとき、彼は親切だった。フロステンは出来のいい生徒と出来の悪い生徒を比べたり、贔屓したりしない。生徒の優劣など、フロステンにとって非常にどうでもいいからだ。
また、やはり彼は美しい。見ている分には美しく、飛び掛られると悲鳴をあげたくなる蛾のような美しさであったとしても。あれだけ綺麗なら許される、と言う人間はいる。言わない人間の方が多いが。
して、「あれだけ云々」パート2に当たる生徒が、薬品染みの多い白衣を翻すフロステンの背を熱っぽく見つめていた。
「あの、アリ先輩どったん」
ワンコロ(セッタ)である。
かっと顔を赤らめ、「なんでも……」と目をそらす。
これを他の男がやったなら殺人犯を見る目にでもなったろうが、残念ながらアリオーソだったので、セッタも思わず顔を赤らめる。
「あの、そんなとこでそんな顔してウロウロしてると……」
「なんだよ」
「知らないッスよ? 惚れ薬飲まされても」
「そんなのあるのか」
目から鱗ボンバー。
後輩の肩を掴み、遠心力で脳みそぶっとぶ勢いでシャッフル!
「お前、錬金術科だろ! ひとつ作って!!」
「あばばばばば、ど、どうしっ、たのっばっ」
どうしたのと聞かれてぱっと手を離し、身を抱えるように己の腕を掴む。派手にすっ転んだ後輩は一ミリも見なかった。
打った肩を抑えつつ起き上がり、胡坐のまま先輩を見上げるセッタ。
それは何というか……控えめに見ても、フラグの立った状態だった。このままエンディングに突入すれば、伝説の木下さんのところで召喚術をおっぱじめそうな雰囲気である。
「アリ先輩……ひょっとして、誰かのこと好きになった?」
指摘されると余計に顔を赤くして、辛そうな顔をする。
「こんなこと、初めてで。相手……男の人なんだ」
表情からして何となく分かっておりました、先輩。
「おかしいだろ」
「んー、いやー。たぶん、五割の確率で可能性あると思うけど」
男女不問で懸想される割合で言うと、フロステンよりアリオーソの方が多い。
フロステンは確かに美しい、だが必ず「キモい」が付随する。
この前など、バクテリアぶちまけ「メンゴメンゴ」で済ました。
今とて、得体の知れない緑色のグチャニチャした液体を、歪んだ笑顔で素手で鷲掴みしている。何ていうか人間じゃない、あれ。
そう。許容範囲外。いくら美しくてもあれは無理。
「けど、今までちょっかい出して来た奴らと、その人が同じとは限らないだろ?」
「ま、そうだね。そこらへん、潔癖な人けっこう多いし」
「フロステン先生は———」
「ふろす!?」
突然セッタが大声を上げたので、周囲の目が向いた。が、すかさずアリオーソが殴り倒したため、いつものことかと注意がそれる。
アリオーソは真っ赤になって唇を震わせながら、セッタを睨みつけた。
「お前……ふ、ふろす先生に気づかれたら、どうしてくれるんだよ!」
「いや、え……っと、ま、まじ?」
「………!!」
その白い肌を染め、小さく頷かれてセッタは目の前が暗くなるのを感じた。いやはや、凄まじいものの片鱗を見せつけられた気分だ。
殺人犯を見るかのように、おそるおそる先輩を見上げ……
「なんで、って聞いてもいい?」
「どうしてかなんて、分からない。ただ、先生を見てると苦しくて……」
「病気だよ、先輩。それは単なる病気。治療院いこ?」
「恥ずかしくなって……! すごくその、好き、なんだ」
やっぱり病気だ。
フロステンに死ぬより酷い目に遭わされて、それを助けたのは他ならぬセッタである。その後、アリオーソはフロステンに会うたびに体が竦んでしまい、思うように動けないほどのトラウマを負ってしまった。
幸いアリオーソは錬金術科を選択していないこともあり——フロステンの失態でもあるので、普通科で錬金術をやるときは、他の教授がアリオーソのクラスを担当する。
もしアリオーソの親が本気になって、フロステンを社会的に抹消しても文句を言えないほどのことを、フロステンはやらかしたのだ。未だにクロエにいること自体、間違っている。
それらを踏まえ、アリオーソの告白を考えると。
つまり先輩は、トラウマを乗り越えようとしているのだと思う。精神的に深い傷を負った人が、それを癒そうとしてトラウマに立ち向かうことは、よくある。
心の弱い人は傷から目を背けるが、先輩は強い人だ。早々にフロステン如き、打破したい。そう考えて、フロステンを「好き」になったのだろう。
究極にして、手っ取り早い方法である。どきどきするのは、怖いのではなく恋だから。吊橋効果を逆手にとったよーな治療法である。
セッタは、先輩のしたいようにさせてあげたいと思うと同時に、心配になった。もし相手が常人ならば、こんな治療法も有り得ると思う。が、フロステン。惚れられた強みにつけこんで、再び先輩にトラウマを植え付けるかもしれない。
「やったあ!」
うだうだ考えるうちに、フロステンが両手を挙げて万歳した。
「成功したー!!!!!」
……さきほどの緑色のクリーチャーが完成したらしい。
喜びのあまり、フロステンは髪を振り乱し、東洋のアワダンスを踊り狂う。情熱的にして破滅的なステップ。周囲の生徒、ドン引き。
ただ一人アリオーソだけが、
「かっこいい……」
重症だ。
***
そんな訳でカルロに相談しに来た。
「絶対ふつーじゃないと思うんですよ」
「ふつーじゃないよねー。相手がフロステンだってところも」
"も"と言うか、そこが一番おかしい。
「一番へんなのは、アリ。あの子がルーシー先輩以外にそんな情熱的な反応するなんて、病気か本当に恋しちゃってるのどっちかだねー」
「絶対なんかの勘違いだと思うんだけど……」
「確かに、ちょっと急すぎるね。他の友達に最近のアリのこと聞いて回ろうか」
カルロがワークシートを揃えて立ち上がると。
『話は聞かせて貰った!!』
どこからともなく声がするもので、カルロとセッタは周囲を見回すが、声の主はない。
そうこうする内に、目の前の机からにゅっと首が飛び出した。
「ディ、ディエゴ先輩!?」
の、ご機嫌な生首である。
「よー、ディオぽん。神秘造詣?」
『そそー。今、ボスたちとちっと出かけてんだけどね。ねー、ボス』
ディエゴが右を向くと、今度はグレゴリオの生首が生える。
自分が生首で放送されていることに気づかぬ様子で、不審そうな顔だ。
『ちっと盗聴器から耳寄り情報拾ったんスよ』
とは、グレゴリオへの説明らしいが———この男、面白情報を拾うために盗聴器なんぞ仕掛けてやがったらしい。
『なんでも、リシェルがフロステンに懸想! だそうスよ! これは是非帰って観察しなくちゃあ!』
『ふん!!』
グレゴリオは盛大に鼻を鳴らした。生首のままで。
『下らん。リシェルが誰に発情しようが興味はない』
「発情て」
まだそこまで至ってないと思うから。
『あれ、ボスどこに行くんスか?』
カルロたちからは、あちらがどういう状況であるか見えない。ただ生首が二つ並んでいるだけだ。
ディエゴの口ぶりからいくと、グレゴリオは何処かへ去ろうとしているようだ。
『……帰る。課題があるのを思い出した。べっ、べつにリシェルが気になるとかそういうんじゃないからな!! 勘違いするなよ!!』
「なんつー分かりやすい……」
彼、あんなんで魔導士になれるのだろうか。実力からして、狐狸妖怪はびこる何処ぞの宮廷へ召し上げられるだろうに。
『と、いうわけでオレらも今からダッシュで帰るんで! 一部始終よろしくねん』
気色の悪い投げキッスひとつ、ディエゴは映像通信を切った。
「いいの? カルロ先輩、ソーサリー嫌いでしょ」
「んー。でも、アリは気になるし。神秘造詣科がいれば心強いしねー」
「ダニエル先輩じゃダメなの?」
「ダニーを呼ぶと、エドモンも来るでしょ? 本人に了承のない盗み見なんて、エドモンが許すと思う?」
二時間に及ぶ説教タイムが始まると思う。
レイヴンにも個性がある。アリオーソのように粛清して終わりの者もいれば、エドモンのように説教タイムがある者もいる。ダニエルはもっと酷い。粛清した後、神秘造詣の技術を活かして女体化させたり(顔はゴツいまま)、デブにしたり、宇宙人にして遊ぶ。
かくいうカルロはぶちのめして気絶した相手の衣類を弄るのが好きだ。たとえばシャツの首に頭をおしこめて、首を縫ってしまう。裾も脱げないように縫ってしまう。ついでにズボンの股も縫う。起きた時、パニックに陥ってじたばたする姿を眺めるのは風流なものだ。ああいうのを東洋ではワビサビと呼ぶのだろう。
「ワビサビって、動物だっけ?」
「あー、カンガルーの親戚じゃなかったかな」
学術系の魔導士二人で馬鹿に花を咲かせていると、ユリアスが顔を出した。
「アリがヘンなのだが……」
彼も気づいたらしい。
「おっす!! 途中で何人かぶっとばしながら走ってきたよ!!」
ディエゴが飛び込んできた。「ぶっとばしながら」と告白しながら、入り口にいた何人かをぶっとばし、机に飛び乗った。人身事故いくない。
役者が揃ったところで、中継開始。あまり野次馬が増えても困るので、教室はしめきっておいた。三大チームの幹部が睨めば、教師ですら入室を躊躇う。
黒板スクリーンに映し出された映像では、錬金術準備室にて、フロステンとアリオーソが二人きりでいた。
「ずいぶん早くいい雰囲気? だねー」
狂喜乱舞しながら薬品を詰めているフロステンと、それを見守るアリオーソを指して言えるかは謎である。
『ひゃーっほっほ、ひーほっほっほ!! あー嬉しいなー嬉しいなー嬉しすぎて脳漿飛び散りそう』
『よかったね、先生』
心の底から、自分のことのように喜ぶアリオーソも、薬品詰めを手伝っている。
ふと、瓶をとる手が重なった。
アリオーソの頬が染まり、驚いて手を引っ込める。
フロステンは意外にも鈍い訳ではないらしく、その反応に目を瞬いた。
『アリくん、せんせのこと嫌いじゃなかったっけ?』
『嫌いなんて、どうして……』
『だってセンセ、アリくんにヒドイことしちゃったでしょ』
一応、あれを酷いことだったと認識してはいるらしい。
『あの時は怖かった……けど、嫌いなんかじゃない』
泣きそうなほど必死な顔に、フロステンはしきりに頷く。
『そっかぁ。アリくん、センセのこと好きなんだ』
『えっ、な、どっ、して!』
『センセ、そゆの言われ慣れてるから』
まあ、それはそうだろう。あの顔なら。若い頃から(フロス現在三十四)色々あったに違いない。
『そっかぁ、そっか……んー。アリくんはセンセとどうしたい?』
『どう……って?』
『付き合ってみたいとか。一晩のあばんちゅーる? とか』
具体的である。というか、生徒と間違いがあったら懲戒免職ものだと思わないのだろうか。それ以前に年齢差が……アリオーソの倍だぞ、フロステン。指摘が最後になったが、アリオーソは男の子だ。
アリオーソはひどく困った様子だった。どうにか、など考えてもみなかったようだ。まごまごする様子は初々しい。
「あーあ、あれ、ボスに向けてくれればよかったのになー。そしたら面白かったのに」
「面白いも何も、鼻血で海ができるだけじゃない?」
「や、海は流石に未だないよ? あと噴射もない」
グレゴリオの鼻血にみんな慣れ過ぎだと思うセッタだった。早くこっちの世界に戻ってきてほしい。そんな日は来ないのかもしれないが。
さて、スクリーンの向こうでは今度こそ「いい雰囲気」と断言できる様子になっていた。フロステンがアリオーソの頭をいい子いい子、と撫でている。アリオーソはくすぐったげにしている。撫でられて目を細める顔が、猫そのものだった。
「なんでだろう、百合っぽいと思うのは」
「大丈夫セッタくん。君だけじゃないから」
このままアリオーソが「お姉さま」とか言い出しても不思議はない絵面だった。
『これからセンセ、儀式なんだけど。アリくんも来る?』
「儀式? って?」
何のこっちゃとカルロとディエゴが首を傾げると、セッタが苦笑する。
「フロス先生、オカルト好きなんだよ」
「へ? あの……言ってみれば科学者でしょ、あの人」
「インテリほどオカルト好きなものなのだよ」
と、訳知り顔でユリアスが言った。そういえばアリオーソも、宇宙人だのが好きだった。UMAの楽しさはオッカム教授から吹き込まれたようだし、学術系魔導士のインテリは確かにオカルト好きと言えるのかもしれない。
「じゃ、ちょいカメラ移すね」
ディエゴは中継から、追跡に術式を変更した。
「ボスはイライラしながら自室で課題やってんね」
そちらの方も追跡してみたらしい。グレゴリオらしいと言うか、何というか。
「ディエゴくん……はさー」
ソーサリーの人間をどう呼んだものか悩みつつ、カルロは頬杖をつく。
「なんでアリのこと気になんの?」
「面白いから。面白いことが三度の鼻ほじりより好きだから!!」
アリオーソの奇行は鼻ほじりレベルか。
「あと、リシェルのこととなるとボスが面白いから。あんたらはリシェルの傍にしょっちゅういるから、ヘンなボスの姿ばっか見てんだろうけど、あの人リシェルさえ絡まなければけっこう凄い人よ?」
確かにグレゴリオの凄い様を目にする機会は少ないが、想像はできる。
今のこの穏やかで、レイヴン的とすら言えるソーサリーを作ったのは彼なのだ。十五で頭領を継いだため、彼の方針に背いた先輩はかなりいた。おそらく、数十人も。
しかし、グレゴリオは抗争を起こしてレイヴンの手を借りるような無様は晒さなかった。己の手腕ひとつで、治めたのである。
レイヴンをシャルル派とカルロ派に分割させてしまったアリオーソより、ボスとしては優れていると言えるだろう。
「あ、移動終了。映すよ」
再び、黒板に映像が広がった。
どこかの……部屋である。どこかは分からない。
壁全体に黒幕を張り、天井からは禍々しい髑髏のランプが無数に下がっている。
人骨で作られたらしい中央の祭壇? には、立派な生肉が並べられていた。
『キエエエエェー!!』
………フロステンである。
グリグリ眼鏡は外し、原始人のよーな衣装に、恐竜のような頭蓋骨を被って、吼え猛る。
フロステンに借りたのか、アリオーソも衣装だけは着て……ぶかぶかである。フロステンも大柄ではなく、むしろ華奢なほうだが、アリオーソは一回り以上小柄だ。よく分かってなさそうながら、一生懸命「きえー、きえー」と言っている。
どうしよう、とセッタは言葉に詰まった。
フロステンの奇想天外より、隣で「かわええ……」と呟いてつっぷすカルロに引いた。どこかの誰かさんみたいに鼻血を噴いたら絶交してやる。
「同じ人間種族とは思えないな」
との、ユリアスの発言はもっともだと思う。
片や、血走った目をひんむかんばかりに見開いて(お願いだから瞬きしてほしい)喉が枯れんばかりに奇声を轟かせるフロステン。怪鳥にそっくりだ。
片や、ぶかぶかの服で必死にきぃきぃ鳴いているアリオーソ。小動物だ。
『ホンゲァアアー! ホェーエエエエイ!!!』
『やかましいわー!!!」
グレゴリオが扉を蹴破って乱入。
『図書室の隣で何してやがる!!』
『え、えへ。空いてたからつい』
『馬鹿者!! ここは数日後に廃棄図書庫になるのだ!』
ひとしきりグレゴリオが叱りつけると、しょげたフロステンの前にアリオーソが立ち塞がった。
『なんだ? 妙な格好しやがって』
『フロス先生に意地悪するな。数日後までに片付ければ文句はないだろう』
グレゴリオは鼻を鳴らし、馬鹿にしたように哂う。
『フロステンにどうのという話は本当だったのか。貴様、頭おかしいんじゃないか?』
『おれのことはとにかく、フロス先生を馬鹿にするな! 先生のことは……先生のことは………おれが守る!』
ボっと顔を赤くして、グレゴリオをあまり迫力のない顔で睨む。
一瞬、グレゴリオは傷ついた顔をしてから、呆れの表情に入った。ディエゴがバンバン机を叩いて大笑いする。本当に彼はボスが大好きらしい。
『何か悪いものでも食ったんじゃないか、貴様』
『ほっ、本当だもん! 先生のこと愛してるんだもん!』
『口調からして、かなりおかしいぞ、貴様』
ここへ来て、グレゴリオは本当に心配になったらしい。グレゴリオでなくとも心配になる幼児退行っぷりではあるが。
『診せてみろ。多少の解呪や内科はできる』
セッタは驚いた。グレゴリオが、こんな優しい声を出せるとは知らなかった。ディエゴが言うには、患者にはこんな調子なのだそうだ。
『おれはヘンじゃない!』
『変だ。フロステン、貴様からも何か言ってやれ』
『え……ヘンでもいいじゃない? カワイイし』
あまりの奇行で生徒に敬遠されるフロステンも、慕われるのはそれなりに嬉しいらしい。
『貴様、惚れ薬でも飲ましたのではなかろうな』
『惚れ薬なんてもの、作りませーん。作り飽きたもーん』
子供っぽく下唇をつきだす三十路男、ふと首を傾げた。
『あれ、でも……このまえ授業で、惚れ薬つくりましたねえ』
「作ったの、セッタ君」
「知らない」
「知らない、て……」
「だって、学年ごとに作るもん違うし。中等科でアリ先輩に薬盛る勇気のある奴なんか………」
セッタは口端をひきつらせた。
いる。錬金術に属する中等科で、一人だけアリオーソを恐れず薬盛る奴が。
「先輩たち、誰でもいいから中等科にいってくれる? オレ、中和剤作ってくるから」
「いいけど、誰つれてくればいいの?」
「アレルセン=ラグーン」
ああ……と全員脱力した。公子さまの天真爛漫なご尊顔を思い浮かべ、水揚げされたタコのようにぐんにゃり。
中和剤の完成には数日を要し、その間アリオーソは「あのまま」だった。
中和剤を飲ませる時には「このまま先生を好きでいる」と大騒ぎし、いざ元に戻ると別の意味で真っ赤になりながら走り去った。
その後、三日ほど部屋から出て来なかったそうな。
煙たがられることの多いフロステンだが、決して底意地の悪い教師ではない……むしろ、かなり性格のいい部類に入るだろう。
少しばかり、研究のこととなると他人を省みなくなるだけで。
アリオーソほど酷い目に遭う例も稀だが、知らず知らずの内にフロステンの実験台になって、トラウマが出来たという生徒は少ない。
しかし、それ以外は……授業のとき、補習のとき、彼は親切だった。フロステンは出来のいい生徒と出来の悪い生徒を比べたり、贔屓したりしない。生徒の優劣など、フロステンにとって非常にどうでもいいからだ。
また、やはり彼は美しい。見ている分には美しく、飛び掛られると悲鳴をあげたくなる蛾のような美しさであったとしても。あれだけ綺麗なら許される、と言う人間はいる。言わない人間の方が多いが。
して、「あれだけ云々」パート2に当たる生徒が、薬品染みの多い白衣を翻すフロステンの背を熱っぽく見つめていた。
「あの、アリ先輩どったん」
ワンコロ(セッタ)である。
かっと顔を赤らめ、「なんでも……」と目をそらす。
これを他の男がやったなら殺人犯を見る目にでもなったろうが、残念ながらアリオーソだったので、セッタも思わず顔を赤らめる。
「あの、そんなとこでそんな顔してウロウロしてると……」
「なんだよ」
「知らないッスよ? 惚れ薬飲まされても」
「そんなのあるのか」
目から鱗ボンバー。
後輩の肩を掴み、遠心力で脳みそぶっとぶ勢いでシャッフル!
「お前、錬金術科だろ! ひとつ作って!!」
「あばばばばば、ど、どうしっ、たのっばっ」
どうしたのと聞かれてぱっと手を離し、身を抱えるように己の腕を掴む。派手にすっ転んだ後輩は一ミリも見なかった。
打った肩を抑えつつ起き上がり、胡坐のまま先輩を見上げるセッタ。
それは何というか……控えめに見ても、フラグの立った状態だった。このままエンディングに突入すれば、伝説の木下さんのところで召喚術をおっぱじめそうな雰囲気である。
「アリ先輩……ひょっとして、誰かのこと好きになった?」
指摘されると余計に顔を赤くして、辛そうな顔をする。
「こんなこと、初めてで。相手……男の人なんだ」
表情からして何となく分かっておりました、先輩。
「おかしいだろ」
「んー、いやー。たぶん、五割の確率で可能性あると思うけど」
男女不問で懸想される割合で言うと、フロステンよりアリオーソの方が多い。
フロステンは確かに美しい、だが必ず「キモい」が付随する。
この前など、バクテリアぶちまけ「メンゴメンゴ」で済ました。
今とて、得体の知れない緑色のグチャニチャした液体を、歪んだ笑顔で素手で鷲掴みしている。何ていうか人間じゃない、あれ。
そう。許容範囲外。いくら美しくてもあれは無理。
「けど、今までちょっかい出して来た奴らと、その人が同じとは限らないだろ?」
「ま、そうだね。そこらへん、潔癖な人けっこう多いし」
「フロステン先生は———」
「ふろす!?」
突然セッタが大声を上げたので、周囲の目が向いた。が、すかさずアリオーソが殴り倒したため、いつものことかと注意がそれる。
アリオーソは真っ赤になって唇を震わせながら、セッタを睨みつけた。
「お前……ふ、ふろす先生に気づかれたら、どうしてくれるんだよ!」
「いや、え……っと、ま、まじ?」
「………!!」
その白い肌を染め、小さく頷かれてセッタは目の前が暗くなるのを感じた。いやはや、凄まじいものの片鱗を見せつけられた気分だ。
殺人犯を見るかのように、おそるおそる先輩を見上げ……
「なんで、って聞いてもいい?」
「どうしてかなんて、分からない。ただ、先生を見てると苦しくて……」
「病気だよ、先輩。それは単なる病気。治療院いこ?」
「恥ずかしくなって……! すごくその、好き、なんだ」
やっぱり病気だ。
フロステンに死ぬより酷い目に遭わされて、それを助けたのは他ならぬセッタである。その後、アリオーソはフロステンに会うたびに体が竦んでしまい、思うように動けないほどのトラウマを負ってしまった。
幸いアリオーソは錬金術科を選択していないこともあり——フロステンの失態でもあるので、普通科で錬金術をやるときは、他の教授がアリオーソのクラスを担当する。
もしアリオーソの親が本気になって、フロステンを社会的に抹消しても文句を言えないほどのことを、フロステンはやらかしたのだ。未だにクロエにいること自体、間違っている。
それらを踏まえ、アリオーソの告白を考えると。
つまり先輩は、トラウマを乗り越えようとしているのだと思う。精神的に深い傷を負った人が、それを癒そうとしてトラウマに立ち向かうことは、よくある。
心の弱い人は傷から目を背けるが、先輩は強い人だ。早々にフロステン如き、打破したい。そう考えて、フロステンを「好き」になったのだろう。
究極にして、手っ取り早い方法である。どきどきするのは、怖いのではなく恋だから。吊橋効果を逆手にとったよーな治療法である。
セッタは、先輩のしたいようにさせてあげたいと思うと同時に、心配になった。もし相手が常人ならば、こんな治療法も有り得ると思う。が、フロステン。惚れられた強みにつけこんで、再び先輩にトラウマを植え付けるかもしれない。
「やったあ!」
うだうだ考えるうちに、フロステンが両手を挙げて万歳した。
「成功したー!!!!!」
……さきほどの緑色のクリーチャーが完成したらしい。
喜びのあまり、フロステンは髪を振り乱し、東洋のアワダンスを踊り狂う。情熱的にして破滅的なステップ。周囲の生徒、ドン引き。
ただ一人アリオーソだけが、
「かっこいい……」
重症だ。
***
そんな訳でカルロに相談しに来た。
「絶対ふつーじゃないと思うんですよ」
「ふつーじゃないよねー。相手がフロステンだってところも」
"も"と言うか、そこが一番おかしい。
「一番へんなのは、アリ。あの子がルーシー先輩以外にそんな情熱的な反応するなんて、病気か本当に恋しちゃってるのどっちかだねー」
「絶対なんかの勘違いだと思うんだけど……」
「確かに、ちょっと急すぎるね。他の友達に最近のアリのこと聞いて回ろうか」
カルロがワークシートを揃えて立ち上がると。
『話は聞かせて貰った!!』
どこからともなく声がするもので、カルロとセッタは周囲を見回すが、声の主はない。
そうこうする内に、目の前の机からにゅっと首が飛び出した。
「ディ、ディエゴ先輩!?」
の、ご機嫌な生首である。
「よー、ディオぽん。神秘造詣?」
『そそー。今、ボスたちとちっと出かけてんだけどね。ねー、ボス』
ディエゴが右を向くと、今度はグレゴリオの生首が生える。
自分が生首で放送されていることに気づかぬ様子で、不審そうな顔だ。
『ちっと盗聴器から耳寄り情報拾ったんスよ』
とは、グレゴリオへの説明らしいが———この男、面白情報を拾うために盗聴器なんぞ仕掛けてやがったらしい。
『なんでも、リシェルがフロステンに懸想! だそうスよ! これは是非帰って観察しなくちゃあ!』
『ふん!!』
グレゴリオは盛大に鼻を鳴らした。生首のままで。
『下らん。リシェルが誰に発情しようが興味はない』
「発情て」
まだそこまで至ってないと思うから。
『あれ、ボスどこに行くんスか?』
カルロたちからは、あちらがどういう状況であるか見えない。ただ生首が二つ並んでいるだけだ。
ディエゴの口ぶりからいくと、グレゴリオは何処かへ去ろうとしているようだ。
『……帰る。課題があるのを思い出した。べっ、べつにリシェルが気になるとかそういうんじゃないからな!! 勘違いするなよ!!』
「なんつー分かりやすい……」
彼、あんなんで魔導士になれるのだろうか。実力からして、狐狸妖怪はびこる何処ぞの宮廷へ召し上げられるだろうに。
『と、いうわけでオレらも今からダッシュで帰るんで! 一部始終よろしくねん』
気色の悪い投げキッスひとつ、ディエゴは映像通信を切った。
「いいの? カルロ先輩、ソーサリー嫌いでしょ」
「んー。でも、アリは気になるし。神秘造詣科がいれば心強いしねー」
「ダニエル先輩じゃダメなの?」
「ダニーを呼ぶと、エドモンも来るでしょ? 本人に了承のない盗み見なんて、エドモンが許すと思う?」
二時間に及ぶ説教タイムが始まると思う。
レイヴンにも個性がある。アリオーソのように粛清して終わりの者もいれば、エドモンのように説教タイムがある者もいる。ダニエルはもっと酷い。粛清した後、神秘造詣の技術を活かして女体化させたり(顔はゴツいまま)、デブにしたり、宇宙人にして遊ぶ。
かくいうカルロはぶちのめして気絶した相手の衣類を弄るのが好きだ。たとえばシャツの首に頭をおしこめて、首を縫ってしまう。裾も脱げないように縫ってしまう。ついでにズボンの股も縫う。起きた時、パニックに陥ってじたばたする姿を眺めるのは風流なものだ。ああいうのを東洋ではワビサビと呼ぶのだろう。
「ワビサビって、動物だっけ?」
「あー、カンガルーの親戚じゃなかったかな」
学術系の魔導士二人で馬鹿に花を咲かせていると、ユリアスが顔を出した。
「アリがヘンなのだが……」
彼も気づいたらしい。
「おっす!! 途中で何人かぶっとばしながら走ってきたよ!!」
ディエゴが飛び込んできた。「ぶっとばしながら」と告白しながら、入り口にいた何人かをぶっとばし、机に飛び乗った。人身事故いくない。
役者が揃ったところで、中継開始。あまり野次馬が増えても困るので、教室はしめきっておいた。三大チームの幹部が睨めば、教師ですら入室を躊躇う。
黒板スクリーンに映し出された映像では、錬金術準備室にて、フロステンとアリオーソが二人きりでいた。
「ずいぶん早くいい雰囲気? だねー」
狂喜乱舞しながら薬品を詰めているフロステンと、それを見守るアリオーソを指して言えるかは謎である。
『ひゃーっほっほ、ひーほっほっほ!! あー嬉しいなー嬉しいなー嬉しすぎて脳漿飛び散りそう』
『よかったね、先生』
心の底から、自分のことのように喜ぶアリオーソも、薬品詰めを手伝っている。
ふと、瓶をとる手が重なった。
アリオーソの頬が染まり、驚いて手を引っ込める。
フロステンは意外にも鈍い訳ではないらしく、その反応に目を瞬いた。
『アリくん、せんせのこと嫌いじゃなかったっけ?』
『嫌いなんて、どうして……』
『だってセンセ、アリくんにヒドイことしちゃったでしょ』
一応、あれを酷いことだったと認識してはいるらしい。
『あの時は怖かった……けど、嫌いなんかじゃない』
泣きそうなほど必死な顔に、フロステンはしきりに頷く。
『そっかぁ。アリくん、センセのこと好きなんだ』
『えっ、な、どっ、して!』
『センセ、そゆの言われ慣れてるから』
まあ、それはそうだろう。あの顔なら。若い頃から(フロス現在三十四)色々あったに違いない。
『そっかぁ、そっか……んー。アリくんはセンセとどうしたい?』
『どう……って?』
『付き合ってみたいとか。一晩のあばんちゅーる? とか』
具体的である。というか、生徒と間違いがあったら懲戒免職ものだと思わないのだろうか。それ以前に年齢差が……アリオーソの倍だぞ、フロステン。指摘が最後になったが、アリオーソは男の子だ。
アリオーソはひどく困った様子だった。どうにか、など考えてもみなかったようだ。まごまごする様子は初々しい。
「あーあ、あれ、ボスに向けてくれればよかったのになー。そしたら面白かったのに」
「面白いも何も、鼻血で海ができるだけじゃない?」
「や、海は流石に未だないよ? あと噴射もない」
グレゴリオの鼻血にみんな慣れ過ぎだと思うセッタだった。早くこっちの世界に戻ってきてほしい。そんな日は来ないのかもしれないが。
さて、スクリーンの向こうでは今度こそ「いい雰囲気」と断言できる様子になっていた。フロステンがアリオーソの頭をいい子いい子、と撫でている。アリオーソはくすぐったげにしている。撫でられて目を細める顔が、猫そのものだった。
「なんでだろう、百合っぽいと思うのは」
「大丈夫セッタくん。君だけじゃないから」
このままアリオーソが「お姉さま」とか言い出しても不思議はない絵面だった。
『これからセンセ、儀式なんだけど。アリくんも来る?』
「儀式? って?」
何のこっちゃとカルロとディエゴが首を傾げると、セッタが苦笑する。
「フロス先生、オカルト好きなんだよ」
「へ? あの……言ってみれば科学者でしょ、あの人」
「インテリほどオカルト好きなものなのだよ」
と、訳知り顔でユリアスが言った。そういえばアリオーソも、宇宙人だのが好きだった。UMAの楽しさはオッカム教授から吹き込まれたようだし、学術系魔導士のインテリは確かにオカルト好きと言えるのかもしれない。
「じゃ、ちょいカメラ移すね」
ディエゴは中継から、追跡に術式を変更した。
「ボスはイライラしながら自室で課題やってんね」
そちらの方も追跡してみたらしい。グレゴリオらしいと言うか、何というか。
「ディエゴくん……はさー」
ソーサリーの人間をどう呼んだものか悩みつつ、カルロは頬杖をつく。
「なんでアリのこと気になんの?」
「面白いから。面白いことが三度の鼻ほじりより好きだから!!」
アリオーソの奇行は鼻ほじりレベルか。
「あと、リシェルのこととなるとボスが面白いから。あんたらはリシェルの傍にしょっちゅういるから、ヘンなボスの姿ばっか見てんだろうけど、あの人リシェルさえ絡まなければけっこう凄い人よ?」
確かにグレゴリオの凄い様を目にする機会は少ないが、想像はできる。
今のこの穏やかで、レイヴン的とすら言えるソーサリーを作ったのは彼なのだ。十五で頭領を継いだため、彼の方針に背いた先輩はかなりいた。おそらく、数十人も。
しかし、グレゴリオは抗争を起こしてレイヴンの手を借りるような無様は晒さなかった。己の手腕ひとつで、治めたのである。
レイヴンをシャルル派とカルロ派に分割させてしまったアリオーソより、ボスとしては優れていると言えるだろう。
「あ、移動終了。映すよ」
再び、黒板に映像が広がった。
どこかの……部屋である。どこかは分からない。
壁全体に黒幕を張り、天井からは禍々しい髑髏のランプが無数に下がっている。
人骨で作られたらしい中央の祭壇? には、立派な生肉が並べられていた。
『キエエエエェー!!』
………フロステンである。
グリグリ眼鏡は外し、原始人のよーな衣装に、恐竜のような頭蓋骨を被って、吼え猛る。
フロステンに借りたのか、アリオーソも衣装だけは着て……ぶかぶかである。フロステンも大柄ではなく、むしろ華奢なほうだが、アリオーソは一回り以上小柄だ。よく分かってなさそうながら、一生懸命「きえー、きえー」と言っている。
どうしよう、とセッタは言葉に詰まった。
フロステンの奇想天外より、隣で「かわええ……」と呟いてつっぷすカルロに引いた。どこかの誰かさんみたいに鼻血を噴いたら絶交してやる。
「同じ人間種族とは思えないな」
との、ユリアスの発言はもっともだと思う。
片や、血走った目をひんむかんばかりに見開いて(お願いだから瞬きしてほしい)喉が枯れんばかりに奇声を轟かせるフロステン。怪鳥にそっくりだ。
片や、ぶかぶかの服で必死にきぃきぃ鳴いているアリオーソ。小動物だ。
『ホンゲァアアー! ホェーエエエエイ!!!』
『やかましいわー!!!」
グレゴリオが扉を蹴破って乱入。
『図書室の隣で何してやがる!!』
『え、えへ。空いてたからつい』
『馬鹿者!! ここは数日後に廃棄図書庫になるのだ!』
ひとしきりグレゴリオが叱りつけると、しょげたフロステンの前にアリオーソが立ち塞がった。
『なんだ? 妙な格好しやがって』
『フロス先生に意地悪するな。数日後までに片付ければ文句はないだろう』
グレゴリオは鼻を鳴らし、馬鹿にしたように哂う。
『フロステンにどうのという話は本当だったのか。貴様、頭おかしいんじゃないか?』
『おれのことはとにかく、フロス先生を馬鹿にするな! 先生のことは……先生のことは………おれが守る!』
ボっと顔を赤くして、グレゴリオをあまり迫力のない顔で睨む。
一瞬、グレゴリオは傷ついた顔をしてから、呆れの表情に入った。ディエゴがバンバン机を叩いて大笑いする。本当に彼はボスが大好きらしい。
『何か悪いものでも食ったんじゃないか、貴様』
『ほっ、本当だもん! 先生のこと愛してるんだもん!』
『口調からして、かなりおかしいぞ、貴様』
ここへ来て、グレゴリオは本当に心配になったらしい。グレゴリオでなくとも心配になる幼児退行っぷりではあるが。
『診せてみろ。多少の解呪や内科はできる』
セッタは驚いた。グレゴリオが、こんな優しい声を出せるとは知らなかった。ディエゴが言うには、患者にはこんな調子なのだそうだ。
『おれはヘンじゃない!』
『変だ。フロステン、貴様からも何か言ってやれ』
『え……ヘンでもいいじゃない? カワイイし』
あまりの奇行で生徒に敬遠されるフロステンも、慕われるのはそれなりに嬉しいらしい。
『貴様、惚れ薬でも飲ましたのではなかろうな』
『惚れ薬なんてもの、作りませーん。作り飽きたもーん』
子供っぽく下唇をつきだす三十路男、ふと首を傾げた。
『あれ、でも……このまえ授業で、惚れ薬つくりましたねえ』
「作ったの、セッタ君」
「知らない」
「知らない、て……」
「だって、学年ごとに作るもん違うし。中等科でアリ先輩に薬盛る勇気のある奴なんか………」
セッタは口端をひきつらせた。
いる。錬金術に属する中等科で、一人だけアリオーソを恐れず薬盛る奴が。
「先輩たち、誰でもいいから中等科にいってくれる? オレ、中和剤作ってくるから」
「いいけど、誰つれてくればいいの?」
「アレルセン=ラグーン」
ああ……と全員脱力した。公子さまの天真爛漫なご尊顔を思い浮かべ、水揚げされたタコのようにぐんにゃり。
中和剤の完成には数日を要し、その間アリオーソは「あのまま」だった。
中和剤を飲ませる時には「このまま先生を好きでいる」と大騒ぎし、いざ元に戻ると別の意味で真っ赤になりながら走り去った。
その後、三日ほど部屋から出て来なかったそうな。
ヴィク勇】エルフェンリートパロ
【エルフェンリートパロ】
※r-15ほどじゃありませんが、猟奇・流血描写あり
それは軍事施設に近い鉄壁に覆われた建物だった。
武装した人間がチームに別れて各々施設を駆け巡っている。
その途中には、不自然な方向に首をねじ切られた死体が無数に転がっていた。
『アルファよりベータに報告、標的は施設の防壁を破壊して外部へ脱出しました。施設内の人員は警備にあたってください。
引き続きYURIの捜索を開始します。生死不問です。繰りがエまッ……』
無線の音声の語尾が醜く引き攣った。
同時刻、無線を放り出した物言わぬ肉塊が地に倒れる前に高く吊り上げられる。
彼の足元には月明かりに照らされた白い肌を晒す青年。
だが、彼の両手はだらりと下がっており、頭上から鮮血を滴らせる死体など見もしない。
死体は見えざる手によって装備を暴かれ、情報端末を奪われる。
落ちてきた端末を確認し、青年の身が射出されたように高く跳躍した。
人ならざる速度で闇夜の森を駆け、いつしか夜が明ける。
人里が見えてきた。何処の街かは知れないが。
ふぅっと息をつくと白い煙が昇る。ここは、寒い。こんな素裸では余計に。
一歩、二歩と裸足に食い込むアスファルトを踏みしめ、視界が揺らぐ。
施設を脱出する際、頭部に損傷を受けた。そのまま激しい運動を繰り返した為、今になって影響が出ているらしい。
三歩目は進んだが、四歩目は駄目だった。
薄れゆく意識の中でちいさく「ヴィクトル」と呟く。
べつに、「彼ら」が恐れるように人類を滅ぼすべく脱走したわけではない。
ただ、もう一度見たかった。
輝く銀色の氷の上、光を浴びて踊る彼の姿を。
***
ピーテルもすっかり暖かくなったものだ。
シーズンを終え、久々に暇を無理やり作ったヴィクトルは、早朝から愛犬と共に灰色に汚れた街を歩いていた。
「すっかり春だねえ、マッカチン。そういえば日本の春って綺麗なんだよ。今頃の時期はあちこちに薄いピンク色の花びらを散って、まるで花の絨毯みたいに幻想的なんだ。ピーテルもそうだったらいいのに」
ここに良識的なコーチか口の悪い弟弟子かいれば「無茶言うな桜死ぬわ」と呆れたろうが、あいにくマッカチンは犬なので「わふん」としか返事は出来ない。
何年かぶりにお気に入りのパン屋で朝食を買い込み、自宅に戻ることにした。
たまには愛犬とともに、のんびり過ごしたい。
まだ暖かな紙袋を抱えてほくほくしていると、マッカチンが首を横に向けて吠えた。
何台もの車が路上に駐められたその奥。
アパートとアパートの間にひっそりと残された汚れた芝生の上、誰かが倒れている。それも、裸だ。
驚いて駆け寄ってみると、東洋人の子供と分かる。あちこちが汚れ、軽症を負っているようだ。
黒く艶やかな髪から、なぜか三角形の、猫の耳のような角が生えており、裸体であるにも関わらず洒落っ気でつけているとは思えない首輪を付けていた。
タグには『001-YURI』と刻まれている。奇しくも弟弟子と同じ名だ。これがこの子の名前であれば、だが。
どう見てもワケあり。下手をするとロシアンマフィア関係。
角の生えた人間というのは、稀に存在する。詳しくはないが皮膚が硬化した瘤のようなものらしい。
いかにも東洋人らしく幼い顔で可愛らしい。肌は瑞々しく健康的だ。
珍しいという理由だけで囲われていたのでは、と眉を寄せた。
警察はアテにならない。
このまま放っておくわけにもいかない。
ヴィクトルはコートを脱いで彼をくるみ、彼のお腹にパンの袋をのせて、足早にその場を去った。
***
まず家に帰ってからマッカチンの足を拭き、それからソファに寝かせた青年に向き合って、さてどうしようと。
(傷……は見たところかすり傷ばかりだけど、頭を強く打っているなら病院には連れていかなきゃ)
とにかく体を拭いて手当をしなければ。
洗面器にお湯を張る。マッカチンの鳴き声が聞こえた。
「マッカチン、そのこ寝てるから静かに―――」
リビングに戻ると、青年が身を起こしていた。床にぺたんとお尻をつけて座り、楽しそうにマッカチンと戯れている。
他人をこの家に入れることは滅多にない。
ここはマッカチンとヴィクトルだけの静かな部屋。
それに固執していたわけではないが、見知らぬ存在がいてこれほど馴染むとは思わなかった。微笑ましい光景に思わず目が和む。
「気がついたならよかった。痛いところは?」
「ぷぎう!」
「…………………………」
ぷぎう?
子豚ちゃんのように鳴いて返事した青年は、洗面器をテーブルに置いたヴィクトルの懐に飛び込んできた。
「ぷぎうぅ!」
「わーお………頭を打ったせいじゃないよね?」
「ぷぎゅー!!!」
無邪気に擦りつく様はまるでマッカチンだ。
「とりあえず、汚れてるから体を拭こうね」
湯に浸したタオルを渡す。だが、黒髪の青年は首を傾げ、あむ、とタオルを食んだ。
あっ、これは……知能指数が……………
悟ったヴィクトルが角の生えた頭をよしよし撫でると、気持ちよさそうにチョコレート色の目を細める。
(くっ………)
ぷぎぷぎ喜ぶ謎の生き物に撃沈。
体を拭っている間もじゃれてくるし抱きついてくるしで大変だった。
とりあえずヴィクトルのシャツを着せ、パンを与えると両手で持ってはむはむ食べる。
お腹がいっぱいになるとマッカチンと一緒にラグの上で丸くなって眠ってしまった。
その様子を見ながら、ふーむ、と考え込む。
(行方不明者を探す情報はまめにチェックしよう。どうも危なっかしい)
尻や太ももを晒し無防備に眠るあどけない顔。それなりに育った男の子だというのに犯罪臭しかしない。
ひとまず寝室に運び、マッカチンを挟んで昼寝した。
***
意識がブレる。
痛む頭を抑えながら勇利は身を起こした。
(どこ、ここ……)
温かいベッドの上。こんな場所で眠るのは何年ぶりだろう。
窓から見える空が赤らんでいる。
手元にもじゃっとした感触があり、そちらに視線を向けて仰天した。
犬、と銀髪の男。
(ヴィクトル・ニキフォロフ!? なんでここに!!?)
確かに彼を―――というより幼い日に憧れた彼のスケートする姿をひと目見たい一心で脱走した。
あれから十年は経っているから、当時少年だったヴィクトルも二十代後半になっている。髪は短くなり、大人になったが、それでも見間違えはしない。
赤い顔で震える息をつき、シャツの胸元を握りしめる。
氷上を舞う姿も美しかったが、眠る横顔も絵画のようで……夢のようで。
(い……いや、見とれてる場合じゃない)
痛む頭に触れながら立ち上がり、窓を開ける。周辺に人影はない。住宅街のようだ。
勇利は窓枠に足をかける。
一度だけヴィクトルを振り返り、たまらない感情を抱いた。
(助けて……くれたのかな)
人に助けられるなど初めての経験だ。勇利は人類の敵として生を受け、人にない角を持つために迫害を受けてきた。
だが、だからこそ、これ以上ここにはいられない。
振り切るように勢いをつけて飛び降り、見えざる手を伸ばす。ふわりと地に降り立ち、出来るだけ人気のない道を選んで駆け抜けてゆく。
「――――っ」
ずき、と頭が痛んだ。先程から、頭痛がやまない。
(意識が……)
視界が霞み、ぐらつく。
こんなところで立ち止まるわけにはいかないのに。
***
標的が道端でへたり込んだ。
一般人があれを回収した時は対応に悩んだが、自分から出てきてくれるとは助かった。
なにしろ、一般人は一般人でもロシアの英雄ヴィクトル・ニキフォロフだったのだ。始末すれば国内に至らず世界中が騒ぎ出す。
男は慎重にボウガンを構えながら接近し、10メートル地点で足を止めた。
「大人しく投降しろ、始祖体」
警告を発すると標的はゆっくりと首を回して振り向き―――不思議そうに首を傾げて目を瞬かせた。そして、銃で威嚇されているにも関わらず、ふらと立ち上がろうとする。
男はその足を狙ってトリガーを引いた。放たれた矢は残念ながら掠っただけに終わったが。
「ぷぎっ」
標的が奇妙な声を上げて倒れ込む。
反撃してこないことを疑問に思うが、男は舌なめずりをした。
「取引をしないか、始祖体。お前の持つベクターウイルスで見えざる手を持つ兵器を増やせば敵なんぞいなくなる。お前も人間に追い回されることもなくなるだろう?」
「………」
その呼びかけにも応じず、始祖体は無様に足を引きずりながら逃走と試みる。男は眉を顰めた。なぜ、種族の強みである見えざる手を使わない?
これは好機かもしれない。何らかのトラブルが起きて見えざる手を使用できない状態にあるのではないか。
男を油断させる必要など、あの怪物にはない。もともと交渉のために姿を見せた。でなければ遮蔽物から絶対に出るものか。
男が接近しても、やはり始祖体は攻撃する素振りがなかった。
黒髪を掴み顔を上げさせる。
その顔を見て思わず噴き出した。
人類の敵、その始祖体ともあろうものが、情けなく痛みに喘いで泣いていたのだ。
「安心しろ。大人しく従えばかわいがってやる。ただし、体に爆弾を仕掛けさせてもらうがな」
そのくらいの保険は必要になる。だが、このザマでは拍子抜けもいいところだ。
ふらつく始祖体を引きずり、路端に停めた車へ向かう。
その扉を開けようとした、その時――――
男は顔面から窓に突っ込んだ。支えを失ったのだ。膝から下という支柱を。
窓ガラスに映った始祖体の目と合った。
「ねえ、たのしい……?」
いっそ妖艶なほどに薄ら寒い笑みを浮かべる暗い瞳。
己の不注意を嘆く前に、男の首は落ちた。
***
(一瞬、意識が飛んだけど。なんだったんだろ)
人の髪を掴んで引きずっていた男を殺害してから、ユウリはその場を離れる。
早くこの街をでなければ。ヴィクトルに迷惑がかかってしまう。
そうだ、彼の住まいの傍で死体なんか作るべきではなかった。きっと怖がらせてしまう。
(ヴィクトルにだけは、こんな姿……見られたくない)
人を殺す抵抗など消え失せてしまったが、それでも勇利に優しくしてくれた数少ない人々からもらった愛を忘れた訳ではない。
その優しい人々も、みな人間の手によって殺された。
勇利は人類の敵として生まれ、同類を増やす始祖体であるそうだが、そんなことはどうでもいい。
ただ大切なものを守りたかった。それなのに、どうしてこんなことに?
「――――ゆーりっ!」
己の声を呼ぶ声にぶるっと身を震わせる。
本能的に自分に危害を加えるものではないと察した。それどころか、焦って不安の感じる声。
いつか聞いた少年の声が、大人になったものだった。
(探しに来てくれた……?)
信じられない思いで血にまみれた己の身を抱く。
また頭痛。何時の間にか足も怪我をしたらしく、うまく動かない。
とにかく、ヴィクトルから身を隠さねば……アパートの影に身を寄せる。
どうか此方に来ないで、と祈りながら目を閉じた。
***
昼寝から目を覚ますとユウリの姿はなく、ヴィクトルは慌てて部屋を飛び出た。あんな子がまともに一人で出歩けるとは思えない。ましてあの格好で。
一緒についてきたマッカチンが、いつになく険しい鳴き声を上げる。
鉄の匂いが立ち込めている。そろそろ日が沈む時間、薄暗い道の端に赤い液体が広がっていた。その中央には……ヴィクトルは目を背けた。
道の先にボウガンが転がっている。とてもあれで傷つけられたとは―――いや、人の仕業とも思えぬ酷い死体だった。
さすがのヴィクトルも衝撃を受けたが、余計にユウリを探さなければ。
案外すぐに見つかった。アパートの壁に凭れ蹲る人影を発見し、ほっと息をつく。
「ゆーり」
膝をついて様子を見る。シャツや頬に血がついていた。慌てて体を調べるが、怪我はないようだ。顔色は悪く、意識がない。
犯行現場の傍にいて、巻き込まれかけて逃げたのかもしれない。
とにかくあんなものに関わるのは御免だった。通報していらぬ注目は浴びたくない。ヴィクトルが猟奇殺人の参考人になったとなれば、無関係な通行人だったとしてもスキャンダルだ。
ゆうりを抱えて家に戻り、ずるずると扉に背をつけてずり落ちる。
「びっくりしたねえ、マッカチン」
「わふ」
「ゆうり、起きて」
膝の上に抱いたゆうりの肩を叩き、覚醒を促す。
少し苦しげに眉を寄せながらも目を開く様子に胸を撫で下ろす。
「怪我はない? 具合の悪いところは」
「ぷぎ?」
「行きたいところや帰りたいところがあるなら一緒に行くから、一人で出ちゃ駄目だよ」
「???」
ぽけ、と口を開けるゆーり。だが、叱られた意味などわかっていないのだろう。すぐに笑顔でヴィクトルにじゃれかかり、肩口にすりついてきた。
一瞬だけ見た凄惨な死体は頭から焼き付いて離れない。
それだけに無邪気なゆうりの姿を見ると昂ぶっていた神経が鎮まってゆく。ぷぎぷぎ鳴いて、かわいい子豚ちゃん。帰るおうちが見つかるまで、ちゃんと面倒見てあげるからね。
つづかない
想像以上に難しかった
※r-15ほどじゃありませんが、猟奇・流血描写あり
それは軍事施設に近い鉄壁に覆われた建物だった。
武装した人間がチームに別れて各々施設を駆け巡っている。
その途中には、不自然な方向に首をねじ切られた死体が無数に転がっていた。
『アルファよりベータに報告、標的は施設の防壁を破壊して外部へ脱出しました。施設内の人員は警備にあたってください。
引き続きYURIの捜索を開始します。生死不問です。繰りがエまッ……』
無線の音声の語尾が醜く引き攣った。
同時刻、無線を放り出した物言わぬ肉塊が地に倒れる前に高く吊り上げられる。
彼の足元には月明かりに照らされた白い肌を晒す青年。
だが、彼の両手はだらりと下がっており、頭上から鮮血を滴らせる死体など見もしない。
死体は見えざる手によって装備を暴かれ、情報端末を奪われる。
落ちてきた端末を確認し、青年の身が射出されたように高く跳躍した。
人ならざる速度で闇夜の森を駆け、いつしか夜が明ける。
人里が見えてきた。何処の街かは知れないが。
ふぅっと息をつくと白い煙が昇る。ここは、寒い。こんな素裸では余計に。
一歩、二歩と裸足に食い込むアスファルトを踏みしめ、視界が揺らぐ。
施設を脱出する際、頭部に損傷を受けた。そのまま激しい運動を繰り返した為、今になって影響が出ているらしい。
三歩目は進んだが、四歩目は駄目だった。
薄れゆく意識の中でちいさく「ヴィクトル」と呟く。
べつに、「彼ら」が恐れるように人類を滅ぼすべく脱走したわけではない。
ただ、もう一度見たかった。
輝く銀色の氷の上、光を浴びて踊る彼の姿を。
***
ピーテルもすっかり暖かくなったものだ。
シーズンを終え、久々に暇を無理やり作ったヴィクトルは、早朝から愛犬と共に灰色に汚れた街を歩いていた。
「すっかり春だねえ、マッカチン。そういえば日本の春って綺麗なんだよ。今頃の時期はあちこちに薄いピンク色の花びらを散って、まるで花の絨毯みたいに幻想的なんだ。ピーテルもそうだったらいいのに」
ここに良識的なコーチか口の悪い弟弟子かいれば「無茶言うな桜死ぬわ」と呆れたろうが、あいにくマッカチンは犬なので「わふん」としか返事は出来ない。
何年かぶりにお気に入りのパン屋で朝食を買い込み、自宅に戻ることにした。
たまには愛犬とともに、のんびり過ごしたい。
まだ暖かな紙袋を抱えてほくほくしていると、マッカチンが首を横に向けて吠えた。
何台もの車が路上に駐められたその奥。
アパートとアパートの間にひっそりと残された汚れた芝生の上、誰かが倒れている。それも、裸だ。
驚いて駆け寄ってみると、東洋人の子供と分かる。あちこちが汚れ、軽症を負っているようだ。
黒く艶やかな髪から、なぜか三角形の、猫の耳のような角が生えており、裸体であるにも関わらず洒落っ気でつけているとは思えない首輪を付けていた。
タグには『001-YURI』と刻まれている。奇しくも弟弟子と同じ名だ。これがこの子の名前であれば、だが。
どう見てもワケあり。下手をするとロシアンマフィア関係。
角の生えた人間というのは、稀に存在する。詳しくはないが皮膚が硬化した瘤のようなものらしい。
いかにも東洋人らしく幼い顔で可愛らしい。肌は瑞々しく健康的だ。
珍しいという理由だけで囲われていたのでは、と眉を寄せた。
警察はアテにならない。
このまま放っておくわけにもいかない。
ヴィクトルはコートを脱いで彼をくるみ、彼のお腹にパンの袋をのせて、足早にその場を去った。
***
まず家に帰ってからマッカチンの足を拭き、それからソファに寝かせた青年に向き合って、さてどうしようと。
(傷……は見たところかすり傷ばかりだけど、頭を強く打っているなら病院には連れていかなきゃ)
とにかく体を拭いて手当をしなければ。
洗面器にお湯を張る。マッカチンの鳴き声が聞こえた。
「マッカチン、そのこ寝てるから静かに―――」
リビングに戻ると、青年が身を起こしていた。床にぺたんとお尻をつけて座り、楽しそうにマッカチンと戯れている。
他人をこの家に入れることは滅多にない。
ここはマッカチンとヴィクトルだけの静かな部屋。
それに固執していたわけではないが、見知らぬ存在がいてこれほど馴染むとは思わなかった。微笑ましい光景に思わず目が和む。
「気がついたならよかった。痛いところは?」
「ぷぎう!」
「…………………………」
ぷぎう?
子豚ちゃんのように鳴いて返事した青年は、洗面器をテーブルに置いたヴィクトルの懐に飛び込んできた。
「ぷぎうぅ!」
「わーお………頭を打ったせいじゃないよね?」
「ぷぎゅー!!!」
無邪気に擦りつく様はまるでマッカチンだ。
「とりあえず、汚れてるから体を拭こうね」
湯に浸したタオルを渡す。だが、黒髪の青年は首を傾げ、あむ、とタオルを食んだ。
あっ、これは……知能指数が……………
悟ったヴィクトルが角の生えた頭をよしよし撫でると、気持ちよさそうにチョコレート色の目を細める。
(くっ………)
ぷぎぷぎ喜ぶ謎の生き物に撃沈。
体を拭っている間もじゃれてくるし抱きついてくるしで大変だった。
とりあえずヴィクトルのシャツを着せ、パンを与えると両手で持ってはむはむ食べる。
お腹がいっぱいになるとマッカチンと一緒にラグの上で丸くなって眠ってしまった。
その様子を見ながら、ふーむ、と考え込む。
(行方不明者を探す情報はまめにチェックしよう。どうも危なっかしい)
尻や太ももを晒し無防備に眠るあどけない顔。それなりに育った男の子だというのに犯罪臭しかしない。
ひとまず寝室に運び、マッカチンを挟んで昼寝した。
***
意識がブレる。
痛む頭を抑えながら勇利は身を起こした。
(どこ、ここ……)
温かいベッドの上。こんな場所で眠るのは何年ぶりだろう。
窓から見える空が赤らんでいる。
手元にもじゃっとした感触があり、そちらに視線を向けて仰天した。
犬、と銀髪の男。
(ヴィクトル・ニキフォロフ!? なんでここに!!?)
確かに彼を―――というより幼い日に憧れた彼のスケートする姿をひと目見たい一心で脱走した。
あれから十年は経っているから、当時少年だったヴィクトルも二十代後半になっている。髪は短くなり、大人になったが、それでも見間違えはしない。
赤い顔で震える息をつき、シャツの胸元を握りしめる。
氷上を舞う姿も美しかったが、眠る横顔も絵画のようで……夢のようで。
(い……いや、見とれてる場合じゃない)
痛む頭に触れながら立ち上がり、窓を開ける。周辺に人影はない。住宅街のようだ。
勇利は窓枠に足をかける。
一度だけヴィクトルを振り返り、たまらない感情を抱いた。
(助けて……くれたのかな)
人に助けられるなど初めての経験だ。勇利は人類の敵として生を受け、人にない角を持つために迫害を受けてきた。
だが、だからこそ、これ以上ここにはいられない。
振り切るように勢いをつけて飛び降り、見えざる手を伸ばす。ふわりと地に降り立ち、出来るだけ人気のない道を選んで駆け抜けてゆく。
「――――っ」
ずき、と頭が痛んだ。先程から、頭痛がやまない。
(意識が……)
視界が霞み、ぐらつく。
こんなところで立ち止まるわけにはいかないのに。
***
標的が道端でへたり込んだ。
一般人があれを回収した時は対応に悩んだが、自分から出てきてくれるとは助かった。
なにしろ、一般人は一般人でもロシアの英雄ヴィクトル・ニキフォロフだったのだ。始末すれば国内に至らず世界中が騒ぎ出す。
男は慎重にボウガンを構えながら接近し、10メートル地点で足を止めた。
「大人しく投降しろ、始祖体」
警告を発すると標的はゆっくりと首を回して振り向き―――不思議そうに首を傾げて目を瞬かせた。そして、銃で威嚇されているにも関わらず、ふらと立ち上がろうとする。
男はその足を狙ってトリガーを引いた。放たれた矢は残念ながら掠っただけに終わったが。
「ぷぎっ」
標的が奇妙な声を上げて倒れ込む。
反撃してこないことを疑問に思うが、男は舌なめずりをした。
「取引をしないか、始祖体。お前の持つベクターウイルスで見えざる手を持つ兵器を増やせば敵なんぞいなくなる。お前も人間に追い回されることもなくなるだろう?」
「………」
その呼びかけにも応じず、始祖体は無様に足を引きずりながら逃走と試みる。男は眉を顰めた。なぜ、種族の強みである見えざる手を使わない?
これは好機かもしれない。何らかのトラブルが起きて見えざる手を使用できない状態にあるのではないか。
男を油断させる必要など、あの怪物にはない。もともと交渉のために姿を見せた。でなければ遮蔽物から絶対に出るものか。
男が接近しても、やはり始祖体は攻撃する素振りがなかった。
黒髪を掴み顔を上げさせる。
その顔を見て思わず噴き出した。
人類の敵、その始祖体ともあろうものが、情けなく痛みに喘いで泣いていたのだ。
「安心しろ。大人しく従えばかわいがってやる。ただし、体に爆弾を仕掛けさせてもらうがな」
そのくらいの保険は必要になる。だが、このザマでは拍子抜けもいいところだ。
ふらつく始祖体を引きずり、路端に停めた車へ向かう。
その扉を開けようとした、その時――――
男は顔面から窓に突っ込んだ。支えを失ったのだ。膝から下という支柱を。
窓ガラスに映った始祖体の目と合った。
「ねえ、たのしい……?」
いっそ妖艶なほどに薄ら寒い笑みを浮かべる暗い瞳。
己の不注意を嘆く前に、男の首は落ちた。
***
(一瞬、意識が飛んだけど。なんだったんだろ)
人の髪を掴んで引きずっていた男を殺害してから、ユウリはその場を離れる。
早くこの街をでなければ。ヴィクトルに迷惑がかかってしまう。
そうだ、彼の住まいの傍で死体なんか作るべきではなかった。きっと怖がらせてしまう。
(ヴィクトルにだけは、こんな姿……見られたくない)
人を殺す抵抗など消え失せてしまったが、それでも勇利に優しくしてくれた数少ない人々からもらった愛を忘れた訳ではない。
その優しい人々も、みな人間の手によって殺された。
勇利は人類の敵として生まれ、同類を増やす始祖体であるそうだが、そんなことはどうでもいい。
ただ大切なものを守りたかった。それなのに、どうしてこんなことに?
「――――ゆーりっ!」
己の声を呼ぶ声にぶるっと身を震わせる。
本能的に自分に危害を加えるものではないと察した。それどころか、焦って不安の感じる声。
いつか聞いた少年の声が、大人になったものだった。
(探しに来てくれた……?)
信じられない思いで血にまみれた己の身を抱く。
また頭痛。何時の間にか足も怪我をしたらしく、うまく動かない。
とにかく、ヴィクトルから身を隠さねば……アパートの影に身を寄せる。
どうか此方に来ないで、と祈りながら目を閉じた。
***
昼寝から目を覚ますとユウリの姿はなく、ヴィクトルは慌てて部屋を飛び出た。あんな子がまともに一人で出歩けるとは思えない。ましてあの格好で。
一緒についてきたマッカチンが、いつになく険しい鳴き声を上げる。
鉄の匂いが立ち込めている。そろそろ日が沈む時間、薄暗い道の端に赤い液体が広がっていた。その中央には……ヴィクトルは目を背けた。
道の先にボウガンが転がっている。とてもあれで傷つけられたとは―――いや、人の仕業とも思えぬ酷い死体だった。
さすがのヴィクトルも衝撃を受けたが、余計にユウリを探さなければ。
案外すぐに見つかった。アパートの壁に凭れ蹲る人影を発見し、ほっと息をつく。
「ゆーり」
膝をついて様子を見る。シャツや頬に血がついていた。慌てて体を調べるが、怪我はないようだ。顔色は悪く、意識がない。
犯行現場の傍にいて、巻き込まれかけて逃げたのかもしれない。
とにかくあんなものに関わるのは御免だった。通報していらぬ注目は浴びたくない。ヴィクトルが猟奇殺人の参考人になったとなれば、無関係な通行人だったとしてもスキャンダルだ。
ゆうりを抱えて家に戻り、ずるずると扉に背をつけてずり落ちる。
「びっくりしたねえ、マッカチン」
「わふ」
「ゆうり、起きて」
膝の上に抱いたゆうりの肩を叩き、覚醒を促す。
少し苦しげに眉を寄せながらも目を開く様子に胸を撫で下ろす。
「怪我はない? 具合の悪いところは」
「ぷぎ?」
「行きたいところや帰りたいところがあるなら一緒に行くから、一人で出ちゃ駄目だよ」
「???」
ぽけ、と口を開けるゆーり。だが、叱られた意味などわかっていないのだろう。すぐに笑顔でヴィクトルにじゃれかかり、肩口にすりついてきた。
一瞬だけ見た凄惨な死体は頭から焼き付いて離れない。
それだけに無邪気なゆうりの姿を見ると昂ぶっていた神経が鎮まってゆく。ぷぎぷぎ鳴いて、かわいい子豚ちゃん。帰るおうちが見つかるまで、ちゃんと面倒見てあげるからね。
つづかない
想像以上に難しかった
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